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カボチャ頭のランタン  作者: mm
04.Value Of Life
94/518

094 迷宮

094


 リリララの指が壁を撫でる。身に付けた手袋はただつやつやと鱗の模様を沈黙させているだけであり、リリオンはその様をじっと目を凝らして見つめている。

 冷たい鋼鉄がたっぷりの水を含んだ泥のように柔らかく、リリララの人差し指と中指の先端を()と迎え入れた。指が壁に埋まる。液化したようにも見えるが波紋は浮かび上がらず、それはまるで壁中に埋まる化石でも取り出すように兎の少女は引き抜いた二指の間に一本の針を挟み込んでいた

 手首の付け根から中指の先端ほどの長さ。壁と同色のそれは、暗く重い色をしている。針はまるで影のようで、リリララが手首を翻してリリオンへ掌を向けると、針はリリオンの視界から掻き消えてしまった。

「え?」

 目を凝らしていたリリオンが呆気にとられたような声を出し、ランタンは感心して唸り、リリララは意地悪そうに喉を震わせて笑う。真っ正面から見つめていたリリオンは、リリララの指や掌に視線を切られてしまっていた。リリララはただ奇術師のような器用さで針を甲側に隠し、そして今では右手から左手へと持ち替えていた。

「消えた、すごいっ。それも魔道なの?」

「ああ、そうだ」

「へえ」

「――嘘教えないでくださいよ」

「あながち嘘でもねえよ。理解できないもんは大抵魔道だと思っときゃ間違いないし――」

 リリララは左の指に挟んだ針をくるくると回して、しかしある一瞬で針は剃刀のような薄く小さい刃物へと変形していた。消えたと思っていた針が現れたこと、そしてそれが姿を変えたことにリリオンが驚く。ランタンも見ていたはずなのに変形の瞬間を捉えることはできなかった。

「――納得できるだろ?」

 リリララは指で弾いて剃刀をランタンへと投げ打って、ランタンは眼前でそれを挟み取った。

 刃が思いがけず鋭い。硬質な皮膚を持つ魔物には通用しないだろうが、対人であれば充分な致命傷を与えることができそうだ。ランタンは刃を寝かせて肌に当て、すっと引いた。

 ランタンは殊更に毛というものが薄い。黒く艶やかな髪や眉や睫毛はあっても、それ以外は産毛とも呼べぬ燦めきがあるばかりだ。ランタンは刃先に溜まった銀の綿毛に似た何かをふっと払った。鍛冶屋泣かせの切れ味であるが、耐久性は薄さの通りだった。

「お前にゃ必要ないな。返せ」

「リリララさんからのプレゼントかと思ったのに」

「お前には下着をやったろうが。ちゃんと使ってるか?」

「……確かめてみますか?」

「そういうのはこいつとか、シュアにやれよ」

 リリララは半ば本気でランタンを睨み付けて、剃刀を乱暴に奪っていく。剃刀の刃がリリララの手を傷つけることはない。それはリリララが握った瞬間に刃を失った。リリララはランタンの軽口を誘導するように、リリオンへと視線をずらした。

 リリオンは肌身離さず首から下げている水精結晶を服の上から押さえて、唇に笑みを浮かべてランタンに笑いかけた。

「ランタンは、下着は履いてないのよ。わたしは知ってるんだから」

 少なからず誇らしそうにそんなことを呟いて、リリララは頬を邪悪に歪めた。

「へえ、ふうん、履いてないんだ。下着」

「語弊のある言い方をしないでください。履いていますよ」

 頂戴した絹の下着は、履き時がわからず背嚢の底に隠されている。指で撫でた肌触りは良さそうなのだが、小尻なランタンにでも足りなさそうな布面積が、少年にそれに足を通すことを躊躇わせた。

「履いてなかったら変態だろ。やだよ、あたし。ノーパン野郎と探索すんのなんか」

「……もういいです。魔道のことを教えてくれるんでしょう?」

「ああ、リリオンにな」

 ランタンが苦々しく目を逸らすとリリララはようやく気が収まったのかリリオンの目の前に針でも剃刀でもない何かをかざした。けれどリリオンはランタンのことばかりを見ている。

