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婚約破棄が順調すぎて  作者: 枯枝折子
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出遅れ感が否めませんが、やっぱり楽しそうという欲望に負けての初投稿です。

お作法に不備がありましたら、ご指摘いただけますと幸いです。

どうぞよろしくお願いいたします。

「――――閣下」


玲瓏とした声が天井の高い回廊に響いて、疲労に蝕まれたヒンクシー公爵ジラルド三世の視線を上げさせた。

「おお、参与。バックリーウッド子爵」


若い頃には騎士団にて勇名をはせた武官の一人だったが、やがて再編によって誕生した陸軍で幕僚となり、枢密院議員でもある壮年の今では、ジラルドも文官として辣腕を揮うようになって久しい。

騎士の誉れであった長剣も、手すさびにも持つことがない。

軍属ではあるものの、帯剣すると言えばそれは儀典用の「飾り」である。

そういう時代になった。

懐に忍ばせてある拳銃によってのみ、かつて武官であった名残を感じとどめられている。

体力の低下はいやが上にもその身に降りかかり、馬車での移動もそれが長時間に及べば、肩や背や腰や、あるいは膝のあたりの関節にまで無理を強いているとそろそろ感じる齢である。

本音を言うなら、……隣国への五日に渡った旅路の終着の貴族院にある執務室で、旅装を解くなりソファに横たわってしばしの休息を、と怠惰を食みたいところではあった。

革張りのソファに身を沈め、重ねたクッションを枕に、夢も見ないような眠りを……と夢を見た。

そもそも、だ。

そもそも行程が無理筋なのだ。

ありえない。馬車旅なら往復十日はかかる距離を、その半分で踏破するなど……この半老体に、骨を砕け身を削れと鞭をふるわれて……。


帝国行きの街道など、整備されて久しい。宿場宿場には御大尽方の滞在先が泰然として存在し、行きも帰りも夜盗になど会わない、安全な行程が確保されている。

とはいえ、途中、昔取った杵柄、馬での移動を挟まねば到底遂げられる仕事ではなかった。

国王からの親書を隣国の新帝へ手渡すだけの仕事、陸軍大臣である自分ではなく、他に適任者がいくらでもいただろうと思うのだ。

帝国と国境を接する公爵領の領主であるから、新帝とは旧知の間柄だから、義兄弟であるから、などとの題目があったにしろ、だ。

と、愚痴が口をついて出そうになったが、ジラルドの旅をやけに支持した人物が目の前にいる。無言でジラルドは、喪に服して今日も今日とて、黒い上下の相手の駆け寄るのを待った。

石造りの王宮の一角だが、ここは貴族院と枢密院を結ぶ最短の通路に当たり、毛足の長いじゅうたんが半面に敷かれている。支柱ごとに配された警備兵は身動ぎもしない。まるで甲冑のみの像のように、貴人同士の邂逅に意識を奪われもせず職務を全うしている。


「おかえりなさいませ。ちょうどようございました。まもなく午後の会議ですから、そろそろお戻りあそばされた頃合いかと……お迎えに上がったのです。お疲れのご様子ですね、お腰のお加減はいかがですか」


怜悧な声だが、優しいいたわりが溢れ出んばかりだ。

「……いや、大事ない。大儀であったな」

気遣われているな、と分かってしまっても、応じるのは無骨につっけんどんな愛想のかけらもない声だ。

これもひとつ、わが身を蝕む呪いのようである。ジラルドはいわば、見栄張りだ。

「左様ですか? ……では、討議の前にいくつかご報告申し上げても? ……あと……ご相談もあるのです、ええ、いくつか」

長いまつげを伏せるようにして、手にしていた紙の束をこちらへと差し出す美丈夫の風情、まさに麗しき貴公子としかいえない貴公子っぷりをジラルドはわずかに見下ろした。

実に、美しく冷然と整った容貌だ。麗人、である。佳人、である。しかも何やら魔性の、と頭句を置くにふさわしいそれである。

癖のない長い黒髪を後ろで一本に編んだものを肩から胸にたらし、今日は瞳と同じ暁の空のような群青色のリボンで縛ってある。


このリボンについてはいくつもの華やかな逸話が語られていた。王宮内に出仕する女官や、貴族院議員の執務室付きの侍女やメイド、といった年頃の娘、あるいは昔の娘までもがこぞって、その美しい髪を飾る一本のリボンで『寵を競って』いるのだとか。今は喪中にあり、贈るのにも華美ではいけなく、特に工夫が必要らしい。

