第三話 真亜莉、バカップルと遭遇しました
戦闘は無理だ。狼から視線を逸らすこと無く真亜莉は思う。
身体強化をしたところでどの程度戦えるかは未知数過ぎて悪手でしかない。では「逃げ切れるのか」と自問して、全速力を出したとしても戦闘と一緒でどの程度かわからないと答えを出した。
昨日の内に自分の能力の把握を済ませておくべきだった。
十分に気を付けておくべきだと考えていたのにも関わらず、興奮した真亜莉は頭の片隅に追いやっていた。ネックレスのお陰か特に危ない目に遭わずに爆睡してしまったため、単純に忘れていたのだ。魔法と言う力が存在する以上、真亜莉が思っている以上に危険な世界なのだ。今はもう悔やむしかない。
何ができるか、どうするべきか。真亜莉は今できる最善の路を探してぐるぐると思考する。
(二人の幸せを見届けにきたのに、まだ何もしていないのに)
知らず顔が強張っていたのか、未だに目があったまま――逸らせた瞬間に食いちぎられそうで目を逸らせないだけ――の狼は、一咬みで真亜莉を肉塊に変えることが可能なほど大きな口を、開けた。
『何をそんなに緊張しておる』
グルル。喉から唸り声が聞こえたのと、真亜莉にも通じる言葉が聞こえたのは同時だった。
二重音声を聞いているようだ。
『聞いているのか?』
グルル。また喉が鳴る。真亜莉の耳には言葉として入ってこないのは、その言葉が直接脳内に流れ込んでいるように感じるからだ。耳からは確かにあの大きな口から唸り声が聞こえるのに、同時翻訳されているような二重に聞こえる不思議。狼の問い掛けに返答できなかったのは仕方のないことだった。
『耳はあるか?』
「うわぁ!」
漸く狼の声が正しく認識出来たのはその巨体が自分に近付いてからだった。確認しにきたのか、固まっている真亜莉の耳をペロリと舐めたのだ。
すっとんきょうな声を出してしまったのは仕方ない。行きなりの出来事に頭も身体もついていかなかったのだ。耳を押さえて反射的に後ろに飛び退いたのだが、身体強化の魔法を掛けていたことをすっかり忘れていた。
「おわぁ!」
思っていたよりも後ろに飛びすぎて木に体当たりしてしまった。
「いったぁ」
『何をしておる』
「あ、いや……」
これまた身体強化のお陰で大した怪我を負うことはなかったが、狼の呆れたような残念な者を見ているような憐憫の眼差しがとても心に刺さる。狼の表情なんてわからない筈なのに。
顔が赤くなんて、なってない。
狼はマヌアーサと名乗った。何でも『魔の森』と呼ばれるここら一帯の主らしく、湖を守るモノという意味で本当の名前ではないそうだ。本当の名――真名は番か主にしか教えないそうで、マヌアーサは魔物に分類されるのではなく、知性のある魔物――魔獣というらしい。ただし、そんなに気さく話し掛けられても真亜莉の警戒はなかなか解けなかった。第一印象が悪すぎたのだ。真亜莉があまりにも警戒するものだから、「まさか渡り人か」と問い掛けられた。渡り人が何か分からなかったが、言葉通りの世界を『渡った人』なのだとすればその答えはイエスである。マヌアーサも真亜莉と同じく不思議そうな顔をしていたが。
他にも色々と話してくれたので、どうしてそこまで親切に教えてくれるのかと問えば、今話していた内容がこの世界の常識らしく、それを知らない真亜莉が渡り人だと確認していたようだ。マヌアーサの番が真亜莉と同じ渡り人であり、親近感が沸き更に色々と話してくれた。今はその人が待つ湖に向かっているところだ。真亜莉は気付いていなかったが、マヌアーサは番に危害を加えない者かどうか見極めていた。
『お主らの世界には魔獣はいないんであったな』
「そうですね。魔獣どころか、魔物もしゃべる動物もいないですよ』
命の危険を感じていたのが馬鹿らしいほどに話しやすい狼だった。言葉が通じることに安堵しつつ警戒は続けていたものの、マヌアーサにネックレスのことを指摘――全ての邪気を祓うモノを知っていた――されて警戒を解いた。
自分に危害を加えるものを排除するという魔法がかけられていることは、すっかり頭の片隅に追いやられていた。残念過ぎる。
マヌアーサは長年生きているらしく知的好奇心旺盛で、真亜莉が何者なのか、害がないかどうか昨日から気配を窺っていたらしい。因みに他の魔物も真亜莉の様子を窺っていたようだが、ネックレスのおかげかマヌアーサのお陰か遭遇することはなかった。全く気付かなんだ。
そこで話しにのぼったマヌアーサの番の話だ。
番とは要するに奥さんのことだ。そんな大事な人に会わせてくれようとしているということは、やはり信用してもよさそうだ。真亜莉は安堵した。
『魔物ががいないということは、当然魔力もないのだな?』
『勿論ですよ!魔力もなければ魔法もないです」
