結
「ヒンクシー公爵令嬢、テオドラ。そなたとの婚約を今まさにこの瞬間をもって破棄し、王太子デジレはこのマリアンヌを新しく婚約者と定める」
長らく、馬鹿だ馬鹿だと常々馬鹿にしていた、すでに婚約者であった事実もなくなった男から、ほぼ想像通りの言葉を告げられて、公爵令嬢テオドラ・ヒンクシーは瞑目し、さっと口元を扇で覆い隠した。
……なあに、この絶妙な間、溜め、タイミング。芸がないったら。もう少し工夫をいただきたかったわ。テオドラの腹の底から笑いがこみ上げてくる。
さっき食べた昼食を、吐き戻してしまいそうだ。乙女として、そんな悲惨な事態はやり過ごさなければならない。
「テオドラ、そなたのマリアンヌへの許しがたい暴言、暴虐の数々、このデジレが王族の名をもって罰する。覚悟しておけ! 衛兵はテオドラを捕えよ」
惜しい! 覚悟をするのはそっち。――――さらに衛兵は動かない。
「どうした! ヒンクシー家の傀儡が! 直ちに衛兵はテオドラを捕えよ!」
学院の警備を担う陸軍属の警備隊衛兵がヒンクシー公爵旗下なのは、この国の貴族なら当たり前に誰でもが常識としている事実なのだが、それを傀儡とは呼ばないだろう。いや、それともそう呼んで差し支えないのか……。
ざわざわと騒々しかったお昼時の学院のカフェテリアは、デジレとその五名の近習、新たな婚約者と呼ばれる少女――マリアンヌとかいう――を伴う一団によって制圧されたかのように、静まり返っていた。
上級生に遠慮して、日当りのいいテラスではなく中ほどに近いテーブルで、ごく少数の友人グループらとテオドラが食後のお茶を楽しんでいる時間に、それはやってきた。
大柄な近習たちの集団の中央で、小柄な少女の肩を抱き寄せながらのデジレの宣言、そしてテオドラ・ヒンクシーにとっては、まったくいわれのない恫喝。――――衛兵は動かない。
「衛兵、何をしているんだ! さっさと自分の仕事をしないか!」
デジレの命令にも、カフェテリアへと配備された衛兵は悠然と、辺りの警備に余念なくじっとしている。
その様子にじれて、デジレの最側近を自任する侯爵家の次男がさらに大声で叫んだ。貴族の優雅もすべて台無しにしてしまう品のなさだ。
……ユベール侯爵とその次男は連絡が密ではない、つまり仲の良い親子ではないのだろうなとテオドラは察する。
侯爵自身は貴族院でご活躍であり、ご長男を補佐官に任じられてお側近くに置いていらっしゃる。身の処し方、貴族としての在り方をよく知る、立派な方々だ。そして彼は学生寮暮らし、なるほど、実家とは疎遠らしい。
「殿下のご命令通り、さっさとテオドラ嬢を捕えるのだ!」
次に声を荒げたのは、老伯爵ロンズデール伯のご次男のご長男、父親は大陸最大の規模を誇る王立博物館で館長を務める、まだお若く優秀な方だが、その子息の教育にはどうやら失敗されたようだ。学者肌で、考古学や審美学には博学でいらっしゃるのに、それ以外のことにはほとんど興味が湧かないと以前視察の折に親しくお話しくださったことをふと思い出す。
しん、として奇妙な沈黙が続くカフェテリア。デジレの近習たちは怒りでその顔をほてらせ、身動ぎ一つせず通常警備体制にある衛兵に苛立ち、ならば自分たちで、と数人が動き始めたところでテオドラの言葉に制された。
「――――少し疑問に思うのですけれど、わたくし」
それだけで、テオドラはその場にいた学生たち、給仕たちの視線を釘づけにしてしまう。
名にし負う、幻の公爵令嬢だ。建国神話の最初の王とその妃は、黒髪に明け方の空のような青の瞳を持っていたという。
当世でいうなら、国王の異母姉弟にあたる、各国へ嫁がれた三人の王女殿下、大公殿下とケニントン王弟公、その従兄に当たるヒンクシー公爵、そしてその令嬢令息だけが「建国の色」を持つとされている。
王女殿下方、そして大公殿下、王弟殿下も、ヒンクシー公爵家出身の故王太后腹のご姉弟であり、建国以来の血の伝統を現代に伝えていると、その高潔な精神性でも名高い方々だ、と、これも国中の貴族が常識として知っている。
