095 迷宮
095
余計なことを言って、と思うのはただの八つ当たりでしかないし、リリオンの前で格好を付けるのならば、まあ多少はね、なんて自らの疲労を肯定するようなことを決して口に出してはいけなかった。
リリオンに無様な姿を見せたくない。自らの内にある虚栄心が、鉛を飲んだように腹の底に沈んでいた。
気を使われている、とランタンは自らを窺う気配を感じ取る。
女の人は、優しい人が多い。
そう思うのはランタンにちょっかいを掛けてくる男性の多くが優しくなかったからこその感覚なのかもしれないが、それでもリリオンの呟きを聞いたレティシアとリリララがランタンへ気遣わしげな視線を向けて来ることは確かだ。
――恥ずかしいな。
ランタンは羞恥を押し殺して極めて平静に努める。
汗を拭く振りをして、歩きながら自らの頬に掌を押し当てる。薄い頬肉の下。指先に歯の硬さや大きさ、その数までもがはっきりと数えられるような気がする。
リリオンの指摘の通りに少し痩せた。それを指してリリオンはランタンの疲労に気が付いたのかもしれない。
違う。この子はきっと僕のもっと深いところまで見ているのだ。
目で、鼻で、あるいは指先で、五感全てを使って。
リリオンはランタンの隣を歩く。
少女の背筋がぴんと伸びていて、浅く開いた唇から一定の間隔で呼吸音が刻まれている。今朝、リリオンは三つ編みを自分で編んだ。ランタンが編むよりも少しばかり緩く、ふわっとして柔らかな雰囲気の三つ編みが少女の薄い背中でほとんど揺れない。
真っ直ぐに通った軸。骨盤の中心に真球のような重心が収まっている。横顔がいつもよりも凜々しく見えるのは、自らの弱気のせいだとランタンは思う。情けない。
リリオンは長い腕をゆったりと前後に揺らし、時折手の甲がランタンに触れる。まるで撫でるように。
小生意気な、なんて言えた義理ではない。ランタンはリリオンの気遣いをありがたく受け取って、しかしそれを持て余してしまう自分に苦笑する。
どうしたらいいのだろうか。
「――止まれ」
リリララが耳をぴんと立てて低い声で呟く。そこにはヒリつくような、苦い響きがあった。
同時にリリオンがランタンの腕を取って引き寄せた。
「大丈夫だよ」
ランタンはリリオンの身体に触れてそう伝えたが、唇を結んで見下ろしてくる少女の眼差しはその言葉を信用してはいない。凜々しく、頼もしさすらある顔つきも、しかしすぐに唇がむずむずとして拗ねるように尖る、それは少女の幼さの表れだった。
がんばらないと、とランタンはリリオンの身体を、自らの力を教えるようにぐっと押し返して、いつものように唇に笑みを浮かべた。
「風切り音、飛竜の群れです。すいません、だいぶ接近を許しました。目視まで十分かからないかも」
やや慌てた様子でリリララが捲し立て、エドガーは探索者の皆々を見渡した。
「シュアたちは現状で待機させる。前衛は可能な限り上がるぞ。前で迎え撃つ。レティシアも上がれ、リリララは適当な位置から足場の構築を頼む」
飛竜。飛ぶ竜。空を飛ぶ相手は好きではないが、出現してしまったものはしょうがない。ベリレはエドガーの言葉に先陣を切って、長尺棍を肩に担ぐと猛然と前進する。
迷宮では疲れていても、戦闘は避けられない。大丈夫、大丈夫。ランタンはゆっくりと息を吐ききって、戦鎚の柄を握り込んだ。こんなこと初めてじゃない。単独探索者をやっていた頃から、これぐらいの不調は慣れっこだ。
だと言うのに、
「ランタンはシュアたちの元まで下がれ」
「え?」
息を吐ききったはずなのに、ランタンの喉から驚きが声となって吐き出された。大きな瞬きを繰り返してエドガーの顔を呆然とするように見上げる。