素材、色、ある者は繊細な刺繍を施してみたり、ごくごく細い糸をレース様に編んだり。淡い暖色のもの、幅広のものはお好みではないらしいとの、誰かがほんの少しの会話から「お気に入り」の糸口をつかめば、街のファッション小物店からあっという間に寒色系の細身のリボンが正しく流出してしまう有様だったという。


……理解は、し難いが。この目の覚めるような美貌であれば女性たちの熱狂の理由にはなるのだろうな、とジラルドは半ば呆れ、半ば感心しながら差し出された紙片を受け取った。

いくつかの懸案に対する提言、懸念、簡潔にまとめられた表題や要約を流し見て、なるほど、この才気であればやはり、表立っても、水面下でも、同様の狂乱が繰り広げられるのも頷けると思いを新たにする。

並外れた美貌のせいだけではなく、だ。

また、王宮をジラルドが離れている間に俎上に上ったものから順に、最低限陸軍大臣として頭に入れておくべき雑事までが細かく網羅されている一枚までもが添付されている。秘書の仕事は別の担当補佐官がいるのだが、残念ながら武官である二名の男はこうした細やかさとは無縁だった。なんという気遣い、心遣い。

罪びとのようだな、と思う。


まるで人の敵のようではないか。あれほど世の女たちの心を騒がせて。しかも女だけではないのが恐ろしいのだ。そうだ、この才気や魔性の美貌に心酔して熱狂しているのは何も女ばかりではないのだから始末が悪いというか、そもそも――――

「閣下、帝国へのご祝賀ですけれど、大公妃殿下とヒンクシー公爵夫人のお名前で公爵領より花卉類をお送りする手配が整ってございます。大量の運搬になりますので、公爵領とお隣の女公領軍から多少の人員をお借りいたしますことをお許しください。大公家と公爵家からの宝物の贈り物については別便をお発ちの際の馬車列に加えます」

「あ、ああ。よい。承知した。そなたに任せる」

任せておけば充分満足のいく仕事になることを、ジラルドもまた知っていた。

「ありがとう存じます。これで我が国から新皇帝即位の儀についてはおおむね準備が整うでしょうが……まことによろしいのでしょうか、国王陛下と王妃陛下からのご祝賀が親書のみとは……。縁のある貴族家からもそれぞれに相応の贈り物が運ばれていることと思いますのに」

来月、隣国である帝国で新皇帝の即位式が執り行われる。先帝の崩御から一年の喪が明けるためだった。

この王国からは、大公殿下、妃殿下と、ヒンクシー公爵夫妻が即位式に出席することになっている。外交実績のあるケニントン王弟公爵殿下の日程にはあまり余裕がなく、招待状は届いているものの実際の出立は未定だった。

帝国出身の大公妃殿下と公爵夫人、ジラルドの妻が新皇帝の実妹となるためだ。隣国に降嫁してきた皇女姉妹がこのたび、それぞれの夫と子供を伴って、祖国の兄の皇帝即位のために里帰りを果たす。またジラルドにも王弟殿下にも、帝国への留学経験があり、新皇帝とは家族としても往来のある、気の置けない親しい付き合いが続いている。


「――――知らぬ」

「しかし、いつの時代の儀典に照らし合わせましても……」

「……よいのだ、両陛下が儀典や外交にご興味がないのは今に始まったことではあるまい。それでよい。新帝陛下は息災であられたよ。お目にかかれるだけでよかったのだ、この親書の旅は。そもそも参与、そなたの号令一下ではなかったか」

「……それは……ええ、せめて面目を保つためにもと、閣下にはご無理を……多く申し上げました……」

――――偽王を戴いている。口に出したことはないが、多くの者がそう感じていることだろう。あれは、我が戴く王にはあらず。

どうやらこの三代ほど、この国の王家はそのような残念な家系になったらしい。悪しきものがが憑りついてしまったかのようだと王都の民の口にも上るという。そろそろ国が滅ぶのではないかというところ、先代の死の間際に王太后陛下を中心としてなんとか機能し始めたのが枢密院、評議制で国の閣僚や有識者ばかりを集めて発足した国の最高意思決定機関であった。

