承~1
恐る恐る伸びてきた小さな指が、つんつんとテオドラの頬をつついて、そっと離れたとき、なんてかわいい子、と喜んで、この家にはこんな男の子がいるんだと喜んで、その指をまだ上手に動かせない自分の手で力いっぱい握ってみせた。大人たちにすると喜ぶことを、その子にも。
「わらってる! ぼくのことがすきなのかな!」
男の子は、
「あかちゃんのおててって、ちからがぎゅっとするんだね」
たどたどしくもびっくりした様子で青い瞳を輝かせた。
……男の子の名前はウィル殿下。ウィルヘルム王子様。王弟殿下。
ドーラ姫様は王子様のご婚約者におなりになったのですよ、とジェラルディン夫人が教えてくれたとき、自分は将来あの子と結婚するんだと思った。かわいい王子様が婚約者だなんて、嬉しい。
かわいい子だなって思ってたんです。本当に王子様みたいな優しい子だなって。
父上によって真実を知っても、あくまでもテオドラの『王子様』はおじ様おひとりだった。
肉食系? とんでもない。
テオドラは混乱して、今までのテオドラの行いを否定した。これは、今までの、幼心に決めた未来の『王子様』に向けられていい思いじゃない。
もっと、どろどろして醜い恋だ。泥の中で上手に立てない、仔馬のような自分をテオドラは情けなく思った。
――――結果をいえば、王弟殿下と対面してもテオドラの息が止まってしまうことも、心臓が止まってしまうことも、死んでしまうこともなかった。
シャルロット姫はご自分の叔父様を久しぶりに視線の先に認めると、パッとテオドラの手を放し、
「ウィルお兄様!」
とスロープを駆け上がった。
「やあ、シャーリー、帝都へようこそ。疲れただろう!」
飛び込んでいく姪姫をおじ様が抱きしめ、安心したようにふえーん、とシャルロット姫は泣き出した。テオドラはとても同じようにはできなかった。
姪姫をあやしながら侍女たちに旅の埃を落とすよう、早く休ませるよう、矢継ぎ早に指示をするその人がテオドラに気づくのを待って、ずっと早く脱ぎたいと思っていたドレスのスカートを両手で抓むと、臣下の礼を取った。
「長らくおめもじいたしますことかなわず、大変な失礼を申し上げました王弟殿下」
「テオドラ……ドーラ……?」
すっかりこわばってしまい、とても表情など、まして微笑みなど作ることのできない顔を上げて、同じ色の瞳を合わせれば、おじ様は胡乱げにテオドラを見つめ、さっと視線をそらせた。
少し困ったように口元を手で隠し、思案するように、もう一度テオドラを見た。
「……ドーラ? ……参ったな、容易にエスコート役を務めようなんて、早まった考えだったみたいだ。……困ったな」
言葉などすぐには理解できない。何しろ頭は真っ白で、礼にしても挨拶一つをとっても、どれも習った儀礼を、無機的にこなしただけなのだ。ただ、テオドラを見て、おじ様がお困りでいらっしゃることはわかる。エスコートを引き受けなければよかったとお考えであることも。
「お早めにお断りをいただけたなら、それは存外の幸せと存じます、殿下」
「待って、待って、ドーラ、違う。そうじゃない。僕が後悔しているのは」
黒髪の貴公子。理想の王子様。建国王の瞳。何も変わらないはずなのに何もかもが変わってしまったテオドラのおじ様は、無表情のまま一途に見上げるテオドラを、頭上高くから見下ろして、ほっと溜息を吐き出した。
「後悔してる。どうして一年も、それ以上も、君に会わずにいられたんだろうって。何があった、この一年と数ヵ月の間に、いったい君に何が起きたんだ」
約一年五ヵ月。一年と四ヵ月と、正確にはあと二十二日、だ。会えなかった期間。何があったか。おじ様に会わなかった間、そこにあったのは。
「王弟殿下に長くお会いできない時間がございました。ひどくお会いしたく、もどかしく思う以外のことは、何も起きてはおりません」
八つ当たりだな、とテオドラは思った。八つ当たり以外の何でもない。
その夜は、お風呂に入る前に、ミルクをほんの少し飲み、採寸にやってきてくれた母上のかつてのドレスメーカーのデザイン画を眺めた。
「色はすべて寒色の、特に青で、と承っております。瞳のお色のような群青、もっと曖昧な縹色、お肌が驚くほどお白くてつややかでいらっしゃるから、より濃い、こちらの藍や紺などもお似合いでございますわ。コルセットが必要ない形ですと、ええ、お嫌いと伺っておりますの。こちらのように最近帝国で流行の女神型と申すのですが、神代の女神になぞらえて、お胸の下で切り返してパイピングを施し、ドレープをふんだんに使った……きっとよくお似合いになりますわ。これほどお美しい姫君には……いえ、イザベル皇女様もマルゴ皇女様もお美しくはございましたが、近年稀なお美しさでございますわ。透徹として、ああ、少しおさみしげにお見受けいたしますが、物思う美少女というのは、とても危うく殿方の目には映るものなのですわ……」
