起~1
読んでくださる方がいる! とわかって、ちょっとだけ手が震えてしまいました。
自分が、たいそう短慮で浅慮で癇癪持ちの激情家らしいとテオドラが知ったのは、ある明るい夜半のことだった。
寝室のカーテンが不用心にもほんのわずか開いていた。あるいは月の明るい夜だからと、侍女が気を利かせた結果かもしれなかった。
まぶしさにふと目が覚めて、まず呆然とした。
――――月が、二つある……⁉
いつもは閉ざされている、カーテンの隙間から二つの月が覗いている。
テオドラは、ベッドの中からそれを認めて仰天した。
ここはどこ、今は夜、さっきまで眠っていた。自分はみんなからドーラ、あるいは姫様、と呼ばれる娘。私の名はテオドラ。……そしてここは、私の常識が通じる世界じゃない……⁉
異境だ、と知って、その夜、生後半年のテオドラは初めての夜泣きをした。隣の両親の寝室から慌てて母上が、別の続き部屋から乳母のジェラルディン夫人がやってきて交互に抱かれ、なだめられたが、知ってしまったからには、その事実におびえて震え、大泣きするしか心境を伝える方法がなかった。
月が、二つある。
ここは、私の知っている世界じゃない、と。
もう、ただ柔らかなものに包まれて、暖かな腕に抱かれて、微笑んだりすねたりするばかりではいられない。
だって、ここは、夜に月が二つ輝く世界なのだ。
もしくは自分の目がおかしいのかも。大きさと、色の違う月。
大きいのと小さいの、白と青の、二つに見える月。二つある月。
言葉が通じないのは知っていた。
聞き取れるが、自分からはおしゃべりできない。
テオドラがいまだ乳児であることも。生きるために、母上かハートリー男爵夫人ジェラルディンのお乳が必要であることも知っていた。時々夫人の子である少し月齢が上のマイヤが髪を引っ張るのも、テオドラがお邪魔なせいだと理解していた。
注意深く、自分を取り巻く人の顔を見分け、自分をあやすのが主に母上と乳母のジェラルディン夫人であることを知り、時にはお祖父様やお祖母様、父上や、家令や、執事長、侍女たちであることを知った。
時々訪れる母上の妹である叔母様、大公殿下と呼ばれるその夫。ウィル殿下、王子様と呼ばれるその弟。
まだ幼稚園児ほどの小さな男の子の差し出す小さな指が、一番ぎゅっと握りやすくて、特にお気に入りだった。
マイヤには申し訳なさと多少の困惑を感じている。本来なら彼女のママのお乳は彼女だけのものであるべきだったから。
――――異境。
思えばそうだったのだ。なぜ気づかなかったのか。
母上イザベルと叔母様マルゴが姉妹なのはわかる。
他国から二人は嫁いできた。みんな『帝国』というけれど、きっとフランス語圏の人なんだと思っていた。
けれど母上の子守歌に、ジュとかモワとかトワとかいう歌詞はないな、とか。言葉はみんな日本語みたいに聞こえる。
日本語としてテオドラは人々の言葉を理解していた。
義叔父様がジョージで、そのそっくりな幼児版みたいな子である弟王子様がなぜウィルヘルムなのか、とか。
名付けが何か間違っている。変なの、と思いはした。
そこはウィリアムでしょうが。あるいは義叔父様がゲオルグであるべきでしょうが。
テオドラはわからなくなった。
ここはドイツ語圏なのか、英語圏なのか。英語なら話し言葉が通じるはずだからドイツ語圏に違いない。
大公殿下の名前が間違っていると結論した。
そして自身の名前。以前習った世界史に、踊り子から皇妃になった人物として登場した名だ。
ビザンツ帝国、ニカの反乱、ユスティニアヌス帝の皇妃と同じ名前。有名人だ。
……おかしくはないが、ジラルド卿に嫁いだイザベル姫の『姫様』にテオドラと名付けるのも、センスがないかな、と思った。
シンデレラストーリーの先駆け、玉の輿の代名詞。でも、東方教会の聖人の名前ではある。
テオドラはドイツ語圏に生まれた人間らしい。王子様の婚約者らしい。いずれお妃様になるらしい。
お気に入りの指を持つあのかわいい男の子のことだ。それは悪くない。なんといっても王子様だし。
今は公爵家のお姫様らしい。母上は元皇女様らしい。
テオドラも悪くないけど、ちょっとだけ名前につきまとうイメージが悪い。
もっと一般的に、ハイディとか。クララとか。カタリーナとかテレーゼとか。
普通のドイツっぽい名前でよかったのに。
一人だけなんとなく違う文化圏にいるみたいで落ち着かない。
いやいや、ドイツ人にだってオーストリア人にだってテオドラはいっぱいいるはず。
スラブ系の家系なのだ、きっと。東方教会を信仰しているんだ、きっと。
テオドラが赤ちゃんでまだ知らないだけ。
ドイツ人の名前とか、キリスト教徒の名付けとか本当はあまりよく知らないだけ!
