承~5(最初へ戻る)
いつかのように料理の感想しかないぎくしゃくとした夕食の後、いつかのように銀杯だけを取られたおじ様に、少しサロンで話さないか、と誘われた。
「ブドウ酒は許してくれ。酒でもなければ、どうにも先に進まない種類の話だから。君は温めたミルクでも飲むといい。用意させよう、今日は少し肌寒い」
まるでお子様扱いなのだが、気遣いが嬉しくないわけではなかった。
テオドラはしばしば夕食の後やお風呂の後にはミルクを飲む。
おじ様は幼いころからのその習慣を覚えていてくださった、それだけで、本当はもうずいぶん心安らいだのだ。
ガラス窓は閉じられたサンルームの、星空の下のテーブルで、侍女がやがて運んできたミルクが揃うと、おじ様はテオドラの背後に控えようとする彼女に
「少し公務にかかる、内密の話をするから。外してほしい」
と申し付けた。
公務、と言われれば彼女はテオドラのそばを離れるしかなく、また王弟殿下のご命令でもあった。
頭を下げて、侍女はサロンを出ていく。二人だけになった。
「――――少し混み入った話になるから、結論から先に話したい。ドーラ。テオドラ。兄上とも相談を重ねた上でのことだ。――――僕と、結婚してくれないか」
「――――は、」
な……?
「ドーラ。僕と結婚してほしい」
ミルクのカップから、わずかに湯気が立っている。ぬるめの温度だ。
室内の気温は、快適だ。
渦巻き模様のサブレ。はちみつの瓶。ミルクの湯気。銀杯をつかんだおじ様の指先。お花。
テーブルに飾られた切り花のピンクや黄色。緑色の茎や葉。花瓶の青い幾何学模様。
視線をさまよわせて、いろいろなものを目にとめながらテオドラは動揺を隠そうと努めた。
今おじ様、なんておっしゃった……?
「――――なぜ、……もう! どうしておじ様は、そんな大事なこと、そんな重大なこと、前提をかっ飛ばしてお話しておしまいになるの! もう、信じられない!!」
テオドラは、一人恐慌をきたした。平然としたお顔でこちらを見つめる、目の前の人の考えが、テオドラには何一つわからない。
理解できない。
理解できないものは恐ろしい。
「僕と結婚してほしい。君が頷くまで、僕はそう言い続けるだろう。テオドラ、僕と結婚してほしい。君にはその覚悟があるはずだと、兄上がおっしゃっていた。……ドーラ、どうか僕と結婚してほしい。デジレとの婚約は、さっさと無効にすればいい。そして、僕と結婚してほしい」
「な、……な……」
まるで結婚してほしいの大安売り、『生前』風に言うならまるで結婚してほしいのタイムセール。
フィリピン産バナナや焼き立てのコロッケや、北海道産のアスパラガスみたいに!
「テオドラ。どうか、こっちを見て。僕と、結婚してほしい」
まるで、なにかの呪文のようにも聞こえる。そうすれば、まるでそれを唱えればテオドラはその通りに頷いてしまうに違いない、そうおじ様は信じているかのようだ。
だって、おじ様は本気だ。
本気でテオドラが諾、と頷くまでこの呪文を唱え続ける。
僕と結婚してほしい、って。
「正気で、いらっしゃる? ……本気ですか、おじ様……」
恐慌のあまり、テオドラの涙腺は決壊した。
さきほどもお風呂の中で流れていたそれが、今度も箍を失ったかのようにこぼれて、流れて、止まらない。
きっとこれはテオドラの胸の中とつながっている。
結んでいた氷が一気に融けだしたのだ。
「僕は正気だ。僕は本気だ。ああ、泣かないで、そんな風に。テオドラ、お願いだ、どうか僕と結婚してほしい。理由が欲しいなら、政略で構わない。僕と結婚してほしい。政治的にうまみのある者になるつもりだ。……だから僕と結婚してほしい。テオドラ・ヒンクシー=バックリーウッド女子爵、どうか、僕と政略結婚をしてほしい。政治的においしい、結婚を僕としてほしい」
おじ様は手をかけていた銀杯から手を放し、席を立ち、椅子に座るテオドラの足元に跪いた。左手を両手で掬われ、薬指の付け根に口づけを落とされる。そのままの位置から見上げられた。