大げさな讃美だわ。王国からやって来た金持ちの田舎者とみて、褒めそやして何着も押しつけて売るつもりなんでしょう、とテオドラは投げやりだった。
結局デザイナーの勧める女神型などやらのデザイン違い、色は青と指示があるというので濃淡や明度の違う四色の四着を決めた。あれもこれもと布のサンプルを押しつけられるのを、では最初の四色でと受け入れた形だ。
そして帝国で過ごす、初めての『神々の日々』に入った。
この期間にお針子を確保するというのは大変な労力を伴うことらしいと、母上にお聞きしてテオドラは知った。それはそうだ。『神々の日々』は帝国においても休暇に当たり、家族で過ごすもの。
休日を返上で作られるのがあの四着、と思うと、それはおじ様からのご指示だったらしい、『青縛り』にも従うしかなかったのだなと思う。もとより、赤やピンクやオレンジ色が似合う、いわゆる華やかな娘らしさをテオドラは残念なことに持ち合わせていない。
常盤色のウールコートなどは近年愛用していたが。深緑の上着に茶色のベストとキュロットの上下と白いドレスシャツとタイツを合わせれば、それはとてもバックリーウッド子爵らしくて頭を使わなくて済むお気に入りのコーディネートだった。
女子爵として滞在する皇宮で、楽な男装などできずに、テオドラは家族の集まるサロンの片隅で、王国から持参の母上のお下がりの紅色のドレス、コルセットやパニエを下に身に着けて、置物の人形のように大人しくしている。いつもは一本結びか、手を加えても一本三つ編みか、という程度にしか装わない髪、こちらも帝国風にとアレンジがされ、コテで巻かれて複雑に編み上げられ、大変大げさなありさまになっている。テオドラはさっきから、頭さえ動かせない。
女神風とやらのあおりだ。練習が必要だと侍女たちや皇宮の女官たちが張り切っていた。
おじ様とテオドラの間がぎくしゃくとしてどことなく不穏であるのは、両家の家族も帝国の伯父様ご一家も何となく察している様子だった。かつては一番の仲良しだったはずが、会話さえ続かないかみ合わない二人になってしまっている。家族は賢明だった。そんな二人に当たらず触らずでいる。
テオドラとおじ様は、広いサロンの両端に座っている。あちらは小さな子たちに大人気の大盛況だ。動けないテオドラは張り合おうとも思わない。子供たちにも判るのだろう。ドーラ姉さまには近寄ってはいけないと。
幸いおじいさまは、やってきた娘たちやその家族と面会すると、幾らかはお元気になられたご様子だった。孫たちの顔を一人ずつ見つめて、名前を呼び、声をかけられた。これが初対面の大公家の双子姫をあやされて、腕が足りないとお嘆きになった。お顔は、満ち足りて幸せそうだった。
おじ様を避けたいテオドラは、おじいさまのところへ時間の許す限り出向いた。そして、相談女になる。思春期後期のテオドラはやっぱり精神が多少不安定で、おじいさまとお話しながらしばしば声を詰まらせ、涙を流した。
「あちらの、デジレ殿下とはうまくいっておらぬと、余も皆から聞いている。辛くはないか」
優しい言葉がかけられれば、テオドラはおじいさまの枕辺を涙で濡らしていた。
「あの方と、思いが通じ合うことはありません。そもそも容姿をお嫌いだと拒絶されれば、それ以上は何も申し上げられません。あの方には愛妾が何人もいらっしゃるのです。王宮にお連れにはならず、夜ごとその姫君たちの待つ館へ通われているのです。姫君方のお暮しは、テオドラの持参金口からお支えしているのです。あの方にとってわたくしは、ただの金蔵に過ぎないのですわ」
もう十年も前にすでに諦め、今は動向や金遣い以外に興味のない婚約者のことを、色欲魔の鬼畜と印象付けて語った。ヒロイニズムにテオドラは少し酔っていた。婚約者に顧みられないかわいそうな自分。
「わたくしもいけないのです。名ばかりの婚約者だといって、わたくしの方こそ秘めた恋の相手がいるのですもの。……その方への恋だって、今はもう望めません。テオドラにふさわしいのは、やはりデジレ殿下でいらっしゃるのでしょう。不実なところが、よく似ておりますもの……!」
そして、今もようやく抱えているような重い恋を嘆いた。おじ様と同じ場所にいるのがつらい、こんなにも。手放してしまいたい、できることなら。手放してしまえるものなら。
「ウィルヘルム殿下のことか、その、大姫や、そなたの秘めた恋の相手、というのは」
テオドラは驚いて、おじいさまを見た。なぜ、ご存知でいらっしゃるの。どうして、おじいさまに知られているの!