「お前の役目はリリララが抜けられた場合の守りだ。それに飛竜は何かしらを吐くことが多いからな。遠距離攻撃の迎撃は頼むぞ」
「……了解しました」
エドガーは既に戦闘に片足を突っ込んだような厳しい顔つきになり、有無を言わせない口調でランタンに命令した。ランタンは視線を逸らさず、その命令に頷く。そしてリリオンの腕にぽんと触れると、リリオンははっと両目を見開いた。
「ランタンっ、行ってくるねっ」
「うん、がんばっといで」
リリオンが先行するベリレの背を追い、駆けていく。
「ようやくの前衛だ。軽く捻ってこようかな」
レティシアが冗談めかしてランタンに笑いかけ、そしてリリオンの後に続いた。
「ランタン」
「うわ、なんですか。おじいさま」
エドガーはランタンの頭を鷲掴みにして不器用にがしがしと髪を掻き回した。剣を振り続けた掌は、老いの分だけ水分が抜けて硬い。
「立て直せるか?」
「ええ、大丈夫です」
「よし。だが、後は顔だけだな」
「顔?」
エドガーはランタンの頭部に腹立たしほどの熱量を残して、問いかけには応えずにゆったりと戦場へと駆けていく。取り残されたランタンに、その場に留まるリリララが手を伸ばした。
ぺちり、とランタンの額を叩いてリリララはいつも通りの厳しい視線を向けてくる。
赤錆色の半眼に映った己の表情に、ランタンはうへえと唇を歪めた。みっともない顔をしている、と思う。
「なっさけねえ面晒してんな。ちったあ信用しろよ、リリオンのことも、あたしらのことも」
リリララは奮然として言い放ち、蹴っ飛ばすようにしてランタンを追い払った。ランタンはリリララに背中を向けて持ち場へと向かう、その背に声が飛んでくる。
「なあ、お前マジで疲れてんのか?」
「ほどほどです」
「ふうん、でもちゃんと働けよ。シュアたちを頼むぜ。あたしは結構忙しくなりそうだ」
ランタンはちらと振り返る。リリララ、そしてリリオンたちのその先に緑の影が迫っていた。
「ふて腐れているね」
「そう見えますか?」
背中に掛けられた声に、ランタンは振り返らずに応えた。
シュアはランタンの背後でドゥイと並んで堂々と仁王立ちになっており、その隣のドゥイは荷物一杯の荷車に装具で結びつけられていて、いつでも荷物ごと逃げ出せるようにか、それとも逃げ出さないようになのか、判断が付かない有様になっていた。
いや、そもそも逃げ出す気などないのだ。この二人は。
ドゥイは恐怖とも興奮ともつかぬ表情で、目をじっと凝らして、爪先立ちになって戦場へと視線を向けている。ベリレ相手に組み手をするのは、ベリレの都合もあるのだろうか、ドゥイ自体が戦いに憧れがあるからなのだろう。
「見えないよ」
シュアの言葉にランタンは首だけで振り返った。その先には不敵とも見えるシュアの微笑みがあった。
「ランタンはいつでも気を張っているように見える」
シュアはドゥイを落ち着けるようにぽんと肩を叩いて、ランタンの背中から隣へと歩み寄った。戦闘は既に始まっている。ランタンが危険を伝えたが、シュアはお構いなしだった。
「単独探索者だったんだっけ、ランタンは」
「まあ、そうでしたね」
「一人でなんでもしたがる癖は、その時の名残か?」
「なんでもしたがっていますか?」
「少なくとも、自分のことは自分で解決しなければならない、と思っているように見えるな。甘え下手と言うのが一番適当かな。リリララもそうだ。私の好きなタイプだよ。なんだかんだと気が強くて――」
シュアがランタンに手を伸ばして、ランタンはそれを避けた。
「恥ずかしがり屋で、真面目で。私はいつ布団に潜り込んでくるかと待っているのに」