「ほら、こっち見る」

「あう、ごめんなさい」

 リリララは金属片をぐにゃりと折りたたんで再び剃刀に、そしてすっと捩ると針へと姿を変える。やってみな、とリリララは針を手渡し、リリオンはそれをぐにゃりと折り曲げようとして鋼鉄の針は()()と音を立てて真っ二つになった。折れると言うよりは、割れると言った方がよい。

 リリオンが躊躇いなく力を入れた結果だった。

「ま、最初はそんなもんだ。いきなりできたら天才か、どっかに異常があるな。魔精が抜けやすい体質だとか。リリオンは、どうだろうな。ちょっと抜け辛い方かもな」

「ええっ!? なんで?」

「見てわかるものですか?」

 割れた針を繋げ直しながら言ったリリララに、二人揃って無垢な瞳を向けたものだからリリララは思わず気圧されたようだった。ほろ苦い咳払いをして、困ったように視線を傾げる。

「リリオンは身体付きの割に力が強いだろ? つまり肉体に取り込んだ魔精を内々で使う術に長けてるんじゃないかと思うんだよ。まあ体質は変わることもあるけど、少なくとも今はな」

「うう、そっかあ……」

「……それなのによく腕相撲を挑もうと思いましたね」

「腕相撲……? ああ、あれか。そんときゃこうしようと思ってたからな」

 リリララの嵌める指輪、その掌側に芽吹くように細い針が。

「睨むなよ。痛みもないし血も出ない、ただちょっと力が抜けるぐらいで後遺症もない。それに今はそれをする気がない」

 睨むランタンにリリララは不敵に笑った。

「まあ何にせよ、魔精の感覚を掴むこと。それができたら魔精を身体(うち)から抜くことを覚えないことにはどうにもならないけどな。あれ、いや、それは同時にか……?」

 滑らかに舌を回していたリリララがふと自問して、針の尖っていない後端で兎耳の付け根あたりを擦る。ぺたんと垂れた耳がむず痒そうに震える。

「……? ねえ、リリララさんはどうやって覚えたの?」

「あたしのやり方は参考になんねえよ。こんなかで参考にできるのはお嬢ぐらいじゃないかな。ねえお嬢?」

「急に()()と言われてもわからんぞ」

 エドガーやベリレと話をしていたレティシアが、リリララに話を振られて苦笑しながら振り返った。そしてリリララが()()の中身をかいつまんで話すと、レティシアはリリオンに申し訳なさそうに視線を送る。

「私は、何だかんだで最初からできたからな。魔精の感覚も。魔道も。効率を上げるためにリリララに教えてもらったこともあったが」

「あれ、お手々繋いで奪ってもらってませんでしたっけ?」

「奪うとは言い方が酷いな。私は導いてもらったんだよ、兄様に」

「でかいなりして器用な人でしたからね。血縁関係もあるからできる芸当でしょうけど」

「ふふふ、導いてやると兄は言ったが、まあ私はたぶん実験台にされたんだと思うよ。リリオンみたいに色んなことに興味がある人だったからね」

「どう、やったの?」

 優しげな緑瞳に見つめられて、リリオンは遠慮がちに尋ねる。

「高いところから低い方へ流れるように、かな。どうやったかはよくわからないけど、少なくとも兄によって魔精が活性化されて、自分の魔精が兄の方へと流れ抜けていくのを感じたな。そして抜けた分は」

「お兄さんのを注いでもらうんですか?」

 ランタンは何となく、円環を思い浮かべていた。大きな魔精がレティシアに注がれて、それに押し出されるようにレティシアの魔精が抜けて兄の方へと流れていくのを。

 しかしランタンがなんとなしに呟いた言葉にレティシアは恥ずかしげに目を伏せる。

「いや、私のは抜けるばかりで、それは魔精薬で回復させたよ。循環というものは、まあ、なんだ……」

 その恥じらいの意味を知ることはできないが、それでも聞いてはならなかったのだとランタンは察して気まずげに視線を逸らした。そんなランタンの姿にリリララは呆れた様子だったが、けれどうっすらと色づくランタンの耳先を見て眉を持ち上げた。ふうん、と意外そうな吐息を漏らす。

