起~2
初対面の王太子とその両親である国王夫妻の前で、少し前にマナー教師に素敵ですよと褒められた幼女らしい淑女の礼を披露したところから、婚約者の様子はおかしかった。
両腕をぶらぶらさせ、両脚で地団駄を踏むようにし、側に控えた侍従に向かって
「あんなみすぼらしい女がきさきになるのか! おれはいやだ! おいかえせ!」
と、突然わめきだし、かかとの堅い少し重い靴を履いていたテオドラを突き飛ばすという狼藉を働いた。
彼の価値観では、国王と王妃譲りの金髪こそが至上であり、その他はすべてみすぼらしいのだと、侍従は慌てて突き倒されたテオドラを抱き起し、介抱しながら、慣れた様子でひっそりと説明した。
また、緑色の瞳にこそ価値があり、青なんて問題外だ、ということらしい。
まさか、自分の容姿、『建国の色』から全否定されるとは思ってもみなかったテオドラは、乱暴を働かれてかえって、ほっとした。
そのあとの昼食会でも、彼は見事な好き嫌いを発揮し、甘いお菓子ばかりを給仕させた。そして、
「ほしアンズのはいったやわらかいケーキがたべたい!」
とわがままを言い出し、今日はご用意がありませんと諫めた侍従に向かって、ブドウジュースのなみなみと入ったグラスを投げつけた。
二つ以上年下のテオドラが、慎重にゆっくりカトラリーを使いながら、出されたものをすべておいしくいただいている前で、もう六歳になった子がだ。
歯はちゃんと磨いておいでなのかしら。
虫歯だらけの王子様なんて、頼まれても近寄りたくない存在だ。
それに、ケーキを手づかみで……躾の行届いていない子、と父上はおっしゃっていた。
なるほど。
帰りの馬車では、父上がいつもあのようなありさまなのだと嘆いて、なんてお行儀の悪い方なのかしらと憤慨する母上を慰めていた。
娘の躾に厳しい母上は二人目の子供を妊娠中であり、臨月も近いというのに、お体や胎教に悪いのではと思われるほど激しく憤った。
教育熱心な母上なので、自分の子の奔放どころか乱暴で横暴な振る舞いを注意し諫めることもせずに、自分たちの食事に夢中だった、彼の両親にも怒りが収まらない。
ホルモンの影響だ、とテオドラは思った。
母上の母性は、今いつも以上に増大しているのだ。そして本能レベルでいつか自分の子供たちに、家族に、今日以上の害をなすに違いない親子を、自分の持つ私怨以上に憎んだらしい。
そして哀れなテオドラのために流した涙が止まらない。
……ホルモンの影響だ。
そして、いきおい父上と母上は娘の前で互いに愛を確認し始める。
「本当によかったと思っているのわたくし! あんな方に嫁ぐような間違いが起きなくて、本当によかったわ! 愛していますジラルド、ええ、心の底からよ! あなたの妻になれて、わたくし幸せよ、ジラルド様、いとしい人……」
母上は、おなかを少し庇うようにしながら、父上に縋り付いてなお泣いている。
「ああ、私もだよ、私だけの皇女様。いとしいイザベル、私の君、愛しているよ」
「大好きよジラルド! でもわたくしたちの大切な娘が、ああ、わたくしのドーラが! あんな愚かな子にいずれ嫁がねばならないなんて……!」
……ホルモンのせいだ、とテオドラは知っている。
確か、そう、エストロゲン。エストロゲンのせいで、母性は時に情緒を著しく不安定にさせる。
母上が『帝国』から持参金の女公領を引っ提げて叔母様と一緒に降嫁してくる際、もともとの婚約者が今の国王様だったという過去も、テオドラは大人たちの話を聞いて知っていた。
それが、王妃様の登場によってある夜会で破談になったのだという。
母上はこれ幸いと、兄の友人であり帝国に留学していたこともあるひそかな思い人、父上ジラルドとの婚姻を望んだという。
でも大勢の前での茶番劇に自分を巻き込んだ国王夫妻のことは、盛大に嫌悪した。
父上も、王妃となるはずだった皇女様、友人の妹である可憐で気高い母上が、国王のわがまま勝手によって行き場を失うことを嘆いた。
が、嘆いている暇は実はほとんどなかったらしい。
破談になった翌朝にはもともとの皇女様方の滞在先だったヒンクシー公爵家の屋敷の前庭で、母上にお嫁にしてくださいとねだられ、これも隣り合った女公領を持参金に、こちらは無事にジョージ王弟大公殿下と婚姻の運びとなった妹皇女、叔母様に