「そんな……そんな、違いますわ。おじ様なんて……おじ様はお好きじゃないもの。もっと気安いはずの方なんです。テオドラはおじ様をお好きじゃありません、おじ様だって……!」
「語るに落ちておるぞ、大姫や。じいはすべてお見通しだ」
むふふ、と堪えるように笑って、おじいさまは少し咳を出された。
「おじいさま、お水」
人払いがされていた。立ち上がって水差しの水をテオドラは差し出し、呼吸の落ち着かれるのを待って、相談女を続けた。
「おじ様は、テオドラのことなどお好きではいらっしゃらないもの。思ってもどうにもならない方、わたくしの婚約者は……デジレ殿下だわ。おじ様には、夜会でのエスコートをお断りいただきましたもの」
あの件はうやむやになっていたが、テオドラは夜会デビューは一人になると覚悟を決めていた。何しろ帝国の爵位を持っている、皇帝陛下の孫姫だ。しかも一番年上の孫だ。帝国には辺境の女子爵、王国から来た田舎者、一人で夜会、どんとこい、と思っていた。
新年の祝賀舞踏会は、皇帝陛下のご快癒も祈念して、年明けとともに盛大に行われることになっている。皇太子殿下であられる、伯父上の主催だ。
「いやいや、聞いておらぬ。私が本当に務めてもいいものかと、かの方もお悩みだぞ。恐れ多いと。皇孫の大姫様相手に早まったかもしれない、とな。婚約者もここにはおらぬのだから、殿下が良いのだと、じいからも改めてお願いしたのだが」
「おじ様は王国の王弟殿下でいらっしゃるのよ。おじいさまがご無理をお願いするなんて……ご迷惑だわ」
「ほれ、殿下もびっくりなさっのただろう。じいもそうだが、見違えたぞ。お前が美しゅう、大人らしゅうおなりで、まるで見ず知らずのどこぞの姫君とまみえているようで、このじいとて心がざわざわと落ち着かぬ。かの方も、そんな心地でいらっしゃるのだろう」
まるで、魔性のように美しいぞ、と、おじいさまは孫を魔物と貶めて笑っておいでだ。
テオドラにとって魔性の定義とは、国のどこかにはいるかもしれない得体のしれない想像上の魔物や、婚約者らから上手に金を搾り取る娼館の女たちであり、悪しき女の代名詞でもあった。
「わたくし、そんなに怖い顔をしています? 確かにおじ様は、わたくしの顔を見て、一瞬首をかしげたように思います……おじ様やおじいさまのご覧にならないうちに、魔物のような恐ろしい顔に……わたくし、おじ様とそっくり同じ顔だと思っておりましたの、ずっと。でも、今のおじ様はかつてのおじ様とは別人の様で……とてもわたくしのおじ様のようには思えません。もっと気安い気楽な方で……、お話が続かなくなるなんてこと、おしゃべりがかみ合わないなんて……そんな日が来るなんてこと……考えもしなかったの」
「そうさのう、留学してこられた当初を思えば、かの方もずいぶん変わられた。帝国にもあの方を狙う淑女は多いと聞いておる。王国の王弟殿下を恐れ多くも狙う、などという娘たちが淑女かどうかはさておき、だ。お仕置きおしておやり、大姫や。帝国流に言うとな、勝ち得た者だけが勝者だ。獲得しえた者のみが、な」
おじいさまは枕辺から見上げるテオドラの結い上げられた髪をそっと撫でながら、小さな子に言い聞かせるようにしてゆっくりとおっしゃった。
「欲しいのなら、それは人の心のことだ、相手の思いもあろう。何もかもを、己がすべてを捧げても手に入らぬこともあるだろう。だが果たして、王弟殿下はそなたにとって手に入らぬ人なのか? よく考えなさい。そなたが王太子殿下の婚約者であるのは変わらぬ事実、しかしそれも現時点での話。未来はどう転がるかわからぬ。じいが見るに、そなたの掌の上で、簡単に転がせる未来だ。ようこねてみなさい。そなたが捧げるもの次第で、王弟殿下のお心もきっと手に入る。じいはこの国で三十年も重しをしておった。割と役に立つ重しであったと自負している。そなたのじいとして役に立つ助言もいくつか腹の中にはある。……大姫や、よくお聞き。男はな、娘の意固地も愛らしく思うが、その娘が頬を染めて素直である方が手を伸ばしやすいのだ。そなたのおばあさまもかつてはそうであった。今はな、ほれ、あのように意固地が服を着たいけ好かない口うるさいばあだがの、あれも娘の頃はとても素直に、このじいに愛を囁いたものだった。いじらしくてなあ、今でも夢に見て思い出す。これは誰にも内緒だぞ」
