098 迷宮
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樽酒を飲み干さんとばかりに開け放って、できあがったばかりの肉料理が蛮族の酒宴もかくやというように車座の内側に並べられていた。そのどれもがまた眼前で調理している途中でもあったりして、何とも食欲を掻き立てる香りを漂わせていた。
「ランタンは格闘戦が意外といけるよな」
「意外ですか? 結構、自信あるんですけど」
「使い慣れてる雰囲気はある。だがまあ、普通は体格がものを言うからなあ。これなんかはそれなりに使えるものだぞ」
エドガーは隣に座るベリレを指差し、ベリレは喜びと同時に恐縮している。ランタンにあわや締め落とされかけたことを思い出して、だが以前のような強い悔しさは感じられず、精進します、と言うようなことを吠えるように表明して、すぐに切り替えて肉をかっ食らっていた。
「それにほら、お前には爆発があるだろう。人相手ならば、あれを使えば格闘戦に興じる意味はないように思うが」
「確かに触れると同時に発動させれば手間がないですからね。でも僕って暴力嫌いですし。殺さなくて済むならそれに越したことはないじゃないですか」
何を当たり前なことを、と言うようなランタンにエドガーが笑った。
「締め落とせば返り血もないし、灰被りになることもないし。そうすれば今度は洗濯の手間がないでしょう? あはは」
「怖い奴だな、お前は。その怖さで、ついでにそいつら黙らせてくれんか。落ち着いて飯も食えん」
エドガーは竜肉に齧りつき、ランタンはそいつらに視線を向けた。
「あーうるせえ、うるせえ。シュアの手が塞がってたんだから仕方ねえだろ。ああ、それとも何か? 疲れてるあたしは、元気いっぱいに暴れてたランタンを、優しく優しーく治療しなきゃダメなのか。つーかそもそもシュアが唾付けとけば治るって言ってたからそうしたんじゃねえか」
「でもでもでも」
「リリオンの手も塞がってたろ。代わりだよ、ただの」
「でもでも、わたしがやってあげたかったのに。ずるいわ!」
「知らねえよ」
「……うそ」
しらばっくれるように言ったリリララに、リリオンが唇を突き出した。
爆音に掻き消える囁きを捉える聴覚だ。リリオンのだだ漏れの願望が聞き取れないわけではなかった。
「そんなに言うんなら、こいつの首切り落としてやろうか?」
肉を切り分けるナイフをリリララが掲げた。魔道で造ったものではなく、ただの食器だった。リリオンが腕を広げてランタンを庇った。本気で心配するような顔つきが、赤錆の目に反射していた。
「だめっ、そうじゃないのっ。もうっ」
「ったく。飯食う前に腹一杯になるぜ。よく平気な顔してられんな、ランタンも」
ぎゃあぎゃあとリリオンとリリララの二人が仲良く言い合いをしていた。
と言うよりもリリオンが突っかかっていて、リリララがそれを乱暴に煙に巻くという感じで、それは何だか姉妹喧嘩のようで微笑ましさすらあった。
そんな二人に困惑の視線を向けたランタンは、リリララに睨まれて思わず視線を逸らした。
首筋にぬらりとした感触を思いだしたランタンとは裏腹に、リリララは平然としていた。それをした時とは全くの逆だった。首を舐められたランタンはむしろ驚きを通り越して平然としていて、リリララは恥ずかしさとはまた違った気まずさに視線を逸らした。
あれはきっと、無意識に近い行いだったのだろう。
右隣にはリリオンがいて、言い争うリリララがその隣に。そこからベリレ、エドガー、ドゥイ、シュア、レティシアとなって、ランタンは左隣に座るレティシアと目が合い、更に逸らすとシュアがにんまりと笑った。
「――おや、耳が赤いようだが」
「お、本当だ。これは赤いな」
赤い赤い、とレティシアとシュアが繰り返す。
ランタンはそれを指しているのではないとわかっていても、言葉で嬲られる恥ずかしさに、つい思わず額に張られたガーゼに触れた。結局ランタンの、と言うかついでにベリレもドゥイも、治療をしたのはシュアで、その治療は完璧で舐めることなく出血は完璧に治められている。ガーゼに赤い染みは浮き出ていない。
こっちも。ランタンは首筋に触れた。あの時点で血は止まっていた。うっすらと浮かび上がっていたのは、染み出たほんの一滴である。
