第四話
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ユウは、空を飛んでいるような気分ではありませんでした。
確かに花を眺めているのですが、なぜかいつものようないい気持ちにはなれなかったのです。こんなに真っ赤で綺麗なバラも、今のユウにはほかの花と見分けがつかなくなっていました。その理由は、ユウにもわかっていました。昨日、ナツにひどいことを言ってしまったことが、トゲとなってずっと心に刺さっているのです。
また、病気になっている花を見つけました。その花が何なのか、ユウにはよくわかりませんでした。ただ、葉が白くなっているので、ユウはその花を土からひっこ抜きました。まだ、葉を取るだけで助かったのですが、ユウにはもうその判断もできなくなっていたのです。
しばらくすると、ナツの匂いがしました。キンモクセイほど甘すぎない、まるで何かの花のようなあのユウが大好きな匂いです。けれど、ユウが振り返ってもそこには誰もいませんでした。また水をくみに行ってくれたのかなとユウは思いました。けれど、昨日の雨で水はもういりません。ナツが帰ってきたら、優しく「もういらないよ」と言ってあげようとユウは思いました。
しばらく時間が経ちました。
雲がゆっくりと動いて、一瞬だけ太陽を隠しました。途端に周囲が寒くなって、風が吹きます。けれど、ナツの匂いは感じられませんでした。
またしばらく時間が経ちましたが、いつまで経ってもナツは現れません。そこでユウはついにナツを探しに行くことにしました。この大きな花畑のどこかにナツはいるはずなのです。ユウがどれだけがんばっても、花畑の全てを探すことはできません。それは、ユウにもわかっていました。けれど、いてもたってもいられなくなったのです。それは、眠ることと同じように当たり前のことなのだとユウは思いました。
まず、井戸を見に行きました。けれど、やはりそこにナツの姿はありませんでした。いつも使っている桶には水がたまっていましたが、きっとこれは昨日の雨のせいに違いありません。ユウは困りました。なぜなら、花畑を出ようとするといつもいつの間にかナツがいなくなってしまっているので、花畑の外ではナツに会ったことがないのです。一体ナツがいつもどこにいるのか、ユウにはとんと検討がつきませんでした。その意味で言えば、ユウとナツの関係はとてもちっぽけなのかもしれません。花畑でしか、二人は話したことがないのです。もし花畑がなければ、二人は会うことがなかったかもしれないと思うとユウは何だかさみしくなってきました。
そこで、いつもあいさつをしている緑色の屋根のおじいさんに、ナツの居場所を知らないか訊くことにしました。けれど、外れでした。おじいさんはナツの居場所を知らないどころか、ユウが何も言っても笑顔で頷くだけで、ちっとも答えてくれないのです。でも、答えてくれないということは知らないということだろうかと思って、ユウはあきらめることにしました。このまま続けても、疲れてしまうだけなのです。
しかし、ほかに手がなくなってしまいました。もうどうすることもできず、ただただ、ふらふらと、花畑を歩くことしかできませんでした。花たちが心配そうにユウを見ているように感じました。今にもユウが倒れそうだったからです。それは、暑さから来たものではありません。このままナツに二度と会えなくなってしまうのではないかという不安からでした。ユウはどうしてもナツに「ごめんね」を伝えなければならないのです。
いつの間にか、普段来たことのない場所にいることにユウは気付きました。いつもは、だいたい井戸の周辺の花ばかり見ているのです。そこまで遠くに行っても、もし雨が降ってきたらすぐには花畑から出ることができませんから、そこがちょうどいいのでした。
この辺りには、ユウの身長をいっぱいに上回るヒマワリがたくさん咲いているようでした。それらの花びらのほとんどは上を向いていましたが、一輪だけ、東を向いていました。東といいますのも、太陽は少しだけ西に傾いていましたから、そこからすぐにわかります。そして、そのことがユウの心に妙にひっかかりました。別に気にするようなことでもないのですが、そのヒマワリが道しるべをしてくれているようにその時のユウには思えました。
ユウはすぐに東に向かって歩き始めます。ゆるい下り坂でした。目の前には、また新しい丘が見えます。その丘には、たくさんの、そして今までユウが見てこなかった花が咲いていました。
ユウは、その一つ一つの花の名前を言うことができるようになっていました。新しい発見が、ユウの心を落ち着かせていたのです。
そして、その時、ユウはナツの匂いを感じました。とっさに回りを見渡しますが、ナツの姿は見えません。それは風に運ばれてきたもので、ナツが近くにいるわけではなかったのですが、ナツに近づいていることをユウは確信しました。
風が吹いてきた方向にユウはまた歩き始めました。少し歩いて丘を越えると、湖が見えました。こんなところに湖があることを知らなかったものですから、ユウはとても驚いた様子です。湖は太陽の光を反射してきらきらと輝いていました。水をすくって飲んでみると、ひんやりとした冷たさが体に染み渡りました。湖の美しさと水のおいしさに、ユウはどこまでもナツを探すことができる気になりました。すぐに、湖の周辺を見て回ります。湖の周りの花たちは生き生きしているように感じられました。湖が近くにあるからでしょうか? ユウにはよくわかりません。
そして、ユウはそこから少し離れた場所で一葉の小舟を見つけました。そんなわけはないのですが、なぜだかその舟はユウのために用意されたもののように思えました。この湖の先にナツがいるに違いないとユウは思いました。
その予感はすぐに的中しました。
ナツの匂いが強く感じられたのです。湖の向こう側からのおだやかな風でした。ユウは風に負けないように一生懸命に舟をこぎます。水を切る静かな音だけがユウの耳に届いていました。