『ではなぜまほ、』
「ムーたぁん!」
歩きながら話しているマヌアーサの言葉に被せて明るい声が聞こえてきた。
「ムー……タン?」
『ヴィアーナ!』
真亜莉の疑問符もなんのその、長年遠距離恋愛をしてきたカップルが久々に再会するがごとく走りよったマヌアーサ。それに勢いよく抱きついた小柄な女性。どうやら彼女が渡り人らしい。黒髪黒目。どう考えても慣れ親しんだ見た目の、日本人だった。
ヴィアーナと呼ばれた女性がマヌアーサに抱き付き、その勢いでくるりと一回転。次に真亜莉の視界に映し出されたのは狼の毛並みと同じ色の蒼銀を纏う長身細躯の偉丈夫だった。ヴィアーナをこれでもかと溺愛の眼差しで見ていることから彼はマヌアーサだと思われる。
話す狼がいたのだ、人化する狼が居ても不思議ではない。無理矢理納得させた。
(その姿で出て来てくれたらあんなに怯えなくて済んだのに)
口に出さない真亜莉は懸命だった。誰か誉めて。
お互いがお互いしか視界に入っていないイチャイチャしている二人を眺めながら、真亜莉の瞳からは光る何かが見えた気がした。
▽
「ごめんなさいね」
そうにこやかに謝罪したのは正式に名乗ってもらったヴィアーナだ。
連れてきて貰ったのは幻想的な光景の湖だった。何処までも拡がる端が見えない巨大な湖で、透き通っているのか空と湖との境目が見えないほどの美しい湖だった。そんな湖の畔にあるこじんまりとしたログハウスがあり、今はリビングらしきところでお茶を頂いている。
「あ、いえ」
真亜莉にはそう返答するしか出来なかった。マヌアーサに至ってはなぜ謝罪しているのかもわかっていない様子だ。
「ここに人はあまりこないからどうしても自分たちの世界に入り込みやすいのよ。ごめんなさい」
悪びれた様子の無いヴィアーナに口元を引き攣らせながら真亜莉も自己紹介をした。
「マヌアーサさんに拾って?貰いました。真亜莉と言います。ヴィアーナさんは日本人ですか?」
「そうよ。あら、女の子?ん?日本人?」
二十代の半ばほどに見えるヴィアーナは黒髪黒眼の純日本人顔である。身長も平均の150センチ後半ほどだ。何処からどう見ても日本人なのに『ヴィアーナ』という名前に首を傾げながら問いかけてみると、真亜莉には聞き慣れた――聞きようによっては些か失礼な――質問をされた。
「はい。よく言われますが性別は一応女で、こう見えても日本人です」
「どっからどう見ても女であろう」
なぜだかそこでマヌアーサからの突っ込みが入った。初見で真亜莉のことを女と断言できるものはあまりいない。それは170センチある――女にしては高い――身長のせいだったり、ショートカットを好んでしていたりといくつか理由はあるが、やはり顔だろう。外国の血を引く真亜莉はその血を色濃く顔立ちに反映させた。北欧系と思わしき中性的な顔に白金の髪の毛、エメラルドグリーンの瞳が合わされば性別よりも容姿に先に目が行く。日本人の中にいれば特に性別は分かりにくかったことだろう。
「雌の匂いがする」
顔立ちは関係なかったらしい。
躾と称されて小屋から叩きだされたマヌアーサは放置の方向で、ヴィアーナは改めて真亜莉に向き直った。
「失礼なこと言ってごめんなさいね。あ、私もか……あまり人と話す事がこの処無くってね。でりかしーがなかったわ」
「はぁ」
特に気にしていない真亜莉は返答に困る。しかし更に返答に困るのが次に続いた言葉だった。
「何せ人の中で暮らしていたのは100年も前のことだから」
「え」
「改めて篠山美華です。この世界に落ちて来たのは今から100年ほど前に当時小学生だった落ち人です」
「え、あの」
「まぁ、そうなるよね、普通は。簡単に言えばあの人、ム―の番になった時に人間辞めたってわけ」
「う、はい」
「この見た目で歳が止まったから、それからはここで暮らしているのよ」
後悔しているわけではない。ただ悲しさはいつまでも抜け出せない。そんな表情のヴィアーナもとい、美華はそれでも快活に笑った。
「後悔はしてないよ。こうしてム―と一緒に楽しく暮らしているからね」
「はい」
この先は赤の他人が、増して今日会っただけの人間が踏み込んでいい場所ではない。本人がこうして笑っているのだ、真亜莉は次は自分の番と言わんばかりに質問を投げかけた。
「なぜ、ヴィアーナ……さん?」
「あら、ふふ。そうねそっちが先だったわね」
一度目を丸くした後にヴィアーナは「ふふふ」と上品に笑ってから説明してくれた。
「貴女の見た目はおいておいても日本人なのよね?」
「はい」
「じゃあ解りづらいかもしれないんだけど、『みはな』ってこっちの人には発音がしにくいみたいなの」
「ああ、なるほど」
「ビアナって言われたわ。こっちで拾ってくれた『おかあさん』がいてね。呼びやすいようにヴィアーナになったの」