こんな風におじ様を見下ろしたのは、初めての気がする。
だってずっとテオドラはおじ様を見上げていた。
「ドーラ。……テオドラ、どうか僕と結婚してほしい。君がほしい。君の持つものすべてがほしい。君が手に入れられるらしい三つの港湾用地や、帝国にもっとも接したバックリーウッド子爵領の継承権や、帝国皇帝の姪姫であるという身分や、ヒンクシー公爵家の後ろ盾が、欲しい。君の持つ政策の数々が欲しい。それをひねり出す君の頭の中身が欲しい。ついでに言うなら、兄の後見はすでに得られる約束を取り付けた。わかるな、テオドラ。だからこれは明らかな政略結婚だ。どれだけ僕が君を大切にしようと、大事に思おうと、愛しく思おうと、恋を願おうとも、そんなものはまるで物の内には入らない。だって、これは君にだっておいしい、政略結婚だからだ。僕は立太子する。僕は王位を即位継承する。たった一人、王国内にあって王太子妃教育の済んだ君を妃にする。これは、打算ばかりの政略結婚だ」
「こんな……こんなおかしな妻問いをなさる方、この世界できっとおじ様が初めてよ……」
「おかしいか? 独創的だと言ってくれればうれしいが。どうだ、ドーラ、その気になってきたか? 僕と結婚してほしい」
見上げてくる青い瞳は、一途で、楽しそうだった。
おじ様はもう一度両手の中のテオドラの左手薬指の付け根に口づける。
そして再び、ずっと混乱中のテオドラを見上げる。
「眠る前に君の顔を眺めて、朝目覚めたら君の顔を眺める。そういう生活がしたい。君と最後に同衾したのはもう七年も前だ。ああいう眠りの時間がまたほしい。手を伸ばせば君がいて、胸に抱くこともできて、夜中に目が覚めても君を見つけられる、そういう時間がまたほしい。テオドラ、僕と政略結婚をしてほしい。政略結婚でも毎日一緒に寝るのは当然のことだ。なにしろ政略なのだから、たくさん仲良くして、継承権を持つ子を沢山育てなければならない。政略結婚なのだから。僕とどうか、そういう結婚をしてほしい。お願いだ」
「ずるい……おじ様はずるいわ、そんな瞳で、」
「君も同じ瞳だ」
「そんな瞳で、そんな声で、そんなお願いをされたら、誰だって思い通りになってしまうじゃない……」
「君が思い通りになるならそれでいい。テオドラ、お願いだ。どうか僕と結婚してほしい」
「おじ様はずるい……」
「いくらでも詰ればいい、君が僕の妃になってくれるなら。ドーラ、結婚してほしい」
――――テオドラは観念した。だっておじ様は唱え続ける。
本気でそうするつもりだったに違いない。
だって事実、テオドラが何度頷いても、どうかぼくとけっこんしてほしい、おじ様は混乱の呪文を唱え続けたのだから。
テオドラも何度も頷いた。
結婚してほしいと言われるたびに、ずっと頷いた。
最後には首降り人形のようだとさえ思うほどに頷いても、おじ様はずっとテオドラの名前を呼んだ。政略結婚をしてほしいと。そして最後にこう言った。
「心の底から、君を愛している」
その夜はずっと夢見心地で、何度寝返りを打ってもずっと寝付けなかった。寝台の上で、何度も転がり、何度もおじ様の言葉を反芻した。
吐息が震えるほど甘美だった囁きを、何度も思い出してまた熱い息を漏らした。
やがて知らぬうちに眠りが訪れ、幸福のままに目を覚ました。外気を揺るがす、剣の振るい音でだ。幸せだった。
気恥ずかしい朝食の後で、気恥ずかしいままおじ様をサロンへ誘った。
「わたくしの政略の結実をお見せしますね」
書類箱を開けて、ひとつづつ紐解いた。
テオドラはまず、三枚の海岸地形図を示した。
「大公殿下のところでご覧になりました? こちらがユベール侯領、それから、サヴィア・ロンズデール両伯領。これが港湾都市建設の用地にと選定した地形です。海洋地質学教授のお墨付きですので、良港が築港できましょう。新国王陛下のお声掛かりでは皆喜んで集まりますわ。必ず人や物流でにぎわうよい街になります。港ゆえ治安維持には人員を裂く必要がありますが、もとの領民からも憲兵隊に就職口を斡旋するよう募集をかけましょう」
