十一話、彎曲と逃避
「リツ、待ってよー……」
いつもの時間をゆうに十分も越した頃、三つ隣の家からユキが駆けてきた。
「これで待つのは三度目だ。いい加減、改善しようと思えないのか」
でも、と俯くユキの腕を引いて歩く。すると、ユキは溢れ落ちんばかりの笑顔を振り撒いた。
犬コロみたいに誰彼構わず愛嬌を振り撒くユキの事がボクは大嫌いだ。
けれど、純粋無垢なユキは真に受けて傷付いてしまうから言えやしない。
「次はちゃんと目覚ましセットする! あと、ちゃんと起きる!」
「あと、夜の内から明日の準備をしとくんだ。どうせユキは、その日の朝に慌ててやってるんだろ?」
「何で分かったの? 正解っ!」
ボクが何年ユキの幼馴染みとして生きてきたと思っている。
九年だ。嫌でもユキの特性は知っている。純粋で、阿呆で、臆病で、愚かなユキの事を、ボクは誰よりも知っている。
数年後に新たに嘘つきなユキの一面を見るのだけど、また別の話だ。
「そうだ、リツ。ユキね、考えたんだけどリツが毎朝起こしてくれたら良いと思うんだ!」
「最終的には他力本願か。努力もしないで人に頼るな」
「だ、ダメなの?」
つぶらな瞳のユキの訴えをボクが断れる筈がない。
計算なのか知らないけど図れないユキの感情に時折、自分を曲げてしまう。
何だかんだ、ボクは結局ユキを許す。甘い奴なんだ。
「誰がダメだなんて言った」
「本当! 明日から楽しみだなー」
「キチンと自分の力で起きるのが大前提だからな。全て僕に任せるな」
「うんっ。分かってるよ!」
屈託のない眩しい笑顔につられて笑いそうになってしまって、顔を背けた。
記憶力の弱いユキは覚えてないだろうけど、幼い頃に誓った約束。
――リツのいちばんは、ユキだから。
一人称も関係性も成長と共に変化してきたが、ユキがボクの一番なのには変わりない。けれど、ユキには知られたくない。
羞恥なのか嫌悪なのか自分でもよく分からないが、ボクがユキを一番に想う素振りを見せたくはなかった。
中学一年生。
ノリが効いたパリパリの制服に皆は袖を通し、新しい通学路を歩く。
サイズは区々で、成長する事を見越して大きく買った者ばかりが目立った。
ユキも親の期待を受けてか一つか二つも大きいサイズの学ランを着ている。いや、着せられているの方が正しいか。
「リツと同じクラスだったら良いな」
臀部までずり落ちている鞄の肩紐を掴みながら、ボクを見た。
ユキはまだボクと身長は変わらない。きっと、ユキは男の子だから気が付いた時には、模造品の背を超してしまうのだろう。
「今まで腐れ縁でやってきたんだ。同じクラスに決まってる」
「だよね。楽しみだけど、不安だな」
反動形成か、素直に言えずにユキから視線を外した。
その度にユキが悲しそうな顔で俯くのを知らないボクは、きっと次も同じ行動を取るだろう。
「不安なのはボクの方だ」
自慢じゃないがボクは友達が極端に片寄っている。クラスの膿みたいな奴等位しかボクを受け入れてくれない。
何故か、と問えば答えはすぐに出ている。それの改善法も分かっている。
中学からはちゃんとすれば友達は出来るであろうが、ボクは変えない。変えたくない。
こうでもしなければ、ユキの気を引き留めて置けないから。と知ったらユキは嗤うのだろうか?
