告白…3
フィーネが紡ぐ歌は、セイレーンの一族に伝わる恋の歌。
その昔、セイレーンの娘が一人の男に心を奪われた。しかし、その男は何の力も持たない非力な人間の男だった。人間と交わることは決して禁忌ではない。だが、その時代の人間と亜人種の関係は良いものではなかった。切っ掛けは力の差から生じた、嫉妬かもしれない。そんな些細なことで生まれた亀裂は様々な場所に現れ、しだいに大きな争いにまで進展していった。
そんな風に人間と亜人種が啀み合うなか、セイレーンの女は男に対する想いを募らせ、同時に人間と亜人種の違いを恨んだ。男の方は彼女の想いを知ってか知らずか、遠くに離れていくこともせず、かといって寄り添うこともしなかった。
眩しい太陽の輝きを眺めれば、眩しいほどに明るい男の笑顔を思い出す。
夜闇に浮かぶ儚い月明かりを見つめれば、優しく柔らかな男の仕草を思い出す。
そして、手を伸ばせば届きそうな距離にいながら、触れることもできないもどかしさ。女は募る想いを歌にして紡いだ。愛しい男を想いながらも、けっして届かない気持ちを歌った悲しい音色を……。願わくば、この想いが愛しい男に届くようにと、仄かな想いを込めて。
そして、ある日奇跡は起きた。
月が美しく水面を輝かせる夜。女のもとに男は現れた。男はこれまで触れることのなかった女の手をとり、自分の想いを告げる。女に抱いていた愛しい想いを――
結ばれるはずのなかった男と女。二人は月夜の下で互いの想いを通じ会わせ、深く結ばれた。
その夜から彼女の紡ぐ歌からは悲しい音色は消え、慈しみのある温かな愛の音に変わっていったのだった。
はるか昔、セイレーンの娘に訪れた奇跡。彼女の紡いだ歌は、恋の歌として後世まで受け継がれていた。
歌い終えたフィーネは光輝く湖面を眺め、小さな吐息を漏らす。久し振りに純粋に歌うことを楽しみ歌えたことによる満足感に、心地よい充実感。歌の余韻に浸る彼女の横で、リンデンも同じように吐息を漏らしている。
「……すごく、綺麗な歌ですね」
澄んだ歌声を聴き入っていたリンデンは、惚けた様子でフィーネを見つめる。
「ありがとうございます。こんな風に自然の中で歌うのは久し振りだったので、私も気持ちよく歌えました」
もう一度吐息をこぼしたフィーネはカップにハーブティーを注ぎ、コクリと喉の奥に温かな香りを流し込んだ。満足感広がる胸の奥にハーブティーの温もりが加わり、身体中が火照ってくるのを感じる。身体に籠る熱を吐き出そうと、フィーネの口からは吐息が漏れる。だが、その火照りを離したくないのか、そのつど温かなハーブティーを飲み続けてしまう。
そんなことを何度か繰り返し、フィーネはハッと気づく。今度は自分ばかりがハーブティーを飲んでいることに。リンデンのカップに目を向けると、中身はすっかり空になり彼の手を離れ地面に置かれてしまっている。
「あっ、ごめんなさいっ。私ったら、自分ばっかりが飲んでしまって」
慌ててポットを持ち、リンデンのカップを取ろうと手を伸ばす。その時、同時に伸びてきたリンデンの手がフィーネの手に触れ、彼女の慌ただしい動きを制止させた。
突然のことに驚き、手を引き戻そうとする。しかし、リンデンの手には思いのほか力が込められており、離れることができなかった。
「あ、あの……リンデンさん? お茶のお代わりを……」
動揺が現れ、しどろもどろにフィーネは尋ねる。リンデンは言葉で返さずに、覆っている手に力を込めていく。
「フィーネさん。少し、良いですか?」
ついさっきまでの惚けた眼差しは、真剣な男性の眼差しに変わり、リンデンはフィーネを真っ直ぐ見つめてくる。彼はそれを見せまいとしているが、内から出てくる緊張を隠しきることはできない。何かを言い出したそうにし、言い出せずそれを呑み込む。言葉が息と共に呑み込まれる度に喉が上下する様子が、何度もフィーネの目に映る。
