告白…7
二人の間に交わされる話題は他愛ないものばかりだ。料理や菓子の話だったり、日常や仕事での出来事の話題だったり、本当に小さな楽しさを語り合う。
この時間は、いつも二人でいる時と何ら変わりないように思えた。けれども、今日の雰囲気はいつもと色を変えていた。それは、ここがリンデンの実家で、彼の家族の話題があがったりと、いつもより彼の多くを知ることになったということ。その小さくも大きな違いが、リンデンとの心の距離が近づいたように感じられ、楽しく幸せに思えたのだ。
そして、そんな気持ちが広がるなか考えてしまう。優しい彼ならば、もしかしたら……と。
「あ、もう夕刻の鐘が……」
遠くから響く鐘の音が二人の耳にも届き、弾んでいた会話が止まってしまう。夕焼けの色に染まり始めた窓の外を見つめ、二人は寂しさを滲ませる。
「なんか、話をしているだけで一日が終わっちゃいましたね。結局、いつもと同じでしたね」
「ええ、そうですね。でも、すごく楽しい時間でした」
「そうですね。俺も楽しかったです」
互いに笑みを向け合うが、ふいに沈黙の空気が訪れる。それは何かを伝えたいのに、互いにそれを口に出せないもどかしい空気。
フィーネ自身は彼が言わんとしていることに気づいていた。リンデンは先日の告白の返事を求めている。あれから、もう随分と経っているのだ。返事の先伸ばしも、もう限界だろう。
それが分かっていながらフィーネは大切な言葉を口に出せなかった。返事は最初から決まっているのにだ。そして、それの言葉が二人にとって最良の答えとなるとも分かっていながらだ。
大切な想いを伝えるためには、自身にけじめをつけ、確かめねばならなかった。
彼の心が真のものか、偽りのものなのか――
「あのっ、リンデンさん」
「は、はいっ。なんでしょうか」
フィーネらしくない強い声にリンデンは驚き、思わず目を見開く。真っ直ぐリンデンを捉えて見つめる瞳は、その奥に大きな決意と言葉にならない不安や恐れを潜ませている。様々な感情が混在する瞳の色に、リンデンは自身の心までも侵食されたように不安な表情を浮かべる。
彼の瞳は最悪な結末を思い描いている。フィーネの纏う不穏を感じ、本心から出たものかもしれない。共感してほしいという思いが生んだ幻想かもしれない。どちらにしても、今の彼女がリンデンを不安にさせていることに違いはない。それが痛いほど分かるが、決意を固めたフィーネは席を立ち彼の心を確かめるための行動に移った。
「……あの、リンデンさんに見ていただきたいものがあるんです」
そう言うなり、リンデンが口を開くよりも早く、フィーネは自分の着ている服に手をかけた。
「――!? フィ、フィーネさんっ!! な、なにをっ。やめてくださいっ」
リンデンの咄嗟の制止も聞かず、フィーネは微かに震える手で服を一枚、また一枚と脱ぎ捨てていく。奇行ともとれる行動に、リンデンは制止の声を発しながら赤面し、慌てて顔を逸らしてしまう。しかし、フィーネは声をあげ、その行動を許さなかった。
「リンデンさんっ! お願いします、見ていてください」
厳しい口調で言われても、彼の視線は動かない。それどころか、視界からますます逸らすようにしてしまう。
数年前まで年上の従姉と暮らしており、女性に対し全く免疫がないわけではない。だが、若くして厳格な騎士の道を進み、その道一筋に過ごしてきたリンデンは、それなりの年齢を迎えても女性関係には酷く疎かった。女性と肌を重ねるどころか、私的な時間を女性と二人っきりで過ごすこと自体、フィーネが初めてだったのだ。
成人を迎えてながらも純情な少年そのままなリンデンに、裸体を晒そうとする女性の姿をそう簡単に直視することなんてできるはずもなかった。
「お願いします……。見てください」
肌から離れた服が、また一枚、床に落ちていく。リンデンは落ちた服をフィーネに戻そうと手を伸ばすが、視線を逸らしたままでいるせいで、なかなか服を掴むことができない。そうしている間に、ついに下着さえも服の上に落ちてきてしまう。
「……リンデンさん……お願いします」
服が床に落ちる毎にフィーネの威勢もなくなっていた。すでに、声は心からの切なさに満ちたものになっていた。
一瞬、視界の端に映った白い布に意識を奪われそうになったリンデンだったが、その声色の著しい変化に思わず顔をあげてしまう。そして、目の前の光景に息を呑んだ。
そこに立っていたのは一糸纏わぬ姿のフィーネ。小柄な身体には似つかわしくない豊満な胸。透き通るような白い肌は恥じらいを感じ、薄く紅をさしたように色づいている。
大人の女性の成熟さの中に子どもの愛らしさも残す姿に、リンデンは目を奪われていた。しかし、すぐに我に返ると、慌てて服を拾い上げフィーネに突きつけ、再び顔を逸らしてしまう。
「フィーネさんっ! これはふざけるどころの話ではないですよ。早く服を着てください」
気持ちほど声は大きくなったが、フィーネがそれに応えることはなかった。
「……リンデンさん。私を見てください。……私の……本当の姿を」
