魔族‐1
大陸の辺境にある小さな国、ガルデニア。周辺諸国との長きにわたる戦争を終え数年、ようやく復興が進み始めていた。
昔の姿を取り戻し始めた王都を歩く一人の女性。大人と落ち着きと子どもの愛らしさを兼ね備えた彼女は、緩く編んだ長い髪を揺らし目的もなく街を彷徨っていた。
「あら、フィーネじゃない」
何気なく寄った雑貨屋の前で、一人の女性が声をかけてきた。フィーネと呼ばれた女性は、愛くるしい瞳を店先に並ぶ雑貨から声をかけてきた女性へとゆるりと向けた。
「最近どう? めぼしい男でも見つかった?」
「……いいえ」
出会って早々の不躾な問いかけに、フィーネは嫌な顔もせず逆に申し訳なさそうに首を横に振る。店先で親しそうに言葉を交わす二人だが、なぜかフィーネの笑顔はしだいにぎこちなさを増し、明るさも消えていく。
「でも、意外よね。フィーネならすぐにでも相手を見つけると思ってたのに。こんなに可愛い顔と、この大きな胸っていう武器があるのに」
そう言いながら、女性は自分の目の前にある柔らかな胸を指先で軽く突っついた。
「人間の男は貴女みたいな女の子が好きなんでしょ。だったら、もっと活用しないと」
「そうなの?」
「あら、フィーネなら知ってると思ったけど。あんなに人間のことに興味を持っていたんだから」
「人間……か」
「ま、貴女はセイレーンなんだから、いざとなったらその力で簡単に男を虜にできるから問題ないわよね」
「ええ、……そうよね」
あまり乗り気でない雰囲気のフィーネを不審に感じながらも、彼女はそこまで深く探ることもせず街のなかに消えていった。彼女の背を見送りながら、フィーネは小さくため息をつく。
「人間の伴侶……」
自身に与えられた目的のために、伴侶を捜さなければいけないのは理解している。しかし、人間の醜い姿を垣間見てしまったフィーネは、その目的を進めていくことに嫌悪を覚えるようになっていたのだった。
昔は誰よりも強く人間に関心を持っていたフィーネだが、今の彼女にはその関心はほとんど残っていなかった。戦争で触れた人間の姿は、彼女の心に大きな変化を与えてしまったのだった。
◇ ◇ ◇
フィーネは初めて見る人間の世界に胸を高鳴らせていた。目に映る世界は、自分の住む世界とさほど変わらない。しかし、自身に触れる空気は、全く違うもののような新鮮さを感じる。フィーネは長い髪を風に靡かせ、全身で人間の世界を感じていた。
彼女は人間と同じ外見をしているが、人間ではない。人間は彼女たちのことを『魔族』と呼ぶ。だが、彼女たち魔族は、正確には魔族という種族ではない。はるか遠い昔、人間と同じ世界に生きていた人間ではない存在――亜人種だ。
現在、魔族と呼ばれるようになった亜人種は、はるか昔に起きた種族間の争いに敗れ異空間に隔離されてしまった者たちの末裔。
戦いに敗れた亜人種たちは、人間の世界から切り離された世界で静かに暮らしていたのが、長い年月が過ぎ閉ざされた世界のみでの種の存続が難しくなってきていた。狭い世界ゆえ、自身の種を残すために自然と近親交配が進み、奇形や退化する種が現れ始めたのだ。
危機感を覚えた亜人種たちの長は、強い力を持つ者を招集させ対策を考えた。長い話し合いの結果、世界を隔てるために張られた境界を破壊し、元の世界へと戻ることを決めた。
この世界には多くの異世界が存在する。異世界の創造経由は様々だが、基本は人間の世界から何らかの形で切り離された世界。後々、人間に魔界と呼ばれるようになるこの世界もその一つだ。そんな世界の境界には、時おり〈歪み〉と呼ばれる世界を繋ぐ道が発生する。その〈歪み〉は数年に一度、発生頻度が高くなる時期があり、それを利用し人間の世界との道を強制的に作ることにした。
