美しいだけの世界なら魔女は泣かない
美しいだけの世界なら祈りはいらない、続編になります。ぜひそちらからどうぞ。
「ヨル。お前はまた、あの方の寝室に潜り込んだそうだね」
悩ましげに小鳥が囀ずっている。
反対に、麗らかな日差しのとある日。
南方の菓子とやらに舌鼓を打っていた、午後。
それらを打ち破ったのは、微笑を捨て、凍えるような双つの紫でわたしを見下ろしてくるハーヴィであった。その痩身に神官たる法衣を纏い、甘やかさなど感じさせぬ白魚のかんばせで、冷たい怒りの眼差しをわたしへ向けている。この男、巷では玲瓏の美丈夫やら傾国の美貌やらとされているものの、その面より遥かに子供じみている。見かけは二十代半ばほど。彫刻のようにハーヴィの顔かたちは変わらない。
けれど、いまは曹柱石の瞳が微かに歪んでいる。
自身の唇に笑みが広がるのがわかった。そうすべきお役目のなかであれば最期の瞬間まで表情すら捨てるが、いまはそれらしく振る舞う必要もない。
「主さまは懐を開いてくれるもの」
「あの方は僕らがおいそれと触れてよいお方ではないだろう。ヨル、お前ね。立場を弁えなさい」
「羨ましいなら、ハーヴィも主さまに乞えばいい。主さまはわたしたちを邪険にしたりしない。そうでしょう?」
ハーヴィの嘆息。「お前はほんとうに、馬鹿だね」そう呆れた様子で苦笑して、ついと視線を逸らした。おかしい。常のハーヴィならわたしごとき、その美しい瞳で黙らせるのに。
「ハーヴィ?」すり、と傍に寄る。
じゃれるように肩に擦りつけた頭を咎められることはない。なら、と囁く。
「どこか悪いの? なにかされた? わたしは主さまの剣だけれど、ハーヴィたちのためなら振るってもいいよ。主さまも許してくれる」
「ヨル。僕のことは心配いらないよ。お前がこころを砕くことではないから。でも」
「うん?」
「お前、あの方のために魔女狩りをしておいで」
その弧を描く唇の上の双眸は、ほんのすこし、自虐の色を宿していた。
夜が明けたら、わたしは魔女の元へと出向く。
魔女とはすなわち呪いを知るもの。わたしのような剣とは異なり、魔のちからを使役する異分子たち。件の魔女はひとを毒する黒檀の女であり、国境の砦で傍若無人の限りを尽くしているそうだ。そこで、どうか竜の裁きを、と主さまの神殿たるこの星舟に連絡があったらしい。ハーヴィはわたしに、それを狩ってこいという。
主さまは、砂糖菓子が好き。
あまいあまい、異邦のお嬢さんはちからの糧となる。けれど、それは主さまを癒さない。隻翼となってしまった身体の欲を満たすのなら、いっそどうしようもなく穢れきったものの方がよいのである。だからわたしたち従僕は、その魔女を捧げることにした。主さまの翼が対になることは、みなの悲願であるのだから。
しかしヴァーヴズはそれを聞いて、短い眉をしかめた。額に彫った紋章を晒すように前髪を流しているから、表情の変化は捉えやすい。浅黒い肌は日輪を愛しているがゆえか。さきほど放浪から星舟へと戻ったばかりで、わたしはその荷ほどきを手伝っているところである。
「ねえ、それってハーヴィが同行する……わけないわね。まさかヨルちゃんひとり?」
「うん」
「ダメよそんなの。こんなにかわいい女の子がひとりで魔女を狩ろうだなんて、わたくし、心配で眠れないわ」
わたし、そこそこ使えるのに。小首を傾げると、まあ、と頬を掴まれた。その細腕で首を鏡台へと向けられる。薔薇の意匠が美しい、ヴァーヴズ自慢の品であるそれに、わたしの顔が映っている。恍惚の瞳で、ヴァーヴズが笑む。「艶やかな赤錆色の髪は光を浴びれば柘榴石に。大きな瞳は霰石の煌めき。肌はつるりとしていて、そう、まるで竜の鱗のようだわ。ねえ、ヨルちゃん。わたくしたちみんな、あなたがいとおしいのよ。大好きなの。だってご主人さまの彩に染まったかわいい子だもの」と。
わたしは嬉しくなって頷いた。
主さまのものであることを肯定されるのは好き。とりわけ、同じ従僕であるみなにされるのが。くすぐったさに笑みが零れる。
「ありがとう。わたしもヴァーヴズの砂金水晶の目、森みたいで好き」
「森みたい! ふふ、素敵ね。あなたはいつも真っ直ぐでいいわ。だからあなたが適任なのでしょうね」
