続く修行
自分の足の上へ座らせたラプは軽く、肌は柔らかく、手足は小さく、にこにことした無邪気な柔らかい笑顔は愛らしい。あの固い皮の巨体と、感情が見えない表情はどこへいったのか。魔法という言葉でも打ち消せない、そんな簡単には受け入れられないほどの不思議な感覚だった。
まじまじとラプの身体を見ていると、その肌にぼつぼつとした鳥肌が立って、少し震えていることに気付き、あわてて作っておいたラプ用の服を小屋から取ってきた。
「おまえ、寒かったら『寒い』って言ってくれよ」
ラプへ作っておいた服を着せながらそう云うと、自分の考えが及ばなかったことを人の姿になりたてのラプに転嫁している事に気付いたが、自分の顔が気持ち悪いほどの笑顔なことにも気付いた。
今日一日は、その気持ちの悪い笑顔で緩みっぱなしになるだろう。
「さむい?」
ラプがその言葉の意味が判らないということはないだろう。
しかし、その返ってきた言葉からはこの寒さを感じていないように読みとれる。
「ん?さむくはないのか?――じいさん、竜は人の身体になったときは、やっぱり寒いものなのだろう?」
「そうらしいな」
「らしい」とはどういうことなのだろう。知らないのだろうか?
「もしかして、じいさんは人の姿になったことがないのか?」
「ないな」
驚愕の事実だった。
自分がやったことがないことを別のだれかに教えることができるものなのだろうか。
「よくそれで他人へ教えることができたな」
「人への変化などと簡単なことを教えられないことがあるか」
青竜の里で聞いたこのじいさんにしか教えられないというのは嘘なのだろうか。
「まあ、それは置いておいて、人の姿になったということは人と同じ感覚ということでいいんだよな?」
「おおむねそう捉えておいて問題なかろう」
曖昧な答えだが、それは間違えではないのだろう。
寒い時には寒いと言い、暑い時には暑いと言っていたロヒのことを考えれば、やはり人の姿をした竜は人と同じ感覚と近いとしか思えなかった。
「ぶかぶかだな」
人の子というものにあまり触れる機会のなかった俺にとって、子供用の服を作るということは失敗することを前提としても可笑しいことはない。実際にラプに着せたその服は大きすぎで、裾も腕の先もかなり捲る必要があり、さらに全体的にもだらりと大人の服を着たように見えた。
竜の巨体から想像していた子供という事が、その服の大きさにも影響したのだろうし、見たことも無い子供の大きさを想像することも俺には無理な話ではあった。
自分用に温めていたスープをラプに飲ませようと、火にかけていた鍋から木の器へよそってラプの前のテーブルへ置いた。
ラプはそれがなんなのかは知っているのだろうが、初めて口にするそのスープを飲んでくれるだろうか?
スプーンを手に持たせ、自分の手を添えたまま、スープを掬い、口のそばまで運んであげると「ぱくっ」とそれを口に入れた。
ゆっくりとスプーンを口から抜き、ラプの表情を視ようと覗き込むと、無表情に口の中のスープの味を確かめているようだった。
突然、こちらへ顔を向けると、ぱっと笑顔を見せた。
「おいしいよ。すぷーん、おいしいよ」
持ってきた塩と森から取ってきた食べられそうな野草と、旅をしながら採ってきた干したキノコくらいしか入っていない、おいしいとは程遠いであろうそのスープを、可愛らしい笑顔でおいしいと云ってくれたのだ。顔が緩まないわけがない。
「スープな。スプーンはこっちな」
ラプの小さな手に握られているスプーンを小さな手ごと軽く握って、それがスプーンだよと教えた。
「これから『人の姿』の時は、こうやって食べるんだぞ」
そう云った瞬間に頭の中に疑問が湧いてくる。
「うん」
ラプはそう答えると、一心にスープをスプーンで掬いながら自分の口に運びだした。
「ところでじいさん。ラプは竜の姿に簡単に戻れるんだよな」
「ああ、簡単だよ。その子なら一月もすれば覚えられるだろうよ」
それは簡単とは言わない。
竜族の時間感覚に慣れるということはこの先もないだろう。
「みれか」
「じさん」
「らぷ」
自分の名前はちゃんと言えるらしい。
「おれは『ミエカ』な。あのじいさんは『じいさん』」
「おれは『じいさん』などという名前は知らんぞ。歴とした名前が……、まあそれはいいが、その子はまだ声を出すことになれていないから、正確な発声はおまえさんが教えてやらんとならんぞ」