「特に赤くはないです、気のせいです。――何だよベリレ」
ランタンが八つ当たりに睨み付けると、ベリレはへっと生意気に笑って骨付き肉に齧り付いた。はやく食べなければお前の分も食べてしまうぞ、と言うようだった。
それはランタンがリリオンにねだって作らせた、焼いて食べたい、飛竜の肋肉であった。
ここまでの道中にたっぷりの塩と様々な香辛料に漬けた骨付き肉は蒸留酒で一度表面を洗い、炭火でじっくりと焼き炙って火を通したものだ。
焼き付いた焦げ目はその周囲から肉汁を染み出させ、内にまで浸透した塩が押し出されるように表面で白く結晶化し、それは脂に濡れてきらきらと光っている。
焼いて肉が縮み剥き出しになった骨の左右を掴んで、鼻の頭に脂が付くのも気にならぬようにベリレはそれに齧りついた。
じゅわ、と溢れ出した肉汁がベリレの顎にまで滴って、熊の少年は肉を咥えながらそれを掌で拭った。焦げ目がぱりっと音を立てて、肉がいかにも柔らかそうにごっそりと骨から外れた。
「がふ、がふっ」
ベリレが口から湯気を溢れさせながら、大げさに顎を動かしていた。
ランタンは先程一つを食べたばかりで、その味を思い出して思わず口の中に涎が溢れた。
肉は噛み締める程に肉汁が溢れて、鼻から抜ける香りは獣臭ともまた違う竜の臭いだった。それはぴりりとした臭気だ。山椒に少し似ていて、肉の味は濃いのだが、その香りのおかげでくどさはなかった。
ランタンは二本目に伸びかけた手をどうにか押し止めて、器によそわれたシチューに口を付けた。
気が付けば言い争いをやめたリリオンが、隣で目をきらきらさせてその一口を見つめている。何せこれはリリオンが作ったものなのだから。
焼いた竜骨で出汁を取り、竜の肉を煮込んで作ったシチューは濃い琥珀色をしている。器の中には大きな塊肉が二つに、ごろっとした芋と人参、ころころとして緑の鮮やかな豆に、溶けてしまう寸前の玉葱が。
湯気の中にある香りはほのかに甘く、けれど舌先に感じさせる香ばしさが味を引き締めていた。
「うん、これも美味しい。とっても」
陶器の器がシチューの熱によって温められる。掌から伝わるこの種の熱量はどうにも人間の気を緩ませるのかもしれない。ランタンは掌と、そして内側から身体が温められて知らず頬を緩めた。
「えへへ、お肉も食べて。尻尾の所とね、足のお肉が入ってるのよ」
「へえ、――とろっとしてる」
「それはきっと尻尾のお肉ね」
肉はスプーンで切れる程に柔らかい。コラーゲン状でぷるぷるしていて、シチューの琥珀色が芯にまで染みこんでいた。ランタンは弾力がありながらも、口の中で溶けてしまう不思議な歯ごたえに目を丸くした。
「ほら、こっちも食べて。胸肉なの。蒸し焼きにしてみたのよ」
「食べるから、ちょっと待って。そんなにはやくは食べられないよ」
ランタンがそう言う傍から、リリオンは胸肉の酒蒸しを切り分けていた。火通りは七分といった雰囲気で、中心に赤さを残している。ぎゅっと檸檬を搾り、ぱらぱらと塩を振った。
「夜ご飯だけでこんなにいっぱい作って大丈夫? もったいなくない?」
荷車に積んだ竜肉の半分以上がたった一食に使われていた。生肉なので長期保存は利かないのだが、しかしそれでもため息の出るような蕩尽っぷりだった。
「もったいなくないわ。ランタンのためにいっぱい作ったのよ。疲れてるって、言うから……」
「ありがとう。心配掛けてごめんね」
リリオンはそっと首を振った。それに気が付かなかった己こそを詫びるように。
一口大に切った胸肉をフォークに刺し、はいっと差し出す。ランタンがそれを食べると、リリオンは小さくはにかみ、ランタンが檸檬の酸味に目を細めるとつられたように大きく笑った。
「リリオンが一番食べたがっていたというのに、何とも健気なことだな」
レティシアがぽつりと呟き、それは実際にその通りだった。
リリオンは竜種が出現する度にエドガーにそれが可食に耐えうるが尋ねて、その度にがっかりしていた。そしてついに食べられる飛竜が出現して、自らの手で調理もしたというのにリリオンはランタンの世話ばかりを焼いている。
せっせと料理を取り分けて、ランタンがそれを望めば赤子や病人にそうするように、口移しで食べさせることも喜んでしそうだった。料理と作っている時の眼差しをランタンは知らなくて、レティシアは知っていた。