『お姉様がこちらへ残られないなら、わたくしも帝国へ帰ります』
と、半ば脅迫されたためだった。
仲のいい皇女姉妹はまさに一心同体、不退転の決意でいる。
そして、騒ぎを聞いて駆けつけた、幼い弟王子を抱きかかえた叔母王太后と兄王子、大公殿下。
思い浮かべる友人、『帝国』皇太子の顔。
当時公爵のお祖父様と公爵夫人のお祖母様は、それ以上の混乱を恐れて窓からじっと父上を見つめていたという。
皇女姉妹の母皇后陛下は、お祖母様の従姉姫に当たる、この国から嫁いだ王女様だった。
男子を二人しか授からなかった公爵夫妻は、皇女姉妹を我が娘と思いかわいがっている。
父上は覚悟を決めたのだそうだ。この人たちすべてを敵には回せない。そして、その場でさっと跪いて、騎士の誓いの姿勢を取り、誓ったらしい。
「皇女殿下は全身全霊をかけて、このジラルドが、世界中の誰よりも幸せにしてみせます」
とか。とんだラブストーリーだ。母上の寄り切り? 押し倒し? あるいは一本背負い? そんな感じのなれそめだったという。
ほとんどは、お休み前の父上の独り言で聞いた。父上はおとなしいテオドラを、まるで訴え仏か何かのように思っているらしい。
テオドラに言葉を吐き出すと、幾分はすっきりした顔になる。
父上はいつもたいていお疲れだ。
実際、国王様と王妃様のドタバタシンデレラ絵巻がなければ、あの乱暴者の王太子もテオドラもこの世に生まれることはなく、国内の様子も今とは異なったのだろう。
テオドラがウィル殿下と出会うこともなかった。
すべて、まるで物語のようだが、あるべき結末へ向かって収束していくのではなく、無限の可能性をもって拡がっていく宇宙の神秘をテオドラは感じた。
未来はいつだって予想を覆す、無限の可能性を秘めている。
婚約者の王太子が、テオドラの予想をはるかに超えた無能の乱暴者であったことも好材料だった。
この先も、彼と相容れること、胸襟を開いて心を通わせることなどないだろう。
突き飛ばされてほっとしたのは、テオドラが被虐趣味の持ち主だからではない。
あれは排除してよいものと、身をもって認識できたためだ。
彼には、為政者となりうる将来性など、みじんもない。
あれが国王となった日は、この国が滅びる日だ。
テオドラは、国土や風土を愛する、ごく普通の愛国心と国への帰属意識を持ち合わせた幼女だった。
そして、ある決意を胸に、しかと抱き合う仲のいい両親を見つめてニコニコと告げた。
「父上、父上のおしごとはいつもたいへんそうですね。あんなおうさまやおきさきさまのおせわばかりなんて、父上がおかわいそう! ぜひ、テオドラにおてつだいさせてください。わたくし、父上のおしごとを、おそばでおぼえておてつだいしたいわ。父上のおしごとを、テオドラにおしえてください! 父上のおしごとを、テオドラはみてみたいのです」
母上の降嫁によって若くして爵位を継いだ父上。
もともと騎士団属で脳筋族の父上は、公爵領、さらに帝国に持つことになった女公領の領地経営、貴族院議会に枢密院議会議員補としての仕事、王国騎士団の副総裁という名誉職などの門外漢の仕事に苦心して取り組んでいる。
父上のお仕事が多岐にわたって面倒で、常に人材不足にあえいでいるのをテオドラは知っていた。
国王と王妃の警護などすでに日常業務には含まれないが、日々彼らに倦んでいる父上には効果があったらしい。
テオドラは翌日、会期中の貴族院の議場に連れて行ってもらえた。
それから、用意された小さな赤い椅子に座って、議会を傍聴するのが、テオドラの午後の日課になった。
会期中は休会日の毎週二日を除き、常に父上の傍らで過ごす日々である。
午前中は枢密院議会に連れて行かれることもある。
母上の出産の前後で、テオドラが父上にべったりでも誰も不思議に思わなかったらしい。
父上はテオドラを哀れにも大切にも思っていて、ほんの少し親馬鹿でもあった。
どうだ、うちの子はかわいいだろう、こんなに幼いのに美しいだろうと同僚議員への自慢が止まらない。
そうですか? それほどでもないはずです。父上にそっくりで、そっちの方に皆さまびっくりされてますよ?