「いつものように、だ。よいな」

ジラルドは、いつものように、つまり適宜新皇帝の即位に対してふさわしい贈り物を勝手に選んで、国王には無届のまま勝手に贈ってしまえと言っている。

「……はい」

「納得のゆかぬ顔だな。……参与、宝物庫の手放してよい国宝の目録など、そなたの頭の中には開かれておろうが。適当なものを選べ、大公殿下方との出立の際に持ち出すようにしよう」

「……心がこもらぬ贈り物などと、一瞬考えただけです。そうですね、お贈りするなら翡翠で彫られたサヴィア伯領産の孔雀像がよろしいかと。孔雀は帝国には吉兆の鳥ですし……」

二人は時折立ち止まり、議場への階段を上がりながら、紙をめくり、また立ち止まり、午後の会議が始まる枢密院への道を急いだ。

このひと月の公爵家の財務月計表に、思わず眉をひそめてしまう王族の個人的な支出に関する報告書。未来の王太子妃の持参金口よりすでに拠出が始まって久しい王族の債務表。国王の個人資産の評価額概算、いくつかの領の港湾建設にふさわしい土地の地形図など、それこそこの枢密院参与が一人で集めてきたに違いない様々な情報がジラルドの両手の中で収束している。

「……?」

まとめて渡されていた最後の一枚、見慣れない書式の定型化された文書に、ジラルドの手が止まった。

「……なぜ、このようなことになっておる」


「なぜ、と申されましても。わたくしの都合でしょうか。閣下のご署名を戴きまして陳述書を添えて、枢密院に早々に提出いたしたく存じますが」

「そなた、これでよいのか。決意したのか? 後悔はせぬか……?」

まさかこの準備のために、自分を隣国へと追いやったのではあるまいか。周到なことだ。


――――婚姻のための誓約全てを無効とする旨の申立書であった。つまりこの美しい参与は、自ら望んでおのれの婚約を無効とするつもりである。単なる婚約の破棄、ではなく婚約そのものの無効を訴える訴状も兼ねる。


この十数年、婚約者の地位にあることがやはり、それほどに苦痛だったのだどジラルドは見受ける。

枢密院参与でもある者の婚約無効か、たしかにこれは……高等法院で扱われる案件でもなかった。

感情を、あまり豊かに言葉には出さない人だが。それでもその婚約者との関係において、思うところは多分に持ち合わせていたらしい。……その気持ちも分かる。

「後悔など、しようがありません。まさしくわたくしから望んで、ですわ。この一年ほどのことのようですが、父上、我が婚約者、王太子殿下に置かれましては特別に思う方ができたご様子。以前から何かと遊び好きで移り気な方、いずれ梅毒か薬物で死ぬのが先かと思っておりましたが、おそらく、次に学院へ登校した日になるでしょうか。あちらから婚約の破棄か、あるいは解消をを申し渡されることでしょう。それも、公衆の面前で、だそうでございますよ?」


麗しき男装の佳人、――――まさに魔性のようなジラルドの娘が、最近はめっきり見ることの少なくなった娘の顔でそう鬱憤を解き放っている。……事前に把握できてよかったわ、と唇を尖らせた。


「マイヤが伝えてこなければ、大恥をかくところでした。さほど接した時間が長い方でもありませんから、未練も恩讐もございませんけれど、あちらからの破棄はあり得ないとずっと思っていましたの。油断しておりました。もう少し準備に時間がかけられるものと考えていましたの。何しろ側近方の掌握費の件もございましたし……少々焦ってしまいましたわ。手続きに不備がなければよいのですけれど」

これからどうやって暮らし向きを立てるおつもりかしら。それとも、暗い所でお過ごしになるのかしら。

暗愚の王子を娘は策略家の目で茶化して見下して、ふふっと邪気たっぷりに嗤う。

そして準備中であった、というならば、遅かれ早かれ実行に移すつもりではあった、ということも判明した。

公爵令嬢であり、王太子の婚約者であり、またバックリーウッド子爵として枢密院参与、及び貴族院顧問の身分にあるジラルドの娘ではあるが、不登校気味とはいえ貴族子弟なら男女問わず、庶民でも優秀であれば奨学金や後援者を得て入学が許される王立学院に、学籍は有している。