そして、その存在だけで同様に神聖視されている公爵令嬢のテオドラ。
テオドラは学院にはあまり登校しない。ゆえに幻の、などとと呼ばれるわけだが、テオドラの本来の居場所も、貴族院に議席を持つ家の子息子女なら、黙して語らないだけで、つまり暗黙のうちに承知している、そのはずだ。
病弱で不登校、怠惰でさぼり癖のある王太子殿下の婚約者。事情を知らない庶民の特待生がそんな噂でもしようものなら、無知は罪とばかりに冷笑を漏らすのみである。
「わたくしがそのマリアンヌ様、に暴言を? 暴虐を働いた? いったい何のお話なのか理解いたしかねるのですわ」
初めてお目もじする最上級生に、そんなことできるはずがありませんもの。
テオドラはあくまでも自分の好奇心のために訊ねた。そうでもしてどこかへ気をそらさなければ、公爵令嬢にふさわしからぬ状況にさらに陥ってしまいそうだ。
「よくもぬけぬけと戯言を! マリアンヌが証言している。お前は卑しくも俺の名の威を借り、マリアンヌを何度も貶めたそうだな、自分の婚約者に近づく卑しい雌猫だと!」
「私っ……何度も何度も! 怖かったわ! ご自分こそずっとデジレをないがしろにしてきた、彼にはふさわしくない婚約者のくせに! 雌猫だなんて、ひどいわ!」
「……まあ、なんてこと。わたくしそんな不適切な言葉は、とても。口にできません」
汚らわしいし、とても品のない言葉だわ。
「あなた様方が今、平然とお口にされたのにも、とても驚いています」
不適切で、下品で汚らわしいと、今ここでデジレとマリアンヌを貶めたが。
それ以外のことは決してしていない。幾柱の神々にも誓える。
「デジレ様に思う方がいらっしゃるのは親切な方から伺っておりました。それが、マリアンヌ様というお名前で、最上級生だというのも、お話だけは。でも、お顔をよく存じ上げない方に、わたくしがそのような放言を、というのはいささかおかしなことですわね。事態の整合性に欠けますわ」
「何がおかしいというのだ。お前の腐った心根一つで、いくらでも吐けるだろうが」
「……何度も。いくらでも。わたくしの通学記録と照らし合わせて、該当の日にいつどこでわたくしが何度何をし、何を申し上げたのか、それを証言となさるなら、細かな精査が必要ですわ。マリアンヌ様、わたくし、わたくしの名誉のために是非そうさせていただきたいわ。枢密院にお越しいただくようにお願い申し上げますわ。枢密院で詳しく証言をなさって下さい。後日召喚状をお送りいたします」
「えっ? すうみついん……っ?」
顔をデジレの胸にうずめるようにしていたマリアンヌが、初めてはっとしたように顔を上げた。それを見てテオドラは思う。実は彼女は、報告にあるほどの愚者ではないのかもしれないと。
もっとも、これまでマリアンヌとの接点があった事実はなく確かに今が初対面。暴言暴虐云々というのはすべて冤罪であり、あるいはマリアンヌかデジレによる捏造ということだ。
「ええ、枢密院。わたくしとそちらのデジレ様との婚約無効の申し立てがすでに認められておりますの、枢密院において」
すこしくすんだ色味のブロンドだったが、同じ金髪にエメラルドの瞳のデジレとはお似合いに見える。
かわいらしい可憐な少女、というよりはどこか肉感的な美少女で、女学生は皆同じ既定の制服を着ているというのに、彼女のスカート丈だけがなぜか異様に短い。ひざの丈の綿の靴下を履いているが、太ももの肌色が目の毒のような、他の特待生枠で入学してきた一般庶民の生徒と比べても彼女は十分異質といえた。
既定では女生徒は黒か白のタイツを履くことになっている。喪中のテオドラは黒一択だ。
……こんな方だったなんて。
聞きしに勝る『女の子の猫ちゃん』だわ。
表情にこそ出さないが、テオドラは驚いている。
なるほど、娼館通いが唯一の趣味の男の新しい婚約者。そして、最後に言葉を交わした確か二年ほど前より格段に品性の劣化した男の様子にも。
