別れ
昔、一緒に旅をし、それ以来の付き合いである友の住処を訪ねるため、道も無い、ただ木と草が生い茂る峻しい森の中を一向歩いて来た。今日で三日目になるが、流石に初老となった今の身体では疲れというものが足の進み具合に影響してか、結構な距離に感じてきている。まだまだ引退などという考えをするつもりはないが、それでもやはり歳というものは着実に自身の中に積もっているのだな、と実感してしまう。
これまでも旅はして来た。人生のその殆どは旅をしてきた。「人生は旅だ」などと言う比喩ではない。実際にこの大陸の南から北まで、人が住んでいると思われる場所には一度は足を踏み入れたつもりではある。
肩書きを人に伝えなければならない場合は剣士だと云うが、実際には様々な仕事をしてきた。それらの仕事はこの大陸のあちらこちらへと行く必要があった。皇国の兵士として、素性を明かさない傭兵として、流れ者の冒険者として、色々な仕事をしてきた。剣士と言えば聞こえは良いが、要は単なる便利屋ではある。それでも剣の腕は皇国でも両手の指になら収まる位には覚えがあると自負はしている。
自分の中では、これくらいの森を踏破することなど、まだまだ問題は無い、はずなのだ。
友の住処は山の奥に在り、人の足で歩けば一番近い町から三日はかかる。今日の夕方には辿り着くだろうが、まだまだ半日くらいは歩かなければならない。
「ラプはどれくらい大きくなったのかな」
俺には子供がいないからか、ここ十年くらいは友の子供ではあってもその成長が楽しみの一つになっている。
「生まれて二十年経つが、前に見たときは俺と同じくらいの高さだったか」
その楽しみはその住処に近づくにつれ、大きくなってきている。
その住処まであと二、三時間という所で、前方から複数人の気配が近づいて来るのを感じ、かち合うのを避けるため木の上へ身を潜め様子を窺うことにした。別段、賞金首でもなければ人に追われているわけでもないのではあるが、この場所で人と出会うという事に不自然なものを感じ、その不自然さは、嫌な予感、考えたくは無い筋書を呼び興させてくれる。
杞憂であって欲しいと願いながら息を潜めることにした。
三人の剣士、二人の魔導士で構成された一隊だった。
先頭の剣士は鋭い目付きをし、周りに注意を払い進んでいる。その先頭の剣士だけは見たことの無い出で立ちをしており、その足の運び方や身のこなしでかなり腕の立つ者であることが推測できる。
あいつはやばそうだ。そう感じるとさらに緊張が増してきた。――あの剣や服装は南方の出身だろうか?あまり見覚えの無いその出で立ちは、さらに緊張を増大させてくれる。
見付かって戦闘となってしまうと、先頭の剣士との一対一であれば互角かもしれないが、残りの奴らの実力しだいでは逃げることも難しいかもしれない。
別の、後ろへ連なり進む二人の剣士は大きめの黒い、光の加減によっては茶色っぽくも見える荷物を背負っていたが、それは遠目には天幕のようにも見えた。
だが、この距離から見えるその特徴だけで『嫌な予感』が的中した事を知るには十分だった。
俺は震えた。怒りに震えた。もしも俺が二十代や三十代の歳であれば、この状況が頭から消え去り、そのまま飛び出して斬り掛かっていただろう。
その怒りと震えを抑えつけ、強く噛んだ歯の音を気取られないように唇を固く鎖し、荒くなった呼吸をゆっくりと戻すことを意識しつつ、近づく一隊からの死角となるように木の裏側へ移動し身を潜めた。
一隊との距離が最短となった時点で先頭の剣士へ奇襲を掛ければ倒すことも可能かもしれなかったが、まだ『考えたくはない筋書』が杞憂である可能性も少ないとはいえ残されているのだ。
その真偽を確かめる方が優先なのだと自分に言い聞かせ通り過ぎるのを待った。
一隊をやり過ごし、十分に距離が離れたことを確認した後、走った。走りながら、彼等の来た方角、持っていた物、出で立ちから推測できる職業、そういう少ない情報から組み上がる幾つかの筋書が頭を過るが、どうしても杞憂となる結末は導くことができない。
三十分程で『友』の住処まで辿り着いたが、中に入り状況を確認することが怖く、少しの間その場所で立ち尽くしてしまった。足の震えは全速で走ったせいなのか、これから見なければならない惨状を想像してなのかは自分でもよく分からなかったが、まだそこに助けることができる命があるのであれば足を止めていることも出来ない。
『友』の名はロヒといい、もう三十年以上の付き合いになる。この場所を住処として暮らし始めた時には「なぜこんな所で?」と何度か訊くこともあったが、それがロヒにとって最適な住処となるからなのは訊くまでもないことだった。
ロヒの住処は洞窟である。
その洞窟の入口付近には先程の一隊のものと思しき足跡が確認できた。
洞窟の少し奥には大きめの広間があり、高さ三十メートルを超えるくらいの竜であってもゆったりとできる程の広さがあった。
広間の入口まで来て最初に目に入ってきた光景は、見なれた、この洞窟を住処とする、赤みがかった灰色の、高さ二十メートルを優に超える巨体を持つ、我が友である竜の、そのロヒの横たわった姿だった。
その横には微かに聞こえる「クー……クゥーン……クゥン……」と子犬に似た声でロヒを起そうとしているロヒの子、ラプも居る。
傷の状態を視ようと、よろよろと足を進めるが視野が暗く狭まり、途中で膝から崩れ落ちそうになりながら横たわるロヒの側まで近付いていったが、触れるまでもなく結果を知ることになった。