「戦闘中ですよ、背中に入っていてください」
視線の先ではリリオンたちが戦闘を繰り広げている。
迷宮の奥から姿を現したのはリリララの言う通りに飛竜であった。
飛竜はいかにも竜種らしい竜種で、深緑の鱗に包まれた胴体に蝙蝠のような翼手があり、この距離からではっきりと目視できる趾は、猛禽類のそれを遥かに凌ぐ鋭い鉤爪がぎらぎらと輝いていた。
ぬ、と伸びる太めの首。蛇腹状の鱗に覆われた喉元が、蛙のように大きく膨らむ。拗くれた四本角の凶暴な顔つきは口腔に牙を隠す気もなく、大きく開いた口から青く分厚い舌がべろんと伸ばされる。
咆哮は高低二重の倍音。ランタンの位置までびりびりと痺れる様な震動があり、萎む喉元に反比例するように上下の牙の間に生まれた火球が大きく膨らんでいた。
可燃性の分泌液やガスを媒介にしているのではない。生まれ持って身に付いている火の魔道をこの飛竜どもは操るのである。濃い橙色の火球が、咆哮の終わり際に放たれる。尾を引き、天井高くから一直線にエドガーを狙う。そして飛竜は翼を畳み、火球の後ろに隠れて急降下を。
「反応いいな」
火球の下を掻い潜ったエドガーの抜き打ち。
「――私にはまったく見えんよ」
飛竜はエドガーの刃圏に鼻先を入れた瞬間に、首を擡げてほとんど垂直に急上昇をした。エドガーの影だけを焼いて立ち上った上昇気流にその身を乗せて。
「ほら右足、皮だけで繋がってるでしょう。おじいさまが刀を抜き様に斬ったんです」
「ああ、本当だ。いつ抜いたのかもわからないな。まったく探索者の動体視力はどうなっているんだ」
「狙いは首みたいでしたけどね」
飛竜の右足首が骨まで断ち斬られて、皮だけで繋がっている。切断面から思い出したように血が溢れ、飛竜は仲間に危険を伝えるように細く嘶く。天井を旋回する飛竜がそれに応えたのか鳴き声を返した。俄に騒がしい。ぴぃちくぱぁちくとお喋りをしているようだ。
エドガーの一撃を足一つで済ませた。
一匹一匹の大きさはそれほどでもないが、なかなか厄介な相手だ。だが飛竜どもは前衛三人に釘付けで、まだここまで、あるいはリリララにさえ気が回っていないようだった。
エドガーの濃密な気配に、覆い隠されて、守られているのかもしれない。
撫でられた頭頂にある熱量は、火傷しそうなほどの熱いのに妙な優しさがある。
優しさ。そんな風に感じられるのに、心の奥底にある蟠りが消すことができない己の小胆さが嫌になる。
「おおっ!」
ドゥイが興奮に声を上げた。
天井高くで旋回する飛竜の群れ。それを狙い撃ちにできるのはレティシアの雷撃と、そしてベリレの長尺棍のみ。
レティシアが拳を握り、はらりと解く。握り込まれた雷撃が五指五爪に流れて溢れ出す。飛竜の爪にも負けず劣らずの切り裂くような指の形は、レティシアに宿る竜種の血統の表れであるのかもしれない。
雷爪一閃。迷宮を切り裂くように伸びる雷撃に悠然と旋回していた飛竜どもが慌てふためいた。捕食者であることを疑わぬ飛竜に、それはまるで格の違いを見せつけるようである。柔らかな指使いは、ランタンの髪を撫でたその繊細さを失わず、けれど指先からつながる雷撃が狂ったように暴れ回った。
雷撃に追われて零れた嘶きの一つをベリレの鎖が狙った。
最も低くを飛んだ一匹。長尺棍に巻き付く鎖は既に解け、ベリレは棍の半ばを蹴り上げる。その勢いが棍から鎖へと伝播して、鎖は重力を切り裂いて跳ね上がる。構成材の特性ゆえか、それともベリレの腕から一体となるほどの技術の賜か。鎖は生物的な伸びのように目一杯に腕を伸ばして、鎖を躱そうとする飛竜の足首を掠め、その尾に触れた。
手首の返しに呼応する螺旋が、尾を掴まえる。