それから、二つの子爵家の財務諸表を差し出す。
貴族の財務申告は国が義務付けた貴族の仕事の一つだ。
申告書は必要であれば写しをとっても構わない。
すべて内密に行ったテオドラ自身の手筆によるものだが、見にくいことはないだろう。
「さらに、債務の金額への耐性、健全性、元々の財政の体力に乏しく、消滅してしまうだろう二つの子爵家の使用人や領兵などについても、積極的に港湾都市への移住を勧めます。これは居住の自由もあって難しいかも知れませんが、なくなった子爵家の元家人と後ろ指をさされるよりは新天地での生活をと考える方々も出ましょう。子爵家のご家族も、領地は富農に切り売りして当面の生活は何とか維持なさることになるのだと思います」
一枚一枚を吟味して、近くに見たり、遠ざけて見たり、おじ様は宝の地図を得た少年のように青い瞳をきらきらさせている。
さらにテオドラは、細かく金額や名目の書かれた幾枚かの書類を差し出す。
「それからこちらが、王家とデジレ殿下の個人的な債務。国王陛下がお持ちの私財一覧と、その評価額。おおよそすべてヒンクシー家で回収することになります。いわば新王族としてはマイナスからのスタートですわ。新しいお妃の持参金がなにしろ元の国王の私財そのままなのですもの。できる限り有効活用して、経済していきましょう。こちらの掌握費の回収で得る割譲領地も、王家の新しい直轄地になります。持参金の一部として。ヒンクシー家はきっと新国王陛下への助力を惜しみません」
幼いテオドラに、ウィル殿下になら喜んでお嫁にやるのに、と語りかけた父上の、今よりずっと若かったお顔をテオドラは思い出した。
そして、こぼれる笑いとともに白い歯が覗いた。
「二つの公爵領を上げて応援下さることでしょう。帝国の協力も、きっとかわいい新国王と魔物みたいなお妃が二人そろってお願いすればたくさん得られますわ。新婚旅行の行き先は、帝都ですわね。帝国の技術は素晴らしいもの、きっと他国へ自慢したくて仕方なくていらっしゃるわ。良いものはどんどん取り入れればよいのです」
国王夫妻やデジレ、それからその近習たちの散財による債務表を見れば、おじ様は少し遠い目をされた。王族としての資産はマイナススタート。
おじ様の私財を抜いて、テオドラの持参金で最初は自転車操業だ。
国庫からの予算内で生活を切り盛りするのだ。ほんらいならそれで王族の面目が保たれる十分な生活費のはずだ。
おじ様もテオドラも、私生活ではほとんど浪費などしない。実家からの援助があったとしてもだ。
国庫に影響を与えていないことが今だって、本当に偉大なことなのだ。
「おじ様のお母様の、なされたことですのよ。国庫は枢密院の管理下にあって厳重に守られています。港湾建設に関しても、新国王陛下から法案を枢密院へ提出する手続きが必要になりますけれど、皆さま少年のなれの果てですもの、大きな船を作って大海へ漕ぎだすとわかれば冒険心が刺激されて、誰が舵を取るかでもめますわ、きっとね。新たな組閣の準備が必要になるわ。今の枢密院議員ではさばききれないもの。若くしてまもなく承継なさるクライシュテルス伯など、築港に興味がおありだわ。自領の振興と並行なさる技量も情熱もお持ちの方を、新しいお妃が推薦するに決まっています」
テオドラもうきうきとして、未来の展望をお話しした。ずっと腹の中にはあっても、誰にも告げていなかったこともだ。
「なぜ……新港に、君はこんなに情熱を傾けた……?」
穏やかなお顔で、おじ様は問いかけられる。今日はお酒が入らなくてもちゃんと、テオドラの目を見つめてくれる。
テオドラも、なんだかとても安心しきっておじ様の目を見返した。
「だって、おじ様がおっしゃったんですわ。港が欲しい。大きな港が。そして大きな船を作って、外洋に出るんだって」
「――――僕のため、か?」
「運がよかったのです。用地を手に入れられるかも、三領から、とわかったときは飛び跳ねました」
