ヴオリ山
右手には皇都「ヴァルマー」がある。
遠過ぎて見えはしないが、その先に見える海岸線からその位置は想像できる。
正面を見ると眼前に白く雪を被った尾根が見える。
これからこれを越えなければならない。
越えるといっても山頂を越えるのではなく尾根沿いに進む、つまり縦走する必要がある。経路は二つあったが、一つは麓まで下りなければならない。もちろんその方が楽だが通る場所は幾つもの町や街道を横切ることになる。
もう一つはほとんど山頂に近い雪山を尾根に沿って進むことになる。これまで歩いてきた道程にくらべればたいした距離ではないが、標高が高いうえにラプの食事も狩ることが難しい。
その中間は無理だ。麓から山頂までは、ほぼ垂直に切り立った崖が行く手を阻んでいた。
「もうあんな所を通ることはないと思っていたんだがなぁ」
以前、同じ場所を通ったことがある。それは二度と通ることはしないと思ったほどに辛い道程だった。
「またあれを経験することになるのか」
しかし、そんなことも言っていられない。まだここは中間地点ですらない。こうなることも出発時点ですでに判っていたことなのだ。
「準備しなきゃな」
ラプを眺めつつそう呟くと重い腰を上げ狩りの準備を始めた。
前回通った時は六日かかった。ラプを六日間のあいだ飯抜きで歩かせて持つとは思えない。大した量は食べさせることはできない。二日に一度、少量でも食べさせることができるようにしよう。幸い、この辺りの森には大型の鹿が生息している。さほど苦労することもなく何頭かの獲物を狩ることができた。
そのまま運ぶわけにはいかないので、なるべく細かくならないように大きめに切りわけて一抱えできる量を縄で縛りまとめた。それを三つ作り雪が積もった場所に埋めた。
「まだ食いたりないのか?」
鹿を二頭平らげたばかりのラプが、肉塊を埋めた場所を不思議そうに見ていたが、そう云うと欠伸をして眼をつぶった。
翌朝、まだ日が登る前に起き、鹿を一頭しとめラプの朝食として鼻の先へ置いた。
「今日から雪山を越えるから、これから先は飯抜きの日が何日かある。なるべく食べておいてくれ」
夜に食べ、その翌朝にも食べることができるということはここまでの旅ではなかったことだ。
「昨日の夜に二頭も食べたから一頭丸ごとは無理かな?」
そう云うと、ラプはいつものようにがつがつと食べはじめ、あっさりと食べきってしまった。もしかしたら、これまでの食事の量はラプにとっては少量ということなのだろうか?ラプにとってこの旅は、腹を満すことの無い、空腹で歩きつづける苦行のように感じているのかもしれない。
自分の飯を食べ終えると、昨日、雪の中に埋めた肉塊を掘り起こしラプの背中に括りつけた。
「冷たいか?」
そう云ってラプの顔を見たが、まったく気にしているようには見えない。
竜族は火を吐くが寒いのは平気なのだろうか?自分が知っている竜族には、ロヒやラプが属する炎竜、これから訪ねる青竜のほかにも、氷竜というものもいると聞いたことがある。青竜の住んでいるあたりから、さらに北へいった先がその住処だとされるが、人どころか動物さえもいないのではないかと思うほど寒いはずだ。
自分にはこれまでに狩ってきた獣の皮で作った防寒用の衣類や靴があるが、ラプの為になにかを作ることはしなかった。もしも炎竜が寒さに弱い竜族なのであれば、この山を越えることはできないだろう。
残りの肉塊も括りつけながら、そんなことを考えていたが、さほど心配している訳でもなかった。聞いた話でしかないが、竜族というのは、元々は一つの族であり、現時点でも各族の違いはほとんどないといわれているのだ。つまり氷竜があれほどの北に住んでいるということは全ての竜族は寒さに対しても強いはずだ。
「もう少し、あと二つくらいは平気そうだが……」
まだ余裕のあるラプの背中を見ながらそう感じて、もう少し多めに持たせてもよかったのではないかと思ったが、だが、しかし、雪山を進むのだ。この子竜が雪山を歩いて進むのにどれくらいの体力を消耗するのか見当すらつかない。