十六歳。第三学年に在学中である。

学院には娘には親しい友人が幾人も在籍していて、連絡は逐次、密に行われていたようだ。

以前より王太子のそのような噂は聞こえていたし、承知もしていた。その素行、評判についても。

相手が相手ゆえに事態の収拾がつかずにいた。が、公衆の面前での婚約破棄ともなれば、それこそこの国の貴族社会がひっくり返る。

愚かだ。余りにも愚かだ。さすがは偽王の子。そしてそれを諫める近習や学友もいないとは。ああ、いるには違いなかった。ただただお追従が得意な、その権威のおこぼれにあずかる寄生虫のような者たちが、確かにいる。


もともと、有力な公爵家の長姉として生まれ落ちた瞬間からジラルドの娘は、偽王、と心の内で嫌悪する国王夫妻の第一王子である、約二歳年上の王太子デジレとの婚約が調っていた。

枢密院が存在するがゆえに私財さえたやすく浪費することのできない国王夫妻は、国費から計上された予算以上の贅沢をするために国内有数の素封家の娘に目をつけ、盛大に持参金を要求し、こまごました遊興の財源にした。無尽蔵に金を引き出せる金庫だとでも思っているかのように。

帝国出のジラルドの妻に、娘が産まれた時の国王夫妻のはしゃぎぶりといったら、目にするのも恥ずかしい、おぞましさだった。

よくも恥ずかしげもなく、出産祝いとともに、生まれた娘を王太子の婚約者、未来の王太子妃として差し出せなどと申し出られたものだと、ジラルドも妻も憤慨した。

先代であれば、王妃の実家であったヒンクシー公爵家が王族の支援者となり得、側室方をはじめとして後宮の隅々までに富を行き渡らせることができたものである。のちに王太后陛下となったジラルドの叔母上さえ健在であれば、とあの頃は夜ごと悩み深かった。

しかる後の現在である。後宮は子爵家出身の側室腹の第一王子であった国王の意を酌んで王太后陛下の逝去のあと閉じられたものの、領地をもたない王都の貧しい男爵家出身である現在の王妃の実家は子爵位を恩賜に賜ったところで、王族の暮らし向きを支えることはできない。むしろ俸禄を上げた分だけ余計に金がかかる。国王の母方の子爵家も、同様である。まさか代替わりした子爵家の自らの年若い従兄の子に遊興費を乞うこともできない。

こんな時毒を食わなければならないのが高位貴族であり、いわばヒンクシー公爵家が当代でも貧乏くじを引いた。他の貴族は積極的に娘を王家へ嫁がせようとは考えない。先代、今上と恋に狂騒する王の時代の記憶が色濃い頃だ。側室に並々ならぬ入れあげようだった先代から、五人の姉弟を授かった叔母の故王太后は、傑出した女傑には違いなかった。後宮の第一王子とはいえ側室腹の王太子が立ったこと、その心中を語ることはしない人だったが。

ジラルドの娘は国民のための贄となることを余儀なくされた。主だった高位貴族はゆえにジラルドやその娘に好意的である。


そうやって信用のおけぬ王族にからめとられてしまったことが不憫で、あらん限りにジラルドや妻や周囲の者たちは娘を甘やかした。

父上のお仕事が見たい、お手伝いがしたいと言われればそば近くに仕事の際も寄り添わせ、議場のほぼ中央に赤い布を張った小さな椅子を置いて座らせた。

すると幼きゆえの発想の豊かさか、法案の穴を次々とを指摘し、教育制度や医療制度に新風を吹き込んだ。今王都の民に浮浪児や浮浪者はいない。素晴らしい政才の持ち主、ヒンクシー家から出た王太后陛下の再来と、その幼女にしては美々しい容姿共々話題に事欠かない娘だった。

女性に参政権のない我が国内にあって、公爵令嬢のままではせっかくの提言が活かされないからと、四つの幼子に帝国の母公領の所領の一つであるバックリーウッド子爵を名乗らせて男装させ、貴族院の顧問とし、枢密院参与の身分まで与えることになった。

それほど、ジラルドの娘の言葉は斬新で、しかも現実的であり、少しの工夫で実現が可能であり、それゆえ重みをもたせたかったのだ。お人形のような女児は、お人形のような男児の格好でそこから政治に携わるようになった。


