起~3
けれど、人生のすべてが順風満帆、順調に進んでいくわけがない。身を裂かれるような悲しみとともにそれを知ったのは、テオドラ十歳の秋のことだった。
人生なんて、ちっとも順調にいかない。そういうものなのだ、とわかっていても冷静でいられない。
前年に五つの王国騎士団を解体し、陸軍と海軍、憲兵隊に組織を編成しなおすという大事業に口出しをしていたテオドラは、貴族院の会期中、王都に貴族が集まる冬から夏の社交期にかけては、帝国側から賜ったバックリーウッド子爵として男装し、午前は枢密院、午後は貴族院に顧問として出席したり、夏の始まりとともに貴族院会期が終わって午後の時間が空けば、行政府の様々な部署に出向いて官吏たちの仕事ぶりを見守りつつ、時にはちょっとした提言を口にしたりと活発に元気に、子供らしくはない日々を過ごしていた。
男装少女として。
王弟殿下、ウィルお兄さまは王立学院に入学されて二年目。十五歳になっていた。
前国王の第三王子として爵位をすでに賜っていたケニントン公は、友人たちを近習とは呼ばずに、闊達な学院での生活を楽しまれている。
不穏な空気が漂い始めたのが、二年目の開始からまもなくのことだった。
――――王弟殿下は優秀すぎる。優等生すぎる。人望がありすぎる。特待生の庶民にもたいへん気さくで、上位貴族にも下級貴族にも分け隔てなく、上級生には礼儀正しく、下級生には常にお優しく、同級生には真摯であらせられる。とても真面目で研究熱心、先日は学年の枠を超えて弁論大会で優勝された。……それによって、来年度入学が予定される王太子殿下との対比が懸念される――――。
一年目に、ハートリー男爵家の双子兄弟が最上級生であり、王弟殿下の学院での生活に気を配りつつ環境を整えて卒業していった。
その結果、二年生にして殿下はその地位もさることながら、学院の最重要人物として、女子生徒からは熱烈に支持され、男子生徒からも熱烈に崇拝されているらしい。
さすが、テオドラのウィルお兄さま!
テオドラは興奮したが、あまりの秀才ぶりに、王太子の生活態度を知る王宮から、貴族院議員の口から動揺の声が囁かれ始めた。
会期の終わりごろには、皆の口に噂として上るほどに。
枢密院でも懸念が深まっていた。
ケニントン公が優秀すぎる……。
異母弟の学院での活躍を耳にした国王が歯をむき出しにしたとか、王妃の頬が引き攣ったとか、放置されて躾もされずに、いまだにわがまま放題の自分たちの息子と、それでも比較することはしたらしい。
お目付け役となる側近を同年生まれの貴族子弟の中から至急選定するようにとのお達しが、枢密院に舞い込んできた。
『王太子閥』の形成を急げということらしい。
叔父上にあたる王弟殿下の学院生活に、真正面から対立させようとしている。
このままでは、と王弟殿下の身の安全のために動き出す必要があった。
枢密院は、三年目からの王弟殿下の帝国への留学という、ほぼほぼ亡命を決定した。
テオドラも、涙を流しながら、決定に同意承認の署名をした。
右手の小指の印璽を押した。
帝国学院のある、隣国の帝都までは馬車で五日。ヒンクシー領の公都まで、一日。母上の女公領公都までさらに一日。バックリーウッド子爵領を経て、帝都までさらに三日。
街道はテオドラの両親の結婚を機に整備され、広い馬車道が引かれていたが、距離にして馬車で五日。
これまで、会いたければ約束もせずに行き来できたウィルお兄さまとも、もう簡単に会えなくなる。
長いお別れを前に、テオドラはしばらく元気がなかった。
テオドラを忘れないでと涙を浮かべてウィルお兄さまにわんわん泣き縋った。
十一歳を迎えた春のことだった。
「馬鹿だね、ドーラ。僕の大切な子。僕がお前を忘れるなんてありえない。鏡を見るたびに、お前の顔を思い出すよ。思い出さずにいられないよ」