いや、この男の品性の下劣さは、昔からこのようなものだったかも知れない。おそらく、そうだった。記憶にある限り。このデジレの粗暴さ、残虐さ、幼稚さは出会った当初からこのようなものだった。
「無効の申し立てとは何だ、婚約のか? お前から申し立てたと? 俺との婚約を破棄するとお前からっ!?」
今度はデジレが、荒々しく問い質してくる。
「いえ、ですから破棄ではなく……。おかしいですか? 必要でしたでしょう? マリアンヌ様と結ばれるために、デジレ様は婚約の破棄をなさりたいご様子と伺ったものですから、解消だ、破棄だと後々、……今ですけれど、もめるよりはと王家とヒンクシー公爵家との間にあった婚姻の誓約自体を無効とする申し立てを行ったのですわ。それがすでに受理され審理されていて、」
「なっ……?」
音にしたままの口で静止してしまう、相変わらず察しの悪い男の顔を見てテオドラは、やはり婚約していなかったことが事実になって本当によかったと思う。
「ですので、デジレ様やマリアンヌ様のご心配なさることは何もありません。お二人の愛に障害などあろうはずがないのです。わたくしとそちらに、婚約の事実はなかったとすでに枢密院で審理が済み、即日承認されております。ただ貴族院に報告がなされる際にマリアンヌ様の証言がいただけましたら、議員の方々も学院で何が行われていたのか、何が行われていなかったのか、詳しく理解することができてよろしいかと思いますの。否決なさる方がいるとは思いませんけれど、審理の緻密さを示すためにも、必要なことだわ。マリアンヌ様、ね、デジレ様に打ち明けなさったように是非、枢密院でもそうなさって! わたくしがあなた様になさった暴言暴虐、悪逆非道の数々について、お話をして下さる? 実態の裏付けを行わなくてはいけませんから、御身を煩わせてしまうのはとても心苦しいのですけれど、ご自身のためにも、ね? 思い出すのもお辛いことは、わたくし、よくわかりますわ」
「……」
親切に言い募ったのに、なぜかふるふるとデジレの腕の中で震えているマリアンヌも、デジレも、無言のままだ。と、さっと近習の一人が二人とテオドラの間に割って入る。
「テッ、テオドラ嬢、あなたのその権力を盾に振りかざすやり方がすでに暴虐なのだ! 貴族院だの、枢密院だの、いかにも恐ろしげな言葉で平民のマリアンヌを追い詰めて!」
「……ユベール侯爵家のご子息でいらっしゃるわね。お名前はエイデン様。あなたのお父様も貴族院でお仕事をされていらっしゃるじゃない。お兄様も。何も恐ろしいところではありませんし、マリアンヌ様を追い詰めようだなんて、考えてもみませんでしたわ。それに、マリアンヌ様をいかにも権威主義的な威圧的な言葉で貶めないでくださる? デジレ様が新しい婚約者とお心に決めた方に、側近のエイデン様がなんてひどいことをおっしゃるのかしら?」
「……え、っえ……?」
「そうね、デジレ様が新しく婚約者になさると宣言されたマリアンヌ様を平民だ、なんて、失礼にもほどがありますわ、ねえ、皆さま!」
「貴族だからといってその権威を振りかざすなど、特に学院内であってはいけないことだわ」
「エイデン様はご自分の非を寮の減点とともにお認めになるべきですわ。どなたか監督生様はいらして?」
ユベール侯の次男、エイデンは、なぜテオドラから、彼女と同じテーブルを囲んでいた女生徒、―たしかマイヤ・ハートリー男爵令嬢やカミーラ・クライシュテルス伯爵令嬢、ユージェニー・マチルダ侯爵令嬢ら――から、自分がマリアンヌを貶めたと逆に非難されているのかわかっていない。エイデンはテオドラを責め、彼女からマリアンヌを庇ったつもりだったのだ。
揚げ足を取られてエイデンは混乱の沼にそのまま沈み込んでいく。自分こそが権威主義者のレッテルを貼られたまま。
「デジレ様、ご婚約のご決心おめでとうございます!」