生まれてすぐの洗礼とか、赤ちゃん過ぎて覚えていないだけ!
ぼんやりと、ゆりかごから揺れる小鳥のモビールを見上げながら納得していた。
テオドラは物分かりのいい、冷静な赤ちゃんだからだ。
家令がタンクレディ、執事長がコンサルヴォ、きっと南イタリアの出身なのだ。国際色豊かな家庭なのだ。
確かに、父上とその従弟であるという大公殿下と王弟殿下、婚約者の王子様は黒髪に青い目で、母上と叔母様は金髪にヘーゼルの瞳。
タンクレディは見たこともないような銀髪に紫の瞳だが、コンサルヴォは栗色の髪と同じ色の瞳で、地中海沿岸育ちに見えなくもない。
ナポリかシチリアからやってきたのだ。こっそりレモンをまるかじりして、ひっそり故郷を思い出したりするに違いない。
テオドラは想像力だって豊かな赤ちゃんなのだ。
だから、みんなの話す言葉がやっぱり日本語だと認識した頃から、『生前』を夢に見たりしていた。
『生前』の日本を懐かしんで、しばしば不機嫌になって、母上やジェラルディン夫人や、時には父上やタンクレディやコンサルヴォに迷惑をかけた。
――――日本がよかった。生まれ変わっても日本人がよかった。
環境になかなかなじめなくてごめんなさいと、早く伝えられればいいのに、と思っていた。
ところで、未だに王政のドイツ語圏……しかも日本語が通じるらしい国ってどこ?
貴族制度の残っている国って? フランス語圏の『帝国』って?
それともここは日本なの? 知らない間に日本では華族制度が復活したの? 王政の国になってしまったの?
外国人みたいな名前はキラキラネーム? 移民制度はそこまで進んでしまったの?
――――数多い疑問が一気に解決した。
異境なのだ。異世界みたいなのだ。ここは地球じゃないみたいなのだ。だから文化圏がなぜかいろいろ迷子になっているみたいなのだ。まるでファンタジーの世界なのだ。
そう頭でつぶやき、自分に言い聞かせるようにすると、すべてのことが腑に落ちた。
ここでは、テオドラの持っている『私の常識』が通じない。
いずれお妃さまになる公爵令嬢が娼婦の名前なのも、ジョージの弟がウィルヘルムなのも、タンクレディがタンクレディにしては解せない容姿なのも、何もかもここが異境だからだ。
異世界だからだ。
『あなたの知らない世界』という、古いホラー番組のタイトルをテオドラは思い出した。
まだ、母上と乳母のお乳しか口にしていないから気づかなかった。夜は分厚いカーテンで閉じられていたから気づかなかった。無知ゆえに、大泣きした挙句、ひきつけを起こしかけた。
……もうテオドラは、知らないままではいられない。疑問を疑問のままにしてなど、いられなかった。
お乳を飲む量が少しずつ減り、ミルクがゆやすりつぶしたニンジンやホウレン草やジャガイモが与えられるようになった。
ニンジンはニンジンであり、ジャガイモはジャガイモだった。これらはテオドラの知る常識の範囲内だった。
次にテオドラは、家にやってくる来客に注意を払った。
母上の妹の叔母様とその夫、大公殿下、妃殿下夫妻。婚約者の王子様。
相変わらず大好きな彼の指。
父におもねるように挨拶し、おかわいらしい姫様ですねとテオドラのご機嫌までうかがう、侯爵や伯爵や年若い子爵。ジェラルディン夫人の夫、ハートリー男爵。
そしてその頃はまだ準男爵のほかに騎士爵という爵位が存在していた。
騎士団で勲功を上げた際に賜わる一代限りの爵位らしい。
身分制度も、テオドラの常識の範囲内だった。