しばらくすると、風がぴたっとやみました。それは、ちょうどユウが対岸に着いた時でした。
対岸には、たくさんの白い花が咲いていました。ほかの花は見当たりませんでした。その白い花の楽園なのでしょう。その花の名前をユウは知りませんでした。物知りのユウでさえ知らないなんて、よっぽど珍しい花に違いありません。けれど、ユウにはそんなことどうでもよく思えました。なぜなら、その中に、ナツがいたからです。長く黒い髪に白いワンピース姿は変わっていません。けれど、ナツの足は、その腰に至るまで、無数のツタに絡みつかれていました。ただ、不思議なのは、その光景を見てもナツが捕らわれているという考えにならないことです。遠くから見ると月桂樹のように見えるそれは、まるでナツが自ら望んでそうなったようでした。それを証明するように、ナツは笑顔でユウを見つめていたのです。
一瞬、本当にほんの一瞬なのですが、ユウはナツの顔から白い花が咲いたように錯覚しました。そして、白い花に囲まれ、美しく生えるそのナツの姿を見て、ユウは美しいと思うのです。
「ナツ、今日もいい天気だね」
ユウは、天気の話題から始めました。
「昨日は雨だったよ」
ユウのマネでしょうか、けれど、顔は笑っていましたから冗談だということはすぐにユウにもわかりました。
「じゃあ、今日はいい天気だね」
ナツは頷きました。
「……ごめんね」
そうして、ユウは言うべきことを言ったのです。
ナツは怒ることもなく、笑顔で首を振りました。そうして、そのまま、涙を流しました。ユウに再び会えたことが、そして、ユウが自分を探してくれていたことが嬉しかったのでしょう。つられて、ユウも涙を流しました。けれど、ユウにはどうして自分が泣いているのか理解できませんでした。ただ、そうしていると、何だか心が晴れたようになることだけは確かでした。
「昨日の雨はどっかに行っちゃったね」
空を見上げながら、ナツは言いました。空は橙色になっていました。
「そうだね」
ユウはとても落ち着いた様子で答えました。
「ユウくん、何か変わった?」
しかし、ユウには心当たりがありません。むしろ変わったのはナツのほうに見えました。
「なんか、大人になったみたい」
「そうかな?」
「うん。きっと大人になったんだよ」
けれど、大人というものがどういうものか、ユウにはよくわかりませんでした。ただ、それが褒め言葉のように感じたものですから、ユウは少し嬉しくなったのです。
「このツタはどうしたの?」
空に藍色が混じり始めた頃、ユウは尋ねました。ナツの足をよく見てみると、やはり、しっかりとツタが絡みついています。少しひっぱってみましたが、びくともしません。このツタはナツの一部なのでしょうか、少しくすぐったそうにしていました。
「私、花になるの」
ナツが何を言っているのか、ユウにはちっとも理解できませんでした。
「魔女さんにお願いしてね、花にしてもらったんだ。今はまだ咲かないけどね」
ナツは、まだこれから花を咲かせるために成長します。けれど、どうして魔女が自分をすぐに花にしなかったのかはわかっていませんでした。ただ、少しだけ時間ができたことでユウと話すことができますので、それもいいかなとナツは思っていました。
「それがナツの願いなの?」
「うん」
ナツは元気に返事をしました。
「そっか」
それがナツの願いなら、花が咲くまでナツの世話をしてあげようとユウは思いました。ナツがどれほど綺麗な花になるのか見てみたいと思いましたし、それになにより、もうナツを悲しませたくなったのです。
けれどこの時、心の奥の奥がちくっと痛んだことにユウは気付いていませんでした。
「綺麗な花がきっと咲くよ」
ユウがそう言うと、ナツは顔を真っ赤にしました。
どうしてナツが真っ赤になったのかわかりませんでしたが、いつの間にか自分の顔が熱くなっていることにユウは気付きました。そして、なぜだか、さっき言った言葉がとんでもなく恥ずかしい言葉に思えてきたのです。
ユウが真っ赤になったのを見て、ナツは嬉しそうに笑いました。二人の気持ちが通じ合った気がしたのです。そして、自分の願いが叶う日も近いとナツは思いました。
その後、ユウはナツに水をあげるようになりました。湖はすぐ近くにありましたから、井戸にある桶を持って来れば、簡単にあげられるのです。水の重さなんて、ユウにとってはもうどうでもよくなっていました。なぜなら、ナツに水をあげる度に、あのいい匂いが辺りに広がるのです。ユウはもう嬉しい気持ちでいっぱいでした。周りに咲く名も知らぬ花もきっと喜んでいるに違いありません。
ある日、ユウはその花のことが気になりました。今までナツに気を取られていましたが、ユウが名前も知らない花に出会ったのは初めてだったのです。
花の高さは、ユウの身長のちょうど半分くらいでした。花はユウの手のひらくらいの大きさです。花の形は、四つの花びらが外に大きく開いています。花の白さは、ちょうどナツのワンピースくらいでした。花の匂いは、ナツにはおよばないにせよ、とてもいい匂いです。
ユウはナツにその花のことを訊くことにしました。ナツは花に全然興味がない様子でしたが、どうしてかこの花については知っているような気がしたのです。
「知らない」
けれど、どうやら見当違いだったようでした。しかも、なぜか不機嫌な様子です。どうしてナツが急に不機嫌になったのかユウは考えてみましたけれど、わかりません。きっと、この花がナツは嫌いなのでしょう。気にしなければ不機嫌になることもありませんでしょうから、ユウはもうその花のことを気にしないことにしました。
ユウがしてあげられることと言えば、やはりナツに水をあげることくらいです。しかし、それだけのことがユウにはどうしようもなく幸せなことに思えました。そして、それはナツにとっても同じで、ユウに水をもらう度に幸せを感じるのです。
そんな幸せがしばらくの間、続きました。




