第一話
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ユウは、空を飛んでいるような気分でした。
花を眺めていると、いつもそんな気持ちになるのです。どうしてそうなるのか、ユウにはよくわかりませんでした。ただ、それが嫌な気持ちではなく、むしろいい気持ちだったものですから、ユウはいつも花を眺めているのでした。
アジサイやバラやチューリップやアネモネやユリ。この花畑には、数え切れないほどたくさんの花が咲いています。ユウはその花たちを眺めたり花の匂いを嗅いだりするのが好きなのですが、花畑はあまりにも大きく、ユウが一生かかっても全ての花を見ることができないほどでした。また、花畑は小高い丘がいくつも連なってできていますから、遠くから見ても花畑の全てが見えることはありません。
そうして、今度も花を眺めていると、どうにもその花には元気がないように見えました。一輪のアジサイの花です。いつもは紫色の綺麗な花を開いてくれているのですが、少ししおれてしまっています。ユウは空を見上げました。そこには、きらきらと光る太陽があります。どうやら、毎日の晴天で、花たちはめっきり参っているようでした。
ユウは近くの井戸から水をくんでくることにしました。ユウの体がすっぽり入ってしまうほど、大きな井戸です。一生懸命に縄をひっぱり上げるとたっぷりと水の入った桶が出てきました。その桶をアジサイの場所まで持っていくと、もうユウは汗まみれでした。アジサイに水をあげる前に、少しだけ水をもらいます。口に入れると、もう何でもがんばれそうな気がしてきました。さっそく、アジサイに水をあげます。水をすくってかけてやると、みるみる内に元気が戻り、笑顔を見せてくれました。ユウもいつの間にか笑顔になります。
しばらくほかの花を見ていると、ふといい匂いがしました。花のような匂いでしたが、ユウの頭の中のどの花にも当てはまりません。
「ユウくん、おはよう。今日もいい天気だね」
その匂いに続いて、太陽のような優しい声が聞こえてきました。そこには、可愛い女の子がいました。胸のあたりまでかかる長い黒髪の女の子。名前は、ナツです。ユウが花畑に来ると、いつの間にかユウの傍にいる、少し不思議な子なのでした。
ナツは、白色のワンピースを綺麗に折って、ユウの隣にしゃがみます。
けれど、ユウは面倒くさそうな顔を見せました。花を見るのが好きなユウにとって、ナツはその邪魔をしてくる存在でしかなかったのです。
「そうだね」
返事はしますが、その声はそっけないものでした。
「毎日こんな天気だったら、お花さんも大変だね」
その通りです。さっきまで、アジサイが大変でした。
そしてまた、大変そうな花を見つけます。今度は、薄いピンク色のユリの花でした。
そこでユウは、いいことを思いつきます。
「この桶に、水をくんできてよ」
重いことはわかっていました。女の子の力では、きっと時間がかかってしまうでしょう。それを、ユウは考えたのです。
「わかった」
そんなユウの悪だくみを知らない女の子は、笑顔で井戸に向かっていきました。
一人になったユウは、また花を眺め始めます。
一つ風が吹いて、どこからかキンモクセイの匂いを運んできました。けれど、ユウはキンモクセイの匂いがあまり好きではありませんでした。甘すぎて、鼻がくすぐったくなるからです。それに比べて、ナツの匂いは、甘すぎず、ちょうどいいようにユウは感じました。でも、どうしてナツから花のような匂いがするのかはちっともわかりませんでした。
しばらくすると、ナツの匂いがしました。ナツが帰ってきたのです。
ナツは白い肌に汗をいっぱいかいていました。
大変重かったのでしょう。
「お待たせ」
けれど、ナツは嫌な顔を一つせず、水のたっぷり入った桶をユウの傍へと置きました。
ここでユウはナツにお礼を言うべきなのですが、ユウはそっぽを向いてナツを見ようともしませんでした。
これにはナツも怒ったのか、頬をリスのように膨らませます。その様子はとっても愛らしかったのですが、ユウは相変わらず花のほうに目を向けていました。そこでナツは、ユウが好きな話をしようと思いました。
「その花はなんていう名前なの?」
ユウが見ていたのは、ナツのワンピースと同じ色の花でした。小さな花がたくさん集まって、まんまるとなっているように見える花でした。
「カスミソウって言うんだ」