「教えなきゃならんものなのか」
「なに、いましがたおまえさんがやっていたこと、それだけじゃよ」
「要は、おかしかったら訂正してやればよいってことだな」
「その子はすでに人の言葉と意味をだいぶん覚えているようだからな。あとは発声できるかどうかじゃが、見たところ問題なさそうだな。――まあ、今日一日、修行は休みだ。発声の練習でもするがいいさ」
その日一日はラプが目にするもの全てを発声させ、それを訂正してまわって終わった。
夜になりベッドの上には、寝袋にくるまった俺の隣に、俺が作った小さな寝袋にくるまれたラプが寝入っていた。
明日からは竜へ戻る修行が始まるだろう。
もう少しで人の町へ戻って、本当に美味しいスープや食べ物をラプに食べさせてあげられる日が来る。
眠りに付くまで俺の顔はだらしなく緩んでいただろう。
朝起きて、ラプの寝姿を見て、「ああ、夢ではなかったのだな」と実感するとまたもや顔の緩みが戻ってきた。
しかしいつまでも嬉しさに浸っていることもできない。
人として暮らすには竜の姿になることは不要だろう。しかし、ラプは竜の子なのだ。
ラプが竜として生きるのか人として生きるのかはラプ自身がこれからゆっくりと決めれば良い話であり、俺にそれを決定することはできない。ラプの人生はラプのものなのだから。
俺はラプがそれを決めようとした時に、その意思を尊重し、どちらの道であっても選ぶことができるようにしておくべきであり、それが自分の使命であると考えていた。
竜になれないまま自分が死んだとすればロヒと地獄で合ったときに胸を張ってラプを育てたとは報告できないだろう。
ラプを起すと、ぼんやりと開けた目がぱっとこちらを向き、半身を起して自分の身体を確認するように見た。
ラプも夢じゃなかったことを喜んでいるのだろう。
ラプをテーブルのベンチへ座らせると、焚き火に火を起し、昨日の夜に食べたスープを温めなおした。
「じいさん。今日からは竜へ戻る練習なんだよな」
「その子ならほっておいても、数十年後にはかってに覚えるだろうさ」
「いや、それはだめだ。この子はロヒの子だ。竜の子なんだ。竜になれないなんてロヒが知ったらロヒにおれが殺されるよ」
「死んだものがあんたを殺すかね。まあ、ここまできたんだ。気が済むまでつきあってやるさ」
朝食のスープと干したキノコを一緒に食べ、食べ終わるとラプをじいさんの顔の前まで連れて行き姿勢を正して立たせた。
「これからは朝の修行の前に、こうやってじいさんの前に立ったら『おねがいします』っていってから修行に入りなさい。これは人の世界では『礼儀』というものだよ。これから先、人の世界に足を踏み込むのであれば覚えておかなきゃいけないことだ」
「人の世界ってのは面倒なもんだな」
「じいさんは、そのあたりは気にしないだろうが、人の世界だとそうもいかないんでね」
自分自身が剣術の師匠に付いた時に、礼儀などというものは無駄なものだとしか思っていなかった。
しかし、教える側に立った時、その礼儀というものが、人が人であることを示すものだと思うに至り、それからは礼儀というものを重んずるようにすらなっていた。
例え形からだとしても人の姿をしたものである以上は人の理を学ぶ必要があるだろう。
ラプに理解しろとは云う気はないが、それが人なのだということは伝えなければと思った。
「おねがいします」
ラプは素直にその言葉を口にし、じいさんの顔を見詰めた。
「おまえさんは礼儀というが、おれをじいさんと呼ぶのは少しばかり無礼に感じるんだがな」
「じじいと呼んでるわけじゃないんだから、たいした問題じゃないだろ」
そう云うと狩りの道具を取り上げ、そそくさと外への通路へと進んだ。
「今日もよろしく修行をつけてやってくれ」
俺は森へと逃げるように出ていった。
狩りを終え、洞窟へ戻ると、驚いたことにラプは竜の姿に戻っていた。
「一ヶ月かかるんじゃなかったのか」
「わしも、少し驚いておる」
師匠すら驚かすというのは、やはりこの子は凄いのだ。
ラプは丸くまるまって寝ていたが、その側には朝にラプが着ていた、獣の革で作った服が無惨にも引き裂かれて散らばっていた。
狩ってきた獲物と狩りの道具を置くと、その散らばった服の残骸を一つ一つ拾いだし溜息を付いた。
「竜の姿になる練習は裸でやってもらうって訳には、――いかないよな」
焚き火のある洞窟の中に居てさえ凍える寒さである。裸のままで数分もすれば身体に危険な変化が起きるだろう。