ランタンは自らが一口食べると、今度はリリオンに食べさせてやった。
ランタンとリリオンはそうやって一つの料理を二人で分け合っていた。それが当然のことであるというように。ただ相手に与えるだけで、求めもせずに。
ランタンはもうまったく酔っていなかったし、リリオンは元々そうであった。二人はただひたすらに素直に、互いを思い合っていた。
そんな二人をレティシアが見つめていた。緑の瞳が本当に宝石のようで、ただ美しいだけの無機物のような気配があった。機械的に料理を口に運んで、上品にゆっくりと咀嚼していたかと思うと、ふと少女のように悪戯めいた表情を作った。
「ふむ、リリララ」
「――いや、大丈夫ですってあいつらの真似なんかしなくても」
名を呼ばれて、リリララはそれだけで何かを察したようだった。兎の少女の言葉と、レティシアが小鍋を持ち上げるのは同時だった。
「位置も遠いし、このランタンと違って自分で食えますよ」
「む、これは私が作ったんだぞ」
「へえ、お嬢が料理っすか。聞いてないですけど。ああもう、はいはい食いますって」
それは問答無用の一言に尽きる。レティシアに見つめられてリリララは観念したように口を開いた。
レティシアの腕がランタンの眼前を横切って、リリララの口に手料理を運んだ。ランタンの首筋を一舐めした小さな舌が、料理が保有する熱に怯えるように震えた。その舌自体が、火傷しそうな程の熱量があることをランタンは知っていたので、思わず小さく笑った。
フォークの先に刺さっているのは団子のようだった。レティシアは食べさせ慣れていないようで、団子はそれなりに大きく一口では食べないようなサイズだった。だが忠実な侍女であるリリララは主人に恥を掛かせないように一口でそれを食べた。
「あ、美味い」
「そうだろう、そうだろう。私もなかなかやるだろう。ランタンもどうだ、リリオンも、ベリレも。みんな食べてもいいんだぞ」
ランタンは、では一つ、とレティシアの持ち上げる小鍋の中から一つをフォークに刺し、リリオンはリリララがそうしたように口を開けて待ち構えた。姉の真似をする妹のように。
レティシアは得意満面に一つ食べさせてやった。
それはじゃが芋と小麦を練って作った団子だ。茹でるともちっとした感触になって味は素朴の一言。料理初心者がよくやるように香辛料が無駄にたっぷりと言うことはなく、ほんのりとバターの風味があるだけだった。
竜肉料理の味が派手なので、箸休めには丁度良い。家庭的な味だった。
「では私の料理も」
リリオンとレティシアの料理に舌鼓を打っていると、シュアが負けじと加圧弁の落ちた鍋の蓋を外した。そこからごそりと何やら不気味な物体を引き上げる。瓶詰めにされて湯煎された何かと、ものすごい色をした腸詰め肉の塊が二つ。一つは紫かはたまた黒かという程に色が濃く、もう一つはうっすらと赤みのある白色をしている。
「こちらはお嬢様の好物ですよ」
「レバーパテじゃないか、いつの間に仕込んだんだ?」
「そちらを練っている間にですよ」
レティシアは表情を綻ばせて瓶詰めの中身、レバーパテをナイフに一掬いするとパンに塗ってぱくりと囓る。その味を噛み締めるように何度も頷いてご満悦のようだった。
リリオンはそれを指先に掬い取って味見をして、それからランタンに食べさせた。こってりとした味わいに、脂肪肝だな、とランタンは思う。しかしランタンはレバーパテよりも、肉の塊の方に気を取られていた。
「すっごい色してますけど、……これは?」
「ふふふ、当ててごらんよ。ねえ、リリオン」
「ねー、シュアさん」
シュアが薄く笑いリリオンと意味深な目配せをした。
碌でもないものを食わせるんじゃないだろうか、と思ったが、それでもいいとも思った。リリオンが疲れた自分のために用意してくれたものであるのならば、ランタンは躊躇いなく毒の杯を呑むことができた。
シュアはまず白い肉の塊をスライスした。
赤身肉である飛竜の料理であるのだが、それの断面は白一色で滑らかだった。先程のレバーパテのようにクリーム状にすり下ろしたものを茹で固めたようだ。ランタンが警戒心も露わに匂いを嗅いで、しかし思いの外あっさりとそれを口にした。
「あ、美味い。普通に食べられる」
口当たりは柔らかく、ふわふわとした食感だった。乳製品のようなまろやかな味がして、癖はなかった。その色の白さの、本来受ける印象そのままの。ちょっとだけ甘い。