あげく場の中心となっているテオドラからそんな言葉がかけられ、それが波紋を広げるように周囲に広がって生暖かい祝辞の輪が大きくなれば、自分たちの立ち位置もすでにわからぬまま、なんとなくデジレもマリアンヌも喜ばしい気分になって、次々かけられる声に鷹揚に頷いてみせている。
……馬鹿々々しいにもほどがあるわ。なんて馬鹿なの……。
テオドラは腹の底の笑いは治まったものの、自らも積極的に扇動した茶番にそろそろ飽き始めていた。
そして、素晴らしい仕事をしてくれている同じ席の男爵令嬢マイヤをはじめとする同志たちには、心からの感謝を捧げたい。みんながそばにいてくれて、今日は本当に助かっている。こんな仕事、一人ではとても耐えらない。令嬢然として見せてはいるが、テオドラとて十六歳の年頃の少女。本当は笑い上戸なのだ。笑いをこらえているのだ。
「そうか、テオドラ。婚約をお前から破棄してくれたのなら話は早かった」
「破棄ではなく、婚約が、無効となったのです。持参金などの清算も誓約前の状態に急ぎ戻させていただいておりますのよ? デジレ様のご両親にあっては、国の予算を三、わたくしの持参金から七で日々の暮らしをお過ごしのようでしたから、デジレ様、話は別段早くはないのですよ。国家予算でいうならおおよそ三年分の金額が動いているのですから」
「……何の話だ」
「……ご両親の私財から我が家への借入金の返済が大変そうだと申し上げているのですわ。もうすでに王都北のあなたのお父様の私領や国内外の離宮のすべて、といった私有財産が、ヒンクシー公爵家の抵当に入っているということ、お聞きじゃありませんのね、そのご様子では」
「は?」
まだわからないのか。テオドラはふう、とため息をついた。一度扇を閉じて、テーブルの上に置く。
「デジレ様の今後にもかかわることですもの、ご両親に直接お話を伺うのがよろしいのではないかしら。それとも、もうお会いできる機会もないのかしら……? ……こう申し上げたら簡単ね。今まで、あなた様と近習の方々が娼館を貸し切って大騒ぎした翌朝に、ヒンクシー公爵家へのつけでなさっていた支払いが、今後はできなくなるという意味です。お分かりいただけますか、それくらいは」
「……は?」
「おかわいそうに、そちらの方々のご実家……グレモン子爵家やハーディー子爵家では、王都のお屋敷も爵位も売りに出すことになるのですってね、お気の毒だわ。領地も切り売りなさって、ご家族でその一つに移られるとか」
「は?」
「なっ……?」
反応がもはやどれも同じで、テオドラはすでに飽き飽きしている。
あきれ始めてさえいる。二人の子爵の子息たちもまた、実家とは疎遠の寮暮らしなのだ。まあ、皆、そうか。デジレの側近なのだから。常に側にいるようにとデジレから言い含められているのだろう。いつも付き従っていろと。常に誰かに傅かれていたい性格の男だ。仕えた主が悪いのだろう。そして側近たちもそれによく似ている。
「ユベール侯爵家とサヴィア伯爵家、ロンズデール伯爵家とは、ご領地の一部割譲ですでに話は解決しています。領民には穏やかに領主が変更となる旨をお伝えしますので、どうぞご安心なさってね。ロンズデール伯爵はこの機会に隠居をなんておっしゃっているけれど、あなたのおじいさまには本当によくしていただいたの。お孫さんであるあなたからも、慰留して差し上げてくださらないかしら」
王立博物館の館長子息に、テオドラは悲しげに告げた。ロンズデール老伯爵はテオドラにも縁のある方だった。テオドラのお祖父様、公爵家のご隠居の旧いご友人でもあり、交友の浅からぬ方だ。孫の片をつけねばもう友を友と呼べぬと半ば自暴自棄に荒れておられて、テオドラのお祖父様や父上の慰留の言葉にも耳を貸さない。孫の不始末のせいである。
「お祖父様が隠居……?」
「領地の、割譲……?」
「……いったい、テオドラ嬢、あなたは何の話をしているんだ……」
カオスの沼に沈んだままの権威主義者、エイデン・ユベールが、同じように沈みゆく仲間たちを見まわしながら、彼らの悪の根源たるテオドラを見上げた。実際には見下ろしているのはエイデンたちだったが、心のゆとり格差たるや圧倒的に劣勢だった。さっきもどこかで聞いたような問いかけを、エイデンはした。