教育制度、医療制度改革にとどまらず、農政、税制、人事、あるいは騎士団からの軍政制度改革にまで、そのくるくるよく回る頭がくるくると動いていれば、枢密院の誰もがただの幼い公爵令嬢、王太子の婚約者の他愛ない戯言と無碍にすることもできず、すべての貴族とわずかの庶民が学ぶ五年制の王立学院にも、結局のところ学籍だけは置かせてほとんど通学もままならない、という現状である。特に貴族院の会期中においては。閉会中も枢密院では例会に当たる会議が午前、日によっては午後も行われており、今日のように男装姿で王宮内を徘徊する……あるいは暗躍する、それがジラルドの娘の仕事だった。

十年余り、すでにその発言の重みは枢密院においても、並み居る重鎮方と同等である。国の礎となるための同志として交流を深くしていた。

……もっと幼い頃は得難い小さな子を大事にかわいがる、神童の庇護のようにも見えたが、十年も経てば、やはりお互い大人のやり取りが上手になった。しかし今も、娘に言わせるならお年を召された狸さんたちは、年若く美しい参与と、その口からこぼれ出る数々の提言に夢中である。

枢密院にあっては、『参与ちゃんは放っておいても勝手に成果を出すから』と多大な目こぼしが許されているし、ジラルドの娘は議会や王宮内の各行政府で神出鬼没の改革者として限りある自由を謳歌している。そして、娘も娘で、重鎮方の操縦法をよく心得ていた。

曖昧な青い瞳で少し見上げられ、お願い申し上げます……! などと請われた日には、実の父親であるジラルドとてわずかに動揺して、帰宅を迎えた彼女の母親に罪悪感を抱いてしまったほどだ。あれはとても威力のあるごり押しだ。まさに政治の中枢向きの娘。


もともと淑女教育も、王太子妃教育も、政治の合間に習得してしまうような娘であある。

王立学院での教育など、ほとんど役にも立たないと彼女の活躍を知る誰もがそう理解していた。単位は最初の一年ほどのうちに卒業までのすべての試験の前倒しと、すべての提出物を出し終えて卒業要件を満たし、三年目の今も王太子の婚約者としての顔つなぎのために、週に一度、もしくは隔週に一度、顔を出す程度。事情を知らぬ学院生からは病弱な令嬢と思われていることだろう。繊細に怜悧な容貌の持ち主ではあることだし。

実際は男の格好で王宮の女性たちの心を鷲掴みにしながら、議会に出席したり、その前段階として各行政府で法案の起草に携わったり、枢密院で王国の最深部のはかりごとの一部始終にかかわったりしている。

――――その、未来の妃殿下となるはずだった娘による、王太子殿下との婚約を無効とする旨の書類だった。


「そろそろ時期もよいでしょう、伯父上は新皇帝として即位され、母上の持参金の女公領も、叔母様の女公領もまもなく正式に我が国に編入される。あの方の婚約者で居続けることに意義を見出せませんもの、わたくし。……閣下、大公殿下を後見に、王弟殿下を擁立なさってやがての親政へ動きなさいませ。第一王子を廃して、あの方の立太子を」

冷徹だ。

冷静だった、あくまでも、娘は。未練も恩讐もないという言葉にも嘘はないのだろう。

「廃太子の無効の元婚約者でもよろしいか、と伺いましたら、かまわないと。まるで兄妹のようにそっくりな夫婦にはなってしまいますが、きっと国民は喜びますわね。大公殿下のところには姫君方しかおられませんから、これ以上叔母様に頑張っていただくのも難しいでしょう。我が家には弟たちが元気に育っておりますし、父上の跡継ぎも、母上の女公爵領も安泰と存じます。……おじ様とわたくしとで、国をあるべき姿に戻して見せます。五年以内に一人も子を授からなければ、後宮を再び。……そんな状況はなんとしても避けたいところですわね。おじ様とたくさん仲良くいたしませんと」

そして、強欲で、貪欲でもある。――――娘も決して語らないだろうがジラルドは知っている。

おのが初恋さえ、かなえてしまうとは。――――国盗りと同時に。

「王弟殿下がそなたを受け入れなさった、か?」

「はい。おじ様もそれでよい、と。わたくしをお嫁さんにして下さるのですって!」

「――――若者の思想というのはいつの時代も過激と決まっておるからなあ。まあ、どれ、では隠しておるのだろう。……もう一枚も出しなさい」

娘は、膿を持つ国にこれ以上用はないと王族の首のすげ替えにかかった様子だ。王太子との婚約を無効化する文書、その枢密院への提出用に名目上学生身分の娘は保護者の署名を待っていた。枢密院とは国の最高意思決定機関、つまりそういうことだ。