「何これ」
「脳みそよ」
ランタンの疑問にリリオンが間髪入れずに答えた。
「ええっと頭蓋骨の内側にある、神経系の、ああっとなんだっけ、まあ、そのやつ?」
「神経系の中枢だね。もちろん、その脳だよ」
「……脳って食べられるの?」
「普通に食べられるって自分で言ってたじゃないか。まあ入っているのは脳だけじゃないぞ。頭蓋骨に張り付く顔肉と舌、それと喉の筋肉だな。それらを丹念に磨りつぶして、可燃液を溜めていた袋に詰めて茹でたんだ。なかなかいけるだろう?」
ランタンが毒味を済ませたことで、各々が手を伸ばしてそれらを食べ始めた。
エドガーなどは手慣れた様子で香味野菜の酢漬けを包み、しゃくしゃくと小気味よい音を立てていた。それの中身が何か知っているのに、わざわざ若者たちの戯れに付き合ってくれているようだ。
「遥か過去から、今でも。相対した強者の肉体を食することで、その力を自分の身に宿すと言う考え方がある。魔物は我々の敵だが、その強さは憧れでもある。だからこそネイリング家は竜種と交わったのだし、俺は竜骨刀を振るっているわけだな。好き嫌いせず食べるように」
探索者たちは傾聴し、我先にとその薄切りに白い肉詰めに手を伸ばした。
だがエドガーのありがたい言葉があろうとも黒紫の肉塊は不気味だったし、シュアは勿体ぶって皆の手が止まるまでそれを切ることをしなかった。
「さて、本命だ。私もこれはランタンのために作ったんだぞ」
シュアは紫の肉塊にナイフを入れた。その断面は美しいモザイク模様をなしている。
ランタンはその異様さにますます眉を顰める。先程のものと同じように腸詰めの一種なのだろうが、一面の紫の中に赤や緑や白が花咲くように散りばめられていた。珍しい鉱石の断面図だと言われた方が納得がいく。
「……レティシアさんは中身を知ってるの?」
「知っているよ、私だって手伝ったんだから」
「そっか、じゃあ。ベリレも一緒に食べようよ」
「む、レティシア様やエドガー様より先に食べるなど」
「そういうのいいから、それとも何、レティシアさんが手伝った料理を食べたくないとでも言うの?」
「おや、そうなのかベリレ」
「――滅相もないです!」
うわあすごい色をしているなあ、と言うようなわかりやすい顔をしているベリレに対する単純な嫌がらせだった。
皿の上に取り分けられたそれを見下ろして、ランタンとベリレはしばらく視線を合わせてから、意を決したようにそれを口に含んだ。
先程とは違い舌触りは滑らかとは言い難い。細かな砂を固めたようなざらついた舌触りに、大きな礫が混じったようなかりっとした歯ごたえがたまにあった。
「――大人の味ですね」
「苦い……、けど美味しいです。レティシア様ありがとうございます。シュアさんも」
ランタンは味の明言を避けて、ベリレは素直だった。熊の少年は白ワインを水のように一気飲みにして口を濯ぐようだった。
「内臓系だよね、リリオンもほら、お食べなさいよ。中身を知ってても味見はしてないでしょ?」
ランタンはそう言ってリリオンに差し出すと、リリオンはランタンの噛み跡を上書きするように齧り付いた。少女は斜め右上に視線をやって、それからランタンを見て、視線を落とした。もぐもぐと磨りつぶすような咀嚼を繰り返し、それからようやく飲み込む。
「苦くて、ちょっと辛い。鼻がつんとするけど、美味しいわ。つんとするけど」
「鼻に来るのは緑のやつだな。竜の幼角だ。竜の角は昔は不老長寿の秘薬と呼ばれていたんだ。今でも薬の原料になってるしな。後は心臓、腎臓、胸腺、それに血だな。新鮮な内臓じゃないとできないから、なかなか地上では食べられないんだぞ」
「血か」
その腸詰めの紫は血から抜けきらぬ魔精の色なのかもしれない。
ランタンは竜血酒の風味を思い出した。強烈な塩味と鉄の味。アルコールが気化し死の匂いがつんと鼻の奥にまで立ち上って、それからの記憶は白昼夢を見たようにふわふわとしたものである。
その中ではっきりと覚えている物がいくつかあって、その内の一つを思い出してランタンは無表情になった。
「ランタン?」
リリオンが気遣わしげに声を掛けてきて、ランタンは少女の顔に向かって安心させるように片目を閉じる。ほんの一瞬。