国王様がいて、王妃様がいて。王子様がいて。
公爵を上位、騎士爵を下級とする貴族制度があって。
庶民はその下。王都市民と他領からのには移住者には区別がある。
乳歯が生えそろい、固形の食べ物を与えられ、果汁のジュースをごくごく飲むようになった頃、それを理解した。果汁はリンゴやオレンジであり、リンゴやオレンジはテオドラの常識の範囲内のリンゴやオレンジだった。
そして、四季がある。テオドラは春生まれ。
今は夏。テオドラは薄物の衣類を着ている。屋敷のある王都の夏は暑い。
まもなく秋がやってきて、冬になれば雪が降る。
十二か月、ひと月は三十日。
十二月と一月の間にどの月にも属さない『神々の日々』と呼ばれる数日間の安息日がある。
その間は国も個人でも盛大な夜会などを開くことはせず、ただ穏やかに天帝に祈り、家族や親しい友人と過ごす。
それがそのまま冬の休暇になる。
父上は国王様がお嫌いらしいということは、抱っこされて聞かされる、彼の独り言で知った。
たいていそれはテオドラが眠る前で、母上がお風呂に入っている時だった。ジェラルディン夫人は隣室で、先にマイヤを寝かしつけている。
「お仕事をな、なさらない方なのだよ。お前の持参金を、今日も贅沢で食いつぶしている。今日はな、劇団を奥へ呼び寄せてな、その際の警備計画の立案と実行が父上の仕事だったのだ。第一騎士団が総出で劇団員の動きに目を光らせたのだぞ。馬鹿々々しいにもほどがあるだろう?」
この夜もテオドラの父上は、テオドラに仕事の愚痴を簡単にこぼす。そして、こんなことをかわいい娘に聞かせるなんてとひとしきり反省しては、また独り言のように語った。
「あんな乱暴な王子と婚約させてしまってすまない、すまないドーラ、父上を許しておくれ。あんなにひどい方だとは思わなかったのだ……父上を許しておくれ、ドーラ」
と。
うん? テオドラの婚約者はテオドラにとっても優しいですけれど?
昨日も大好きなお指を乳歯でかんでも怒らなかったし、抱っこしていい子いい子してくれましたけど。ずっとお膝の上でお見合いでお話をしてくれましたけど。乱暴な子だなんて、失礼ですよ、父上。
テオドラは自分の言葉で、とんでもないと父をなじった。
「王弟殿下がお相手ならよかった。お前は殿下が大好きでいらっしゃるものな。いつもいい子で抱かれて、嬉しそうに笑って」
そして、父上はだが……と続けた。
「あの王太子殿下ではだめだ。躾が行き届いていない、乱暴な子だ。父親にも母親にもそっくりな、今にとんでもない浪費家にお育ちになるだろう。それにきっと女好きだ。父親と同じ、女で身を滅ぼす性質の男だ。すまないな、ドーラ。すべて父上のせいだ。お前も大好きなウィル殿下になら、今すぐにでも喜んでお嫁さんに出してやるのになぁ。……あー、いやいや、それもだめだ結婚なんてとんでもない、だめだだめだ」
ちょっと待って父上、自分がやがて嫁ぐ王子様とは、よく知っている昨日も遊んでくれた大好きなかわいい王子様じゃないということ?
みんなにウィル殿下とか、ウィルヘルム王子様とか王弟殿下とか呼ばれている、あの王子様じゃないということ?
なんてこと、王太子殿下という名の王子様がもう一人いるということ?
王弟殿下はあくまでも王弟、なのであって、婚約者の王子は別にいるということ?
なんてこと! そのうえ、浪費家で女好きと将来が父上の目で見てすでにそう予想される『お育ち』で、躾の行き届いていない、乱暴な子?