「父上が賛成してくださってよかった。……実はあと頂きたかったのは陸軍大臣の署名だけだったのです」

そして、もう一枚。王太子との婚約がなくなった後、現在はケニントン公である王弟殿下、未来の国王陛下と戴くにふさわしいその方との婚約の書類を要求してみれば、その書式はそれを飛び越して婚姻届けであり、すでに所狭しとすべての枢密院議員が証人として署名し、それぞれが小型の印璽を押印した後だ。

「参与。……バックッリーウッド子爵」

「……はい?」

「そなた、なぜ私を帝国へ行かせた。一体いつこれを集めた。」

麗しの娘は何だそんなこととと簡単に種明かしをする。

「だって、父上は張り切り屋さんでいらっしゃるから……ご負担はできる限り減らすべきだと思いましたの。婚約無効も正式な婚姻もわたくしのことですし。方々の御名前は今朝からでございます。会議前や休憩時間や昼の休憩に入ってから大急ぎで、でございます。お年を召された狸さんたちのお腹の中というのも過激にできておりますわね。皆さま大層乗り気でいらして。面白がっているみたいよ? それに、皆さまお悦びでいらっしゃる。嬉しいわ」

ジラルドの動きが一瞬停止した。

娘が新しい一歩を踏み出すと決めた。

ジラルドからは持ち出せなかった。古いくびきを捨て、新しい一歩を踏み出す。

婚約のための署名かと思えば、婚姻のための署名だった。それはよい。まだよい。幾分よい。娘の父親として許容範囲であった。

だが、これではまるで、クーデターのための、

「――――血判状のようではないかっ」

「閣下。声が大きゅうございます。お静かに」

なぜ、自分が署名すべき場所の左に、海軍大臣のディシルバ公爵の家紋がすでに押されている!

「失礼な。婚姻届けです。わたくしとおじ様の。血判状だなんて、ひどい。証人が多ければ多いほど、花嫁は幸せになれるんですよー?」

すっとぼけた口調で、男装の魔性の娘はバックリーウッド子爵領の特産品の一つである万年筆を差し出した。

婚姻届け、それは確かに。娘が署名し、娘が愛情をこめておじ様、とお呼びする王弟殿下、ケニントン公爵の御名がすでに記されたものだ。これを今から枢密院の評議にかけて承認する。午後の評定には、まるで娘の兄の様な容姿の、黒髪に暁の空の瞳を持つその方もおわすことだろう。今まで国政の表舞台には決して上がられなかった我が従弟君が、ようやくお心を決めてくださった。

あの小さないたずら坊主が我が国王、我が婿君とは……これだから人はいつまでも生きていたいと願うのだろう。

娘の示す箇所に器用に署名し、用意のいい娘の手の上から印璽用のインクを右小指にはめた指輪に押し付け幾枚もの紙を下敷きに押印した。婚約無効のための書類にも。

今、ジラルドの目に涙がにじむのは昨夜も馬車の中でよく眠れなかった、その弊害であり、歩みが止まったままなのも腰や膝に年齢や強行軍由来の痛みを抱えているせいだった。

「ありがとう、父上! ……閣下、どうされました? お早く立たれませんと本当にそろそろお時間が」

「……わかっておる。お前は先に行っていなさい。まもなく参る。始まってしまっても私が不在であれば、ほんの少し狸どもに話題を提供してやりなさい。ジラルドが帝国行きで膝と腰をやられたと」

「まあ! まあ! たいへん! どうして早くおっしゃらないのですか!」

「さほどでもないのだ、今晩一晩休めば治る程度だろう。いいから先に行きなさい」

……娘がついにその日を迎える。

出会いの瞬間さえ知っている、五つ年上の幼馴染の君と。焦がれてやまないだろう最愛の人と。

今、その婚姻届けの証人になった。娘の保護者として、署名し、家紋の印璽を押した。

世間の娘の父親というのは、これほど悔しく辛いものなのか。この空虚をどう乗り越えるのか。

こちらを気にして幾度も振り返るようにしながら娘は、長い階段を上ってゆく。

「いかん……。これはいかん」

肩までもが、まるで力を喪ったようにがくりと落ちる。

あの王太子に娘を嫁がせなければならないというのは、ジラルドにとって長い間の苦痛であり、悔恨であり、おのが不断の証であった。それがきれいさっぱり消えてなくなるという。