それしか言えないフィーネの胸中は、強い恐怖心で覆われていた。しかし、もうここまで来てしまえば、後には引けない。自分を落ち着かせるため深呼吸を繰り返し、 フィーネは床に腰をおろした。そして、自分のもう一つの姿を曝けだそうとする。
心を落ち着かせるまで呼吸を整えていたフィーネが、おもむろに体勢を変えていく。
逸らされていたリンデンの視界に、その仕草か入り込んだのか、彼の視線がフィーネの動きに合わせ動いていった。きっと、彼の思考は軽率な反応を非難しただろう。しかし、リンデンの肉体は自身の目の前で起こっている現象に囚われ、動きを止めてしまった。
床の上に座り、重ねるように横に投げ出されたフィーネの両足。その細く、色白で滑らかな肌に、規則正しい模様が浮かび上がってきたのだ。それは魚の鱗のように薄く盛り上がり、足全体に広がり始めた。フィーネの両足は、瞬く間に翡翠色の鱗で覆われてしまった。
視界に映る不可解な異変に、リンデンが言葉を失い目を見張る。そんななか、魚の鱗に覆われたフィーネの足はさらなる変化を見せる。綺麗に重ねられた翡翠色の足は、二股に分かれていた境界をなくし、一つの塊となったのだった。
「…………」
リンデンは自分の目を疑った。そこにある物が何なのか判断できず、どうしてそこに現れたのかも理解できないでいた。それが、自分の目で見た現実でもだ。
白く美しかったフィーネの足は完全に姿を消し、そこには翡翠色の魚の尾が投げ出されていた。
理性と羞恥で見ることを拒んでいたリンデンの眼差しは無意識それを捉え、それに縛られ微動だにしない。ゆえに、フィーネがうっすらと見せた縋るような悲しい笑みを、彼が視界に捉えることはなかった。
言葉もなく静まる部屋は、しだいにその空気を息苦しいものに変えていく。自分が吐き出す緊張からくる短い呼吸音と、心臓の鼓動がとても大きな音になって自分の身体に響いてくるようだ。
自身を落ち着かせるため、深呼吸を繰り返すフィーネ。一度、より深く息を吐き出すと、フィーネは両腕で身体を抱えるように身を屈め、ぶるりと全身を震わした。
背にかかっていた髪が流れ落ち、露になった白い背中。そこには不自然な膨らみが二ヶ所でき、瞬く間に大きくなっていく。皮膚が裂けんばかりに盛り上がった肩甲骨付近にできた膨らみからは、弾けるように翡翠色の翼が姿を現した。それは皮膚を突き破るといった痛々しいものではなく、魔法でも使ったように突然の姿を現したようだった。
痛いほどの沈黙が続くなか、短い吐息を漏らしフィーネが顔をあげる。未だ言葉を失い立ち尽くすリンデンの姿を不安そうに見つめるのは、いつも彼を愛おしそうに見つめていた瞳。しかし、その瞳が宿る身体は、魚の尾と鳥の翼を持つセイレーンと呼ばれる魔物だ。
「……リンデンさん」
絞り出すような声で、目の前で放心している男の名を呼ぶ。しかし、その呼び掛けに返ってきたのは、いつもの優しい笑顔と心安らぐ声ではなかった。
「――――ひっ」
恐怖で顔を引きつらせ、後ずさりするリンデン。そして、彼の口からはフィーネがもっとも恐れた感情が言葉をとなって吐き出された。
「ま、魔物……」
それは恐怖や困惑など、様々な負の感情が凝縮された震えた言葉だった。
フィーネから遠ざかっていくリンデンは、ついに壁際まで行き詰まってしまう。その際、ぶつかった衝撃で壁に飾られていた肖像画が床に落ちてしまった。硝子が硬質な音をたて割れ、足下に破片が飛び散る。しかし、リンデンはそれを気にするようなこともなく、なおもフィーネから離れようとしていた。
完全な拒絶を突きつけられ、フィーネは何も言葉を発することもできず俯いてしまう。薄汚れた木の床の上に小さな雫が落ちる。そんな彼女の心情を現すように、翡翠色の翼は力なく折り畳まれ、しだいにその姿を消していく。そして、下半身を覆っていた翡翠色の鱗も皮膚に溶け込むように消えてゆき、魚の尾をかたどっていた姿も色白な人間の足へと戻っていった。
フィーネは顔を伏せたまま床に散らばった服を取り、ゆっくりと立ち上がった。彼女が服を脱ぎ捨てた時は、羞恥で赤面して顔を逸らしていたリンデンだったが、今は目の前の恐怖に囚われ、裸体を晒す女性の姿から両目を離すことができなくなっていた。
その視線にフィーネは背を向けた。それは、裸体を見られている恥ずかしさではない。彼の恐れに満ちた眼差しが辛かったのだ。そして、彼との楽しい時間を壊した自分の行いを責める気持ちと、彼に拒絶された哀しみで溢れてくる涙を見せないための行動だった。
「……ごめんなさい」
服を着終えたフィーネは微かに出すことができた声を残し、リンデンの家を出ていった。
街には、もう間近まで夜が迫っていた。しかし、ついさっきまで茜色の夕焼けに染まっていた空は、いつの間にか星の瞬きさえ見えない厚い雲に覆われていた。その色は、まるで彼女の心のような暗く黒い色だった。
「……リンデンさん」
暗い街を歩くフィーネの頬に、空から雫が落ちてくる。外を行く人が降り始めた雨を避け走り出す横で、フィーネは頬を雨と涙で濡らし静かに歩いていた。
「……私は魔物。彼とは生きる世界が違う」