さっきも感じた少しだけ哀しそうな瞳の揺れ。100年以上も生きていれば親しい人を何人も見送ってきたのだろう。しかし慣れたものなのか、ヴィアーナは直ぐに切り替えた様子だった。
「名前はわかりました。ありがとうございます。ヴィアーナさんてお呼びしても?」
「ふふ。アーナでいいわ。親しい人はそう呼ぶの。同じ渡り人ですもの」
「アーナさん」
「ん?」
「現在地を教えて貰ってもいいですか?」
楽しそうに笑うヴィアーナにつられて真亜莉も少しだけ笑った。しかし目的を忘れてはならない。現状把握が今の最優先事項である。
「まず、ここが私たちの居た地球ではないのはわかっているのよね?」
「はい」
「国としてはサティア国最西部の辺境スクランズ領にあるスクラムという街に隣接している魔の森というところよ」
「えっと、どこから聞いたらいいのか」
「そうね。簡単に説明するわね」
本来辺境と呼ばれた街は更に内陸にあったのだが、この街が発展するにしたがいこの街が正しく辺境の地として認識されたそうだ。なぜ辺境とも呼ばれないような村があったか、また今や辺境とはいえ人の出入りの激しい街として認識され始めたか。その原因となったのが現在地である『魔の森』だ。
魔の森は動物もいない魔物の楽園だ。その昔、食物としての価値がなかった魔物しかいない魔の森が広がるここは、人の住める地ではなかった。それが研究されて魔物を食べることが出来るようになったことで、人が多く集まるようになったそうだ。そして食べられる魔物からは『魔石』と呼ばれるものがとれるため、ますます発展したそうな。
(昨日見た兎も魔物だったんだ。てか、うまいの?)
どうでもいいことを考えていた。
そして隣接しているとはその名の通りで今いる場所は森の奥地なため街は見えないが、街と森はくっついている――魔の森を開拓途中で頓挫したため――状態なんだそうだ。
「では方角さえ教えて頂ければ街につきますね」
「あ、ム―幻術掛けているから解かないと出ていけないの。それより結構落ち着いているようだけど大丈夫?」
「え」
「私がこっちに落ちて来た時はそれはもう大騒ぎ。幸いいい人に拾われて言葉も教えて貰えたからよかったけど、そうではなかったら地球と比べて治安の悪いこの世界で生きていけたかわからないわ」
「あ、そういう。えっと、私自分の意志で来たんです」
「え?」
今度疑問符を頭に浮かべたのはヴィアーナだった。
「それは我も不思議に思っていたのだ。魔獣も魔物も魔術も存在しないはずの異界人が魔法を使っているからの」
「あ、本当だ」
いつの間にか戻ってきていたマヌアーサはヴィアーナの隣で疑問符を浮かべて真亜莉を見ていた。ずっと身体強化を発動しっぱなしなため、真亜莉の発する魔力を二人は感じていたようだ。
この世界には日本人、または日本と関わりがある人――『渡り人』がそれなりの数いるらしい。なぜ日本人なのかはわかっていないが、そのお陰で文明の発展は著しいそうだ。本来渡り人とは何かしらの原因があり――否意味なんてないのかもしれない――突如として落ちてきてしまう人のことを示す。
落ちてくるとはその名の通り、落ちるのだ。位置関係を地球があった世界が上だとすると、此方の世界が下。だから落ちることは出来ても登ることは難しいらしい。話しぶりからして重力の問題ではないので、問題はそこではないようだが。
「帰ることは出来ないから、その方法を考える人は少なくなってしまったの」
「アーナ」
渡り人が帰った話は聞いたことがない。帰れるかもしれない期待を持つよりも、諦めるほうが簡単なのかもしれない。ヴィアーナも当初は帰る為に奮闘したのだろう。慰めるようにマヌアーサはヴィアーナの頭を撫でた。
そして『呼び人』と呼ばれる渡り人はそんな思い――帰りたい、会いたい人いる――が呼び寄せた人の事を言うのだそうだ。
「呼び人は此方の人が呼んだ渡り人よ」
帰ることができない。でも会いたい人がいる。そんな人を呼び寄せてしまうことがある。
稀ではあるが、記録に残っている位は例がある。そんな人たちの共通点が、お互いにどうしても会いたかったことと、呼び人は此方にくると言葉を理解出来ると言うことだ。
だから帰る方法の模索は進んではいない。連絡する方法何て物も考える人はあまりいなかったのだろう。それよりもこの命懸けの世界で基盤を築くことのほうが余程大事だったのだ。
「実は私の弟と妹を探しにこっちの世界にきたんです」
「は?」
「え」
「ん?」
真亜莉は正直に自分が渡ってきた理由を話した。更に驚愕したマヌアーサと、ヴィアーナはポカーんと口をあけて驚いた声を出した。
そんな反応をされると思っていなかった真亜莉もまた、疑問符を浮かべるのだった。