「なぜご理解いただけないの。デジレ様とわたくしの婚約が無効となったお話ではありませんか。皆さまこうなることを事前にご承知だったのではありませんの? デジレ様とわたくしの婚約が解消となる、いや破棄となると、ずいぶん大きな声で学院中で吹聴なさっていらしたそうですから」
テオドラは紅茶を一口、のどを潤わせてさらに続ける。
「デジレ様が皆さまを楽しませるためになさっていた、週に三度の娼館での遊興三昧、などなど。そちらにかかった費用を皆さまのご実家からも返還していただいていますの、わたくしの持参金口へ。現金や宝石やご自宅や爵位や所領の一部で。誓約には皆さまの遊興費などもちろん含まれておりませんから、これまで婚約者のなさることだからとなあなあでやり過ごしていた部分ももちろん誓約前の状態に戻るのですわ。つまり、近習の皆さまからもお楽しみのつけを返していただいているところです、というお話です」
「まああ、娼館ですって。殿方って本当にはしたないのね」
「それにあつかましいですわ。ドーラ様の持参金から娼館だなんて。汚らわしいわ」
「不潔だわ。週に三度ですって……! いやらしい!」
「お孫様の下半身の不始末のためのご隠居では、ご健勝で有名なロンズデール伯は確かにお悔しくていらっしゃるでしょうね……」
エイデンは、わずかに身を震わせた。
自分たちは気難しい王太子の近習として選ばれた身であり、学院内における階級では最上位のグループだった。デジレがいるというだけで。入学以来五年余り、ずっとそうだった。
時折彼から突きつけられる理不尽の対価に、代償に、確かに娼館での飲食や乱痴気騒ぎを享受してきた。けだるい翌早朝、支配人にお代は、と問われればヒンクシー公爵家へと簡単に応えてきた。
なぜなら王太子であるデジレが、飲食費や観劇、街中での遊興費もすべてヒンクシーへ、と請求させていたためであり、それに倣っただけで……デジレが娼婦やマリアンヌに高価な髪留めや香水を選んだものの代金もヒンクシーへと言うので、自分たちもそれに倣って、まるで遊びやちょっとした贅沢の暗号のように使ってきた。『請求はヒンクシー公爵家へ』。
今になって思えばなんという恐ろしい、麻薬のような言葉だろうか。
いや、実際女も酒も、とろっと甘い匂いのするタバコも、すべて『ヒンクシー』から貪っていたのだ。ごく個人的な、例えば母親の誕生日に贈る花にも、そうしなかっただろうか。合言葉を使って、王太子へ仕えるほんの少しの対価である贅沢を、『ヒンクシー公爵家へ』と。
当然請求が回ったヒンクシー公爵家では、誰が何のために使った金であるかを調べるだろう。エイデン・ユベールがユベール侯夫人へ贈った花の代金です、と花屋は答えたかもしれない。事実だからだ。
あるいは娼婦へ贈った卑猥な高級ランジェリー、宝石、人気のパティスリーの焼き菓子。少し背伸びしたオーダーメイドの革靴。精密で高価な帝国製の懐中時計。すべてヒンクシー公爵家が、テオドラが、エイデンによる浪費だと把握していたとしたら。……いや、確実に知られている。
ぞっとした。そのおぞましさに。自分がテオドラの持参金を飲み込んで踊る、得体の知れない怪物のように思えた。そして今もテオドラの掌の上にいる。
片手の指で簡単につままれて、どこか遠くの箱の中へぽいっと投げ捨てられる程度の矮小な怪物だ。
――――お楽しみのつけを返していただいているところです、というお話です。
確かに。
デジレとテオドラの婚約がなかったものとされるなら、デジレの真似をした近習たちが、まだ嫁いでもいなかった主の婚約者の持参金から使い込んだ金は返済せねばならない。
主のご両親、国王・王妃両陛下すら、テオドラの持参金を主として暮らしていたという。
……領地の一部を公爵家に割譲? それで救われて自分は助かったと喜べるのか。父や兄は何と思うだろう。母は? まだ幼い妹は?