テオドラは愕然とした。
てっきりあのかわいい王子様のお嫁さんに、いずれ自分がなるのだと思っていた。
そうか、自分は単なる王子様のお妃になるのではなく、王太子のお妃になるのか、王太子妃になるのか、とテオドラは理解した。
それは、漠然とした不安でもあり、絶望的な未来だった。
「およめしゃん、やー」
「そうかそうか、お嫁さんになるのはいやか? うん? ドーラはまだまだ、ずーっと父上のかわいい子でいたいのか」
奇しくも、父上に初めて通じた言葉がそれだった。浪費家の女好きの乱暴者が、将来の夫だなんていやすぎる。
「おうじしゃま、やー」
「そうかそうか、王子様のお嫁さんはいやか。でも義叔父様のところのウィル殿下はお好きだろう? 王弟殿下も少し前までは王子様だったのだぞ」
「でんた。でんた、しゅち」
王弟殿下? テオドラの王子様ならだいしゅちでしゅ! ……あれ? しかし初めて、父上とテオドラの間でちゃんと意思の伝わる会話が成立している。
「そうか。殿下はお好きでいらっしゃるか。ドーラはおしゃべりが上手になったなあ」
でしょう?
齢一歳と四カ月のテオドラは誇らかに父上を見上げた。
テオドラは物心ついてからたくさんお話がしたかったのだ。
今までいまいち上手に伝わらなかっただけで。言葉なら『生前』の記憶とともにたくさんあったのだ。
王子様だった王弟殿下と、婚約者の王太子殿下の区別がつかないという勘違いは犯してしまったものの、これで、自分が将来すべきことが分かった。
政略結婚なんてまっぴら。女好きで乱暴な夫、不幸な結婚生活しか想像できない。
それがしかも王太子妃として、ですって?
そんなのなりたい人がいくらだって出てくるに違いない。
テオドラじゃない他の誰かでも、きっと王太子と結婚したい女の子なら、いくらだっている。
それこそ女好きになりそうな人なら、勝手に恋人だの愛人だの愛妾だのを、ぞろぞろ連れてくるに違いない。
きっとそういう将来がやってくるのだ、そんなのいやだ。
乱暴な王太子とは結婚しない。優しくてかわいい王弟殿下のお嫁さんになる。
父上の従弟君なら、お嫁入りもできるはずだ。
ジェラルディン夫人は従兄にあたるハートリー男爵と結婚した。
そしてマイヤも生まれたのだと、大人たちの話を聞いて、テオドラは知っていた。
テオドラより少し先に産まれていたマイヤの上には十歳の双子の男の子がいて、お乳の出もよいので、隣国から降嫁された皇女殿下の慣れない子育ての乳母役にぴったりだと、所縁あるロンズデール伯爵家から紹介されて、その頃は遊び盛りの双子共々、ハートリー男爵も公爵家の敷地内で暮らしていた。
十歳の双子の兄弟は分別があるらしく、自分の妹は抱っこしてかわいがるが、公女様にはおいそれと近づかない。
マイヤを抱く男爵家の双子の様子を真似て、ウィルヘルム王弟殿下が父性を発揮しているらしい。
遊びにやってきては抱っこしてくれて、放さないでいてくれるのがずっと嬉しかった。
たどたどしい話し方だが、いろいろなお話をしてくれるのが嬉しかった。
前の国王であるお父様が生まれてすぐに亡くなったので、お父様のお顔は肖像画でしか知らないこと。
年の離れたお母様の違うお兄様が今の国王様であること。
お母様の王太后陛下もテオドラの生まれてくる一年ほど前に亡くなったこと。
お母様のお顔も、毎日肖像画を眺めなければすぐに忘れてしまいそうなこと。
自分を呼ぶ声も、忘れないように毎日頭の中で思い出したり、絵に話しかけたりしていること。
髪と瞳の色、それはお母様から受け継いだもので、歳の離れたお姉様たちやお兄様の大公殿下とお揃いであること。それはテオドラの父上もテオドラも同じであること。
テオドラは、自分の容姿が黒髪であることは知っていたが、瞳の色は知らなかった。
幼児であるテオドラは、割れると危険な鏡から徹底して遠ざけられていたのだなと理解する。
窓枠には純度が高く透明なガラスがはまっているけれど、窓に映る自分の顔から瞳の色まで知ることはできなかったのだ。
これは大切な情報だと心に刻んだ。
――――ジェラルディン夫人が、建国神話を読み聞かせてくれることがある。
建国王とそのお妃様は黒髪に明け方の空の色の瞳をお持ちだったらしい。