ユウがナツのほうを向くと、ナツは嬉しそうな顔をしました。どうして嬉しそうなのか、ユウにはわかりませんでしたが、気にせずにユウは続けます。
「カスミソウには二種類あってね、一つは普通の花と見た目が変わらないんだけれど、この花は――」
しかし、ナツはユウの話をほとんど聞いていませんでした。ユウと見つめ合っているだけで十分だったのです。なので、カスミソウに対しては、タンポポみたいにまんまるとしか思っていませんでした。
一方のユウは、気分よく話していたのですが、ようやくナツが聞いていないことに気付きました。というのも、ナツが自分の顔ばかりを見て、ちっとも花のほうを見ていなかったからです。
ユウは、さきほどのナツのように怒って頬を膨らませますが、ナツはその姿を見て、カスミソウみたいとしか思わないのでした。
ナツがまた嬉しそうな顔をしたので、もうなんだかよくわからなくなって、今度はもう向かないぞと心に決めて、ユウはまた花を眺め始めました。元気のない花を見つけては、桶に入った水をかけてやります。すると花はみるみる内に元気になるのでした。
「ねえユウくん。チューって知ってる?」
しばらくして、ナツがそう言いました。ユウは、もう顔を向けないと決めていましたので、ずっと花のほうを見ていましたが、それでも心では「チューってなんだろう」と考えていました。花の名前でしょうか。しかし、ユウにはとんと検討が付きません。
「チューリップのこと?」
ユウは、ナツがチューリップのことを「チュー」と言っているのだと考えました。
「違うよ」
ナツはなぜか拗ねた様子でした。しかし、そう言われましても、ユウにはもうほかに思い当たることがありませんでしたから、お手上げでした。
「じゃあ、わからないよ」
「そうだと思った。だってユウくん、興味なさそうだもん」
とても嫌な言い方でした。何だか馬鹿にされている気がしたのです。そもそも、興味とは何のことでしょうか。ユウにはさっぱりわかりませんでした。
「チューって言うのはね、唇と唇をぶちゅーってすることなの」
ぶちゅーっと唇を尖らせるナツの姿はとても愛らしいものでした。けれど、どうしてぶちゅーっとする意味があるのかユウにはわかりません。
「どうしてぶちゅーってするの?」
「うーん。好きだから?」
「好きだから、ぶちゅーってするの?」
「うん。そうだよ」
「ふーん」
すると、ユウは近くに咲いていた花にチューをしようとしました。けれど、ナツが慌てた様子でそれを止めます。
「どうしたの?」
ユウとしては、花のことが好きでしたからチューをしようとしただけです。それをナツが止める理由が見当たりませんでした。
「その……あの……あのね、チューはね、とっても大切なものなの。だから、適当にしちゃダメ」
ナツの顔はチューリップのように真っ赤です。何をそんなに慌てているのかまったく見当が付きません。
「ふーん」
わかったような、わかっていないような曖昧な感じです。ただ、また花にチューをしようとすると今度は怒られるような気がしたので、一番好きな花を見つけた時にチューをしようとユウは心に決めたのでした。
太陽を大きな雲が隠して、冷たい風が吹きました。
また、ユウは花の世話を始めます。
それからしばらくの間、ナツが話しかけてくることはありませんでした。しかし、どこかへ行ったのかと言うとそうではなく、ずっとユウの傍にいたのでした。そして、ユウもほかの花に負けない、むしろほかの花に勝るいい匂いが傍でしていたものでしたから、そのことに気付いていたのでした。ただ、邪魔をされないのですから、放っておくことにしたのです。
またしばらくして、ユウはいつまでも水がなくならないことに気付きました。桶と言っても小さな体で運べるほどの小さなものですから、しばらく使っているとなくなってしまいます。いつもなら井戸まで水をくみに行くのですが、今日はいくら使ってもなくなる気配がありませんでした。
魔女の仕業だろうかとユウは思いました。というのも、この広い花畑のどこかには魔女が住んでいるのです。魔女は、花畑を訪れた者の願いをなんでも叶えてくれるという噂でした。
ユウは一度も魔女に会ったことがありません。けれど、こんな不思議なことができるのはきっと魔女に違いないとユウは思うのです。
そこでユウは、魔女に挨拶することにしました。というのも、せっかく水をいれてくれていたのですから、お礼を言おうと思ったのです。なので、ユウは桶の中の水を使い切って魔女を待つことにしました。
ゆっくりと雲が動いています。