小さく笑って、幼い頃のようにテオドラを膝の上にのせてぎゅっと抱きしめて、
「忘れたりしない」
真摯な暁の瞳で言い残して、ウィルお兄さまはその春旅立った。
夏になれば。子爵領までなら会いに行ける。
ひと夏を一緒に過ごせる。
残された三月余りの会期が心にどれだけ煩わしくても、テオドラは耐えた。
ずっと続くさみしさを、気が進まない王宮で女装しての王太子妃教育――――すべてすっ飛ばして王妃となった現王妃様は教育そのものに口出しすらできない――――で紛らわせて、三月の内にすべての仕事と並行して消化し終えると、テオドラは貴族院議会の閉幕の翌日にバックリーウッド子爵領を目指した。
おじ様の訪いを領主館でお待ちしています、と先にお手紙を送っていた。
おじ様、とお手紙に書いたのは、もうそろそろ血縁はそう濃くもない、従兄の娘である令嬢、義姉の姉の娘である令嬢、と意識していただきたい、肉食系乙女としての嗜みのつもりだった。
初めてのテオドラの領地入りに、子爵領は少しだけ忙しそうだった。
皇帝陛下であらせられるテオドラのおじいさまが、父上が雇った代官やすべて帝国側の民である使用人たちに万全の備えをと宣下を出していたものらしい。
二人の侍女と二人の馭者とともに初めて訪れた領主館は慌ただしくも、居心地が良かった。
おじ様が帝国学院の春学期を終えてやってきたのは、テオドラの領地入りから七日あとだった。
一人でいる間は、代官の仕事ぶりの点検や、領地のほとんどが森林である子爵領で、今後成長しうる産業の振興について考えていた。
森の中の領主館は、美しい湖のほとりにあって涼しく、夏の間過ごすには最適の場所だった。
「おじ様! おじ様、おかえりなさい!」
おじ様と呼び名を変えたテオドラの王子様、ウィルヘルム王弟殿下は、三月ぶりのテオドラの前に、ひどく悲しげな顔で立った。
「ドーラ、どうしたの。おじ様って、どういうこと。もうウィルお兄さまとは呼んでくれないつもりなの」
そこがショックだったらしい。背も伸びて、以前より少し大人びた少年におじ様呼びが突き刺さったらしい。
そういえば、大公家の姫君たちも、テオドラに倣ってみんなウィルお兄さまとお呼びですものね……。
乙女心なんて、得てして男の子には伝わらないものだと、テオドラは知っていた。
「だって。おじ様は父上の従弟君でいらっしゃって、叔母様の義弟君でいらっしゃって。お兄さまと呼ぶより、おじ様とお呼びするべき方なんだって。やっとわかったの。テオドラは馬鹿でした。おじ様をお兄さまと勘違いしていたなんて……」
それから、五日間、三人に増えたテオドラの弟たちと両親、こちらもまだお小さい四人の姫君と大公殿下、妃殿下夫妻が王都の夏を逃れて合流するまで、テオドラとおじ様は二人だけの夏を満喫した。
テオドラには、夢のような日々だった。
三月の間のさみしさも、何もかも忘れてしまう毎日だ。
収支報告書や、特産のウォルナットやヘーゼルの木を使った木工芸品の製作普及についての草案を放り出して、子鴨のようにおじ様のあとをついて回った。
「そんなにお前にさみしい思いをさせた? 僕がいなくて?」
ボート遊びの合間に、おじ様が嬉しそうに笑った。
うん、と素直に頷けば、もっと喜んでくれた。
おじ様は、今まで以上に優しく大好きなテオドラのおじ様であり、そんな王子様と二人だけの五日間はまるでいつか訪れる蜜月のちょっとだけ予行演習のようだった。
テオドラはおじ様のことだけを考え、おじ様だけを見つめていられればそれでよく、二人の家族がやがて揃っても、二度目の夏も、三度目の夏も夏だけはおじ様を満喫して過ごした。
離れ離れになって四年目、テオドラは王立学院にも通うようになった。
相変わらず毎日くるくると立ち回り、器用にその日の予定をこなす。