「だから、昨夏の視察も、……僕のためだった?」
テオドラは大きく頷いて、朝の続きのオレンジジュースを口にした。
「なんだ、本当に馬鹿だな、僕は。……アンリ殿に嫉妬して、気ままに振る舞う君を恨んで。ギュスターブにも喧嘩を売られたと思って応酬した。デジレとのことは……自己投影の手段だったのかもしれない。君は王太子の妃になるべくして育った人だ、君だけが輝いていればそれでよかった。……デジレに王太子や、やがて王としての責任や力ある発言などは期待できないとわかっていても、君だけがその地位で輝けばよいと。……君が気落ちするなら、僕がそばで手を……握ってあげられればいいと、それだけでいいんだと思っていた。僕は生涯独身でいるつもりだった。国政で、君のそばにあればいいと。デジレは君にとって都合のいい、力ない愚かな夫になるだろうと思った。愛人に耽溺したという父のようにね。君の心のことは、僕がそばで癒してあげられれば良いと」
「おじ様……嬉しいですけど、あまり健全な考え方じゃないわ……」
「そう、……そうなんだ。僕はわりと常識的な人間だと思っている。でも君のこととなるとどうもうまくいかない。ことが順調に運ばない。考えはどんどん先鋭化して闇の中に進んでいく」
まるで、テオドラの心の中と同じようなことを、おじ様はおっしゃった。
「どうしようもなく君を愛していると、……いつ気づいたのだったか。……多分いつかのボートの上でだ。留学したばかりのころで……夏で、子爵領で。君と離れてずっとさみしかった。半身をもがれたように感じていた。確か僕はくっついて離れない君に安堵して、ボートの上で言ったんだ。僕がいなくてさみしかったかと。君が深く素直に頷いたのを見て、君にとっての僕の不在に、暗い愉楽を覚えた」
「お、おじ様……それもあまり健全な青少年のお考えになることじゃないわ……」
今まで知らなかったおじ様の心の内を、打ち明けてもらえば、それはなんだかちょっと危うい。
大勢からは賛同を得られないような独特の思想だった。
……なんというのだったか、『生前』風に言えば多少病んでいるとか心の闇が、とか、そんな言葉しか思い浮かばない。
「でも、闇の中に進んでいくというのはわかります。帝国でご一緒した冬が、わたくしもそうだった。おじいさまがね、おっしゃったんです。帝国にはおじ様を狙う淑女がたくさんいるんだって。わたくし、おじ様に手を取られて初めて踊ったとき、夜会に来ていたご令嬢たちみんなに向けて思ったのよ。わたくし、おじ様と踊れるのよ! って。ええ、緊張してあまり楽しいダンスじゃなかったけど、薄暗い愉悦を感じました。あれは心の闇でした」
「……これからは二人で、どれだけでも踊れる……」
「そう、なのですわね。二人でこれからはたくさん踊れる……」
「まずは君に、デジレとの婚約を無効としてもらわなければ。陳述書は……ああ、こちらか。これで申し立てて、デジレとの婚約の事実を抹消してほしい。抱きしめて口づけられるのはそれからか。……夏が長いな……」
藤製の椅子の上でくつろぎ、ぐうんと両腕を伸ばして揺らすおじ様を見て、知らずテオドラも微笑んだ。政略だ政略だと、理由づけたところで、二人の間にはしっかり愛があると自覚した。
ちゃんと愛されている……ちゃんと愛している。
「わたくし、デジレ殿下のお古ですわ。婚約の事実がなくなっても婚約していた事実は消えない。……おじ様とわたくしは王位の簒奪者として歴史に名が残る」
それでも良いのですか、と微笑みを消してテオドラは問いかけた。
「かまわないよ、それで君が自分のものになるなら。後世歴史学者が何と書くかはのちの世の判断を待てばいい。善政を敷こう。国民のよい国王と王妃になろう。正しい簒奪であったと言わしめてみせよう。しかし……甥の婚約者を略奪して王位を簒奪した王か。なんだか、ひどく悪辣だな」
