歌声…5
◇ ◇ ◇
当初、食事は来週末くらいになるだろうとリンデンは言っていた。だが、その日は意外なほど早くに訪れた。復帰したとはいえ、まだ病み上がりの身体。大事をとって、休暇を多く与えられたからだった。
当日、フィーネは心踊らせ鏡の前に立っていた。普段なら魔導団のローブと寝間着を交互に着替えて暮らすだけの生活に、ポッと訪れた華やかな瞬間。滅多に袖を通すことのない私服。しかも、今日のために買ったばかり。鏡には、いつもと違う自分の姿が映っている。
ドキドキと高鳴る胸を抑え、身だしなみを整えたフィーネは、満面の笑みで部屋を出て城下へと向かっていった。
「フィーネさん、こんにちは」
街の中央にある天使像の噴水の前に立っていたリンデンが、フィーネの姿を見つけ手を振ってくる。ほんのりと頬を染め、フィーネも手を振り返し駆け寄っていく。
「リンデンさん、こんにちは。今日は、お誘いありがとうございます」
「いいえ、こちらこそ。俺なんかの誘いに付き合ってくださって、ありがとうございます」
これまで、治療などでほぼ毎日顔をあわせ、色々と言葉を交わしていた二人だが、こうやって私的な用で会うのは初めてのこと。おまけに、今日のフィーネは私服という普段とは異なった装い。二人の間には初々しい緊張感が流れ、交わされる言葉もどこかぎこちない。
「あの。それで今日はどこにお食事に行くんですか?」
一定間隔で訪れるもどかしい沈黙に照れながら、フィーネは本日の行き場所を尋ねる。
「俺がよく行っている店です。すぐそこなんで、もう行きましょうか」
案内すると言ったリンデンの手がフィーネに伸ばされる。しかし、寸前のところで止まり、引いてしまった。遠ざかっていく様を見てしまったフィーネは彼の手を追おうと自身の手を伸ばすが、それも同じように宙で留まり離れていってしまった。互いに積極性が持てないまま、フィーネは彼の横につき街を歩いていた。
案内されたのは街の小さな食事処だった。全体的に落ち着いた色合いの店構えで、派手な音楽もなく、穏やかでのんびりとした雰囲気が漂っている。
「もっとお洒落な感じの店にしようと思ったんですけど……。俺、そういった感じの店をあまり知らなくて」
奥の席にフィーネを座らせ、続いて向かいの席に座ったリンデンは申し訳なさそうに言う。
「そんなことないです。私、このお店の雰囲気とても好きですよ」
「ありがとうございます。そう言ってもらえると、俺も嬉しいです」
リンデンは謙遜していたが、この店の雰囲気はフィーネの好みとよく合っていた。
ここに連れて来られるまで、フィーネは『騎士』というイメージから賑やかな音楽の流れる酒場のような場所に行くのだと考えていた。だが、実際に案内された場所は、予想とは真逆の落ち着きのある店だった。
フィーネはこの店に不思議な安心感を抱いていた。それは、この場所の雰囲気がリンデン自身の印象と大きく重なるからだった。
数あるメニューを眺め悩むフィーネに、リンデンは丁寧に説明をしていく。それでも迷ってしまい、フィーネはリンデンが勧める物を注文することにした。お酒のメニューにも目が行くが、お昼という時間なので飲酒は躊躇われた。しかし、その雰囲気が伝わってしまったのか、「今日は休みだから」と勧められ、軽めの果実酒も注文してしまう。
ほどなくして運ばれてきた酒と料理。フィーネはそれらを味わいながら、リンデンとの会話を楽しんでいった。
普段、飲むことのない時間での飲酒に、気持ちを寄せる相手との二人っきりでの外食。初めてのことばかりで、緊張に包まれていたテーブル。しかし、その緊張もしだいに薄れ、この時間を楽しみ会話も弾んでいく。仕事という共通の話題から始まった会話も、すぐに自分の趣味や好きな物など個人的な話題へと変化していく。
美味しい食事に、美味しいお酒。そして、楽しい会話。そんな楽しい時間が過ぎるのは、本当にあっという間だ。
「あ……。もう、こんな時間ですか」
夕刻を告げる鐘の音が街に響き渡るのを耳にし、リンデンが空を見上げる。食事を終えて街を散策していた二人の頭上は、茜色の夕焼けから濃紫の夜に変わり始めていた。
「……もう、帰らないといけませんね」
二人の時間が終わってしまうことを寂しく思いながらフィーネは呟く。
「そうですね。でも、まだ城までは一緒に歩けますね」
リンデンも同じように寂しさを滲ます。しかし、まだ残っている僅かな時間を享受しようとしている。フィーネもリンデンも城勤めで、現在の住まいは敷地内にある寄宿舎。棟は別の場所だが、それでもそこに着くまで、ここからかなりの距離がある。
二人は少しずつ終わりの見え始めた『今日』という日を惜しむように、ゆっくりとした足取りで寄宿舎への道を進んでいった。
「リンデンさん。今日は楽しい時間をありがとうございました」
とうとう着いてしまった終わりの地点で、フィーネは寂しさを見せまいと微笑み、今日一日の礼を伝える。
「いえ。こちらこそ、ありがとうございました。楽しんでもらえたみたいで良かったです」
リンデンも笑顔で礼を返すが、急に押し黙ると視線を変に泳がせ始めた。それは数日前、今日の食事を誘おうとした時に見せた挙動不審な仕草だった。何だろうと、フィーネが眺めるなか、リンデンは何かを言いたそうに口をもごつかせる。そして、ゴクンと恥ずかしさを呑み込み、真っ直ぐフィーネを見つめてきた。
「あ、あの、フィーネさん。宜しければ、これからもお暇な時間に俺と出掛けたりしませんか?」
「えっ? 私とですか?」
一度きりの時間だと思っていただけに、フィーネの驚きは相当なものだった。思わず上擦った声が出てしまう。
「あ……、ご迷惑でしたら、遠慮なく断ってください」
フィーネの驚き具合が相当なものだったせいで、リンデンは自分の誘いが迷惑なものだったのだと勘違いしてしまう。ハッとしたようにフィーネから視線を逸らし、小さな声で「すみません」と謝ってきた。自分の態度が勘違いを招いていると気づいたフィーネも、ハッとしたように慌てて訂正する。
「あっ、ち、違います。迷惑なんかじゃないです。嬉しくて、驚いてしまったんです。お出掛けのお誘い、こちらからもお願いして良いですか?」
頬を染め、微笑みかけるフィーネ。その姿に、顔をあげたリンデンも嬉しそうに笑いかける。
「だったら予定が決まりましたら、また中庭でお伝えしますね」
「はい。中庭で待っていますね」
「フィーネさん、今日は本当にありがとうございました。それじゃあ、おやすみなさい」
「おやすみなさい」
浮かれたように手を振り、リンデンは騎士棟の寄宿舎の方へ走っていった。フィーネは彼の背を見送りながら、今日一日の楽しかった時間を思い出し表情を緩ませていた。
しかし、ふいにその表情に影が落ちる。
それは彼女の胸に陰る黒い影の表れだった。小さなモヤでしかなかった影は、夜闇と混じるように姿を変え、自分でありながら自分ではない姿の形になり温もりに満ちた心を覆っていく。
「彼の気持ちは……本当に彼のものなのかしら……」
ポツリと口を衝いて出た不安。それは彼女自身に向けられた疑念でもあった。