「……どうか、しましたか?」
リンデンの緊張が伝染し、フィーネの声色にも強ばりが現れてしまう。
「あの、フィーネさん。これからも、俺と付き合っていただけませんか? その……友人としてではなく、恋人として」
「えっ、恋人……ですか」
突然の告白に胸がドクンと大きく跳ねる。大きくなっていく鼓動に合わせ、顔が熱くなっていくのが分かる。
それは、憧れ、待ち望んでいた言葉であった。嬉しくて飛び上がってしまいそうな気持ちになる。……それなのに、フィーネはすぐに「はい」という二文字を口に出すことができなかった。嬉しすぎて言葉が出ないのではない。彼女の中にある大きな“迷い”が、その喜びを抑え込んでいたからだった。
なかなか返事がない。それに加え、フィーネの表情からはしだいに笑顔が消えていっている。その様子がリンデンによからぬ不安を与えてしまう。
「あ……、すみません。急に変なことを言ってしまって。ご迷惑ですよね。さっきのことは、聞かなかったことに……」
「――違うんですっ! 私は……」
精一杯の告白をなかったことにしようとする言葉を、咄嗟に遮る。しかし、その先から言葉が続かない。気まずい空気の中、互いに視線を彷徨わせ、言葉を探していく。
しばらくの沈黙ののち、ようやくフィーネが口を開いた。
「……ありがとうございます。すごく嬉しいです。……でも、少しだけ……少しだけお時間をいただけますか?」
「時間……ですか?」
「はい。少し、考える時間をください」
はっきりとした否定ではないが、僅かな希望しか見出だせないようなフィーネの返事。悪い結果しか想像できないのか、口を閉ざしたリンデンも表情に影を落としていく。
その後、気まずい空気は拭えないまま、フィーネたちはそれぞれの寄宿舎に戻っていた。それでも帰宅するまでの道中、リンデンはその空気をどうにかしようと必死に言葉を探し話しかけていた。だが、フィーネの方は思い詰めたままで、嬉しいはずの会話を繋げることができないでいた。それは別れ際になっても変わらず、定型的な簡単な挨拶しか交わされなかった。
「……リンデンさん」
魔導棟の寄宿舎の廊下を歩くフィーネが、恋しい男性の名を呟き立ち止まる。
周囲には夜の闇が広がり、昼間の賑やかさが静寂に変わっていく時刻。そんな時間に一人でいると、彼女の心は闇夜に囚われてしまいそうな感覚に堕ちることがあった。そして、その闇に囚われたまま考えてしまう。セイレーンの一族に伝わる恋の歌の出来事……、その結末。あれの出来事は、奇跡でも何でもなかったのではという疑念……。
「彼の気持ちは、彼のものなのかしら……」
いつか口にした疑問を再度口に出す。
フィーネが告白の返事を渋った原因は、その疑問にあった。
セイレーンは歌に魔力を纏わせ、人の心を惑わす種族だ。紡ぐ歌に合わせ人の心を操り、心を捉える。
フィーネはリンデンの前で二度ほど歌を紡いだ。彼女自身に歌に魔力を込めた自覚はないが、そのどちらもが《水》の魔力が強い場所での出来事だった。そして、リンデンを想う気持ちが強く現れた時の出来事でもあった。
歌を聴き、リンデンは目を覚ました。
歌を聴き、リンデンは想いを告げてきた。
それが意味することを考えると、フィーネの胸は猜疑心に包まれてしまうのだった。
「私はとんでもないことをしてしまったのでは……」
窓の外に広がる夜色の空を見つめ、様々な想いが交錯する胸を押さえる。自責の念から生まれた涙の滲む瞳には、黒い雲に姿を隠された薄い月明かりが映っていた。