それも娘自身の意志によるのだから喜ばしいことには違いなかった。だというのに、実際はどうだ。

娘を奪われてゆく父親というのは、どんな条件下にあってもこれほどに心許なく不安定な生き物に成り下がってしまうのだ。

娘はどうだ。嬉々として、訪れた喜びに胸を弾ませていたではないか。

ジラルドの娘は、これまで学んできた通りの王太子妃を飛び越して、その夫君とともに国を獲るつもりだ。新国王の隣に控える新王妃として、やがて二人で戴冠してしまう、その腹積もりでいる。

確かに、姫君ばかり七人がお育ちの大公殿下よりも、より若く未婚であり、何より黒髪に暁の青の瞳の王妃を持つ、同じ黒髪に暁の青の瞳の、まるで建国神話のような王となることができるなら、第三王子とはいえ王弟殿下を新国王に、かつての王太后陛下を同じ母とする次兄殿下、大公殿下を摂政にしつつ、やがて親政へと動くのがよい。あるいは現陛下はさっぱり政治にはご興味もなく臨席賜ったことなどかつて一度もないが、枢密院の機能はそのまま残して、できる限り情報が中央へ集約される体制を敷き、もともと大公殿下と王弟殿下のお志の良きようにと動いてきた者たちなのだから、皆で閣内を整え、新国王の御代が平穏であるようお護りできればよい。親政とはいえ、法の下に国王がある形だ。ジラルドの娘ならもっと美しい制度の名をつけるのだろうが、急激に開けた未来が輝かしく、尊いものに思えた。

気落ちしていたジラルドの頬に、わずかに生気がみなぎり始める。

枢密院議員のすべて、ことに海のディシルバ公が、王弟殿下と娘の婚姻の証人の一人であるなら、陸軍も海軍もすでに抑えられている、といってよい。

ジラルドの旗下にある陸軍は、一人の離脱者を出すこともなく新陛下についてみせる。海軍に至ってもそれは同様だろう。王弟殿下は海軍籍をお持ちのお方だ。

おおよそすべての国民もだ。憲兵隊の動きは気になるが、彼らにも否やはないだろう。元は騎士団の騎士爵を幹部に下士官以下を中心に編成された組織だ。彼らも国の在り方を憂う仲間だった。

それほど、現国王には人望も希望もなく、ただ王妃と享楽の日々を過ごしている。国庫に手は付けられていない。彼らの遊興にはすべて娘の持参金の一部としてヒンクシー公爵家より先に用立てた金が充てられている。

王妃陛下はほぼ庶民に近い身分の出であり、新婚当時こそ国民人気が高かったがやがてそれも霧散した。持参金もなく、贅沢な暮らしがしたければ息子の未来の婚家から引き出す以外に方法がなかった。

枢密院は彼らの贅沢のための予算には決して印璽を押さない。王家の面目を保つための限度ある予算を、国費から毎年計上するのみである。

彼らの唯一の子息との婚約が無効とされるのであれば、それも正しく負債として取り立てねばならない。国王一家の債務の記録は枢密院によって厳密に管理されている。

娘の持参金から貸出し済みの資金が回収できなければ、元皇女であるが、しまり屋のジラルドの妻が許さないだろう。

……なるほど、それで王家の私財の評価額を算出したか。あとは港湾建設のための海岸地形図、三枚……なるほど。おもしろい、こちらは例の『掌握費』の件か。

敏い娘はすでに先回りしている。現国王の個人資産などあってないようなものだが、例えば先代から譲り受けた王私領など、もはや王でもなくなる者には不要の持ち物だろう。あとは各地の離宮などもそうか。これは新たに娘の持参金に加えていいだろう。個人資産でいえば現国王より王弟殿下の方がよほどお持ちではあるが、婿君も喜ばれることだろう。それに離宮などいくつ持ったところで維持費が、というのが本音である。狩猟館などは、土地の貴族や商家に売ってしまってもよいかも知れない。新国王陛下は……ああ、いやいや、王弟殿下は狩りなどなさらない方だから。お優しい性格の方なのだ。