おじいさまの胸の中にも、ひとつの恋物語がある。見知らぬ方のようなおじ様を見て、テオドラの心は緊張し委縮した。無限に広がっていくと信じていた未来の可能性を、自分からこれ以上は無理とそこで思い止まってしまったほどに。
楽天家のはずのテオドラが、まるで悲劇の歌姫のように、泣きながら吐き出した心弱い本音を、おじいさまはどう聞かれたのだろう。女の子は素直な方がかわいい、男の子は手を伸ばしやすい?
「おじいさまにお話できたことが、おじ様にはできないの……」
「じいは安心した。照れておるのだな、お前も普通の娘なのだと。男の成りを普段は好んでおってもな。王太子殿下とのことは、いずれ時が来ると期待してよい。そなたにも判ろう? どう合理的に、勝ち得るか、その時が満ちるのを待つだけだと。王弟殿下も、その時に勝ち獲れればよいな、一度に二兎を得られるかも知らぬ。よう考えてみよ。大公家にはいまだ姫しかおらぬ……王太子妃教育が済んだ姫君は、王国にはそなただけ。あとは そなたの政治的手腕などというものを是非見たいものだ。王国の枢密院がよう機能しておるのはじいとて知っておる。そして皆そなたの同僚だ、王国枢密院参与、バックリーウッド女子爵よ。テオドラよ、我が大姫が王妃となる日が、じいは待ち遠しい……」
帝国で三十年、『重し』であった人の金言を、テオドラはいつしかどきどきと脈打つ胸に刻んだ。
そして、短慮で、浅慮で、癇癪持ちの激情家であった本来の自分を思い出す。
「ごめんなさい、おじ様。テオドラはとても浅はかでした。おじ様が突然見知らぬ方のように思えて、頭が混乱して……思うようにお話ができないと癇癪を起していたのです」
『神々の日々』が終わりに近づき、最初に仕上がったドレスが二着届いたころ、何度も何度も、口の中で、また口に出して繰り返し練習した言葉を、おじ様の前で緊張に震えながら言葉にしたとき、テオドラの涙腺は決壊したかのようにぼろぼろと涙をこぼし続けた。
「びっくりしたのです。……久しぶりにお会いしたおじ様は、まるでテオドラの知らない方みたい。おじ様に気軽にエスコート役をお願いしたこと、テオドラも後悔いたしました。……よく知らない方に……気楽にどうして、って……。髪も、瞳も、何も変わらない……わたくしの、わたくしのおじ様でいらっしゃると、ちゃんと、解っているのに……」
見上げるのに、ずいぶんと首を反らせる必要がある身長差になっていた。
……違う、幼いころからきっとそれはあまり変わっていない。テオドラはずっとおじ様のお顔をこんな風に見上げていた。おじ様の体格がご立派で、圧倒されてしまうのだ。
帝国では騎士団の軍事教練に参加させてもらうことがあると、お手紙に書かれてあった。今王国の陸軍などでは銃剣や拳銃による修練が主流で、剣闘での訓練そのものが過去のものとなっている。そういった軍制改革を推し進めた一人がテオドラであったが、まさか帝国騎士団によっておじ様の体が胸厚に鍛えられてしまうとは思わなかった。頭からつま先、優美さはちっとも損なわれていないし、くつろいでいるさなかの部屋着であっても典雅で優雅な貴公子であることにはお変わりがない。
でもこのおじ様が、王国海軍の盛装に軍靴で夜会に出た日には、帝国社交界の淑女たちもそれは、ひとたまりもないだろうなとテオドラは深淵に佇む。心の闇、という言葉を思い出す。お仕置きをしておやりとおじいさまはおっしゃっていたが。