「活性化。ねえ、ランタンはおじいちゃんに魔精を活性化してもらったでしょ?」

「――うん、まあそうだね」

「じゃあ、わたしもしてもらいたいな」

 そう言ったリリオンに、リリララもレティシアもはっきりと首を横に振った。

「やめとけって、前も言ったろ」

「でも今、リリララさんがわたしはうちで使うのが上手だって。それなら活性化はしてもいいと思う」

「ダメだ。エドガー様のはわりと乱暴なやり方だから」

「うん、探索者らしいと言えばそうだが、ちゃんとした人にやってもらった方がいいぞ」

「……そうなの?」

「ああ、あれは浸透勁つーか、まあなんだ」

 言い淀み、一瞬ランタンを見た。リリララもレティシアも。

「要は身体を内から壊す技の応用みたいなものだからな」

 その言葉にランタンは思わず肩を振るわせて、反射的に鷲掴みにされた項を撫でる。なるほど確かに乱暴なやり方は探索者の流儀である。大英雄であり、エドガーは紛れもない大探索者である。ランタンは己を納得させ、しかし不満もたっぷりな視線をエドガーへと向けた。その視線を受け止めたのは何故かベリレである。エドガーは悪びれることもなく笑っている。

「そう睨むな。ランタンになら耐えられると確信があってこそだ」

「……認めていただいたようで光栄です。でも、そんな風に言うとベリレが拗ねますよ」

 混ぜっ返すようなランタンの言葉にベリレはぴくりと耳を動かして、ほんの僅か視線を動かした。それは余裕である。

 彫りの深い凜々しい面はランタンの言葉に動揺の一つも見せることはなかった。軽く肩を揺らして、何も言わずにただ唇の端を僅かに持ち上げたる。それがどうした、と言わんばかりに。

「……可愛げがなくなった」

 舌打ち混じりに呟くランタンにレティシアは肩を揺らして笑う。

「ふふふ、そう言うなよ。頼もしいじゃないか。少し兄に似てきたかな?」

「そ、そんなっ。恐れ多い」

 レティシアはすっとベリレに近寄って、熊の少年の肩を叩いて横並びになった。長身の少年を見上げる横顔がぞっとするほどに整っている。凜とするばかりではなく、憂いを押し殺そうと努める緑瞳に己の表情を映すとベリレはさっと顔を逸らした。頼もしいねえ、とランタンは口の中で呟く。ベリレは大きな背中を丸めて、痙攣するように耳を震わせた。

「わたし、乱暴でもいいよ」

「ダメ」

 一つの間もなく、ランタンは言う。そしてリリオンの頬を優しく抓った。白い少女の頬に、口付けの後に似たごく薄い赤い花が咲く。

「うむ、ランタンの言う通りだな。女には少し負担が大きいやり方であることは確かだ。そんなに焦らんでもよかろうよ」

「エドガー様の言う通りだよ。さっきも言ったろ、身体を内から壊す技だって」

 エドガーは後の説明をリリララに託して、ランタンの肩を労うように叩き側を離れた。

「男と女じゃ身体の構造が違う。男みたいに()にあるわけじゃねえからな、負担は少ないに越したことはねえよ」

「そと?」

 リリオンが小首を傾げたが、リリララはそれを無視する。

「それに魔精の抜ける感覚はその内にわかるようになるさ。女なら、嫌でも」

 リリオンは、リリララとランタンの顔を疑問混じりの眼差しで見回した。ランタンははっきりと困った顔つきになって、リリララは少しばかり思案している。リリオンはぺたんと座り込んで前のめりにすらなっていて、答えが返ってくることを疑わない純真さでただ待ち続けた。