「うおぉらっ!」
熊の咆哮は、棍を蹴り上げた足が鉄の大地踏みしめる音を伴った。
飛竜の羽ばたきは、竜の自重を中空に持ち上げる浮力を生み出すほどだ。その力強い羽ばたきが、具現化した重力そのものである鎖に絡め取られて、じりじりと高度を下げる。棍に鎖を巻き付けながら飛竜を引っ張り、ベリレの背筋が二回りも大きく膨らんだように思える。
ベリレに背を向けて鎖から抜けだそうと足掻いていた飛竜が身を翻した。
苦悶を現す口の形。だがそれ以上の戦意を飛竜は銜え込んでいる。
限界まで開かれた顎門に拳大の火球が逆巻く。それは大気を、魔精を吸収して大きく膨らむ。その一匹だけではない。群れの飛竜、その多くがベリレを見下ろしていた。火球をその口に咥えて。
火球が身動きの取れないベリレへと驟雨のごとく降り注いだ。
ごう、と燃える音が離れたランタンの耳にも届く。けれどベリレは臆さない。どっしりと踏ん張ったまま初めの一匹を逃がさない。
雷撃。紫電が迸った瞬間、炎の塊は球形を保てなくなり暴発する。レティシアの放った雷撃は、火球の重なりを狙い二条の紫電が四つの火球を貫き、ベリレへと火の粉の一片さえも通さなかった。
エドガーは戦場の一番先頭にいる。老躯が駆ける。どのような脚力か、あるいは身のこなしのなせる技か。エドガーは壁を走った。壁の半ばまでを斜めに切り裂くように駆け抜けて、ついに限界に到達した壁走りが空を踏む。
その瞬間にリリララの魔道がどんぴしゃの位置に足場を形成した。足場はエドガーの脚力に耐えきれず踏み抜かれて落下し、反面エドガーは火球へと跳躍した。
右の壁から左の壁へ。ともすれば緩慢とも思える刹那の瞬間に、エドガーの腕が三度振るわれた。
深い白の刀身が火球を切る。氷の球体を熱した刃物で切るように、火球はゆっくりと断面をずらして倍の数の半球と化した。その半球はレティシアが貫いたような暴発を引き起こさずに、ぐずぐずと燃焼して融けるように形を失った。
ベリレの横をリリオンが通り抜ける。ベリレへと収束する最後二つの火球に、リリオンは方盾を左前に構えて突っ込む。少女が火に巻かれた一瞬、ランタンは拳を握った。
あの子は大丈夫だ、といつものように自分に言い聞かせる。
少女の姿が視界から消えたのはほんの一瞬、火球はまるで水風船が割れるように霧散して、リリオンは火中を突っ切って飛び出した。そしてベリレはついに飛竜を地面へと引きずり落とした。
「やああっ!」
炎の中から生まれた少女に、飛竜が引き寄せられる。ベリレは一つの手加減もなく棍を引き倒す。鎖が恐ろしい速度で引っ張られて、その先端に括られた飛竜はリリオンへと一直線に向かってきていた。
リリオンが盾の中から飛び出すのは、いつものことながらハラハラする。盾を振り回して足りない筋力を補い、大上段に振りかぶった大剣が盾の遠心力を推進剤に馬鹿みたいな速度で振り下ろされた。両断どころではない。高速の斬撃は飛竜の鱗を容易く裂いて、暴乱する力の行方はランタンのお株を奪うような爆発を引き起こした。
真っ二つになった飛竜の骸が左右に弾け飛び、ランタンは拳を解いた。最初の戦果を上げたリリオンに飛竜が憎悪を募らせる。だが追撃の全てをエドガーとレティシアが切り払い、牽制し、撃ち落とした。
余計なことなど考えない、淀みのない連携。
「気が休まらないな、ランタン。見えすぎるのも大変だな」
ゆっくりと長く息を吐くランタンにシュアが声を掛ける。
「リリオンは子供だ。だから疑いなく人を信用できる。ベリレのことをよく睨んではいても、あれは好き嫌いのせいじゃないのはわかってるよな?」
「……素直なのはいいことですよ」