不躾な態度をまず、平謝りし、自分の非を徹底して認めて、テオドラは一心におじ様を見つめる。
「ドーラ、そんな風に声を上げずに泣くものじゃない……そんな風に、無防備に泣くのはいけない。君の振る舞いを人がどう見るのか、君にはもっと自覚が必要だ」
おじ様は悲しみ、確かに憐憫をテオドラに寄せた。
「こんな君が、帝国で社交界に出てしまうのが……心配で心配でたまらないよ」
が、かつてのように、そんな哀れみの言葉とともにテオドラを抱き寄せ、ぎゅっと抱きしめてくれることはしなかった。……仲直りはまだ道半ばだ。
「だったら、だったら……おじ様がおそばにいらして。テオドラが失敗しないように、隣で、近くで見張っていてください。おじいさまもそうお願い申し上げたとお伺いしました」
皇帝陛下から言質は取ってありますよ、と胸に印籠を秘めてぎゅっとその胸の前で両手を握り、力を籠める。
「それは……約束もした。君との約束は違えないよ。お役目は全うすると誓う」
「……安心いたしました。おじ様のおそばを離れないように、目の届く場所にいるように必ず心がけます」
テオドラは短慮で浅慮な娘だった。このごり押しの報いはきっといつか受けるはず。何もかも自分のせいと知りながら、佇んでいた淵から闇の中へ飛び込む。
独占欲の強さとも、向き合わなければならなかった。
月のしずくのように流れる白金の鎖の肩飾り、金糸銀糸の刺繍で華やかに彩られた白い王国海軍の盛装に、黒い軍靴と肩章。おじ様はその夜最上位の国賓であり、テオドラはそれを迎える主催者、皇太子殿下の姪姫だった。帝国から降嫁した母上たち姉妹と大公殿下、父上は帝国の儀典通りにおじ様より一段低い姻族の来賓扱いであり、舞踏は主催である伯父様ご夫妻からテオドラとおじ様、大公殿下夫妻、ヒンクシー公夫妻が最初のワルツの小節ごとに加わる形で始まった。
「是非お相手を」
とおじ様から請われるように誘われて、エスコートというより遥かに気安い知己の間柄であるように二人は踊り始めた。
社交界に出て初めてのダンス、続いて二曲目の大円舞も二人で踊った。
ずっと幼い頃、ダンスレッスンをご一緒した時のように、笑いは通わず、心臓は大きく跳ねているのに楽しいわけではない、そういう心境の中の舞踏であることはおじ様にも伝わっていただろう。幼い頃のように、二人でいるだけでただ楽しいという思いは味わえない。
近親の間柄とはいえ、テオドラには婚約者がおり、おじ様は婚約者のいない独身男性だった。
王国からも幾人かの外交官らが参加している夜会で、ことさら親しげに振る舞うことはできなかった。
主催者の側なのに、帝国社交界の在り様など、これが夜会デビューとなるテオドラは無知であり、国賓であるおじ様のほうが有識であるという奇妙なカップルは、よほど耳目を集めたらしい。二曲目の終わりとともにダンスの輪を離れると、おじ様には既知のご友人方や外交チャネルである方々とそのパートナーに取り囲まれて、まるで尋問のような質疑応答が始まってしまったのには閉口した。
おじ様はテオドラの身分が王国にあってはヒンクシー公爵の令嬢であり、帝国側から見れば一番年上の皇孫姫、バックリーウッド領の女子爵であることを、どなたにも懇切丁寧に説明した。
「恐れ多くも、皇帝陛下直々にエスコート役を賜わってね」
と、先にテオドラが軽はずみなお手紙でしてしまった軽はずみなお願いについてはお話しなさらないでくれた。
「それにしても、容姿がよく似ておいででいらっしゃるわ。月神さまのご兄妹のようだと、皆さま噂なさっておりますわよ。それに王国では建国神話に聞く髪や瞳のお色味だとか」