――――しかし、よくできた娘だ。婚約者から申し出られる婚約破棄のお膳立てをして差し上げるとは。持参金の清算、それによる国王の私財回収からの王位簒奪とは。いったいいつから、どの時点から計画していたのであろう。まるでこの手の中に収束した書類の中に、娘のたくらみのすべてが集約されているようである。機を見るに敏、といった言葉では語りつくせない周到さだ。

引き金を引くのは愚かな王太子であり、その恋人であろう。

そちらの情報はジラルドも把握済みだった。

噂で、正式な報告で、何より娘自身の決断によって。裕福で瑕疵のない婚約者を棄て、学業が優秀なだけで王立学院に籍を得た、よりによって庶民の娘を選ぶとは愚の骨頂。そのとりえの学業さえ学院から絶望視されている昨今であるのに、か。

王太子の現在の恋人は今年卒業を控えていたが、卒業要件を満たすことがすでに難しいという。通告や警告を教諭から発しても、いささかの危機感も持ち合わせていないそうである。

廃太子の新たな婚約者ともなれば退学を余儀なくされるか、無償奨学金の対象外となり除籍の上放校処分となるか、どちらでも構わない。

王太子の首がすげ替えられ、同時に今上には贅沢のつけを文字通り返還の上退位を願う。私財をすべて失って、『元貴人の塔』のいう名の地下牢への幽閉。本来なら、首を切り落としてしまえば、その生命の維持費もかけずに済むだろうが、血の流れる王族のすげ替えなど、新国王の新しい御代にはふさわしくない。

そう、立太子から、新国王としての戴冠。帝国の即位式前のわずかな日程で成し遂げられるだろうか。ひょっとしてこれも計算の内か、出席未定のままだった、王弟殿下の帝国行き。

ジラルドは、ははっと声に出して笑った。

血は流れないが、正しき王統への王位の返還というクーデターだ。もうまもなく決議される。

……皆、やる気だという。

……今日の評定はきっと凪の海のようだろう。あのよく回る頭がくるくるとよく動いて、枢密院参与、バックリーウッド子爵の仕事には今日もいたって無駄がない。ジラルドは娘を送り出す父親になり、同僚議員が祝辞とともに少しの哀れみを寄せてくれるだろう。

……婿君のことは……、皮肉の一つでもくれてやればすっきりして溜飲も下がるだろう。


ならば、今はえい、と自分も一歩、踏み出さなければ。

肩こりも腰痛も何するものぞ。階段は膝がつらいが赤いじゅうたんが議場まで導いてくれるはずだ。だから、今一度、さて、もう一歩。


「ああ神々よ、若き二人の未来にどうか祝福を……! ――ああ、ドーラ……おめでとう。おめでとう、ウィル殿下……ウィルヘルム二世新国王陛下、テオドラ妃殿下……!」


ここは祈りの場でもない、ただの王宮の一角。枢密院へ続く階段の踊り場。

しかし秋の午後の光が穏やかに差し込むこの場所で、ジラルドはいつになく神々の存在を近くに感じた、敬虔なひとりの信徒のように頽れた。


――――膝の痛みに遂に屈した、そのついでに違いなかった。

神々にこうたやすく祈るなど、かつて武官であったの男の鋼のような精神が許さない。だからあくまでもついでに、であるはずだった。

まだ成功してもいない王位の簒奪を喜ぶなど、現役の閣僚としてはあり得ない失態をしてみせたのも、それもこれもすべて帝国への強行軍のせいだ。疲れていたのだ。何もかも、……娘のせいだ。


「参与め……しばらく口はきいてやらんからな。ふん、いい気味だ……」

強気に出たはずの言葉に力がないのも何もかも、枢密院参与、バックリーウッド子爵の張り巡らせた巧妙な手練手管のせいだった。ジラルド自身には罪はない。

ある秋の昼下がり。ここは議場へ続く階段の踊り場。警備兵の目はここにはない。

ヒンクシー公爵ジラルド三世の失態も独り言も、誰も目していない。

誰も耳にしていない――――。


全10話以内に収まる予定で、次話からは午前零時の予約投稿を行いたいと思います。

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