帝国学院を留学生の身分のまま首席で卒業されても、おじ様は帝国から戻らなかった。
少し見聞を広めるためにと、妃殿下の女公領や帝都を行き来して、帝国での外交目的の人脈づくりに励むらしい。
彼は社交的で、精力的で、その夏は子爵領にもこられなかった。
帝都の友人宅に滞在したり、公共施設を視察したり、皇宮での夏の行事に参加したりしていたらしい。
手紙や、きれいな絵葉書は何通も届いた。
郵便事情がそうよくない世界でも、大街道沿いにある帝国の子爵領は恵まれている。
会いたい人には会えないけれど、郵便だけはちゃんと届く。
その代わり、課題はどんどん進んだ。
学院には入学したものの春学期は休会日と重なる週に一日しか通学できていない。
もう一日の休会日は休息に充てなければ、元気なテオドラもさすがに体がもたないからだ。
とれる講義は積極的に受講した。領地に出立する前の十日間は補講を毎日受けた。
前倒しして課題を仕上げていくのも、さみしさを忘れるための逃避だった。
何か別のことを考えている間、別のことをしている間は、おじ様のことを思い出さずにいられた。
それでも、寝る前にお風呂につかり、髪を乾かし、つやが出るようにと少しのオイルを塗りこんだ髪を梳かす間、子爵領で作るようになったウォルナットのコンソールに置いた鏡の前に一人で座ると、自分の顔の上におじ様の顔が幻のように重なっていくように見えた。
鏡を見るたびに思い出す。――――忘れられるはずがない。
十四歳の秋のことだった。
夏に集中して取り組んだ課題の提出物は、すでにあらかた卒業までの必要分に達していた。
貴族院が閉会している秋には、時間にゆとりがあって、通学もはかどった。
午前は枢密院に顔を出すが、午後はその限りではない。
時間のあるうちに学院に行きなさいと、同僚議員たちは言ってくれる。学院の制服を着て登院するテオドラが物珍しいらしい。
前倒しで受けている試験は、すでに第四学年の物である。
行政府から提案される法案も抜け穴がなくなり、下級法院、高等法院での運用もスムーズに回るようになった頃だった。
各貴族領と国庫からの支出により設立された庶民のための六年制の小学校も、来年初めて卒業生が出る。数はまだ少ない。教師の数も足りない。
聖堂に併設したしたせいで、宗教色がやや強めの授業が行われる形になった小学校だけれど、自然科学分野のカリキュラムは充実させていた。
何事もバランスが大切。
けれど、辺境領の辺境の村までは、まだ行き届いてはいない。
志は半ばだけれど、国内の様子は、テオドラの目から見て一頃よりはずいぶん国家らしく、追えばきりがない理想と折り合いをつければ、かなり落ち着いているように思えた。
決してそれを見ても、すれ違っても、敬いはしないが丁寧に接するようにはしていた。
あちらから積極的に話しかけてくること、関わってくることも滅多になく、すれ違いざまに極めて丁寧に頭を下げるだけの関係。
非常に暴力的かつ弱いものをいたぶることにたけた婚約者は、昨年、街遊びを覚えた。
学生は立ち入り禁止のはずのパブでの豪遊。
庶民に混じって、金持ちの御大尽として夜ごと庶民の暮らしを学んでいるらしい。
支払いはテオドラの持参金口から。そして街に出始めて数週間で、高級娼館に入り浸るようになった。
近習をぞろぞろ引き連れて、お酒と娼婦と薬に溺れる、実にロックな十五歳だった。
容貌は精悍になってきたといえなくもない。顔だけは美しい王妃様によく似ている。
けれどその残虐性は隠しきれない。
そんな婚約者の手にかかって、言いなりにならない娼婦が三人縊り殺された。
彼は自分では物事の始末をつけられない。
殺した後は、近習の一人に支配人と話をさせ、やはりテオドラの持参金から解決するという手段を取った。
劇場やサーカスやパブや娼館からのつけがあるときまとめて届いて、公爵家の家令、タンクレディはひっくり返った。
