魔獣の森
白竜と出会った朝以降の道程は順調だった。
ほとんど雪は降らず、高山病の症状も出ることはなかった。
天候は偶然だとしても高山病は山を下りなければ治ることはないはずだ。無関係と言い切ることはできない。
竜族は魔法生物である。
身体は魔素でできていると言われ、子供の頃は大気から取り込む魔素の量が少なく、それを補うために食事が必要だとされていた。
魔法を扱うことができるのだから、高山病の治療くらいはできてもおかしくはないのかもしれない。
「おまえさんは、魔法はまだ使えないのかい?」
そろそろ森林限界の境界を越え、雪もそれほど深くなくなりつつある場所までくると話すことも苦ではなくなってくる。
「使えるならこんな苦労もないよな」
言った後に「しまった」と思ったが、言ってしまったものはしかたがない。
「あー。悪かった。そんな嫌味みたいなことを云うつもりじゃなかったんだ」
会話として成立することもなく、一人でぼそぼそと話すこの人間のことを、この子竜はどういう目で見ているのだろう?
ある日突然、人間に親を殺され、住処から連れだされ、食事も毎日というわけにもいかず、岩の上や雪に埋もれた寝床で寝かされ、高い山や深い谷を越えて、毎日歩き続ける日々をこの子竜は反抗することもなく付いてきてくれている。
一方通行ではあるが意思は伝わっているらしい。しかしラプの意思はほとんどが判らないままだ。
ラプを青竜の里へ預けるという考えが間違えではなかったのかという自問自答はこれまでに何度もやっている。ラプの意思を無視していると感じてしまうのはやはり自分自身が納得できていないせいなのだろう。
だが、考えてもそれ以上の考えは浮かばないのも事実なのだから、青竜の里を目指すことに変わりはなかった。
ヴオリ山の北側を中腹あたりまで下り、狩ることが出来る獲物がいそうな森の中まで進むと、ほとんどの雪は姿を消した。
季節はまだ秋だが、それでも森の中は薄暗く寒い。
これまで通ってきたヴオリ山の南側の森とはあきらかに雰囲気が異なる森だが、それでも深い雪の中を進む必要がある高山と比べれば天地の差があった。
もっと山を下れば明るい街道まで出ることはできるが、それができるならばこれまでの苦労の必要はないのだ。
久し振りに鹿をまるごと一頭平らげることができ、ラプは満足そう、――なのだと思うが、食べ終わるとすぐに横になり眠ってしまった。六日の間、食事もろくに摂らず、ずっと深い雪の中を歩きつづけてきた疲れが、ここにきて一気に表面化したのだろうか。竜とはいえ身体はまだ子供なのだろう。
そして、ラプとは逆に、もう若いとは言えない身体である俺も同じように疲れていた。
俺もラプも、その次の日の昼過ぎまでは眠りから覚めることはなかった。
昼過ぎに目を醒すと、ラプはすでに起きていた。
少し様子が変なので気付かれないようにこっそりと見ていると、姿勢を低くした状態で森の奥の方を睨みつけだした。その方向に目を向けると、一頭の猪が土を鼻で掘り返しているのが見える。
これまでも何度かラプが狩りをする所を見たことはあったが、どれも成功したことはなかった。仕留めるだけならラプでも簡単にできるし、それはラプ自身も判っているのだろう。
炎を吹き付ければ、獲物は一瞬で調理までされて食卓に上げることができるのだ。
しかし、炎を吹けば周りの木々も被害を受ける。下手をすればその森一帯がまるごと焼け野原となってしまうだろう。
ロヒはラプに狩りを教える時にそのことだけはぜったいに守るように云ったと、聞いたことがあった。
狩りに失敗する問題はその身体の大きさなのだ。
森の中の動物で同族の竜を除けばラプが負ける勝負はないはずだ。
しかし、狩りのように、こちらが追い掛ける必要がある場合は、その巨大な身体はまったくの役立たずになってしまう。役に立つのは獲物にその牙が掛かった後の話でしかない。
隠れることもできず、狭い木の間を擦り抜けることができず、急な方向転換に着いて行けず、獲物に触れることすら困難なこの巨体が獲物を狩ることができる日は来るのだろうか?