 ランタンはリリララが明確に言わなかった言葉を朧気に理解していた。だがそういった女性特有の症状が存在することは知っているが、詳しくは知らなかった。女性探索者用に、そういった症状を飛ばしたり和らげたりする薬剤が存在していることぐらいしか知らず、そういった専用の薬が生み出されるほどなのだから大変なものなのだとは思う。思うだけで、現実感はないのが実情だった。

 それが急にあるものとして感じられた。一気に深い沼の底のような思案へと沈むランタンは、リリオンの眼差しに溺れるように唇を震わせる。そんなランタンにリリララが何事かを呟いた。音にはならず、無言で言葉を紡ぐ。そしてそっとリリオンの耳を引っ張って、角を突き合わせるように顔を近づけた。

「女の秘密の話だから、この探索が終わったらちゃんと教えてやるよ。あたしやお嬢や、シュアは本職だし、あの引き上げ屋の女も呼んでさ。またどっか旨い飯屋で連れてってもらって、他にも必要そうなことを色々な」

 最後の言葉はリリオンに向けたように見せかけて、ランタンへ向けた言葉だった。

「魔道のことも?」

「ああ、それもな。取り敢えず昼の授業はこれで終いだな。そろそろ休憩終わりだ」

 ドゥイが荷車と一体となり、戦闘休憩も兼ねた少し長めの昼飯休みが終わった。

 ランタンは奇妙な師弟関係の生まれつつある二人を見つめながら、リリララの唇の動きを思い出していた。

「……やっぱり?」

 慌てていたので唇の動きを読み間違えただけなのかもしれないが、ランタンは僅かに首を傾げた。

 リリララは立ち上がって伸びをするリリオンの、ちらっと見えた腹を見て笑っている。

 赤錆色をしたその目が向けられたのは、あるいはランタンにではなかったのかもしれない。




 夜もまたリリオンはリリララの手元を覗き込む。

「地の魔道は、まあ少しだけ他のものよりは特殊だな。例えばお嬢の雷撃は手元でおよその過程が完了している。指先とか掌とかな」

 リリララはレティシアの真似をするように二指を揃えて突き出して、その間に一センチ四方の正立方体を挟み込んでいる。それは押し潰されるように厚みを失い小さな鉄板となり、その片面に薄く刃が浮き上がり、引き伸ばされて針へとなった。

「手元で魔精を練り上げて形を作る」

 針は硬度を失い、ただ重力に身を任せてリリララの指を垂れて掌に溜まった。金属の水溜まりは、あらゆる可能性を孕む羊水である。リリララが指を閉じ、液体を掌の中に隠した。

「そしてできあがったものを相手にぶつける」

 リリララがランタンへ手を撓らせる。正八面体の礫。

 ランタンはもう慣れたものでそれを容易に掴み取った。二指を目標へと向ける残心はレティシアの真似事かもしれないが、放たれたものは物質であり、雷撃のような現象ではない。物質的であるというのは地の魔道や、あるいは水の魔道の特徴だった。

「既にあるものを、相手にぶつけるイメージだな。意識だけでできる奴もいるけど、実際に投擲動作をする奴もいる。その方が意識しやすいだろ?」

「意識」

 リリララの言葉を真剣に聞いているリリオンは、ランタンから八面体を受け取るとそれを掌に乗せてじっと見つめている。穴が空くほど、あるいは、穴が空くまで、と思えるほどの健気さで瞬きの一つもなく。

「だが地の魔道はこれを無色のままに」

「無色?」

「魔道は、意識が大切だって言っただろ。外に出した時、それは火なのか風なのか雷なのか、意思の力でもって色づけすることで安定する。ただ漫然と魔精を抜くと、それはどっかに散ってしまう。それが酷くなると魔精欠乏症に繋がるな。だから無意識的に魔道を発現させると、そのまま垂れ流しになっちまう奴もいる。できたのは偶然で、実際には魔精の抜き方も、止め方もわからないから」