「でも、その分だけ危なっかしい。だからランタンはリリオンの分まで警戒している」
単独探索者としての癖は、身に溶けてランタンと一体になっている。ありとあらゆるものを潜在的な敵と見なして、誰も信用せず、ただ一人であることだけを安寧とする。孤独こそがランタンが気を抜くことのできる住処であり、しかしどういうわけかリリオンがそこに住み着いてしまっている。
「ふふっ」
その矛盾に、ランタンは思わず笑ってしまった。その笑みにシュアが思わずという風にランタンの顔を覗き込んだ。まるで急変した患者の様態を確かめるような、険しく真剣な表情で。そしてランタンの笑みの柔らかさに、安堵を零した。
「ごめんなさい、心配してもらっているのに。でもリリオンの分までっていうのは、あんまり自覚がないですよ。でも、もしそうなら、きっとそれは好きでやっていることだから苦じゃない」
「――さすが、男と言うのはこうでなくては」
困ったような顔つきでシュアは嘆息した。珍しく言い淀むように言葉を探す。そして今まで戦闘に釘付けであったドゥイが姉と入れ替わるように視線を寄越してくることにランタンは気が付いて、戦闘に意識の大半を残しながら振り返った。
運び屋の大男は、いつものようにびくりと身体を震わせる。
「どうかしましたか?」
「……ランタンは、つ、疲れているのか?」
「ドゥイさんほどではないと思いますよ。運び屋って大変そうですし」
ランタンの労いの言葉に、ドゥイはぶんぶんと首を横に振った。
「ち、違う。探索者が、一番大変なんだ。ランタンは、ねね、寝れていないのか? 疲れてる時は、寝るのが一番だって、ねえちゃんが」
純朴な言葉にランタンは微笑みと頷きを返す。
ドゥイは背伸びしているのを忘れているのか、脹ら脛がぴんと伸ばされたままでいた。気遣わしげにランタンへと向けられる視線の中には、これまでの道中に溜まった疲労と、隠しきれない苦手意識がはっきりと浮かび上がっている。
運び屋は疲れている。だがベリレに次ぐドゥイの巨躯は、日に日にベリレとの差を詰めていた。成長しているのではない。過酷な迷宮の道中にベリレの体重は減少し、しかしドゥイは保持しているのだ。休むことなくがんがんと働き、探索者に遠慮することなくもりもりと食事をとって、姉の言いつけ通りにぐっすりと眠る。
運び屋としての勤めを果たすための、最適化されたルーティンをドゥイは遵守している。
「ドゥイさんって、あんまり僕のこと好きじゃないですよね」
「……そ、そんなことは、ない、ぞ」
視線があからさまに逸らされて、ランタンは思わず苦笑を漏らした。初対面の印象というものは、なかなかに抜けがたい。例えばランタンがリリオンに抱く心配は、少女がどれほど頼もしくなっても完全に消え去ることはないように。
ドゥイの中にあるランタンへの苦手意識もそうであるはずだが、ベリレに並んで感情のわかりやすい、そして至極真面目なドゥイをランタンは好ましく思っている。
「ドゥイさんは、迷宮で眠る時怖くないですか? 僕のこととか、魔物のこととか」
「ランタンは、こわくない、けど。魔物は、す、少しだけ怖い」
「怖くて、寝られない時ってないですか?」
「ない。だってねえちゃんに言われたから。怖くても、寝ろって」
「どうやって?」
「――我慢して」
当たり前のようにドゥイはそう言った。
「探索は、大変だ。俺は、それを助けるために来たんだ。だから魔物が怖くても、寝るんだ」
ランタンは思わず身体ごと振り返って真正面からドゥイと向き合った。ドゥイはいつの間にか背伸びをやめて、踵が地面に付いていた。姉とは似ていない木訥とした顔立ち。相変わらず目を逸らされていたが、その目がちらちらとランタンを窺う。