その白い顔を見ると、記憶の中に思い出された美しく引き締まった黒曜石の足が対比としていっそう艶めかしく思い出された。綺麗な足だったな、と思う。
「安心おしよ、ランタン。それで君が酔うことはないよ。紫色は血と腎臓の色だ。魔精じゃない」
心を読んだように笑ったシュアが、ランタンにそう言葉を投げかける。
「ふうむ、しかし酔ったランタンは何とも無邪気でしたね。レティシア様」
そして気まずげな表情になったランタンを更に追い詰めるように目を細めて、しれっとレティシアへとその言葉の先を手渡した。ランタンはいよいよ追い詰められる。
恥ずかしげに眼差しを伏せて、そんなランタンにレティシアは困り顔となった。
「ランタンは、酔っていたのだものな。魔精に」
「……ええ、まあ、そうです」
「その事を言い訳にしてもいいんだぞ」
「いえ、それは道義に悖ります。失礼を働き申し訳ありませんでした」
ランタンが頭を下げると、後頭部にレティシアの掌が触れた。
ランタンの頭部に触れる手つきは戸惑いの気配を帯びた繊細なものである。
硬質な美しさを持つこの女性は、明確な脆さがある。ランタンも人のことを言える立場ではないと理解していたが、無理をして明るく振る舞っている節がある。
特にランタンとリリオンと相対する時には。
理由は幾つも思いついた。魔精に酔っていた際に感じたレティシアの気配を振り返って、けれど複雑に絡み合った感情を一つ一つに解こうとは思わなかった。
ランタンは頭を下げたままに目を瞑った。
「ああ、うん」
レティシアはランタンの頭部をぽんぽんと叩いた。柔らかく、母性的に。
「もう、したらダメだからな」
「――もう、ダメですか?」
ランタンは顔を擡げて、レティシアの緑瞳と向き合った。
背後でひゅうとリリララが混ぜっ返すような口笛を吹いて、レティシアの背後からランタンの目を見てしまったシュアが思わず頬を上気させた。
レティシアは表情を硬くした。その瞬間にきっちりと美しく気高い女性の仮面を被ったのがはっきりとわかった。それは以前までにはわからなかったものだ。
「お嬢に不埒を働けば、冗談じゃなく首が落ちるぜ」
「ふふふ、死んでもいいぐらい、綺麗な足でしたよ――痛」
ランタンが嘯くと、リリオンがその首筋に噛み付く。
「なんだよ、もう。もう血は出てないよ。それとも、料理はあっちで、僕は食べ物じゃないよ」
ランタンが言うとリリオンは怒ったように何度も首筋を甘噛みして、犬歯の鋭さが首筋に埋まった。痛みはなくてくすぐったさだった。歯を埋めたまま、生温い呼吸が首筋を舐めた。
ランタンが明け渡すように傾けていた首を元に戻すと、少女の頭にこつんと触れる。リリオンがそれを合図に離れていく。
「……わたしの足は?」
「綺麗だよ。長くて、色が白くて、すらっとして。すごく綺麗だと思う」
ランタンはリリオンの前髪を払うようにおでこをそっと押し返して、平然と、あっさりとそう言った。ランタンの首に歯を立てたリリオンは、食らいついていた時は肉食獣のような顔つきであったのに、面と向かってそう言われて思わず言葉を失った。
そしてしゅんと恥ずかしがって、歯形と涎が付いたランタンの首筋をいそいそと拭った。
そのいじましさに罪悪感が少しあったが、ランタンは妙な気分でいた。魔精酔いの影響がごく僅か残っているのかもしれない。レティシアの足を綺麗だと思ったのも、リリオンの足を綺麗だと思ったのも完全に素直な気持ちだった。
ちゃんと笑った顔を見たいな、と思う。泣き顔だけが、素直な顔ではないはずだ。
レティシアはランタンの言葉に怒るでも笑うでもなく曖昧な、それでいてはっきりとした表情をしていた。
軽佻浮薄な冗談だ、と軽蔑の視線でも貰った方がランタンはきっと嬉しかった。
レティシアは大人びた微笑みを浮かべている。あらゆる感情を抑え込み、自分を律する。一度ランタンの前で泣いたことが、あるいはいっそう頑なにレティシアをそうさせたのかもしれない。
「ありがとう」
涼やかな声。それはレティシアの強さでもある。
ランタンの背後でリリララが、ほんの小さく舌打ちしたのがランタンにだけ聞こえた。
まるで身の内にある魔精に響くように。
はっきりと素直な音色で、レティシアを心配していた。
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