 正八面体。角の柔らかな美しい形が、リリオンの手の中に転がる。

「だけど地の魔道は違う。無色のままに、遠くへ魔精を流す。地脈を通じて、と表現されるがそれはよくわからん。感覚的なものだから、根のようにと言う奴もいるし、地下水のようにとか言う奴もいる、酷くなるとモグラみたいに、とかな」

「リリララさんは?」

「あたしは、――液体が乾いた地面に弾かれて地表を流れるように、かな。発動させる時はぶっ殺してやるって気持ちだけど。敵の足元に墓穴を掘ってやったりな」

 リリララは笑いながらリリオンの問い掛けに応えて、意味深にランタンへ視線を滑らせる。ランタンは反射的に視線を俯かせた。そこには硬く滑らかな、しっかりとした地面があるばかりだ。

「魔精の無駄遣いはしねえよ」

「……お優しいですもんね」

「なんだ、ちゃんとわかってるじゃねえか」

「けど、それは? 何度も形を変えてますけど、負担じゃありませんか?」

 ランタンはリリオンの持つ八面体に指を向けた。リリララは一向に形を変えないそれをひょいと摘まみ上げて、その姿は針へと変わった。

「これがあたしのもっとも楽に使える魔道だ。変化させる材質で変化する質量は変わるけど、無意識的にやると、あたしの魔精(いしき)は魔道をこの形で発現させる」

 針。手の中に隠せるほどの、けれど確かな武力を宿している。

 何とも物騒な無意識だな、と表情に出さずにランタンはリリララの身のこなしを思い出していた。

「初めから?」

「まさか、あたしは優しい女だぞ」

 貴族の跡取り、その傍付き侍女としての嗜みだろうか。リリララは暗器と呼ぶような、人目に付かぬものを扱うことに長じているのかもしれない。リリララは針となったそれを、ずっと差し出され続ける掌の上へと戻した。

「ま、人によって得手不得手はあるけどな。直線、曲面、平面、立体、硬い、柔らかい。それに大きい小さいも、このへんは少し難しいけどな。扱う質量が増えればそれだけ必要な魔精も増える、だけど小さ過ぎるものを作ろうとしても消費は増える」

「極めるのはなんにせよ大変ってことですかね」

「そりゃそうだろ。……んー、あたしは哲学っぽくてよくわかんねえけど、魔道を使うためには意思の力が大切だけど、極めんとするには意思(それ)こそが最大の障壁であるとかなんとかって。学者連中は言ってるな」

「ええ……、どういうこと?」

 針を見つめていたリリオンは気が付けば寄り目になってしまい、ついには目が乾燥してしまったようで何度も目を(しばたた)かせている。拗ねるように針を睨み、握った針でいじいじと地面を引っ掻いて耳障りな音を奏でている。

「あーもう、うっせえな」

「だって」

 リリララがリリオンの手から針を奪って、あっという間にどこかに隠してしまった。瞬きの多いリリオンはもとよりランタンにすらその針がどこへ消えたかわからないほどの早業だった。魔道ではなく、技術である。

 リリオンは引っ掻いた際に浮かび上がった鉄粉を溜め息で散らした。

「技を修めるとはそういうことだぞ」

 夕食の腹ごなしに長尺根を素振りしていたベリレが、一時の休憩か盛り上がった筋肉もそのままに車座に座る三人のもとへふと立ち寄った。荷車からエドガーの酒を取りに行くついでだろうか。それは何気ない呟きだったが、三人揃って胡乱げな視線を向けるものだからベリレは少しばかり狼狽えたようだった。

 特に大きく開かれて真っ直ぐと差し込むリリオンの瞳には。

 ベリレはわざとらしい咳払いを一つして、勿体ぶって一言。

「こ、言葉にするのは野暮というものだ」

「あ゛あ゛?」

 思わずランタンとリリララが恫喝するような呻き声を上げてベリレを睨み付けて、リリオンは大きな眼差しを哀しげなほどに萎ませて、眉を八の字にした。ベリレはあれよあれよという間に追い詰められてしまう。