「ごめんね、何て言ったの?」
「良い。気にするな」
悪いのはユキじゃない。ボクだ。なのに、最近のユキは謝罪の言葉をよく口にする。
ごめんね、ごめん、ごめんなさい。
ボクは求めていない。ユキには常に笑っていて欲しいのに、大人に近付く程ユキは笑顔を忘れていく。
そして、身に付けた謝罪と悲しげな表情。
ボクはそんなのは見たくないんだ。
いつか、ボクだけのモノにならないユキの愛嬌を恨んだ事があった。
他人に笑いかけるなと望んだ事があった。
今やもうユキの心からの笑顔を簡単に見る事は難しい。ボクも、他人も。ボクだけのモノじゃない。ボクにすら与えられない。
理不尽だ。ボクはユキに沢山の一番を捧げているのに、ユキは一番の笑顔すら見せてくれないなんて余りに非情だ。
だからボクもユキに笑顔を見せてやらない。ユキの方からお願いとねだってくるまでは、優しい態度も取ってやらない。
そして、ボクの気持ちを知れば良い。ユキに冷たくされて、ボクがどう感じているのか、実感して苦しめば良いんだ。
「それにしても、もう十三年になるんだね」
ユキは感慨深く、ボクらの歳月に微笑んだ。もう、なのかまだ、なのかは捉え方による。
「そうだな。人生七十とカウントしたらまだ六分の一しか過ぎてないんだ」
それを全てユキと共に過ごせたらなんて、ボクの利己的な妄想だ。
けれども、ユキも同じ想いだったらと押し付けてしまうボクがいる。聡明ぶっているから余計質が悪い。
「残りの六分の五も一緒に過ごせたら幸せだね」
「……お互い邪魔な存在になってなければな」
そうだね、なんて素直に言える程ボクは正直者ではなくて、敢えて喜びを押さえて不快な表情を見せつけた。
傷つけ。ボクの苦しみを知れ。と、ユキへの思いが黒く歪んでいく。
「あはは、そうだね。邪魔にならない様に気を付けないと」
ユキは頭を掻いて虚しく笑った。違う。ボクはユキにそんな悲しい表情をさせたくはなかった。
悔いても既に遅し。
ユキは自分のクラスがボクと違う事を確認すると、哀しげに去っていった。
それから二年後。
ボクは漸くユキと同じクラスになった。
今まで離れていた分を取り返そうとユキに近付いて知った。ユキに友達が出来ている事に。
「ユキ」
男共に囲まれながら笑顔を見せるユキは、ボクが思い続けてきた姿を失っていた。
男に媚び諂う、ボクが最も嫌悪する人種になり下がったユキは反応して小首を傾げた。
「あ、リツ。良かった。同じクラスになれて――」
「汚い。触るな」
咄嗟に振り払えば、ユキは哀しげに笑った。何だ、ユキのせいだろ。男共に触れたその手でボクに触れようとしたからだろ。
美しく儚くか弱いユキを返せ。
「今日、ボクの家に来い」
ユキに触れられた部分を庇う様に隠して直ぐ様その場を去った。
後ろで男共がギャアギャア騒ぐ声が聞こえてくる。これなら女子共の嬌声の方が幾分マシだ。
『お前、あいつと仲良いのかよ。あいつ、いつも男装して気持ち悪ぃ』『あんな気のふれた男女と話すなんて、すげえよ』『やっぱ、俺らのマドンナ、ユキちゃんだなー』
五月蝿い。黙れ。ユキに余計な事を言うな。ボクはボクだ。お前らはお前らだ。何故関係ないのにボクの非になる事をホラ吹くのだ。
ボクらの間を引き裂こうって魂胆か。アホらしい。その作戦に乗るものか。
ボクとユキは永遠を共に過ごすのだ。生まれてから小学と中学と歩んできたボクらだ。高校だって同じ場所に進学する。お前らには入り得る隙間などはないのだ。
「ごめんね、リツ……僕が僕で。僕が男で」
その日の放課後、ボクの部屋を訪れたユキが漏らした謝罪の意味は分からなかった。
怠さが滲み出る夏休み明けのある日の下校時の事だった。
「――何で。努力もせずにそんな事を言うんだ」
違うんだよ、と弁解を続けるユキを跳ね退けた。
ああ、聞きたくない。ボクとは別の高校に行きたいだなんて言葉は、全て消えてしまえ。
いっその事、ボクとユキ以外の全人類が消えてしまえば。消えてしまえば、楽になれるのに。
「どうせボクなんてどうでも良いのだろう? ゴミみたいな奴等と群れている方が楽しいのだろう?」
「違う。僕はリツといたい。でも、でも……」
曖昧に濁してボクを受け入れないユキの肩を、乱暴に叩いた。
壊れていく。ボクの憧れの象徴であった美しいユキも、優しい思い出も。全て全て壊れて後に残ったのは一つの感情。
「山田くんなんて、大嫌いだ」
ボクを一番に思わないユキはユキじゃない。ボクがユキの絶対で唯一なんだ。ボクを拒絶するユキはこの世に存在しない。
そう、だからこの男はそっくりさん。
ユキじゃない。
偶々同姓同名のボクから離れていく山田くんなのだ。
言い聞かせておかないと人格が崩壊しそうな程激しい痛みに襲われて、必死に逃げた。狼狽するボクの情けない姿なんて見せたくなかった。
ましてや、女の様にヒステリックに泣き叫ぶ醜悪な面も。
走って走って走って走って走って、全てから逃避して、哭いた。涙は止まる事なくアスファルトに吸い込まれていった。
泣きたくなんてなかったのに。
ユキが欲しい、山田くんが憎い、ユキが愛しい、遂に抑圧を重ねたボクの感情は彎曲した。
――死にさらせ、山田くん。
そうすれば、ボクのユキは帰ってくるんだ。