貴婦人の一人が興味津々といった態で聞いてくる。おじ様は白の盛装、テオドラは瞳と同じ明るい群青のドレスを纏っている。帝国も王国も同じ神々に祈る友好国だ。人的交流も昔から盛ん、共通の話題を出されれば話は通じる。
「ご存知の通り、私の母はヒンクシー公爵家の出で、大姫様には大叔母にあたりますから。私は母方に、大姫様は父上方によく似た、それゆえです。決して月神の兄妹だからではありませんよ。建国王の伝説についてはまったくその通りで、否定はできませんね」
冗談も交えて、情報は正確に。おじ様は如才なく切り返す。
テオドラは緊張のあまり、踊りのあとの体が水分補給を求めるあまり、給仕のトレイからさっとアップルタイザーを取り上げた。こくりと一口飲んで、そのリンゴ味に安心した。
『生前』知っていたアルコールの味はすっかり忘れており、タイザーではなくリンゴ酒の炭酸水割りと気づいたのはそれを十回ほどにわけて、ゆっくりと飲み干した後だった。
……これ、お酒だわ。しかも濃い。外が寒いから、恐らくこんなに濃く作ってあるのだ。
失敗したと思った時にはもう遅い。まだ十四歳の身体に、初めてのアルコール。間違いを、猛禽のような帝国のご令嬢たちの目の前で認めることはできない。
テオドラに向けられる視線が、ただの興味ではなく羨望や嫉妬交じりのそれとすでにわかっている。皆がおじ様に手を取られ、一緒に踊りたがっている。テオドラは鷹揚を装って一人になる方法を思いついた。
「王弟殿下、ご令嬢や貴婦人方がお待ちかねでいらっしゃるわ。お相手をして差し上げたらいかがかしら。わたくしは父と母のところへご機嫌伺いに参りますから」
「とんでもない、大姫様。あなたから決して目を離さないようにと、私に請われた方がいらっしゃったこと、お忘れですか。私の目の届くところにいて下さらなければ困ります」
まぎれもなくテオドラ自身のことだ。それを先に『賜わったお役目』と誤認させることで、おじ様は、煩わしいとお思いではいるらしいご令嬢方をあしらわれるおつもりのようだ。
「ええ、確かにそうでした。申し訳ありません、おじ様」
逃れられない、今日はそういう日らしい。自分の心の深い場所からも、また。
「おじ様! 姫君におじ様とお慕い頂いているのだったな、ウィルヘルム殿下は」
「……ギュスターブ。大姫様、こちらはギュスターブ・ベイデリー。帝国のベイデリー侯爵家の子息です。ギュスターブ、こちらは恐れ多くも皇帝陛下の皇孫姫様であられる」
「おじ様が今年の夏にご滞在された、ベイデリー侯爵家の? 帝国学院でのご学友でいらしたお方ですわね。ごきげんよう、テオドラ・ヒンクシー=バックリーウッドにございます」
「ギュスターブ・ベイデリーです。こちらの殿下とは学院の寮で三年も隣室で……」
帝国学院は男子部と女子部が明確に分かれていて、交流も少なく、男子校と言って過言ではないと話に聞いていた。
正式に紹介された方とのみお話をする。王国で王太子妃教育を受けたテオドラには呼吸するように身についた儀礼が、帝国社交界でも通用する。
「いとけなく、少し少年のような姫君とお伺いしておりましたが……驚きました、殿下がお話になった印象とはまるで違う。お二人を取り囲まれた方々の、心の叫びが聞こえてきそうですよ。貴公子連中は皆あなたを見て鼻息を荒くし、ご令嬢方は戦々恐々として震えておいでだ」
「悪目立ちしているようだとは、実感がございます。帝国では赤やピンクや橙や、華やかなお色が流行でいらっしゃるようなのですもの。辺境から冬を連れてきたと思われているのかしら。帝国の皆さまはずいぶんな寒がりでいらっしゃるわ。この青のドレスは気に入っておりますのに」
耳元でこっそりとささやかれた皮肉のような言葉に、やはりひっそりと掌の内側から応戦して侯爵子息ギュスターブをテオドラは見た。やや浅薄な気のある当世流の貴公子に見受けられ、同じく浅慮のテオドラは彼に親しみと好感を抱いた。何しろ今夜初めておじ様にご紹介にあずかった方だった。ごく親しいご友人でいらっしゃるのだろう。