「だ、だってエドガー様がそう仰っていたんだ!」

「意味は?」

「解らんっ」

 言い訳でありながら正直な言葉を吐き出した大きな背中に、痩せた影が近寄る。

「では素振りの追加といこう」

「え、エドガー様っ!?」

「まったく何を大声で吹聴しておるんだ。気も漫ろ、漫然と素振りをしておるから――」

 痩躯の老人に、巨躯の少年がなんの抵抗も許されずに引き摺られていく。こうなるとベリレは見た目とは裏腹に完全に子供だった。頼もしくなったと思ったのにこの様では、やはり大英雄への道のりは遠そうである。だが少し、エドガーとの距離は縮まったかもしれない、と思える。英雄に対する尊敬はそのままに。

「あいつ、何がしたかったんだよ」

「さあ?」

「ランタンとお話ししたかったのよ、きっと」

「そう? それじゃあとちょっと――」

 からかってこようか、とランタンが腰を浮かせようとすると、リリオンは指の先でランタンの服を摘まんだ。言葉も、力もなく、引き寄せるでもない。ただ触れるだけの指先に、ランタンは肩を竦めるだけで腰を持ち上げることはなかった、

「混ぜてもらっていいか?」

 ベリレと入れ替わるようにレティシアがやってきて、その手には麦酒で満たされた四つのジョッキがあった。

「炭酸が抜けてきたから、悪くなる前に飲みきりだ。絞ったオレンジで割ってあるからランタンでもいけるぞ」

「ありがとうございます」

「うん、あとエドガー様の肴もくすねてきた」

 レティシアは三人にジョッキを渡すと、どうやって隠していたのか腰巻きから肉の塊を取り出してみせた。それは冷え固まった溶岩のように真っ黒な、長く熟成された干し肉だ。

「くすねてきたって丸ごとですか」

「ベリレが隙を作ってくれたからな」

「あいつもたまには役に立つな」

 ランタンは再び素振りへと戻っていったベリレへと首を回した。ベリレは上半身裸になっており、隆々とした筋肉を軋ませて長尺根を大上段から振り下ろしている。持ち上げることよりも、振り下ろしで地面に触れるかという瞬間にびたりと止める技術と筋力が恐ろしい。あれほどの重量となると、握力だとか手首だとか、どこか一点が重要という話ではない。

 活力漲る肉体を維持するために、ベリレは毎食毎食よく食べるが、しかしそれでも皮下脂肪が少し薄くなっている。彫刻のような肉体は、筋肉の束がありありと浮かび上がっている。

「じゃあその犠牲に感謝して」

 ベリレは追加の素振りが嬉しそうだ。ランタンはまったく感謝もなく音頭を取って、四人は一斉にジョッキへと口付けた。炭酸の弾ける雰囲気はほとんどない。小さな気泡が粒となって舌の上を転がるようなくすぐったい飲み口に、麦酒特有の仄かな苦みがあるもののそれはオレンジの風味を際立たせる一要素になっているだけだった。

「うん、飲みやすい」

「子供の飲み物だな」

 ランタンがぽつりと呟くと、リリララは意地悪に応える。リリオンは一気にジョッキの半分も空けてしまって、満足気な溜め息をぺろりと舌で舐め取った。

「こっちは大人の食べ物だぞ」

 レティシアがくすねてきた干し肉の塊は、大きさの割には軽いように思えた。すっかりと水分が飛んでいて、指先で弾くと硝子のような音を立てるほどだ。真っ黒のように見えたが、狩猟刀で切れ目を入れて削ぐと、それは分厚い麻布を引き千切るような酷い音とは裏腹な、まるで紅玉(ルビー)のような濃い赤色の断面を露わにする。ランタンがそれを裂いては配り、リリオンは差し出したそれに雛鳥のように食らいつく。

