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恋歌…1

「…………ーネ、……ィーネ」


 ずっと遠くの方で、自分の名が呼ばれている。そんな気がしながらも、フィーネは声に反応することなくペンを握り仕事を続けていた。


「――フィーネッ!!」


 身体がガクンと大きく揺さぶられ、遠くで聞こえていた声が耳許で鳴り響いた。そんな状態になって、ようやくフィーネは意識を自分を呼ぶ声へと向けた。


「……あ、ミディ様」


 卓上にある紙面から顔を上げると、印象的な金色の髪の煌めきに続き、心配そうに覗き込んでくる上官ミディの姿が入り込んできた。


「フィーネ、どうしたの? さっきから呼んでいたのに」


「あ、申し訳ありません。仕事に集中していて……」


「仕事に集中?」


 仕事を言い訳にするフィーネに、怪訝そうな表情を浮かべたミディは視線を彼女の手元へと落としていく。


「とても仕事をしていたようには見えないけどね」


「えっ? ……――あっ」


 呆れたような口ぶりを妙に思い、自分の手元に視線を向けたフィーネはひどく驚いてしまった。フィーネの手は確かにペンを握っていた。しかし、その手は紙の上に文字を綴ることなく留まり、紙面の一点に大きな黒いシミを広げていたのだ。


「あ、あっ、申し訳ありません。私……」


 駄目にしてしまった書類を上官の目から隠すように咄嗟に遠ざけ、頭を下げ謝罪をする。自分の失態を隠す大人らしからぬ態度に、通常なら叱責がくるところだが、ミディからは注意の言葉さえ出てこない。


「こんな時間まで机に向かっているから、おかしいとは思っていたのだけどね」


「こんな時間?」


 言われ、窓の外に目を向け驚愕する。窓の外はすっかり夜になっていたのだ。


「気づいてなかったのかい?」


 自分が目にしている光景が信じられないと言った風なフィーネに、ミディは呆れたように問う。フィーネは声もなく、ただ頷くだけだった。


「まあ、仕方ないよね。……今の君は、心ここにあらずだから」


 胸のうちを見透かした言い方に、ハッとする。


「さあ、今日の業務は終わりだよ。ささっと片付けて、僕と少し話しでもするかい?」


 人の心を敏感に感じとるミディに隠し事なんてできない。しかし、そうでありながらミディは自分から他人の胸のうちを聞き出し、率先して相談に乗るようなことはしない。必ず、相手から助けを求めてくるまで待つのだ。だが、それは非情なことではなく、自分が容易に手を貸しては相手の為にならないと考えてのこと。そして、頼られたなら全力で相談にのり、力になる。

 そんな風に自分なりの信念を持つミディが、今日は自ら対話を持ち掛けてきたのだ。自分の心は思っている以上に追い詰められ、周囲にも認識されてしまう状態になっているのかもしれない。そう、フィーネは考えてしまう。


「そうだ、お腹も空いてるよね。何か軽くつまめる物を持ってくるから、フィーネは先に休憩室で待っていて。心配しなくても、この時間ならもう誰も居ないから」


 フィーネの返事も待たず、ミディは一方的に話を進めて部屋を出ていってしまう。こうなっては、もうミディから逃げられないと諦め、フィーネは卓上にある書類などを片付け休憩室へと向かった。


 先に休憩室に着いたフィーネは隅の席に腰を下ろし、ミディが来るのを待っていた。


「ああ、良かった。逃げなかったんだね」


 思い詰めたフィーネの心情を穏やかにするためか、ミディはやって来るなり軽い口調で声をかけてくる。


「ごめんね、大した物が見つからなくて」


 そして、その雰囲気を態度にも現すように、持ってきた物をフィーネの前にコトリと置いた。それは、木の器に溢れんばかりに盛られたドライフルーツや薫製の肉だった。小腹を満たすと言うより、酒が進みそうな物に首を傾げてしまう。だが、続けて置かれた物に、フィーネはギョッとしてしまった。


「……えっ? これは……」


 目の前に置かれたのは葡萄酒の瓶。フルーツや肉はまだ分かるが、これから相談事をしようという時に葡萄酒を持ち込まれ、困惑してしまう。だが、ミディは特に気にする様子もなく、棚からグラスを二つ取り出し並べている。


「あ、あの……ミディ様。これは?」


 酒盛りが始まりそうな状況に恐る恐る尋ねると、ミディはとんでもないことを言ってのけた。


「ん? これかい? エラルノ様の棚から拝借してきたんだよ」


「エラルノ様のっ!?」


 人間の世界に来た魔物たちの統率者的な立場で、蒼竜魔導団の団長でもあるエラルノ。上官のさらに上官であるエラルノの私物だという事実と、それを勝手に持ち出すミディの行動に、フィーネは驚愕してしまう。しかし、相変わらすミディは悪びれる様子もなく、人差し指を口許にあて、


「これは内緒だよ。嗜好品を職場に持ち込んでいるエラルノ様がいけないんだからね」


 と、冗談めいた口調で言うのだった。上官の私物に一人あわあわとしてしまうフィーネ。そんな様子を横目にミディは何の躊躇いもなく瓶の栓を抜き、グラスに赤い葡萄酒を注いでいった。


「葡萄酒を飲むには、ちょっと不格好なグラスだけと我慢してね」


 注がれる葡萄酒を眺めながら、フィーネは疑問を抱いた。相談の場に葡萄酒を持ち込んだこともだが、持ち込んだ本人が知る範囲では酒にあまり強い方ではなかったはずだった。その証拠に、二つあるグラスに注がれた葡萄酒の量は明確な差があり、ミディが手に取ったグラスにはほんの僅かにしか注がれていなかった。

 その一方でフィーネは酒類を好んでおり、自室に何種類か常に常備している。受け取ったグラスの赤い液体を見つめ、フィーネは考えた。おそらく、自分の嗜好を知っているミディは、酒の力を使ってでも話しやすい環境を作ろうとしているのだと。


 フィーネは彼の心遣いを感謝し、静かにグラスに口をつけた。独特の柔らかな渋味が舌先に触れ、ふわっと葡萄の爽やかな薫りが口腔に満ちる。やはり上官の所有物だけあって、安物とは風味が違う。自分が普段口にする物との違いに小さな感動が広がり、続けて二口目を流し込んだ。


 上品な味わいについお酒が進み、フィーネの気分はほんわりとしてきてしまう。他愛ない会話を交わす様子に、向かいに座るミディは微笑ましく眺めている。だが、しばらくしてその雰囲気を崩さないまま、突然本来すべき話題を口に出した。


「ねえ、フィーネ。何か悩んでいるの? 何かあるんだったら、僕に話してごらん」


 美味しい葡萄酒で浮わついていた気分が、彼の言葉で心に掛かっていた重しの存在を思い出させてしまう。それに伴いグラスを持っていた手がテーブルに沈み、葡萄酒を味わっていた口も静かに閉じられてしまう。


 しかし、ミディがこの場に葡萄酒を持ち込んだことは正解だった。おそらく素面のままなら、フィーネが胸のうちを語るまで相当な時間を要しただろう。だが、今のフィーネは理性は保ちながらも、酒の力で心の枷は僅かに緩んでいる状態だった。


「……はい、実は……」


 フィーネは沈んだ面持ちで、あの日の愚かな行いを告白した。



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