「それに魔物よりも、エドガー様やベリレの方が、強い。ランタンだって、た、戦ってる姿は、頼もしい」
「……戦ってない時は?」
「……――こ、こども」
乙種探索者を掴まえて子供扱いとは。
「子供なんて気まぐれなものですよ。信用ならないですよ、僕とかは特に」
「う、疑いだしたら、終わりがないだろ」
息を飲む。ランタンは絞り出すように呟いた。途方もない尊敬を込めて、
「……さすがは序列一位」
ランタンの呟きにドゥイは大真面目に照れて頭を掻いた。その側頭部をシュアが慣れた手つきで鷲掴みにして締め上げ、さっと青くなったドゥイの顔が炎に照らされた。
ランタンは視線を切って振り返る。背後に火球が迫っていた。
自分は何のためにここにいるのか。
ついさっきエドガーから課せられたこと、シュアを、ドゥイをも守ること。酒場で跪いたレティシアの泣き顔がちらつく。道中で見つけたベリレの焦りや、リリララの虚勢も。
そしてリリオンに安寧をもたらすこと。
そのためにはドゥイのように我慢をしてでも眠らねばならない。
炎の中に突っ込むような乱暴な踏み込み。炎へと身を晒す、生物ならば避け得ない本能的な恐怖。そんなものはいつだって踏み潰して生きてきた。やると決めたことはやる。
鋼鉄の地面を削り取って振り上げられた戦鎚は、火球を打ち付けてその炎熱の内部に鎚頭を埋め込んだ。火球の内部で破裂したランタンの爆発は、まるで熱量を蚕食するかのようで、もともとある炎を飲み込んで膨らんだ爆炎は、破壊の一切を後ろへと通さなかった。
「二人とも、背に入ってください。こっちにもいることに気が付いたみたい。あまり動かないように」
爆発の白い残光が失せて視界が広がる。そこには飛竜から目を逸らして振り返るリリオンの姿があった。
ランタンは振りかぶった戦鎚をリリオンに向けて真っ直ぐに振り下ろした。
ドゥイを振り返り、戦闘に背を向けて、それでもはっきりと感じ取れる気配があった。
数多に群れる飛竜ではない。己が魔精と迷宮の魔精を練り上げて形作るリリララではない。紫電を纏い飛竜を羽虫のごとく蹂躙するレティシアでもない。縦横無尽に長尺棍を振り回すベリレでもない。
直向きに戦いに身を躍らせるリリオンでもない。
それはこれまでの道中の全てにあって、ランタンはその気配を正確に読み取ることができなかった。神経質なほどの恐れと、哀れなほどの警戒心を持ってしても。あるいはそれがランタンの感覚を狂わせたのかもしれない。
そんな幼い言い訳がランタンの羞恥を掻き立てる。
巨大な熱量。火球など歯牙にも掛けぬ、戦場を昂揚させる大炎。
エドガーがランタンを戦場から遠ざけたその理由は、あの言葉の通り、己の背中を見せるためだったのかもしれない。ドゥイを振り返ったのは、視線を感じたからだけだろうか。エドガーの背中から目を背けるためではないだろうか。
自分が恥ずかしくなってしまったからではないか。
ランタンは四方を鋼鉄に囲まれた冷たい景色に花が咲いたようにさえ思えた。
それは飛竜の放つ火球であったのかもしれないし、こぼれ落ちる青い血に濡れた臓物のせいであったのかもしない。
雷撃をばらまくレティシア、低空飛行の飛竜に駆けていくリリオン、棘鎖で空間を削り取るベリレ。各々が己の役割に没頭しているのは、戦場にあってそこが揺り籠のごとく安全であるからだった。
ベリレのどっしりとした構えは、エドガーから受け継いだものかと思っていたが、どうやらそうではないらしい。刀と棍。その武器の区別がそうさせるのではない。
今までの戦場の後ろでどっしりと構えて指揮するその姿は、若輩に指導する立場がゆえの嗜みでしかないのだ。