このきっと世間にすべて露見してしまう醜聞の責任を、自分はどうやって取ればいいのか。成人前だからと、先祖伝来の領地の一部を父侯爵が手放してそれですでに解決した、と?
正しい債権回収であり、失地を取り戻すためにと蜂起することもできない、ゆえの解決。
だが、それで自分は? 娼婦と楽しんだ夜や酒やおそらくとんでもなく値の張る法禁薬物、破廉恥な下着。女の細い首を飾るのが美しかった宝石。気に入って履き潰し、やがて惜しみつつ捨てた高価な革靴。手元には恥ずべき時を共に刻んできた時計しか残っていない、暴君に仕えた代償……。
主が恋をした。今まで感じたことのないような情動だと言って。相手は大層魅惑的な少女だ。取り澄ました学院の貴族令嬢とは違う。エイデンの目から見ても、主が恋する相手に不足はないように思えた。
そもそも第三学年の時に、マリアンヌとは同じ教室でいくつかの同じ授業を受講した。知り合ったのは主よりもエイデンが先だった。皆と戯れているときに、マリアンヌが通りかかって、……確か最初はエイデンが皆に彼女を紹介したのではなかったか。同じ授業を受けている平民の娘だと。それにデジレが恋をした。やがてお互い思い合うようになって……。
主は自分たち側近を楽しませるためにと娼館通いはやめなかったが、そこは男の嗜みだと笑っていた。マリアンヌには内緒にしてくれと。不誠実な男だとは思ったが、あえて咎めることもしなかった。
なにしろ奔放な性技も帝国製の酒も、官能の渦に自分たちを落とし込むタバコも、マリアンヌとは一緒には楽しめないのだろうから仕方がない。
身分違いのロマンスだった。
平民なのに学院にいるということは、頭もよい。平民出の王太子妃は国民もきっと支持するだろう。喜ばしいことだろう。
ならば、今後彼らの恋に立ちはだかる、権門出身の婚約者の存在だけが邪魔になる。適当な理由をでっちあげて、解消してしまえばいいのでは? と適当な助言を、した。
相手は高位の貴族令嬢だが、学院で席次が話題になることもなく、それどころか病弱を理由にしたさぼり魔で、たまにデジレが声をかけてやっても、遜って頭を下げる、ただ美しいだけの退屈な娘だ。気ままで気難しいデジレにふさわしいとは思えない。
それに、デジレの他に思う男がいるという噂の尻軽だった。デジレには必要ない女だ。
対してマリアンヌはデジレに似合いの伴侶だと思った。お互い愛し、愛されて。結ばれることを望んでいる。邪魔者の婚約者は、廃してしまってもよい。盛んにみんなでデジレと婚約者の破談を喧伝した。
なぜなら彼は王太子だからだ。権力者なのだし、その願いは叶えられて当然だ。
……当然? ……果たして、そうなのだろうか。
暴君の願いを叶えていれば、甘い蜜を味わい、贅沢を享受することができたから、だ。
自分はなんと愚かなのか。愚かで、なんと堕落した、知性のない怪物なのか……!
少し頭が働けば、理解できただろうに。
――――デジレとテオドラの婚約が破談になれば、デジレに対するヒンクシー家の後ろ盾はなくなると……!
――――それまでのように、ヒンクシー公爵家を利用した贅沢をすることもできなくなると!