ヒンクシー家は国内屈指の素封家で、二つの公爵領から上がる歳入も、公爵家独自の交易や事業も順調だったけれど、産出される金や銀だって無限ではない。
市場価値を下げるほど出回らせるわけにはいかないのだ。
それにテオドラの稼ぎなど、枢密院と貴族院から出される既定の報酬、子爵領の工芸工房から上がる少しの特許料といった程度だ。あとは二度だけお目にかかった帝国のおじいさま、皇帝陛下から賜った領主館と生前贈与された幾らかの私財、帝国から受け取る子爵領の家禄だ。
婚約者と近習たちによる散財は、公爵家内でも大問題とされた。
ある日突然、見知らぬドレスメーカーやファッション小物の店、宝石店、紳士靴店、帽子店、高級花店、菓子店、プレゼントギフトの店などから請求書が届く。
家中の誰もが、誰が使っているのかと疑問に思う。
請求元を訪ね歩いてみればそれは王太子やその五名の近習たちによる浪費だった。
自分たちが身に着ける時計や靴や帽子、高級生地の紳士服を仕立てたり、残りは入れあげた娼婦への贈り物などだという。
彼らの出入りする娼館のA嬢やB嬢に届けましたと店員が証言する。
そしてA嬢やB嬢にも誰々からの贈り物を受け取りましたか、とタンクレディとその部下たちが訊ね回った。
そしてすべての支出について、誰が何に使ったものかが記された、『掌握費』という名目の台帳が用意された。
各人ごとの湯水のような散財をすべてテオドラの持参金口に集約して、請求元への支払いは続けた。
王太子と近習たちは、第二学年からの進級試験の際にも、街遊びのあとのさぼりを満喫し、結果第二学年を二度やることになった。王立学院は、国王の抗議をもってしても揺るがない。
彼らは、揃って留年した。
ぷ。
貴族院からは、王弟殿下の留学を決断した枢密院の賢明さが話題になり、浮き彫りになる王太子殿下との歴然とした差に廃太子論、王弟殿下や大公殿下の立太子論などが囁かれる始末。
彼らの不始末は、テオドラにとっての好機に他ならない。
なにしろ、負債の弁済などという馬鹿げた苦労をしてまで嫁ぐ先が、あれであっていいわけがない。
しかも娼婦殺し。
夜の帝王気取りで、いずれ性病をもらってくるに違いない。
妊娠してしまったお気に入りの娼婦の一人も、堕胎させ感化院へ棄てさせた、と報告を受けた。
まさに女の敵。早く天帝の罰が下ればいい。
そんな現実に、やっぱりおじ様のお顔をテオドラは思い出した。優しい青の瞳。長い指。大きな手。テオドラの髪を撫でるために、すっと伸びてくる腕を思い出した。微笑む口元も。
おじ様はそういえば港湾建設に力を注ぎたいとおっしゃっていた。
かつての夏の日、ボートの上でのお話だ。
港が整ったら、今度は造船。大きな船を造ればもっと強力な艦隊も、まだ見ぬ異国への大きな航路開拓も夢じゃないと。おじ様の王弟としての軍籍は海軍にある。
そういう時代か、とテオドラは思った。
おじ様も男の子でいらっしゃるから、新天地へのあこがれが尽きないでいらっしゃるのだわと、頼もしく感じたことを思い出す。
新しい港を作るときには、港湾都市を作ってしまえばいいのだ。
テオドラは『生前』、開国と同時に開かれた港町の出身だった。
そこでは、漁港と輸出入の外国船や貿易船、資源船、客船、艦船も出入りする港はすべて区別されていた。
波止場が違う、ということだ。構造なんて詳しくはわからないが、大きな船を造る、ドックがあった。
ぽんとひとつ、テオドラは手をたたいた。
やったわ、おじ様! 一つの侯爵家と二つの伯爵家、海沿いに面した三つの領から王国直轄地を手に入れる算段が十分です。
それらの家から我が家が債務を引き受けているところで、それを返せと強く出れば、港湾都市建設にふさわしい土地なんてたやすく手に入れられるかも知れません!
