まっすぐ前へ、君に届け
ぷわーと残りの息を出しきって、ようやく口を離した。見据える水平線の先には眩しい光線でいっぱいだった。金色の表面が、太陽に眩しい。すっかり体温で温もったトランペットは、汗でだろう、すこしだけべたついている。これは手入れのし甲斐があるな、とケースにしまえばようやく終わったように思えた。土曜日の練習は朝集合で昼過ぎの解散となるため、お腹は多分に空いている。今日は恨めしいほどの好天のなか、グラウンドを臨むスタンドでの練習だったからすでに部員の気配はほとんどない。一緒に練習するかのようにグラウンドを転げまわっていた野球部員たちも今は昼休憩なのか、誰も見当たらない。一人の人もいない校庭で、私は何をやっているのだろう。
時計の指し示す時間は一時半。昼時にはもう遅い。そしてこれ以上の練習は熱中症のもとになるから、と厳禁だ。居残り練習をしたくてたまらなかったが、仕方がない。言い聞かせるようにして、私は立ち上がった。意外と砂埃が舞っていたのだろう、紺のスカートが少しだけ埃の色に塗れていた。ああ、これは帰ったら本格的にトランペットの手入れをしないと。
「よし、帰るか」
これ以上は体力を奪うだけだ。明日も練習があるし、今日も帰ったら残っている宿題をしなければ。できれば譜読みもやっておきたい。でも、私の足は動かなかった。
「……情けないなあ」
誰もいなくなったグラウンドをみつめる。そこに夢想するのは一人の眩しい笑顔だ。彼の名は榛名侑汰。目下休憩中の野球部員で、私の淡い恋の想い人だ。
*
野球部というのは思っていた以上にしんどかった。いや、それを後悔しているわけでは…いや、少しだけ後悔している、かもしれない。うちの高校はぎりぎり甲子園に出られるか出られないかのレベルで、毎年必死に食らいつこうとしている。今はその県大会の直前だ。しんどくたって弱音なんてあげられないし、あげたくない。それはレギュラーもベンチも関係なく部員みんなの思いだ。
額に流れる汗をぬぐう。ただいま学校の校舎の中で昼休憩中だ。いくら練習熱心だって言っても休憩はしっかりとる。特にこんな夏に入りたての時期は体調だって崩しやすい。熱中症にならないように細心の注意を払っている。昼飯もしんどくったって食べる。そんなんじゃ午後の練習で倒れてしまうからだ。弁当をしっかり食べきって瞳を閉じる。首にあてている氷が気持ちいい。
「榛名、大丈夫か」
「ん?」
声をかけてきたのは、俺のバッテリーの桜木だった。マウンドでは真剣に、表情を読ませないぐらいすごみがあるのに、こんなときだけこいつの眉は下がり気味だ。俺は茶目っ気たっぷりにウインクをして見せた。
「大丈夫、しんどいとかはないよ」
「よかった」
「俺はそんな柔じゃねーよ」
「ま、それもそうか」
ぞんざいな扱いの桜木にちょっとだけ肘を入れる。そんなやり取りがおかしかったのか、桜木はいつも以上にご機嫌だった。
「お前こそ、今日どうしたんだ? いつもより楽しそうだな」
「いやー、大したことじゃないよ」
「お、もしかして彼女か?」
小指を立ててにんまり笑うと、こいつは違うって、と慌て気味に返してきた。
「今日さ、吹奏楽も練習してただろ。なんかあれがすっげー試合ぽくってさ。なんか妙にテンション上がっちった」
「あ、わかる」
今吹奏楽部が練習している曲はまさしく応援のための曲だ。あれがあるのとないのではやっぱり士気がちょっとばかり変わる、気がする。
「スタンドでやってるのもそれっぽかったしなあ」
「うん、あれのおかげでなんか調子出た気がする」
「単純だなあ」
呆れたように笑って見せるが、今日の桜木が調子よかったのは事実だ。それが吹奏楽部が理由だったとしたら、毎日でも練習してほしいぐらいだ。
「午後はいるのかな」
「いやー、さっき撤収してたし、微妙じゃないかな」
「まじか残念」
そう答えながらスタンドを見遣る。そこはほとんど空っぽだった。これは午後練習しなさそうだな、と口に仕掛けて―――、
「人、がいる」
「あの人大丈夫かな」
桜木と声が重なる。白いブラウスに紺色のスカートが棚引いていて、手に抱えられた黒いケースが太陽によって輝いている。小柄な楽器が入っているのだろう。そしてその女子生徒はまっすぐに前を見ていた。
「なに、してるんだろう」
「…おれちょっと見てくる。桜木は休んどけ」
「え、でも」
「ピッチャー使い物にならなくなったら困るからな」
「…わかった」
すぐ戻る、と声をかけて飲みかけのポカリを手に取って走り出した。休憩は残りわずかだ。ちょっと声をかけて直接グラウンドに行けば十分間に合う。
それよりも、彼女の横顔が妙に気になっていた。
**
「ねえ」
声を掛けられて、我に返る。時間にして二時ちょっと前。
「何してんの」
何をしているんだろう。答えらないままに、声の主の方を振り返った。息が詰まる。
「あんた、大丈夫? けっこう今日太陽きついよ」
「…大丈夫、」
「吹奏楽部? 練習終わったの、それとも休憩?」
練習、終わりましたと答える声がわずかに震えている。まさか、本当に榛名が来るとは思っていなかった。来てくれた、という喜びとなんで来たんだろうという疑問と出会ってしまった後悔が渦巻いていた。
「あんた、本当に大丈夫か? 顔赤いぞ」
ぐい、と力強く手を引かれて彼の方を向かせられる。そんなにひどい顔をしているだろうか。空いている右手でペタペタと頬を触る、が何もわからなかった。
「これ、やるから。もう練習ないんだな?」
「はい」
手渡されたのは飲みかけのだろうポカリのペットボトル。
「あなたは、これなくて大丈夫ですか…?」
野球部はまだ練習あるだろうに、ドリンクは必須のはずだ。
「あー…俺はまだボトルあるから。それより応援してくれる吹奏楽の奴が倒れないか心配」
そこで彼は時計を見て、あ、やべと呟いた。
「俺、もう練習戻るから。気ぃ付けて帰れよー!」
最後の方はもう、振り向きざまだった。
「ありがとうございます!」
間に合わなかったかもしないけれど、ひとつだけ叫ぶ。こんど会ったときにちゃんと言おう。ペットボトルに書かれた、榛名という文字をしっかりと記憶に焼き付けた。
それは太陽が見守る、夏のおはなし。
フリーワンライ参加作品です。
なんとなく甘酸っぱい小説にしようと思ったら、こんな感じになりました。
続くかも…?!