ロヒの命は尽きていた。
両翼はもぎ取られ、爪は剥され、両目は抉られた、無惨なロヒの姿に、怒りなどという言葉などでは表すことのできない感情に体を支配され、その場に膝を着いたままの状態で呆然としていた。
どれくらいの時間をそうしていたのか。
ふと側でラプがうずくまる気配を感じ、我に返りそちらへ目をやった。
しまった。助けることのできる、生き残った命まで消えてしまうのかと、蒼白になりながらラプの体の状態を細かく視たが傷一つ無かった。
安心からまた膝から崩れ落ちた。
「よかった、眠っているだけか」
崩れ落ちた膝をそのまま引き摺って、ラプの頭に触れることができる所まで進むとゆっくりとその頭をなでながら、最後に流した記憶すら忘れさっていた涙が溢れ落ちた。
夜になって埋葬の事やロヒを殺した奴等のことを考えながらも、この子竜の身の振り方もどうにかしなければならないと考え悩んでいた。人の子であればやり様はいくらでもあるが、竜の子となると手段は少ない。見知らぬ子であればそのまま見ぬ振をして、その子を残したまま下山するかもしれないが、ロヒの子であり、これまでに一緒に遊んだことのあるラプに対しては、その考えは微塵も頭に浮かばなかった。
その日はそういう苛立ちや怒りや焦りのようなものを感じ眠れぬ夜となった。
朝は日の出と共にロヒの火葬の為に必要な薪をかき集めた。
竜の火葬というのはこれまで経験したことのない事である。薪は数日の間、火を絶やさない量が必要なはずだ。ラプはずっとロヒの側を離れようとはしなかったが、火葬の準備で薪を遺体の周りに置きだすと不思議そうにこちらの動きを目で追っていた。
準備が整いラプの側まで行くと、その巨体の首の辺りに手を置き少し強めに下に引いた。本当は頭を引いて目の高さを自分と同じ位置まで持ってくるようにしたかったが、既にその頭の高さはラプが座った状態であっても三メートルを超えた位置にある。
ラプは意図を理解したように首を少し下げ、こちらを見詰めた。
「今からロヒの火葬をやるよ」
意味は判らないだろうとも思いつつ、ラプに一つだけやって欲しいこと、それを伝える方法を思案していた。
「火葬ってのは火で燃やすってことなんだ。おまえさんにとっては辛いことだと思うんだけど、これは子であるおまえさんがやるのが一番いいと思うんだよね」
理解してないよな。そう思いながらも何度も同じことを、言葉を変えながら、身体全体を使って伝えた。
火を付ける事を云うときには実際に焚き火から小枝に取った火を見せながら。
その火を遺体の周りに置いた薪に付ける素振りを見せながら。
炎を吐いて欲しいという説明は、俺自身が口を大きく開け、身振りで口から炎を吐くような仕草を擬音や手振りを使いながら。
竜族は子供であっても炎を吐くことが出来るというのは、ラプが生まれてすぐにここを訪ずれた時に聞いて知っていた。その炎を子が付けてやるのは親にとっては良い供養となるように感じたが、別段、俺の故郷での風習やこの大陸や国での風習ではない。ただ、そう感じただけの行為なのだから俺が火を掛ける事で解決するのだが、どうしてもラプにやって欲かったのは、ロヒが既に死んだのだということをラプに理解させるという思いもあってのことだ。
説明の最初の頃は、ぼんやりとロヒの遺体を眺め説明を聞いているようには見えなかったが、一時間程後には蹲まったままこちらの動きを眺めていた。
さらにそれから一時間程経過した頃、ほんの少しの間、目を閉じたかと思うとゆっくりと立ち上がり、必死で伝えようと右往左往している俺を首で少し後ろへ押しやった。
後から考えるとラプは俺の言葉の意味はほとんど理解できていたのだろう。説明を聞いて直ぐに行動しなかったのは、単に火を掛けるという行為に躊躇しただけなのだ。人であっても、人の成人であってもその行為は二の足を踏む。
ほんの少しの間を置き、上を向くような仕草と共に深く息を吸い込むと、ラプは盛大に遺体の周りに置かれた薪を目掛けて炎を吐きつけた。
広間の一角は竜用の火葬場となった。
広間の天井は洞窟の上に広がる森へとつづく縦穴となっていて、炎を絶やすことなく丸二日をかけて燃えつづけ三日目の朝に火は消えた。
ラプはその炎が消えるまでその横で丸く蹲まったまま、その燃える炎を眺めていた。
炎竜の外皮は耐火用の革製品や魔導具に使用される程の物であるが、思ったよりもあっさりと灰となった。
大きめの骨は近くの川沿いにある、春には花が一面に咲く場所の奥まった所へ埋葬し、永遠に人の目には触れないようにと、目印になるような墓標も作らなかった。
竜の体のほとんどは魔術用の道具や薬の材料になるため高値で取り引きされる。ロヒを殺した奴等は材料集めのために竜を殺して回る「萎竜賊」と呼ばれる一団だったのだろう。
当然、残った遺体も後で回収に来るつもりだったはずだが、その前に埋葬することができた事に胸を撫で下ろした。
残りの骨片や灰は川の上流にある滝の上から撒いたので、川に流れたり、空へ舞上がっていったりした。
竜族に葬儀のような儀式めいたことを行う風習があるのか、そもそも、死への考え方が人と近いものなのかまったく分からないが、一先ずはこれで友との別れは済んだと思うことにした。
「さて、どうしたものか……」
風に乗ってゆらゆらと飛んで行った灰が見えなくなっても、まだ空を見詰めている竜の子供を見ながらそう呟いた。