追い詰めないで
「逃げないで」
視界にあるのは夕暮れの赤昏い逆光。のびる黒い腕は壁に繋がっている。両側をふさがれて私は身動きが取れない。
貴方を見かけた気がして、慌てて避けようと細い道を選んだのが間違いだった。
なぜ、避けてしまったのか、自分の心がわからない。
「逃げてないわ」
貴方は笑った。
「嘘つきだね」
そう、貴方から逃げたの。
だからね、
「……会いたくなかったの」
「ヒドイな。僕はこんなに会いたかった」
貴方の腕という束縛から抜けれずに見上げる。
せつなげな声と苦笑。表情は見えない。こんなに近くても背後からの夕日で見えない。
じりっと貴方との距離が縮まる。
視覚でなく聴覚と嗅覚が刺激される。懐かしい貴方の匂いと声。
傷つけてくるなんて考えられないのに貴方が怖くてたまらない。
「まだ、私をそっとしておいて……」
私の言葉に貴方は軽く唾液を飲み込む。喉が動くそのサマに視線が外せない。
「ダメだよ。君が遠すぎて我慢出来ないんだ」
貴方の声が耳の奥をくすぐる。脳の奥がぐずりと溶けそうで。
「ダメ。迷うの。私は私がわからないの」
目頭が熱い。目尻に溜まるものを感じる。思考が溶ける。それじゃ駄目なの。
「一緒に考えていけばイイだろう?」
囁かれる声。
頭を振る。ダメなの。それじゃ駄目なのだけはわかってるの。
「そこで、なにしてるんだ?」
聞こえてきたのは先輩の声だった。
「だれ?」
貴方の声には棘があり、先輩の方も警戒を強めた気配。
「職場の先輩。でも、貴方には関係ないの。落ち着いたら連絡するわ」
慌ててなだめて妥協点を提示する。実家も近所だ。無関係でいつづけることはできない。
「もう少し、我慢するよ。でも、君がいなくて寂しいんだ」
貴方の指が目元を掠めていく。
「惰性だわ」
おりてきた髪。
囁かれる言葉。口付けられるかと錯覚する距離感。
途中まで送ってくれたのは先輩。
「恋人、いたんだね」
そう言われて首をかしげた。
「よくわからないんです。幼馴染の腐れ縁というのがしっくりくるんですけどね」
先輩が小さく笑う。
「お互いしか見えないって風に見えたけどね」
「でも、惰性です。私にはわからないんです」