「わたくしだって悪辣よ。婚約者の叔父君と伴に、国王の廃位と婚約者の廃太子を企てた王妃になるのですもの。悪辣さで言ったらおじ様より上よ。相手を乗り換えて、戴冠する王妃、魔物だわ。悪辣だわ。ただ、ひとつ良い点があるとすれば、おじ様とわたくしは月神の兄妹神のようだとも、建国王とその妃のようだとも言われる容姿を持っているということ」
神々は大抵性に対しておおらかで奔放であり、月の二柱もそれは変わらない。
そして建国王とその妃は、父を同じくする異母兄妹だったのではないか、と今の研究ではそういう説もある。
長い冒険の末に、約束の地、今は王都のある場所にたどり着いた建国王は、魔物の花嫁にされるところだった妃を、魔物を殺して手に入れる。
二人は偶然同じ黒髪と暁の夜空の瞳を持っていたのだが、現代の研究者の間では異母兄妹説が主流だ。そして、魔物とは二人の実の父親であるとも。
――――真実は誰にもわからない。神代の出来事は推測することしかできない。
後世残ることを期待して、日記をつけようかとテオドラは思う。
幼い頃の、ウィルお兄さまへの恋情から打ち明ける日記だ。優しくて大好きな王子様を婚約者だと思って過ごしていたのに、乱暴でわがままな婚約者と対面させられて衝撃が走った、と。
主観による日記なのだ、テオドラは何を書き残しても構わない。
「建国王の伝説や冒険譚は、国民ならみんな大好きよ」
「そういう雰囲気の、簡素で厳かな即位式や戴冠式をやろうか。君は女神風といったか、あんなドレスがいい。神代の女神のような」
「おじいさまの喪が明けて、帝国の皇帝即位式までが一月。……その間にことを収めておしまいになる? デジレ殿下は、おそらく夏休みが終わればわたくしを廃そうときっと学院で婚約破棄を言い出すつもりよ。今頃は王都近郊の離宮で夏のお楽しみを満喫なさっている、噂の恋人とご一緒にね。仲間の近習たちもけしかけて、目に浮かぶようだわ」
「枢密院は君が抑えられて平気か。……僕もこれからは顔を出すようにしよう。議員たちにはみんなの参与ちゃんを、と恨みを買いそうだが」
二人だけで、少し先の未来を語るのは楽しかった。
「わたくしね、おじいさまにお約束したのよ。……必ずおじ様を勝ち獲ってみせます、王妃になります、立后します、って」
「勝ち得たもののみが勝者だとテオドラには伝えたと、先帝陛下は僕にそうお教えくださったよ。……なんだ、陛下とお二人でそんなお話をしていたのか」
おじ様がおかしそうに言うので、テオドラもいたずらがばれた子供みたいな顔で笑う。
「おじいさまのおっしゃったことの真髄が、今ならわかります」
女の子が素直な方が、男の子は手を伸ばしやすい。……本当に、そのようだった。
「帝国の勝者論の、真髄?」
「いいえ」
テオドラは横に首を振って、少し思いついて言葉にした。
「……例えば五十年後、わたくしが頑固で意固地なおばあさんになっても、おじ様はボートの上のわたくしを夢に見て思い出してくださいね、ってことです。幸せでいられる秘訣だそうですわ」
「何言ってるんだ。五十年後も君はかわいくて美しい、僕の大切な子に決まってるじゃないか」
馬鹿だな、とでもおっしゃりたいご様子で、おじ様はテオドラを甘やかす。
テオドラも嬉しくて恥ずかしくて渦巻きのサブレに手を伸ばした。
丸い焼き菓子は、森のバターをふんだんに使ったもの。さっくり、ふんわりと塩気や甘みが口の中に広がる。
心の中も、そのような感じだ。
「――――ともかく、この夏は二人で少しのんびりしよう。次にいつこんな時間を持てるかわからないからね。大いに楽しもう。ボート遊びもしよう」
「そうですわね。きっと夏が終われば毎日大変。わたくしはくるくる動くことによく慣れていますけど、おじ様はどうかしら。あまりのんびりも満喫なさらない方がいいんじゃありません? ボート遊びは大賛成ですけど、細かい日程表を作って、計画通りに物事を進めるのも肝要なのですよ」
「まだ婚姻届けも出さぬうちから……僕の未来の奥様は、僕の操縦が上手そうだ」
相変わらず、湖畔からは涼しい風が吹き付けてくる。
「ねえ、おじ様」