「皆さまで仲良く貪った快楽の代償ですもの。誓約がなくなったからには本来そうあるべき状態に戻さなければ。……残念ですわ、元王太子のデジレ様。新しい婚約者様とどうかお幸せに。先ほどのあなたの宣誓は、すでにこちらにお座りの枢密院一等書記官が耳にし書き留めていますわ。婚約の証人にもなってくださいます。貴族籍を持たない庶民の方同士の婚約ですから、彼女一人が証人となる、簡略化された様式でよろしいのですって」
悪気もないように、テオドラはまた混乱の沼に石を投げた。
テオドラのテーブルに座る一人、確かに一人学生の制服ではなく、黒の長衣のローブ姿の年配の女性が、すっと立ち上がり、手にした羽ペンとの婚約届けの書式と思われる一枚の紙を皆に見せつけるようにしてから、再び着席する。
「代筆いたしましたものを、行政府へ提出いたします」
優しく丁寧な言葉で、彼女は二人の婚約が今をもって成立する旨を保証した。文字を書けない庶民のために、資格を持つ書記官の代筆でも重要書類が完備となることは、国の常識だった。
誰も気にしてもいなかった。テオドラの隣に座っていた、書記官の存在を。
目の前の劇場のような空間で繰り広げられた目まぐるしい物語を追うのに必死で。
そして幕引きの合図を、テオドラが朗々と告げた。
「枢密院参与、バックリーウッド子爵が命じます。――――衛兵は、廃太子デジレとその婚約者を捕えよ」
平時の昼時以上のざわめきを、カフェテリアは取り戻した。
そして、衛兵は動いた。廃太子デジレと婚約者を確保するために。それが今日の彼らの、業務の一つだったからだ。警備計画にいささかも漏れはない。
テラスから続く庭には増員配備された憲兵隊の中隊がすでに揃っており、その向こうには護送のための馬車も抜かりなく四台用意されているはずだ。
「誰が! お前にそんな権利あるはずもない! 廃太子とは何事だ!」
すでに悲鳴を上げて暴れるマリアンヌと引き離され、捕縛されたデジレが断末魔のように叫んだ。床に倒され、体を押さえつけられ、着席のままゆったりとカップに手を伸ばすテオドラを、悪鬼に取り憑かれたような形相で見上げて。
終わりの一口を飲み、ソーサーとカップを置いたところでテオドラはのんびりとそれに応じた。手にした扇を開いて再び口元を覆い隠す。
「――――前国王ご夫妻、あなたのご両親の最後のご命令ですわ。自分たちの生活の糧と、私財を喪わせたデジレを廃嫡し、廃太子とし、その心を惑わせ狂わせた娘共々、反逆罪で捕えよと。枢密院が昨日午後にあなた様を王太子から廃す旨も王族からの廃嫡も、三件の娼婦殺しの容疑についても、一件の娼婦への堕胎強要及び悪意の遺棄容疑についても、また反逆罪での捕縛も承認いたしました。こちらはあなたを惑わせた娘、マリアンヌ様についても」
その命によって、動いておりますのよ? 彼らも、わたくしも。
「俺が廃太子とは……父上が前国王? ……とはどういうことだ! 娼婦殺しっ? 陰謀だ! 王家は……王家はどうなる? お前が! 陰謀だ、おまえ、がっ……バックリー……だっ⁉」
最後は顔を床に押し付けられて呻くようにしながら、暴れるデジレがテオドラに問う。
「どうにもなりません、今この時もつつがなく。……皆さまもどうかお心を静かに。前国王ご夫妻は本日午前に私財のすべてを失ってご退位あそばされましたが、どうかご安心なさって。すでに先々代国王の第三王子、ケニントン公ウィルヘルム殿下が立太子し、新国王として即位なされます。この午後の枢密院会議において、即位承認となることでしょう。大公殿下を摂政とし、ウィルヘルム二世陛下が、ただちに即位なされます」
「……まあ! だから婚約無効、だったのですわね、ドーラ様。……いえ、おめでとうございます、テオドラ妃殿下……!」
「建国王と王妃のようなお話だわ……! おめでとうございます、妃殿下!」