ヴァーヴズはフロプトは違う、淡い金髪を揺らしてころころと笑った。だから、という意味はわからなかったが、ヴァーヴズがそう言うのだ、わたしで足りるということだろう。主さまのために剣を振るえるだなんて、これ以上はない。
明日に備え、わたしは自室で眠りについた。
翌朝。
食堂で朝食を食べ、旅装束に着替える。
シャツと七分丈のスボン。編み上げのブーツ。白地に深い赤の竜の模様が刻まれた、星舟のものだけが纏うことのできる外套。数日分の携帯食などが入った荷。最後に、剣を腰へ。どこか浮わつく気持ちを抑えきれず、見送りという小言を言いにきたハーヴィに抱きついた。冷たい皮膚が心地よい。
星舟を離れるときの、いつもの儀式のような行為である。主さまとハーヴィたちがここにいることを忘れなければ、わたしは必ず戻ってこられる。
「気をつけて行っておいで」
「うん。わかった」
「ああ、それと」
「うん?」
「ヴァーヴズもお前に同行するようだ」
「そうなの? 嬉しい」
「いや、そっちではないよ。お前は警戒心というものに欠けるから、あれにも気をつけなさい」
「えっ」
振り返ると、白い歯を光らせた男が立っていた。星舟の外套姿に、淡い金髪に森のような目の。わたしは落胆に肩を落とした。
魔女のいる砦まで、星舟のちからを持ってすれば瞬く間である。神官たるハーヴィの転移術。これならば荷が帰りの分だけでよいので軽くて楽でいい。だが、今回は問題があった。赤色を纏った緻密で美しい陣のなか、わたしは腰を抱いてくる男を睨んだ。涼しげな横顔をしているくせに、手のひらがわたしの臀部へと降りていっている。こういうことをされたら殴れ、というヴァーヴズの教えを実行に移すことにした。微かに足を引き、右足を軸にして拳に体重を乗せる。その頬を殴り上げたとき、転移が構成。わたしの身体は一瞬ほどけた。
「なにすんのヨルちゃん!」
「こういうとき殴れって言ったの、ヴァーヴズだよ」
「うわっ、女のときか! 俺の馬鹿っ」
ヴァーヴズは、両性の生き物。女と男。うちで渦巻くちからに応じて、ふたつの人格と身体が入れ替わる。男のときはべたべた暑苦しいただの変態なので、わたしは女のヴァーヴズの方が好きだ。
と、足の裏に違和感。割れた石畳の上に立っていた。転移は終わっていたようである。目を巡らせると、続く荒れた道のさきに砦があった。門であったろう扉の残骸がそこらに散らばっている。建物の外壁は色褪せ、いまにも崩れ落ちそうだった。ほんとうに、こんなところに魔女がいるのだろうか。
「いるよ。呪いの気配だ」
ヴァーヴズの声が鋭くなる。
「ヨルちゃん、構えて」
剣を抜く。すこしばかり身長に合わぬ長剣だ。刀身は赤錆色であるが柘榴石の輝きを有した、主さまの鱗でできた特製品。小指にちからを入れる。すっぽ抜けないように。下から上へ一閃。眼前にあったなにかは、甲高い音を立てて弾けた。
「さすがヨルちゃん。結界斬っちゃった」
ヴァーヴズが愉しげに口笛を鳴らす。
単調な音が、次第に音楽へ変わってゆく。奏でる律は、そこに潜む魔女を炙り出す不協和音へ。これは主さまのために奏でるヴァーヴズだからできる技。ただ、男のときはさほど戦力にはならないけれど、それでも。この音はこころをひどく痛めつける。ちからの弱いものに耐えられるとは思えない。
風に乗って、砦から微かな呻き声が聞こえた。荷を無造作にその場に落とす。わたしはヴァーヴズに目配せし、地を蹴った。
「うるさい、うるさいっ!」
「――、ふ」
砦に踏み込んだ瞬間、悲鳴とともに暴力的な風に襲われる。腰を落とし、剣を振るう。風を裂いた剣を盾に、わたしは叫ぶ魔女の元まで迷いなく詰めた。ハーヴィが織ったこの外套には耐性がある。並みの術式にはびくともしないくらいには。ただ、掠める風の刃が顔の皮膚を抉り、舞い上がる血の珠。まだ、大丈夫。痛みを置き去りにして、暴風を生む魔女にあと数歩で届くところで、見計らったようにヴァーヴズの音色が途絶えた。
ぱちん。弾けるように嵐が消える。
わたしを射る瞳には、憎悪と絶望が。その暗い眼差しに応え、わたしはにこりと笑った。
「あなたが黒檀の魔女?」
「魔女……? ははっ、そうかもね。あたしはこの世界の奴らが憎くて堪らなくって、ぐちゃぐちゃにしてやりたい、魔の女よ」
彼女は嗤笑し、黒衣で覆った腕を振り上げた。足元に陣が展開、滑りを帯びた薄緑色の触手が突出。こちらを拘束――、否。殺しにかかる。