荷物が軽ければ体力の消耗を押さえることになるだろう。最低限ではあるがこの食料で六日間を乗りきることにした。
朝に出発して二時間ほどすると雪が深くなってくる。膝のあたりまで雪の中に足を埋めながら歩くことになった。ただでさえ登りの道を雪に足を取られながら歩くのは慣れない人間にとっては辛いだけの道程でしかない。
ラプはというと案外平気そうである。平気というより少し楽しそうにすら見えた。ロヒの住処でも雪は降るだろうが、ここまで深い雪というのは初めて見るのだろう。最初は怪訝そうにしながらも、進むうちにその感触が楽しくなったのか、こちらを置いて先を歩くようにすらなってきていた。
朝に感じた寒さへの心配事がさほどの問題にはならないことを知って、少しだけ気が楽になったが幾つもある心配事のたった一つがなくなっただけである。そしてもうすぐ、自分にとって最大の不安要素が現実のものとなるのだろう。重い足どりが更に重くなるような気がした。
夕方近くになってそろそろ寝る場所によさそうな所を捜しながら歩いていると、針葉樹の林の一角に切り立った岩壁がつづく、寝床によさそうな場所を見つけることができたが、不安要素の一つ、『天候』もあやしくなってきていた。
「この辺りの雪を炎で溶かしてくれ」
ラプに向って云うと、「ぼっ」と軽く一息の炎を岩壁と地面の間際の雪に吐きつけ、ラプが横になれる位の穴を雪にあけてくれた。
「今日はここで寝よう。寒いかもしれないが平気だよな?」
俺の云っていることは殆ど理解してくれているようで、従順に指差した雪の穴へ巨体を丸めながら綺麗に押しこんでくれた。
ラプの背中に縛りつけた肉塊から、掌ほどの肉を削ぎ取って鉄の棒に刺し、高く掲げた状態でラプに話かける。
「焦げない程度に焼いてくれないか?」
首を少し擡げて棒に刺した肉にめがけ、雪に穴をあけた時と同じように、しかしあまり強すぎないように「ぼっ」と焼いてくれた。
「ちっと短いな。おれが『いいよ』というまで焼いてくれる?」
実は内心、不安だった。
ふざけた注文なのである。ラプの今晩の飯はないが自分だけは食べるのだ。ラプが人であれば怒りだしてもおかしくはない。
もしもラプが肉ではなく、俺にめがけて炎を吐けば、一瞬の内に骨だけになってしまうだろう。いや、骨さえ残らないかもしれない。
今度はさっきと同じくらいの強さで炎を吐き続けてくれた。
肉の焼けた美味しそうな匂いがし、油が滴ったころあいを見て「いいよ」と合図をするとラプの炎が止まる。
少し生焼けだったが、さすがにこれ以上の注文を付けるのは止めておいた。生焼けといっても食べられるくらいには焼けているのだ。自分を危険に晒すのはここまでとした。
「ありがとう」
ラプの腹を擦りながら礼を云っている自分の臆病さに少し引き攣った笑いが出るが、ラプと意思疎通がほぼ問題なくできていること、ちょっとした頼みごとなら怒ることなくやってくれること。それらを知ることができたのは収穫だった。
肉を食べ終えるころにはすっかりと日が暮れ、風はあまりないが、空からはかなりの量の雪が降りはじめていた。
「おれが寒さで死ぬかもしれんな」
色々な獣の革を繋ぎあわせた寝袋と毛布に包まり、ラプと岩壁の間に挟まるように寝そべると思ったよりも暖かいことに気が付く。いつもはひんやりとした枕としているその身体が今日は熱を持っていた。こちらとしては有り難いことではあるが、ラプが病気にでもなってしまったのではないのだろうか。そう心配してしまうが、ラプは無表情にすやすやと寝息を立てていた。
翌朝、雪はまだ降っていた。
ラプは病気という訳ではなさそうだった。
「昨晩は暖かかったよ。ありがとう。ただ無理をしているのならその必要はないからね」
寝起きのラプにそう云うと出発の準備に取り掛かった。
ラプは昨晩の寒さでも平気だったようだ。表情からは読み取れないが変わった様子も無い。
魔法生物である竜は体温を意識的に調整することができるのかもしれない。昨晩の体温調整はラプ自身の為なのか、俺が寒かろうという気持ちからなのかは判らないが、ラプが無理をしているのでなければこれから先も寒さに怯えることがなくなる。すばらしい収穫だ。