「じいさん、これ魔法で直してくれ」
「朝の礼儀とやらはどこにいったんだ」
ラプが起きるまで、その服の修理にかかりっきりになっていた。
ラプが起きて俺が居ることに気がつくと、その手にしている服を見詰めていた。
立ち上がると、突然、光の塊へと形を変えさらに人の形へと変わった。
俺に駆け寄ると、その手にしている服を心配そうに見ていた。
「服は心配しなくても、すぐに直すよ。しかし、驚いたな。えらく簡単に変化できるようになったものだ。ラプ、もう竜でも人でも自由に変化できるのか?」
そう云うと、ラプは少し考えてから、
「わかんない」
と答えた。
「竜になってごらん」
ラプへそう云うと、一度こちらの顔を見て、すぐに先刻まで寝ていた場所まで戻り、目を瞑った。
それも一瞬だった。
人の形から光の塊、そこから巨大な竜の身体へと簡単に戻ることができていた。
「ラプ、すごいぞ」
竜の姿では顔の表情はいつものぼんやりとしたとぼけ顔でしかないが、その顔にはにこにことした満面の笑みが隠れているに違いないと思った。
ラプへは人の姿に戻ってもらい一緒に夕飯を食べた。
人の姿の方が食べる量を節約できるのだから、できれば人の姿で食事はしてもらう方が良い。
それに人の姿に慣れ、人として問題なく行動することも覚えてもらう必要がある。
食事を摂り終え、じいさんにこれまでの礼を云うことにした。
「じいさん。これまでありがとう。あまり短いとも思えないが、それなりに短い時間をラプのために使ってくれたことに感謝するよ」
「あまり礼を言われているようには聞こえないが。まあ、その子が持って生まれた才能がなければ数年はかかっていただろうし、わしの力はさほど影響していないから、礼などはどうでもよいことだがな」
「数年はかかっていたのか……」
ラプを優秀な竜として生んでくれたロヒに感謝した。
「これでこの寒い洞窟ともおさらばできる」
「それじゃ、おまえさんはその子を置いて、直ぐにここを離れるということじゃな」
「少し迷っている」
そう云った途端、じいさんの言葉の中に意味不明な言葉が在ることに気付いて言葉を繋げた。
「ん?ラプを置いてとはどういうことだ?」
「なにを迷うんだ?」
「いや、おれの質問に答えてくれ」
「朝にその子が竜への変化に成功した後で、その子から魔法も教えて欲しいと云われたんだよ」
「魔法?」
今度はラプの方を向き、ラプに訊いた。
「ラプ、なんの魔法を習いたいんだ?」
ラプはまだ鹿肉のスープを食べていた。
口の中の鹿肉を食みながら喋ろうとするのを制止し、飲みこんでから喋りなさいと伝えた。
「ぜんぶ」
ラプの言う全部とはどれくらいのものなのかは見当が付かないが、多分俺が残りの寿命をここで終わらせたとしても、その修行は終わることがないだろう。
じいさんがなにかラプへ云っているらしく、ラプの目がじいさんの方へ向いた。
「それじゃ、できるところまで」
どうやらじいさんに無理だと云われたらしい。
「うん」
ラプはそう頷くとまたスープを口へ運びだした。
どうやら二人の間で同意が取れたらしい。
「じいさん、保護者には知る権利があると思うんだがね」
「その子には、おまえさんが人の世界へ帰るといいだすまでならよい、と云っておいたよ」
「魔法はそんな簡単に覚えられるのか?おれは暖かくなってから、たぶん、あと二ヶ月くらいで帰ろうかと思っていたんだが」
「この子次第だが、それくらいなら簡単な基礎魔法は覚えられるだろうさ」
正直、ラプが魔法を覚えてくれるというのは有り難かった。
自分では使えない魔法を旅の相方が使えるというのは、この世界を旅するものとして、これほどありがたいことはない。
「じいさん、ラプを立派な魔導士、この世界で並ぶ者が居ないと云われる程の使い手にしてやってくれ」
冗談半分でそう云ってみた。
二ヶ月で覚えられる魔法など、小さな火炎塊を一つ作るくらいで終わるだろう。
人の魔導学校で教えてくれる魔法であれば、要領の良い生徒ですらその火炎塊を作るのに一年はかかるはずだ。
「ふん。竜の子が人と並ぶなどというばかなことは元よりないわ。二ヶ月後にはおまえさんの云う人の魔導士とやらはその子の足元にも及ばないくらいに成長しているだろうよ」
それは嬉しいという気持ちと、その力は人の世界では隠さなければならないという思いとで、少し複雑な気持ちになっていた。