「でしょうね、とてもお似合いで、夢のようにお美しくていらっしゃる。予言しましょうか、次の夜会では女性陣は皆こぞって青のドレスを着ている。まるで氷漬けのような夜になるだろうと」
「まあ、それは大変だわ。わたくしのせいで皆さまがお風邪を召されてしまう?」
ギュスターブは声を上げて笑った。快活な人だな、とぼんやりとテオドラは考える。そのぼんやりこそ、危機感の欠落とも思わずに。
「姫君は楽しい方ですね。多分にね。姫君、ご自覚がおありですか? 貴女様は一夜にして帝国社交界の流行を変えてしまったようですよ。賭けてもいい、令嬢たちは皆、青の女神型を着さえすれば貴女のようになれると、錯覚してる」
「わたくしのように? 難儀なことだわ、わたくし自覚ある偏屈ですのに」
上滑りしていくような会話をテオドラは楽しんだ。体を暖かく回り始めたアルコールのせいもあっただろうか、口は思いがけず滑らかに動く。
「お話が弾んでいらっしゃるようだ」
しばし会話に間を挟んで小さな笑いを収めたところで、ふいにおじ様が咎めるような声を立てる。わずかな反感をもって、テオドラは応える。話に水を差されたような、苛立ちとともに。
「ギュスターブ様のお話は面白くていらっしゃるわ」
「ああ、姫君も楽しい方だ。惜しむらくは出会うのが少し遅かったということかな。婚約者がおありと伺っていますよ」
「ふふ、いつまで婚約者でいられるのかもわからないような方ですのよ?」
テオドラはそう思っている。破談となるかはテオドラの掌に、やはり握られていると。
おじいさまと話していて、考えを新たにさせられたのだ。準備が必要だが、決して叶わない夢ではない。そして、帰国次第、準備に取り掛かるつもりだった。少し遅かったかもしれないと、今は後悔している。
港湾用地の獲得のためと欲を出していたところだが、王位の簒奪に繋がる一大事業だ。確かに大公殿下のご即位のご意志にも働きかけていかねばならず、難しい問題として次の継承権者が大公家にはお生まれでないことも気がかりではある。
大公家の子供たちは、シャルロット姫をはじめとして六人全員が姫君だからだ。王族の継承順位からも、お人柄からも、国王夫妻とデジレ王太子が位を追われてしまえば、立太子し、即位するのは大公殿下以外にいない。元の皇女殿下であらせられる叔母様は、そのお隣にふさわしい方。慈善やご公務も、子育ての合間にわずかながらこなされている。
そして、もう一つの可能性についても、この数日、思いを馳せていた。
未婚の王弟殿下。――――王太子妃教育を済ませた、王国にたった一人の令嬢。
「王国の王太子殿下だというじゃありませんか。つまり末は姫君は王妃殿下? 雲の上の方だ」
「ああ、そうだ、ギュスターブ。大姫様は生まれながらに甥の婚約者だよ。ほかの誰かの者になどならないということだ。異母兄夫婦が許さないだろう」
「やだな、殿下。かの王太子殿下の評判は帝国でだって聞こえるほどだよ。僕だって君から聞いたんだ、とんでもない方だそうじゃないか。嘆かわしいって、かつてはお考えだったんじゃないのかい」
「破談になど、政治的になり様もないから嘆かわしいとは言った。だが、それだけだ。あり得ない話だ。今更、覆り様もない」
『今更』、極めて政治的に、テオドラが問題の解消へ向けて動き出そうと決意しているというのに。おじ様のお考えには同意できない。テオドラは憤った。
「王弟殿下。未来など誰にもわからないことよ? 例えば明日、わたくしが世を恨みながら儚くなってしまったら? 婚約の破談は叶い、新しいどなたかが空いた椅子に新しくお座りになることでしょう、お気の毒なことですけれど」
「貴女と議論をいたすつもりはありませんよ。貴女は世を儚んだりしないし、未来は変わらない」