四歳の誕生会を開いてもらった夜には、積年の疑問を解決することができた。
お祝いにと、プレゼントのオルゴールとともにやってきた王弟殿下によってである。
相変わらず、二つ並んでぽっかりと夜空を支配する、白と青の二つの月を開かれたカーテンの向こうに見上げて、テオドラは傍らに横たわる、うとうととすでに眠たげな王子様に訊ねた。
「ウィルお兄さま、どうしてお日さまはひとつで、お月さまはふたつなの?」
夜会などが公爵邸や大公家の離宮などで開かれ遅くなった夜、まだ八歳の王弟殿下とテオドラはよく一つの寝台で休んだ。
大公家には前年に一人目の姫君が、今年の初めに二人目の姫君がお生まれで、家内の使用人の体制が少し手薄だったのだ。手のかからない二人は、二人セットで扱われることが多い。
両親の隣の寝室は、生まれたばかりの弟の部屋になり、テオドラには三つの続き部屋とバスルームが与えられた。
寝室はその一つであり、大きな寝台は子供が二人並んで寝ても、そうそう転げ落ちたりしないものだった。
テオドラは齢四つにしていっぱしの淑女であり、すでに自覚ある肉食系女児だったが、王弟殿下には無防備にも健全な妹扱いしかされていない。
「んー? うん、それはね、ドーラ……」
眠そうにしながらも、王弟殿下は世界の創世神話に描かれたお話をしてくれた。
「昼間はお日様がおひとりであらゆる国々の民や動物や植物を守るんだ。天帝にいつもお祈りしているだろう? お日様が天帝でいらっしゃるんだよ。お日様は天を統べる神々の中で一番尊い神様なんだ。そして、天帝がお休みの間、兄妹神である白月様と青月様が、暗い夜の空から世界が眠りにつくのを見守ってくださっているんだよ。ドーラのおめめは、今、青月様の色をしているよ。二つのお月さまが瞳に映って、とってもきれいだよ」
「お兄さまのおめめも、とってもきれいよ。お月さまがぜんぶで四つあるわ」
ふふ、と王弟殿下は小さく笑う。そして、あくびを一つ。
「じゃあ、今お前のおめめがどうなっているのか、自分では見えなくても僕の目を見れば、よーくわかるだろ? 僕とお前は同じ色の瞳をしているんだもの。ドーラは神話に興味がある? ……そう? じゃあ、神様たちのお話のたくさん詰まったご本を、次の誕生日に贈ろうね……それまでは、僕がお話をするようにしようか……兄上に頂いたのが僕のところにもあるから……ねえ、ドーラはまだ貴族院に行っているんだって? ジラルド兄上のお手伝いなんて……無理はいけないよ……僕が心配するしね……ドーラはまだ小さいんだもの……」
最後はまどろみながら、次第に目を閉じていく無防備な人を見ながら、テオドラもまた、その夜はひときわ安心して眠りについた。
――――そうか、そういう世界観の『世界』だったのね。
天帝に感謝しますというお祈りは、太陽信仰の一環だったのね。
二つのお月様もここでは神様なのね。『神々の日々』っていうものね。
天帝の剣と盾がそうなのね。兄妹神の二つの月。
……多神教の社会って、なんだか心やすらぐわ……。
『生前』の記憶はテオドラに鮮やかなままだ。
ところでこの国には法の抜け道が多すぎる。あるいは法外、とか慣例、といった明文化されていない決まりが多過ぎる。
なんとも穴だらけの、危なっかしい国家なのだ。国民を守るためには、未来が幸せであるためには、まず抜かりない法整備が必要よね、と夢の中でもテオドラはうろうろと考える。
絶対王政の国じゃなくてよかった。
枢密院の仕事は貴重だと現場で見てそう思った。
ものの見事に国王様とその王妃様のわがままを押さえつけている……。
法整備の重要性をもっと貴族院で討議するべきだわ……。せっかく高等法院や下級法院という機関があるのだから、法官も、行政府でも、もっと上手な仕事ができるはずなのよ……。
それにしても、大叔母様の慧眼は素晴らしい。
主権を枢密院に移されているのは、ただ事じゃない。
……ウィルお兄さまのお母様は、本当に聡明な才媛でいらっしゃったんだわ。
後宮の第一王子とはいえ、今の国王様が国王となられるのを、それほど不安視なさっていたのね……。
――――大叔母様のお気持ちが、テオドラにはよくわかる。
この世界で、実現可能な、理想的な王政の国家運営。
主権は今枢密院にある。
在民主権というのはまだ危ういわ。国民に恐らく知識階層が少ない。
教育の水準を引き上げていく必要がある。
識字率を上げていき、貴族社会だけの嗜みである文学などの文字文化が庶民の間にも行き渡るようにして……。
やがて新聞などの刊行物文化を国中の誰もが楽しめる時代の到来を待とう。
それから、地方の人口増も急務だわ。王都に人が集まりすぎている。
医師の育成より、生活改善が急務か。衛生面の知識向上が先か。
都市基盤の整備はそのあと? 並行してやっていけるかしら?
少しずつなら、テオドラにもお手伝いができそう。父上の悩みも少しは減る。
あの男ぶりに髪が薄くなったら悲劇だもの……。
ストレス要因を、少しずつ取り除いていくようにすればいいんだわ……。
父上のストレス、テオドラ自身のストレス、国民の、国の、王弟殿下のストレス要因。
全部を少しづつ……きっと成し遂げるとテオドラは夢うつつに誓う。
『腹案』はすでにいくつかあった。
きりが悪いので文章量少な目で投稿しました。
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