大公殿下や王弟殿下が、本来は次の国王となられるにふさわしいのですよ、といつも悲しそうに話を終わらせる。
お仕事をなさらない国王様と王妃様のせいで、彼女の夫、ハートリー男爵も大変な迷惑をこうむっているそうだ。貴族社会は苦労の連続だそうだ。
王弟殿下のお話は続く。
――――テオドラの父上をお父様のように思っていること。自分のいたずらを本気で叱ってくれる大人は貴重で大切らしい。
お兄様には甘やかされがちだけれど、お兄様にはさせたいようにしているんだと笑っていた。
ヒンクシー家からお嫁に出たお母様だから、この家がお母様の実家にあたり、いつでも遊びに来られること。
今はお兄様の大公殿下と、テオドラの叔母様である妃殿下とご一緒の離宮にお住まいなこと。そこは馬車でほんのわずかな距離のご近所であること。
お母様のお顔を、テオドラを見ると簡単には忘れられないと気づいたということ。ドーラは自分の妹のようでかわいいよ、とぎゅっと抱きしめられた。
お父様もお母様もいないけれど、お兄様とお義姉様が優しくしてくれるし、テオドラの父上が叱ってくれるし、テオドラにお母様の面影を見出せる自分はちゃんと大人になれるだろうと、幼いながらに自己分析ができていること。
――――テオドラは決めた。やっぱり、自分はこの王子様のお嫁さんになろう。
生後、一歳と半年ほどで、今後の人生の指針をテオドラは定めた。
乱暴者の王太子とは、できるだけすみやかに穏便に婚約を解消すること。
大好きな王弟殿下のお嫁さんになること。
その二つを両立するのは大変な一大事業だとテオドラは幼心に考えた。
けれど、何事もコツコツ積み重ねて慎重に歩んでいけば、そうおいそれと失敗することは少ないという、テオドラの常識はたぶんここでも通用するはずだ。
急いては事を仕損じる。石橋をたたいて渡る。同じ言い回しの慣用句がこの国にもあることを、大人たちの会話から聞き取っていたせいもある。
子供向けの絵本や母上の読む婦人向け読本の文字がやっぱり日本語に見える不思議もあった。
漢字やカタカナやひらがながあふれている。時にはアルファベットだって並んでいる。
この異境の言語は日本語なんだ、異世界なのに、と思いながら、だったら今のうちからすべてをコツコツ積み上げていきましょうとテオドラは思考を深くする。
味方をたくさん作ろう。
いい子でいよう。
ひとかどの人間になろう。
……でもテオドラの思いだけじゃだめだわ。
王弟殿下に他に大好きな人ができるのは困るし、ずっと妹のようと思われているのもいけないし、王太子側から昵懇だと思われるのも困るのだわ。
王弟殿下に有用な女であると思わせ、王太子にはそう思わせない。
自分の人生に不要の人間と思わせる必要がある。
あるいは、そこに愛ないの政略に過ぎない婚約者だと思わせる必要が、ある。
そして、その素行には口を挟まない。
きっと王太子は自分にふさわしい女の子を選ぶ。自分で選んで連れてくる。
テオドラの持参金を着々と食いつぶしているという、国王様と王妃様も、国に不要な存在だ。
仕事をしない為政者ならば一緒に消えてもらえばいい。
国王に一番ふさわしい方が国王であるべきだ。
ジェラルディン夫人も言っていた。それは大公殿下や王弟殿下だ。
彼らを支えられるように精進するのが、彼らのお母様の実家の娘、公爵令嬢であるテオドラの役目だと考えた。
テオドラより二歳年上、まだ幼い王太子がある日突然改心して、全くの善人になる可能性についても考えた。
善良な王太子であれば、それは王位の第一位継承権者なのだから、善良な王として現王に有事の際には即位継承してしまう。
善人で、テオドラに対して全く害のない、優しい婚約者であれば排除の理由はなくなる。両親を諫めるほどの強い心を持った、善良な人になったら……。
それはそれで困るわ、と悩みを深くしていたテオドラに一つのきっかけが訪れたのは、春生まれのテオドラが、まもなく四つになろうかというほんの少し前の、寒い日のことだった。
雪が降る朝、屋敷を出て馬車で王都の街路を駆った。
王宮で、初めて婚約者との対面が適った日だ。
……テオドラは確信した。
自分の悩みなど、ただの杞憂にすぎなかったのだ、ということを。