港によい入江を、地形を、選定しておかなければ。
……これは何とも運がいい。やったわ、おじ様。また一つお仕事ができたわ。
テオドラはやがて、王太子との婚約が解消される際、近習たちの実家からも掌握費の弁済を迫ることにした。
弁済と言っても、事実彼ら自身が散財し、浪費しているお金であることは明らかで、証拠もある。
請求書と、領収書だ。但し書きが書かれ、日付、金額、用途、何もかも知っている。
あの台帳、添付資料を突きつけられてそれを無視することは、貴族のメンツにかけてもできないだろう。
領土を割譲してもらい、それらはテオドラから大公殿下が即位されるときに直轄領としてお譲りできます。
おじ様への持参金の一部として。
そこに、王弟殿下とテオドラで港湾都市を造り、造船所を造り、やがて大きな船を造るのだ。
おじ様は船ができれば旅に出たいとおっしゃるかもしれないけれど、きっとその情熱を思い止まらせることはできない。
岸壁の妻に、テオドラはなります……!
……テオドラは夢見がちなごく普通の乙女なのだ。
そんなとき母上から、帝国皇帝のおじいさまのお体が、あまり思わしくないと聞いた。
テオドラ十四歳の冬。『神々の日々』が近づいていた。
おじいさまのお見舞いを兼ねて、公爵家と大公家の一家は、大掛かりな里帰りの帝国行きを敢行することになった。
幸い、馬車道は冬用のゴム樹脂の専用車輪やそりを取り付ければ、雪道の往来も可能だった。
ゴム樹脂は帝国で普及が始まっているもので、従来の木枠の車輪より格段にスムーズに馬車が走ると話題になっている。
テオドラは子爵領から先へ出るのは初めて。
おじいさまとお会いしたのは、いずれも家族の揃った夏の終わりの子爵領だったからだ。
辺境視察の名目で、いつも数日ご滞在下さった。
大公家の姫君方は、新たに双子姉妹が加わって六人になっていた。そのお世話係の侍女だけで八人必要という大移動だ。
多少やんちゃだけれどテオドラの弟たち、公爵家の三兄弟は、父上の一喝でおとなしくなる素直な子供たちだった。
つくづく軍属に向いた血筋なのだな、とテオドラは弟たちを眺めて微笑んだ。
大中小と並んで、父上に従う様子など、かわいらしくてつい、デレデレとしてしまう。
幸福の理由はほかにもあった。
おじいさまのお加減は心配だけれど、何を置いても、テオドラにはおじ様に会えるのが一番うれしい。
おじ様もこの冬を帝都の皇宮で過ごすという。
皇女殿下の嫁ぎ先の弟君、皇后陛下の祖国の王弟殿下でもある、ということで、おじ様は留学時代から皇宮で大切にされ、帝国の社交界にあっては魅力的な独身男性の一人として話題の人物なのだとか。
テオドラもこの冬、帝国の夜会において皇孫のバックリーウッド女子爵として社交界デビューすることになった。
ならば、ここでちょっと乙女心を発揮しようと勇気を振り絞った。
普段は楽さ加減が最重要で、制服以外は男装していることが多いテオドラだけれど、母上とも相談して、帝国製のドレスを数着仕立てることにする。
本国にあっては王太子の婚約者という、微妙かつ今すぐ誰にでもいいから押し付けてしまいたい立場にあったが、帝国ではおじいさまのお見舞いついでに社交界に出入りでき、女子爵として振る舞うことができるのだという。
帝国は、思えばずっと、テオドラに自由を満喫させてくれる場所だった。
夏の子爵領も。旅の行き先、帝都の皇宮もそうであるらしい。
さっそくおじ様に、エスコート役をお願いしますねという押しつけのお手紙をお送りすると、馬車列が帝都に入る一日前に、