誰よりも、もっとも危険なところへ。
エドガーは獲物を求めて戦場を縦横無尽に駆け巡る。
壁の上方、その左右には片足を乗せるだけで精一杯の小さな足場が無数に生み出されている。エドガーはまるで階段でも駆け上るようにその小さな足場を踏み付けて重力を無視する。火球も飛竜も区別なく斬攪している。
尾を付け根から切り落とし、飛竜の背に着地して刀を根元まで突き刺す。絶叫が音にならない。肺腑を刺し貫き、絶命直前に咥えた炎は球体をなさずに暴発して、飛竜はエドガーを道連れにするように火だるまと化した。だが既にエドガーはそこにいない。
竜骨刀を飛竜から引き抜き、背を蹴りつけて跳躍する。地上組を狙った火球が一刀に払われる。
「ああ」
なんという視野の広さ。
味方に向けられる攻撃の一切合切をその刃圏に収めているようだった。リリオンはどうだ。レティシアはどうだ。ベリレは、リリララは。あるいはランタンたちのいるこの場所にさえ。エドガーの意識は水のように隅々にまで満たされている。
すれ違い様に翼の被膜を裂かれた飛竜が、くるくると螺旋を描いて墜落する。
エドガーの墜とした飛竜はリリオンやレティシアによって止めを刺される。飛べなくては戦力半減。だがそれでも竜種に連なる物の一つとして、飛竜はなかなかに侮れない。
レティシアの二指から放たれ雷撃は火球を貫くに足りて、飛竜を打ち据えるに足らない。黄金の光条は深緑の鱗の表面に弾けて、突進を多少怯ませることはしても足を止めることはできない。地面を泳ぐように翼手を掻き、猛禽に似た後肢が不便であろうに巨躯を猛然と押し進める。リリオンがそれを真っ正面から迎え撃ち、その守りを信用してレティシアは気持ちを落ち着けるような大きな呼吸を。
二指から放たれた雷撃が、三つ叉槍のごとくに飛んだ。三条の紫電が飛竜の両目を焼き、大きく開いた顎門の中に生まれた火球の種を貫いた。
一瞬の怯みに、リリオンは大股に踏み込む。
リリオンの剣は大きく右に弧を描き、下から掬い上げるような一撃だった。飛竜の顎下に滑り込み、突進の速度を利用して背を削ぐように斜めに抜けた。切断されて跳ね上げられた飛竜の頭部が、狼煙のように断末魔を叫ぶ。
天翔る飛竜が、己が最後の一つとなったことを悟った。
だが誰も彼も油断が無い。集中。エドガーの発する膨大な熱量。英雄の気配に炙られるように、誰もが戦意を絶やさない。
飛竜は天井を抜けるような急上昇で雷撃を避け、ベリレの鎖が真っ直ぐに伸びて届かぬ位置に羽ばたき、天井から生み出されたリリララの魔道による槍の一撃が恐るべき反応速度で躱される。そして槍の穂先が、鎖に結びつけられた。
天に繋がる茨の道をエドガーが駆け抜ける。恐れるように振り返った飛竜が、全力をもって火球を生成した。迷宮に満ちる魔精が、飛竜の必死に感応して収束する。顎門を遥かにはみ出し、赤から白、白から青いほどの高熱となった火球は飛竜の姿を覆い隠すほどに肥大化した。
逆光の中に浮かび上がるエドガーの背中。
「ああ」
ランタンは呟く。
エドガーに感じていた感情が何であるか、はっきりと理解する。
それは恐れではなく、身の引き締まるほどの畏れである。
竜殺しエドガー。迷宮に死をもたらす者。大探索者。
――右肩担ぎの袈裟懸けから、それは始まる。
エドガーを飾る数多の二つ名は何も物騒なものばかりではない。
救国の英雄。民衆の守り手。守護剣聖。
――袈裟懸けから跳ね上がり、横薙ぎ、払い。
そして斬り上げ、頂点に結ばれる、高速の五連撃。炎熱の一切を斬り払う、護剣五芒。
エドガーは手首を返し、飛竜の首に竜骨刀を叩き込んだ。