さっと立ち上がった男爵令嬢マイヤ・ハートリーが、真っ先にすべてを悟って、臣下の礼を取るべくテオドラより目線を下にする。伯爵令嬢カミーラ・クライシュテルス、侯爵令嬢ユージェニー・マチルダらも続く。
そして、それに倣い、今まで成り行きを傍観していた者たちも、まもなく戴冠されるのであろう新王妃殿下に拝跪した。
「ありがとう。皆さまの祝福はこの胸にしかと刻みました」
臣下の礼に対し、テオドラは席を立ち、一人一人を睥睨して無言の祝辞を受け取る。
「前国王の命により、反逆者、廃太子デジレとその婚約者は捕えられました。デジレの近習であった五名については、各家ごとに処遇がなされます。デジレの悪行の諫めず扇動した罪、反逆者に便乗して積極的に各家の私財を浪費した罪については各家より起訴状がすでに提出されています。後日王都の高等法院にて個別に裁かれることになるでしょう。沙汰のあるまで、王都を出ることは許されません。グレモン子爵家、ハーディー子爵家の二名については、王都での滞在先をユベール侯爵の預かりとします」
床でうごめくデジレとマリアンヌの他には誰一人動かない。
まもなくこの国の王妃となるテオドラは、それにふさわしく、ほんのわずかの肯首だけで衛兵に二人と五人を連行させた。
もはや先ほどの憤怒の形相すら跡形もなく、呆然と、どこか茫洋とした様子のデジレの姿を、ほんの少しだけ哀れに思う。テオドラをこの十数年、ないがしろにし続けなければ。もしくは少しでもテオドラに彼への情があれば、このような事態にはならなかったのかもしれない。――――が、すべて仮定の話だ。
未練も恩讐もないと父上に告げた通り。更に真実に近づけるなら興味さえない、そういう関係をしか、テオドラと廃太子デジレとは築けなかった。
動向に注目しておく必要、行動を監視しておく必要は常にあったが、そのおおよそがテオドラから関心さえ失わせ、嘲笑の対象との心境に至らせるに十分な理由になった。この国に必要のない王太子。デジレを廃する機会を、国中の誰よりテオドラが覗っていた。
そして、訪れた、絶好の間、溜め、タイミング。
最小限のリスクで、効率よく成果を上げるのがテオドラという、単なる公爵令嬢と呼ぶには政治に向きすぎた少女の流儀だった。
……まずは略式の即位の儀。そして採寸はすでに済んでいる、婚姻の儀と即位式、戴冠式用のドレス製作の慰労から始めなければ。まもなく亡きおじいさまの喪も明ける。日程はかねてから過密に動いていた。
心はすでに、ここを辞した後の儀典長との面談に向けられている。そして、最愛の人と結ばれる瞬間にテオドラは胸を躍らせる。――――政略だなんて、本気でお思いじゃないわよね、おじ様。
――――わたし、一生懸命乗り切ったのよ。頑張ったねって、ほめてくださるわよね?
テオドラは、自らも盤上の駒のように動いて成し遂げた計画の首尾に満足している。
そしてその思いを知るのは自分だけでいい。
だって、これこそ都合のいい政略結婚に見えた方がいい。
――――おじ様のお役に立ちたかったのだもの、ずっと。ずっと、おじ様のお嫁さんになりたかった。
こんな政略も謀略も何もかもがどうでもいいような自分勝手な思いは、自分の胸の内だけにあればいい。
テオドラはこの先もずっと、口はつぐんだままでいるつもりだ。
だから絶対に、自分の気持ちなど、かの方の他に誰にも知られることはない。
ただの公爵令嬢が、また新たな政略結婚に踏み出していくように見えればいい。
この場にいる誰もが、そう考えているように。それだけでよかった。王位の簒奪に加担した悪辣な令嬢に見えれば、それでよかったのだ。
デジレの悲劇、マリアンヌの悲劇を、テオドラは喜劇として舞台から降りる。そしてまた、新たな舞台へ上がる。今度は、建国神話のような叙事詩的な大舞台に立つ。
――――心の中までは、誰にも見えない。
テオドラが心のままに、かつて誰も見たことがないようなすがすがしい満面の笑顔で、微笑んでいるにしてもだ。
~fine