「……うん?」
「わたくし、おじ様のことがずっと大好きよ。……これからも、ずっとよ」
「……うん。知っている」
どこで、どうして、とはテオドラは問わなかった。たぶん、解ってしまうのだろう。
自分が思うよりずっとテオドラの心の中など。簡単に。
顔を見ただけでわかりやすいとおっしゃる人もいる。
「兄上から、深く考えるな、ドーラの上っ面だけ思い出してみろと言われた。あれは結構な天邪鬼だって。それから、若いっていいなー、とつぶやかれた」
問いかけはせずとも、思いは伝わったらしい。
「ジョージ義叔父様も案外意地悪でいらっしゃるわよね? わたくしの思いも、きっとおじ様の心の中もご存知なのに、成り行き任せでいらしたのよ」
「色事には紆余曲折が必要だとは兄上の持論だ。ご自分は保守的そのもののご結婚をされて、義姉上ともども保守的にお暮しなのに」
「わたくし、お話をするにつけ、大公殿下を敵に回してはならないと思いましたわ。でも、きっとずっと味方でいて下さる。おじ様とわたくしが、善い国王と善いお妃なら」
あとは――――。
思い出して、テオドラはおじ様に語り掛ける。
「ヒンクシー公爵も肝ですわ。あの閣下はご家族のこととなると度を失われることがおありの恐ろしい方だもの。ヒンクシー領の人食い熊って、きっと父上のことよ。おじ様はせいぜいご機嫌を取って差し上げてね」
「ああ、そういえばそんな難関もあった。実は君の母上もちょっとだけ怖い。ちょうど君に懸想し始めたころかな、突き刺さる視線が痛いと感じたことがある」
「まあ」
母上がそんな警戒をしていたとは驚いた。母性の危機察知能力とは、異能のようだと思う。
「でも、この夏おじ様とここで二人になると知っても、母上から特別なお小言はいただかなかったわ」
「それは、赦されているんだと期待してもいいのかな。セレモニーとして、お嬢さんを僕に下さい、とかいうあれはやるべきか。君の父上と母上に」
うわー、と身を震わせるようなしぐさをされて、それでもお顔から笑みが消えないおじ様に向かって、テオドラも笑った。
「ねえ、おじ様。今日はまず昼食の後でボート遊びをしましょう。そのあとのことはそのあとで考えましょうよ」
幼いころ、遊びを先に思いついてテオドラの手を引くのはおじ様の役目だった。これからは、二人手を取り合って、同じ歩調で歩んでいく日々が始まるのだ。
これから五十年後、頑固で意固地が服に着たようなおじいさまにおじ様がおなりになっても、昨夜の妻問いと、今日のボート遊びを思い出せばテオドラは一生幸せな女の子のままでいられるに違いない。
「ね、おじ様」
「うん?」
「わたくし、幸せよ。心の底から、おじ様を愛しています」
「……うん」
目の前で嬉しそうに口元を緩める人の愛しいお顔を見上げて、テオドラは思いに力を吹き込む。
この人とずっと一緒に歩いていく。
その前に終わらせてしまうことは、さっさと終わらせてしまわなければ。
心の中に結んでいた氷は、今や融けきって、まるで春の花畑のごとき幸福な光景が広がっている。
「わたくし、おじ様のお嫁さんにずっとなりたかったの」
「ずっと? それは、いつから?」
「ずっと、もうずっと、小さい頃からです」
笑って、テオドラはまつげを伏せる。
「幸せなお嫁さんに、してくださるのよね?」
「もちろん、そのつもりだよ。僕のことは君が幸せにしてくれるんだろうしね――――」
徐々に高くなる天帝の姿が、おじ様の青い瞳を輝かせていた。
おじ様の目にも、テオドラの瞳が同じように見えていることだろう。
まぶしささえ、いとおしい。
――――今はもう少しだけ二人きりを楽しませて。
誰に願うでもなく願って、テオドラは午後のボート遊びに思いを馳せた。
~D.C
最終話でした。
ほんの短い間でしたが、読んでくださった皆様、お目にとめてくださった皆様、
ご愛顧賜わりましてありがとうございます。
書くのがただただ楽しかったです。読んでいただけたのも嬉しかったです。ありがとうございました。