「もう」

 甘ったれめ。

 ランタンは少女を甘やかしながら肉を食んだ。

「うわ、癖が凄い。血の味?」

「ちょっとしょっぱいね」

「濃い味がする、あーこれは酒が進むわ」

「エドガー様は、炙ってらっしゃったかな。ふうむ」

 ふんだんに使われた香辛料と、それでも消しきれない野性味のある風味。血抜きが甘いのではなく、そもそもとして血肉こそを材料としているのだろう。好き嫌いの分かれそうな独特の風味は、エドガーがこれを肴に酒をやる姿は何とも様になって美味そうなのだが、レティシアは想像を裏切られたのか何やら難しい顔つきで咀嚼している。

 手元に残った干し肉を二指に挟み、その手をランタンが遮った。

 通電させて、熱抵抗で火を入れようとしている。器用だけど、不器用な人だ。どれほど出力を絞れるかは知らないが、ほぼ確実に干し肉は松明(トーチ)と化すだろう。

「僕がやりますよ」

「そうか、頼むよ」

 ランタンは車座の中心に手を伸ばし、冷たい鋼鉄に掌を押し当てた。手加減は、得意ではない。だが風呂を温める時のような気持ちで。掌の下に閃光を隠し、震えるような音は耳鳴りを起こし、赤熱する鋼鉄はどう見ても熱しすぎだった。

「やり過ぎちゃった」

「あちいよ馬鹿。何が、僕がやりますよ、だっ!」

 リリララは盛大に悪態を吐き、まだ冷たい鋼鉄から四本の金串をするりと生み出した。それに干し肉を刺して、立ち上る高温の陽炎に晒す。

「あ、やらかくなった」

「火傷しないように気を付けなよ」

「うん」

 唇で肉を迎え入れる。子猫のような横顔に注意を払いながら、ランタンは金串から肉を外して手の中で冷ましてから口の中に放り込んだ。炙ったおかげで香辛料が薫り高く、血液独特の臭気は大人っぽい苦みへと変化している。

「リリララさんの魔道は便利ですね」

「ふふ、リリララのは特別だからな」

「なんすか、お嬢。急に」

 レティシアの言葉に、リリララが少し照れているのが解った。そんなリリララを見る緑瞳が大人びている。

「本当にそう思うよ。さっきベリレが叫んでいただろう」

「なんか言ってましたね。よく解らんことを」

「気付かぬのは当人ばかりかな。あれはリリララのことだよ」

 レティシアは金串を指先でなぞった。節の一つもない滑らかな表面を。

「竜種はどれだけ優雅に空を駆けようとも、雷火を吹こうとも、竜種はそれを技だとは誇らないだろう。技が身に付くというのは、その術理がすっかりそのまま己の血肉になると言うことさ」

 リリララが針を生み出すのに、意識はいらない。

 レティシアが誇らしげにしたのでリリララは、よしてください、と冗談めかして大げさに嫌がってみせた。わざと大きく口を開けて干し肉の切れ端に野蛮に噛み付く。

「ううん、リリララさんの魔道は凄いわ。わたしも、したいな」

 リリオンが小さな声で呟いた。

 車座を囲む四人の中でリリオンだけが、ランタンのそれは不確定であったが、魔道を使えないせいか少しばかり寂しげだった。ランタンはリリオンの身体を撫でてやった。少女の身体は温かい。そろそろ眠たくなっているのかもしれない、と思う。

「そんな焦んなって」

「ああ、一朝一夕で身に付くものではないからな。どうしても、と言うなら魔道具を使ってもよいだろうし」

「そうだよ。リリオンは剣だけでも充分に強いんだから」

 二人の言葉にランタンが乗っかると、リリオンは淡褐色の瞳をランタンに向けた。

「わたし、ランタンにお風呂作ってあげたい。ランタン、ちょっと疲れてる。小っちゃくなっちゃったわ」

「そんなこと――」

「あるよ」

「まあ、探索中だからそりゃあ体力の消耗はあるけど」

 眠りは少しだけ深くなったが、まだ浅い。

 けれどその事をリリオンには、シュア以外には口に出して伝えてはいない。

「ランタンのこと見てるの。ベリレさんだけじゃないのよ」

 ランタン。

 呼びかけに、ランタンは表情を作れない。


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