「いいえ。未来は可変なもの。わたくしにも自分の意志がありますの。夢に見る方との、夢のような生活、どんなことをしてでも手に入れたいものですわ」
「貴女はデジレの婚約者だろう。ほかの誰かなど、思うべきではない」
「ご理解いただけないのね、王弟殿下。……おじ様がデジレ殿下とわたくしのつつがなき未来をお望みとは思いもいたしませんでした。……お騒がせをして失礼いたします、ギュスターブ様。わたくし下がらせていただきます。風に当たりますわ、少し気分が悪いみたい。」
「……気分じゃないだろう。機嫌が悪いんだ」
「ええ、そう。たった今、そうなりました」
近くのテーブルの上の扇と小さなクラッチを取り上げて、ギュスターブほか、周囲を囲んでいた面々に礼を取って、広い舞踏場をテオドラは後にする。
お役目は全うすると言い切った人が、ぴったり後を追ってくるのを背中に感じながら。
庭に面した背面の窓の外は雪が降りしきっている。室内の温度差はいくつもの窓を曇らせ、結露を作っていた。
――――失恋だ。
かつてないほど感情が今、高ぶっている。無表情を装うこともできない。どんな形相をしていることだろう。これはすべてアルコールのせい、自分のせい。……おじ様のせい。
なんて、ひどいことを言うのだろう。
あのデジレと! あのデジレを健気に思え、未来には妻として愛せと? 馬鹿じゃないのかしら!
踊りの輪の片隅、人波がなぜか割れてスムーズに抜けていけるのを、降りてきた方向へ戻る。吹き抜けから降りてくる階段の先に、皇宮の奥宮はあたり、階段の上は皇太子殿下の近衛騎士が塞いでいた。
「……! 大姫様! 女子爵様、お戻りですか?」
夜会の開始から間もない。
「ええ。お通しいただけるとありがたいわ。お部屋までご案内くださる」
「いや! いい、君たちはここで結構。待ちなさい、ドーラ、僕が」
「おじ様、機嫌が悪いのよ、わたくし。一人になりたいの。ドレスを脱ぎたいの。お風呂に入って、もう休みたいの。明日のためにも!」
おじ様が追いかけてくるのを背に、テオドラはうろ覚えの奥宮へ向かって歩を進める。
近衛兵や、皇宮警備の衛兵が随所にいる。夜会で増員されてのことだろう。皇族の私的空間を護る彼らも、関係者とみてすんなり通してくれる。道をたがわぬようにさりげなく誘導してくれている風でもあった。こちらではなく、あちらの廊下の先ですよ、とでも言ってくれているかのように。
「止まりなさい、ドーラ! テオドラ! いい加減にしろ!」
後ろから、肘をぐいとつかまれておじ様の望み通りにされる。
テオドラは歩みを止められ、いい加減にさせられる。その程度の者だった。力の弱い者。男装を好もうと、どれだけ頭を使おうと、結局は力の強い者の思うままにされる、その程度の者だった。
テオドラのおじ様じゃない、この人はもう。
明日、儚くなる。それもいいと自暴自棄に考える。家族は嘆き、おじいさまは志半ばでと悲しむだろう。でも、暴虐な婚約者の、貞淑な婚約者でいろというこの人は?
テオドラに王太子妃になれというこの人は? あのデジレの? 未来は変わらないというこの人は!
「手を放してください。王弟殿下とはもう思いが通じ合わぬとわかりました。わたくしに、自ら望んで不幸になりに行けとおっしゃる、貴方様は、わたくしの敵。わたくしの不幸を望む貴方様は、わたくしの敵です」
すでに最後まで書き終わっている作品なのですが、執筆中ってやけに言葉に対して敏感になるものですね。
私の主敵は、首都の首長さんの定例会見や議会での発言、それをシンボリックに繰り返すメディアさんたちでした。
『精査』とか『不退転の決意』とか、書き直そうと思っても他に言葉が見当たらない。
むーん、と思いつつも、そのままにして投稿しております……。