「確かに承りました、女子爵。こちらでお針子の手配をするのでドレスのご心配はなさらず」
という、他人行儀なのか至れり尽くせりなのか判断がつきかねるお返事が届いた。
整然と街路樹が並び、ガス灯の明かりが暖かく街を照らす洗練された大通りに馬車が入ったとき、帝都には小さな綿毛のような雪が降りしきっていた。
一番小さなまだ四つの弟が、母上と一人の侍女と同乗している四人乗り馬車の中で、興奮を制御できずにしゅごいしゅごいと、騒ぎ始めた。
まだ少し、舌っ足らずの子なのだ。
心の中はテオドラとて同じだった。
本国のメインストリートなど、あれはあれで美しいと思っていた。
王宮前の通りなど、王都観光では必見だ。……でも、この帝都の街並みと来たら。
『生前』の実際に見た記憶のある、どんな街より美しい。きれいだ。
いくつもの尖塔が街中の建物にそびえ、趣向や装飾の妙を競うように並んでいる。
建物も、雪を被った街路樹も、ガス灯も、みんなみんなすごく美しい。
――――これを、王国に持ち帰ることはできないかしら……。是非そうしたい。
ガス灯、いい。どんな仕組みでガス管が通っているんだろう。
電気の発電はまだできないの。磁石からSとNは見つけられたけれど、発電研究は未だ途中で、資源やエネルギーについて模索している資源部で、やっと炭坑や油田の開発に力が入り始めたところなんです。
ガス灯、いい。ガス管がほしい。
鉄鉱石はもう輸入せずとも産出が始まっているのですけど、大量の火力が不足しているところなんです!
大きな船をいずれ造るのだもの、鉄はこれからたくさん必要なんです。
王国に産業革命がほしい!
環境には気を配るからどうか!
なんだか帝国は王国の百年も先に進んでいるみたい。
どうしよう、技術がほしい!
本国の王宮より、はるかに壮大で壮麗な帝都の中央皇宮の正門から入り、堀を抜け、森を抜け、ようやく馬車は皇族の生活区域にあたる奥宮の馬車寄せにたどり着いた。
大人たちのそこはかとない疲弊と、元気いっぱいな小さな子たちの対比が印象的だった。
テオドラと一番年の近い大公家の一の姫様は、妹君たちの元気に圧倒されておいでで、そそっとテオドラに近寄って、ウールケープから出した手で、テオドラの指を握りしめてきた。
「ドーラ姉さま、わたくしもう帰りたい……!」
弱り切って、か細い声で。少し涙目だった。
「お疲れなのねシャルロット。大丈夫よ、一晩ゆっくり休まれたらきっと元気を取り戻せます。おじいさまのお見舞いにはるばる参ったのですもの、お顔を見ずに帰ってしまうのでは今日までせっかく頑張られたのが、すべて無駄になってしまいますわ。シャルロット姫が、妹君たちをずっと見守ってこられたこと、義叔父様も叔母様もちゃんとご存知よ。ね、大丈夫、心細くていらっしゃるなら、姉さまがこうして手を握って差し上げますから。ね?」
大公家の長姉とはいえ、まだ十二歳になったばかりなのだ。
ご自分だって甘えたいだろうに、もっとお小さい姫たちがいるから、お母様やお父様の手が握れないのだ。
優しいおじ様と鬼畜極まりない婚約者との対比を見て育ち、自身も男装でいることの多いテオドラは、基本的にフェミニストだった。
女性は、ましてや自分よりも幼い子なら余計に甘やかすし、大切にする。
また、女性の敵は女性であることが多いとテオドラは知っていた。