強大な魔力の力で境界を揺るがし、二つの世界は無事に繋がった。久方ぶりに見る懐かしい世界。だがその世界に自分たちと同じ亜人種の姿はなかった。長い月日で魔界が衰退していったように、元いた世界もすっかりと様相を変えていたのだ。
人間だけの世界になっていたその地に、彼らのような亜人種の存在は異形で異質だった。何をするわけでなくとも、存在だけで人間には恐怖を与えた。図らずも人間に抱かせた恐怖が彼らを『魔族』と呼ばせ、忌み嫌う存在とさせてしまった。
魔族と呼ばれる亜人種にとって、自分たちが世界には異質な存在だと知らされる衝撃は大きかった。その衝撃から、一度は種の存続という大義を諦めようともしていた。それでも、自分たちの血を残したいという本能に近い願望は、簡単に消えることはない。
結果、彼らは強制的に人と交わり、血を残すことを選んだ――
多種族の亜人種同士が交わると、高い確率で異形の子が産まれることがあるが、相手が人間だとその確率はぐんと下がる。それは、世界が一つだった頃から知られていることで、昔から稀少種の一族などは定期的に人間を利用し血を保っていた。とは言っても、さすがに長期にわたり同血族ないに人間の血が混じれば、亜人種の血は薄まってしまう。魔族の長たちはそれらを考慮し、百年周期で人と交わる道を選んだ。中には純血を重んじ、人間との交わりを拒絶する者もいたが、大半の魔族はそれを受け入れ、自らの血を保っていったのだった。
人間との関わりは、その時の魔王の意向で様々だ。人間の世界に溶け込み暮らしたり、人間を攫い強制的に交わるなど多岐にわたった。
そして、現魔王ザカートは人間の世界にある小さな国の王と契約を結んだ。
国の名はガルデニア。とても小さな国で、国家としての力も弱い。そして、今まさに隣国との戦争で国そのものが消滅の危機にあった。
ガルデニアの若き王は魔王ザカートに対し、この戦況を覆すほどの戦力を欲した。ザカートはそれを契約とし、数十名の魔族をガルデニアの兵として送ることを了承した。そして、その対価として、自分の伴侶にとまだ産まれていない王の娘を求め、兵として送る魔族たちの人間界への移住をも求めた。
今回の契約で、ガルデニアの魔導兵として人間界に移住することになった者の中に、フィーネの名があった。
フィーネはセイレーン種の若い娘で、何代か前に一度だけ人間の血を取り入れた混血の血筋だった。
戦争という、書物でしか知らない争いの場に赴かなくてはいけない恐怖はあった。しかし、それ以上に初めての世界に対する興奮は大きかった。
知りたいことはたくさんある。人間の生活に、人間の見せる感情。そして、人間の世界の歴史。色々なことを知りたかった。はるか昔に混じり、自分の中にも流れる人間という存在。それがどんなものなのか、フィーネは知りたかったのだ。
彼女は人間という存在に幻想を抱いていた。
そして、その幻想が打ち砕かれるのは、一瞬の出来事だった。
赴いた戦地で、フィーネは愕然と目に映る光景を眺めていた。立ち込める土煙と血の臭い。狂気に近い叫び声。剣を掲げ、傷付けあう人間たち。そして、苦しみ、血と涙を流しながら目の前で死んでいく人間の姿。
人間が人間を殺す。同種同士で殺しあう。
それがフィーネの目には酷く醜い姿に映り、人間の世界におぞましさを感じさせた。
種の存続のために人間の世界に来ているフィーネにはその光景が愚かしく映り、そんな人間との間に子を残さねばならない現実に嫌悪さえ覚えてしまった。
戦場で垣間見た人間の弱さや残酷さは、フィーネから人間に対する関心を完全に消し去っていた。
魔族が戦争に加入し程なくして、戦争はガルデニアの勝利という形で終了した。
フィーネの心に、人間の醜い姿を植え付けて……。
そんな沈んだ気持ちを抱えたまま、月日は過ぎていく――