ラプの狩りは、あと八十年くらいは食事を摂る必要があるこの子竜に、やはり親代わりが必要だということを訴えかけているようにすら感じることがあった。
昔、ラプの狩りの練習をロヒと並んで眺めながら話をした事を思いだしていた。
「竜が狩りを成功させることが出来るようになるのは、空を飛ぶことができるようになってからなんだ」
獲物を追い掛け回すラプを見ながらロヒの念話が頭の中に飛び込んできた。
「それじゃ、今練習しても意味が無いのじゃないのか?」
こちらはそのまま声にだし、そう返事をする。
「小さいうちから獲物を追いかける練習をしておけば、飛べるようになった時にはすぐに狩りを成功させることができるんだ。やっていない子竜だと半年くらいは遅れることになる」
竜との時間の感じかたに少し呆れてしまう。
百年もの間を練習してきた竜と、してこなかった竜で半年しか違わないのであれば、やはり練習は不要だろう。
人であれば半年は長い月日だが、一説では寿命が無いといわれている、あったとしても数千年を生きる竜が半年を気にするのは滑稽にすら感じてしまった。
「半年は長いな」
少し茶化した言いかたで答えたが、ロヒの顔はまじめそのもので茶化されたことに気付いていないようだった。気付いていても竜の表情からそれを読み取ることができる人間はいないだろう。
ラプの狩りはゆっくりと獲物に近づき、飛び掛かれる距離まで近づくのがいつもの方法である。
今日もゆっくりと獲物に近づきだした。
いつもは飛び掛かれる程までに近づく前に獲物に気付かれるのだが、今日もやはり気付かれてしまった。
ラプは突進した。
いつものように突進し、いつものように身を躱されたその場所に顔から突っ込み、その顔は地面に穴を掘った。
いつ見ても痛そうな狩りだ。こちらへ戻ってくるラプの表情からは読み取れる程の変化を感じないので、さほど気にしていないように感じていたが、そのとぼとぼと歩く様子からやはり残念なものは残念なのだということは想像できる。
さっきまで寝ていた場所まで戻ったラプは、また同じ場所に横になり目を瞑り溜息をついたように見えたが、それは残念なのだろうと思っている俺がそう感じただけで竜が溜息をつくことがあるという話は聞かない。
「おい、寝るなよ。そろそろいくぞ」
冬が来る前に青竜の里に着くのが理想だったが、今のペースならば到着は冬になっているだろう。あまり冬場の、それも北の森を歩くのは気が勧むものではない。正直、もう雪の上を歩くのは懲り懲りなのだ。
ラプの巨大な尻をペチンと叩き寝ないように起すと、いつもの森歩きの一日が始まった。
とりあえず目指すのはこの山脈の北端にある、この大陸の東西の海岸を結ぶ街道に出ることだった。
ヴオリ山は山脈の大体の中間地点であるが、道程としてはそこまでは登りであり、逆にヴオリ山から山脈の北端までは下りが多くなる。
もちろん山脈を歩くのだから途中の山を登ったり降りたりがあり、実際はそれ程の違いは無いのだが、それでもヴオリ山までの道程に比べるとヴオリ山から山脈北端への方が楽に感じる。
山脈の北端、そこにある東西を結ぶ街道、その場所へ辿り着いたのは既に雪が深くなりつつある初冬となっていた。
山脈の北端を通る街道は南端の街道より人の往来は少ない。
南端の街道はその西側に大都市があるが、この北端の街道の東西は小さな町と村がほとんどで行き交う人はまばらにしか会うことはない。
人目を避けて歩くにはその方が良いのだが、実の所、今向おうとする方向が進むべき方向として合っているのか自信がなかった。さほど大きなずれは無いはずだが向う先の森を西にずれて入るとやっかいな魔獣の森を進むことになり、下手をすれば怪我ではすまない可能性すらある。
(重複)
ラプを街道からは見えない森の奥へ留めたまま、一人で街道へ出て誰かが通るのを待つことにした。
冬は始まったばかりであるが北のこの地ではさすがにじっとしているのは辛く、早く誰かが通ることを待ち望みながら凍える手を擦りあわせつつその場をうろうろとすることとなった。