しばらくすると、桶が動きました。しかし、桶を持っていこうとしていたのは魔女ではなく、ナツでした。実は、ナツは、ユウのために何度も水をくんできてくれていたのです。そのせいか、ナツのワンピースは汗と土の汚れでくたくたになっていました。
ナツがいなくなっている間、いい匂いがしなくなっていたのですから、ユウとしてはそこで気付くべきだったのかもしれません。
ユウはお礼を言おうと思って口を開きましたが、途端に恥ずかしくなって、そっぽを向きました。もしも正体が魔女だったのなら、きっと簡単にお礼が言えていたでしょう。けれど、なぜだがナツを目の前にすると、すぐにお礼が言えなくなるのでした。そして、とても小さな、風の音にも負けてしまいそうな声で「ありがとう」と言ったのです。
それでもナツには聞こえたのでしょう。嬉しそうな顔をして、またナツは井戸に出かけていきました。
やがて、ふんわりとした風に運ばれて、あのいい匂いがユウに届きました。ナツが戻ってきたのです。
ユウはまた「ありがとう」と言いました。それはやはりとても小さな声でしたが、ナツにはしっかりと聞こえていたようで、また嬉しそうな顔を見せます。けれど、まだ桶はいっぱいで水を入れる必要がありません。なので、ナツはさっきのようにユウの傍にいることにしました。
ユウとしては、ナツが傍にいると、ずっといい匂いがするので、どうにも花の世話に集中することができません。そこで、どうして花のようないい匂いがするのか正直に訊くことにしました。
「ねえ、ナツ」
「どうしたの?」
「ナツは、どうしていつもいい匂いがするの? 花みたいな綺麗な匂い。不思議だな」
途端に、ナツの顔は真っ赤になりました。それは、暑さでそうなったのではなく、どうやら恥ずかしさから来たもののようでした。
しかし、ユウはそのことに気が付きませんから、ナツが暑さでおかしくなってしまったのかなと思いました。「水を飲む?」と声をかけましたが、反応がありません。しばらくしても動きませんから、ユウはとうとう心配することに飽きてしまいました。日が沈みかけていることに気付いたのはその時です。というのも、ナツの後ろの景色がオレンジ色に変わっていたのです。帰ろうとユウは思いました。
ちょうどその時、ナツが元に戻ったようでした。しかし、ユウには、ナツがまたおかしくなってしまったようにしか思えませんでした。というのも、ナツがにやにやと笑みを浮かべていたからです。
くくく。と笑ったかと思うと、ぷぷぷ。と笑い、また、くくく。と笑ったかと思うと、ぷぷぷ。と笑いました。
これには、もうユウは何もすることができません。もとよりユウには何もできなかったのですが、今度ばかりは手遅れのように思えました。
そこで、ユウはナツを放っておいて帰ることにしました。ふらふらと夕陽に向かって歩き始めます。けれど、すぐに違和感を覚えました。突然、まるで地面に引きずりこまれるような重みを感じたのです。その正体はすぐにわかりました。ナツが、ひっつき虫みたいにユウにへばりついていたのです。ひっつきながら、ナツはまだ笑っていました。
さすがに呆れたユウは、もうナツを気にしないことにしました。そのままずりずりとナツをひきずって歩きます。
やがて、花畑の端が見えてきました。端と言いますのは、実は、花畑の西側には小さな小さな村がありまして、花畑の入り口のようなところには緑色の屋根の小さな家があるのです。さきほども言いましたように、ユウがおじいさんになっても花畑の全ての花を見ることができません。それほど広い花畑なのですから、あるいは村を挟んでまた花畑が広がっているのかもしれません。しかし、ユウにとってここが花畑であることは間違いないのでした。
ところで、緑の屋根のお家には、白いひげをたくさん生やしたおじいさんが住んでいます。ユウは花畑がこの人のものだと思っているものですから、いつも挨拶をするのですが、おじいさんは耳が遠いのか、ユウが何を言ってもうんうんと頷くだけで、何も言ってくれないのでした。
今日もユウはおじいさんに声をかけましたが、やはりおじいさんはユウの目は見ているものの何も言うことはありませんでした。
いつも通りです。
そして、いつの間にかへばりついていたはずのナツもいなくなっていました。花畑を出ようとすると、気付けばいなくなっているのは、いつも通りです。
なので、ユウはいつも通り夕陽に向かってふらふらと歩いて帰っていくのでした。