初撃は楽に躱せたが、触手がぶつかった床石が派手に溶けた。紫色の体液が糸を引いている。溶解液というやつだろう。すこし、距離を取る。ないだろうが、万がいち、ということも考えられる。剣を収めた。魔女の顔つきが、さらに剣呑さを増す。怒れる女から、追撃の指示が飛んだ。
この触手が召喚されたものか魔女のちからで創られたものかはわからない。どうでもいいとさえ思う。わたしはただ、魔女を狩るだけ。半身を逸らして追撃をいなす。あまりに単調な攻撃だ。ともに踊ってやることもない。特に予備動作もなく、左手で触手を掴む。体液で皮膚が溶けた。魔女の驚愕にも、わたしは笑うことで応えた。手のひらから血は溢れ、そして。
――触手を業火が呑み込んだ。
それは、あかいあかい、主さまの色。
わたしが望んだ流血は、わたしのなかで眠る主さまのちからを喚起する。ちからは炎というかたちを身に纏い、愉しげに舞い踊る。荒れ狂う。すべてを、灰へと変えてゆく。
「な、なんで……」
魔女は、ただ、呆然として立ち尽くした。
神さまに見放されたようなその顔は、もはや魔の女などではなく、ただの女の子だった。
「おまえは竜のちからに耐えられるだろうか」
「ひうっ」
ひと蹴りで肉薄。唯一露出している顔を、血濡れた左手で真っ正面から掴んだ。軋むほどのちからは込めない。代わりに、笑う。おもしろいくらいに、もはや魔女とも思えぬ女は震えていた。
けれど、これが。黒檀の魔女。
艶の失せた濡れ羽色の髪は灰となった触手でさらにくすみ、血色の悪い唇はかさかさに割れている。夢見がちに潤んでいたであろう漆黒の瞳にはもはや光がない。蜂蜜色の肌の甘やかさも見かけだけ。
かわいそうな、砂糖菓子の成れの果て。
でも、安心していいよ。主さまは砂糖菓子が好きだから。それがたとえ、異界の地で穢れきったお嬢さんでも。その絶望に色づいた肉体が、腹の欲を満たすだろう。
「さようなら。生贄にすらなれなかった、かわいそうなひと」
彼女は、ただ、泣いていた。
▼▼
「ハーヴィ。ねえ、ハーヴィ」
「どうかしたのかい、ヨル。僕は忙しいんだ。僕に構わず、フロプトのところででもゆっくりしておいで」
「あげる」
魔女狩りから帰還し、ふたつ夜が明けた朝。
星舟の回廊で出会したハーヴィに、わたしが差し出したのは花を模した金のブローチ。連なる鎖のところが切れてしまったけれど、それがなにを指すのか、ハーヴィは正確に理解してくれたらしい。紫の双眸が驚愕と困惑を浮かべ、それらがゆるゆると沈静してゆく。「誰がバラしたのかな」苦笑とも取れない歪な笑みだったので、わたしはきちんと笑って返した。「主さま」
ハーヴィは重く嘆息して、わたしの頭を撫でた。
心地のよい手のひらが頬へと降りてきたので、自らすり寄る。
「お前、このブローチの持ち主が誰かはわかっているんだろうね」
「うん。どこかはわからないけれど、さる名家のご令嬢でしょう? 星舟に多額の寄付をしたいと言っていたひとの愛娘。そのひとがハーヴィを悩ませていた」
その女のひとは、寄付の代わりにハーヴィを要求した。ハーヴィが美しいがゆえに。神官だからと結婚ができないのなら、身体だけでも、と。悩んだ末ハーヴィは応じた。常ならば一刀両断の戯言だが、王から達しがあった急を要する神殿の修復に金を積まねばならなかったのである。そうであるなら、わたしたちを頼ってくれればいいのに。ハーヴィは管理者たる自身の問題だと捉えたのだろう。己の身体を開くことを憎んでさえいるというのに。
だから、わたしが剣になった。
主さまもそれを望んでくれたから、障害はなにもない。星舟へきたそのひとを掴まえ、泣き叫ぶ花を散らした。骸は既にこの世にない。周囲への対応はフロプトが。語るものは偽ることも得意なのですよ、というのはにっこり笑ったフロプトの言葉である。「わたしは隠すもの。守るものだよ。忘れてしまった?」それから、とわたしも笑う。
「ハーヴィはほんとうに、馬鹿だ」
ハーヴィは黙ってわたしを抱き締めた。
血色の悪くなっていた薄い唇が、かわいそうなくらいに震えながら、音を紡ぐ。
「ヨル。フィヨルニル。僕らのかわいい子」
「うん」
「愛してる」
「うん。わたしも」
わたしは主さまのもの。
主さまのためのフィヨルニル。
主さまのものであるハーヴィもまた、わたしの大切なものである。
ここにはもう、美しい涙しかなかった。