百鬼夜行の王宮でうまくやっていこうと心を配れば、それは自然と女性陣のご機嫌の伺い方を覚えることに他ならず、なぜか自分こそが理想の貴公子と、おじ様のおいでにならない王宮で女性人気が集中してしまうのも無理からぬことと思えた。
王宮で働く高級女官や侍女たちは下級貴族の若い令嬢たちが多く、おじ様と同時期に在学していたかつての女子学生たちだったりもする。
テオドラの振る舞いにかつての王弟殿下を見ているのだ。
皆、ちやほやとテオドラを甘やかし、誕生日に贈り物をもらったり、何かの祝いやついでにとお菓子やちょっとした小物を受け取ることもある。すべてありがたく頂戴し、お返しにと簡単なメッセージを添えた礼を贈り返すことにしている。
テオドラは満足していた。結果的に自分はいい仕事をしていると自覚していた。
おじ様を思うライバルは、一人でも少ない方がよいのだから。
と、シャルロット姫を先導するように、屋内へ続いていくスロープ階段をゆっくり手を繋いで登っていると、もう先に扉をくぐり、皇宮の使用人たちに出迎えられながら旅装を解いている弟たちの向こうにいる人の姿がぎゅんとテオドラの目に飛び込んで見えた。
「ウィル兄様お久しぶりです」
長弟が礼儀正しく頭を下げた、その人。次弟もさっと兄に続いてお辞儀をする。
末弟だけは、このお兄さんは誰だろうと不思議そうに見上げ、ウィル兄様だよ、と兄たちに説明されてもきょとんとしたままだ。
――――おじ様。
テオドラは混乱した。しばし、呼吸が止まった。思考も続かない。
目にしているものが信じられない。どうして、あの子たちみんな平気なの。
その姿が、テオドラが鏡を見るたびに思い出すお顔やお姿とはもうずいぶん違うことに、テオドラは戸惑った。
本当は駆け寄って抱き着いて、お会いしたかったとすねてみせて甘えたいところなのに。
今はシャルロット姫と繋いでいる手を放すことはできないし、それをおいても、まるで知らない人のように大人びて美しい貴公子には、そう簡単に接近できない。
お話しできない。
――――テオドラは動揺した。何これ、知らない、こんな気持ち。どうしよう。
毒虫として忌避したい婚約者やその近習たちにさえ、感情は排して慇懃に接することができる、テオドラはそういう少女だった。
大人の男性にだって慣れている。貴族院や王宮は、大人の男性であふれかえっている。
そんな場所で日々を過ごしている。彼らにも敬信して接している。
そのうえ自身が男装の方を好むという、テオドラはそういう少女だった。
なのに、だめだ。……あんなおじ様はだめだ。
お話したら、きっと息が止まってしまう。心臓も止まってしまう。きっとテオドラは死んでしまう。
指先の震えは、シャルロット姫にも伝わってしまっているだろう。不安や緊張は伝わるものだ。
テオドラは思春期の少女だった。情緒不安定になりがちだと、頭ではわかっているのだ。
一年と約五ヵ月ぶりのおじ様が、あんなに大人におなりでなければ……。
社交界デビューのエスコート役をお願いします、なんて、冗談じゃない。
どうしてあんなに軽はずみなお願いを浮かれてしてしまったのだろう。
あんなおじ様とは手を繋げない。腕を組めない。目を合わせれば、きっとテオドラは死んでしまう。
テオドラはそんな感情を持て余した。
理解はできた。こ
れは恋だとテオドラは知っていた。
もうこれまでのように気軽に、デジレ王太子との婚約はすみやかに解消しておじ様のお嫁さんになろう、だなんて機嫌よく自分に都合よく脳天気に考えられない。
これが恋だと、テオドラは知っていた。