遠くの方から人がこちらへ歩いてくるのが見えたのは小一時間程後のことであったが、久しぶりに見る人ということもあってか、なんとなく緊張を感じる。その通行人は旅の商人のような出で立ちで背中には大きな荷を背負っていた。
道の端に寄ったままその商人風の男が来るのを待ったが、まだ遠くを歩くその商人と目が合ったように感じた瞬間、その男は踵を返すと一目散に逃げ出してしまった。
「え?――あっ」
当然だった。
俺の格好はロヒの住処を訪ねる前とは違い、旅の間に狩りで仕留めた動物の革や毛皮で身を固め、顔は無精髭を過ぎ山賊や海賊を思わせるような髭面なのだ。
ましてや剣士である俺の体躯に剣を背負っていては山賊と間違えられても仕方がない。仕方が無い所か街道沿いの人気の無いところで、どうやら自分を待っているような様子のあやしい格好をした人間が居れば危険を感じるのは当然のことだろう。
追い掛けようとしたが、直ぐに走るのを止めラプの元へと引き返した。
あの男は町まで行って町の兵士を連れてこようとするだろう。町が近く、追い付く前に町に入られたら衛兵の面倒な質問に答えなければならなくなる。直ぐに開放されるかも判らないその賭けに乗るような気になれなかった。
ラプの元へ戻ると直ぐに、街道を横切り人目に付かない森の奥まで急いだ。
幸い人の往来は見える限りの範囲には無かったが、さっきの男の話し方によっては山賊狩りが始まる可能性もある。そう思うとゆっくりもしていられなかった。
人に会おうとしたことを後悔しながら、その夜は夜中まで歩くことになった。
「大丈夫だよな」
魔獣の森と青竜の里がある森は隣り合ったところだが、明確な境界線があるわけでもなく、魔獣が魔獣の森から出て人を襲うという事件が起ることも年に数度はあるくらいには珍しいことでもなかった。この辺りであれば魔獣と出会う事態というのは、ある程度の想定をしておかなければならないが、わざわざ魔獣の森を通るようなことは避けたい。
幾つかの街道を横切りそろそろ問題の森と思われる所まで来たが判断は付かなかった。
だが、想定した道程はさほどずれてはいないはずだ。想定では目の前にある森は青竜の里がある森の入口のはずである。
「よし、いこう」
その言葉はラプへ向っていったのか、自分自身にいったのかよくわからない、なんとも頼りのないその合図で森への一歩を踏み出した。
森へ入り二時間程歩いたが魔獣の森というわけではなさそうだと感じた。
昔、魔獣が増えたということで魔獣の森の入口付近にいる魔獣だけでも数を減らそうと、近隣の町や村の呼び掛けで傭兵や冒険者などが集められたことがあった。その仕事に加わったことがある。魔獣の数が多かったということもあったのかもしれないが、三十分程歩いて入った森の中で数匹の魔獣に囲まれてしまった。それを考えると、二時間もの間、魔獣と出会わないということは、この森が魔獣の森では無いと思うにはさほど的外れということはないだろう。
安心しかけていたその時、不意にラプが歩くのを止め、前方のやや左側を睨みつけたままその方向の様子を伺うように身を低くした。
異変は俺にもすぐに気付くことが出来たが、その先に居るものが魔獣なのか、単なる獣なのか、判断はできない。
身構えたまま数秒の時が過ぎた後、ふっと、その気配は消えてしまった。
ほっとした、その直後、後方から魔獣と化した狼が俺へと飛び掛かってきた。
反応は遅れた。
剣は抜いて構えてはいたが、後ろの気配を感じ取れていない俺には振り向くことだけしか出来ない速さだ。
しかし、ラプには後ろの気配も、さらにその横にある気配も感じ取ることが出来ていたらしく、攻撃されることに対応してくれた。
最初に襲ってきた狼を空中で一噛みにすると、その大きな口にある牙で噛み潰し、時間差で飛び出してきた別の狼もその巨大な筋肉質の尻尾で叩き落し潰した。
一瞬の出来事だった。
俺は剣を構えていただけだった。肩で息をし、目の前で起きた状況がまるで夢の中で起きているかのように感じて実感するまでに少しの時間を必要とした。
ラプは口の中で息絶えた狼を大きく首を振って遠くまで投げ飛ばすと、不味そうな顔をして「ぺっ」と口の中の血を吐き出した。
それを見ながらぼんやりと、「竜にも表情があるんだな」と思った。