これから先の天候が荒れるのか晴れるのか予想がつかないが、とにかく先を急ぐことにした。荒れれば、そこで雪に穴を掘ってラプを布団にして寝ればよい。まだ子供のラプに頼らなければならないことに情けない思いもあるが、背に腹は替えられない。
とにかく一刻も早くこの雪山を越えよう。朝食の干したキノコを食べながら先を急いだ。
昼近くになっても雪は止まなかったが、歩くことができないほど荒れることも今の所ない。
歩き続けてはいた。が、最大の不安要素だった「頭痛」と「吐き気」に襲われ、歩く速度に制限を付けてくれた。ほとんど歩けていない。ラプが先を歩くことが多くなり、こちらが追い付くまで待つようにさえなることが増えてきている。
少し休むべきだろうか。実際、休みたかった。だが、この病状は休んだからといって良くなることはないということも知っていた。高山病は山を下りなければ治ることはないのだ。
とにかく辛かったが、それでも歩き続けた。下山が遅くなれば、それだけこの辛さから開放されるのも遅くなる。そう自分に云いきかせながら、とにかく歩くのをやめなかった。
昼過ぎ、まだ夕方までには時間がある時刻だったが、泊まるのによさそうな岩陰を見つけ、そこを今晩の寝床とすることにした。
昨日と同じように邪魔な雪をラプに溶かしてもらい、その穴蔵にラプを寝かせ、ラプの背中から肉塊を一つ降ろすとラプの鼻の先へ投げて置き、自分も干し肉を背嚢から取り出した。
ラプが肉塊を一口に放りこむと、自分が背負っている別の肉塊に眼をやったが、それになにかを云う気力さえでない。
食べようと出した干し肉を握ったまま膝をかかえ蹲るだけだった。
朝になっても頭痛と吐き気は治まることはなかった。
昨日のこともあまり思いだすことができない。
起きたときにはラプと岩壁に挟まった状態で毛布にくるまっていたが、ここに移動したことも寝袋に入ったことも記憶になかった。
「いこう」
力なく立ち上がると、ラプを起し、方向を確認して歩きだした。
天候もあまり良くはない。
前方にこの山脈で一番高い山頂を見ることが出来るはずだが、見える範囲のほぼ全てが灰色の世界に覆われ、気を抜けば自分がどのあたりを歩いているのかも判らなくなりそうだ。
数時間歩きそろそろ昼どきという時間だろうか、天候は人を寄せ付けるのを拒否するように更に荒れだした。
深い雪の上を歩き体力は削られ、高山病により頭痛と吐き気に意識が遠退き、強い雪混じりの風に指先や耳の感覚を無くしながら、それでももがくように歩いた。
限界は突然だった。
現状の苦しい状態を忘れようと、ロヒとの旅で語りあった酒場での高揚するような冒険話や、数日間の野宿で過ごした後の町の宿屋で寝たベッドの感触、そんな記憶を思い浮かべていたが、いつの間にか気を失っていた。
目覚めたのはラプの背中の上だった。
急激な激しい吐き気と共に目覚め、乗せてくれていたラプの背中を蹴るように降り、その場で胃の中のものを戻した。
吐き気のせいでこの日は食べものを胃には入れていなかったため、ほとんど何も出ることは無かったが、それが逆に苦しい。口の中の苦みを取ろうと周りの雪を口に含みながらラプの方を見ると、ラプもこちらを見ている。
「おれを運んでくれたのか?すまなかったな。ありがとう」
ゆっくりと立ち上がり、覗き込むようにこちらに頭を下げていたラプの首を擦りながら周りの様子を見た。
しかし真っ暗でなにも見えず、吹雪の強烈な風が出す音が聞こえるだけの世界だった。
今が宵の口なのか、夜中なのか、それとも明け方が近いのか、まったく判らない。判るのは既に夜であり、相変わらずの吹雪が続いていることだけだ。
情けがなかった。子供のラプより体力がなく、背負われ、保護者面した自分は何をラプにしてあげられているというのだ。
相変わらず吐き気と頭痛は俺を苦しめている。
「今日はここで寝よう」
そう云うと雪に穴を掘り、潜り込み、眠りについた。