093 迷宮
093
昨日討伐した蛇竜は、エドガーの言うところ幼竜であったらしく、成竜ともなれあの二十メートルはありそうなあの毒皮ほどの大きさが本体の大きさとなり、その二十メートルの本体が身に纏う毒皮は二百メートルを超えるのではないかと言うことだった。
そんな奴が出なくてよかった、とランタンは本気で思う。
二十メートルの毒皮はその本体を失って早々に激烈な腐卵臭を発生させたので、探索班は結晶を回収すると逃げるような速度で存分に距離を稼いだ。もし成竜だったとしたら、きっとこの穏やかな休息も訪れなかっただろう。
悪臭は、追い立てるようにしばらくの間、探索班を追いかけてきた。
戦闘後相当な距離を進んだ。それゆえにと言うわけではないが、探索七日目はたっぷりの休養日だった。前夜にキャンプを張った位置から、一歩も前に進むことはない。悪臭の残り香が付着する服を洗濯することもできる。
探索者たちは各々で穏やかな時間を過ごしており、ベリレはドゥイを相手に組み手を行い、エドガーはそれに指導しつつ酒を飲んでいて、シュアは洗濯に食事にと雑事をこなしてくれた。
そしてレティシアはリリララに爪を整えて貰っていて、リリオンが少し羨ましげにそれを見つめていたのでランタンは少女の手を取って二人の側に腰を下ろした。細く長い指にふさわしい縦長のリリオンの爪は先端の白い部分が確かに増えてきているようだった。
「ちょっと爪痩せたね。んー、割れてないからいいけど」
「そう? よくわからないわ」
「爪が薄くなるのは長期間の探索だとよくあることだな。日光不足が原因らしいが」
「ああ、何か聞いたことがある気がしますね。太陽光を浴びないと皮膚が弱くなるとか。発酵食品を食べるといいんじゃなかったかなあ」
「だからチーズが頻繁に出るのかな。食品選びはほとんど家のものに任せていたからなあ……」
「あ、でもオレンジもいいらしいですよ。柑橘系は、骨の生成に何とかって」
「お前の知識、穴だらけじゃねーか。爪の削り方はまあまあ上手いけど」
粗い目のヤスリを使って形を整えて、細かい目で仕上げていく。削る向きは常に一定の方向で、ランタンは見栄えも相まってやはり柔らかく丸みを帯びた形に削るのが好みだった。尖らせすぎないように丁寧に。
「ほお、どれ。ああ、本当に。ランタンは器用だな。よかったなリリオン」
「うん、いいでしょ」
一つ一つ美しく整えられていく指先に、リリオンは誇らしげな微笑みを浮かべてレティシアに応える。
「これは、あれか? 腕相撲のお願いか」
「ううん、まだ。何にしようか迷っているの」
「……忘れたんじゃないのか」
リリララが余計な一言を、とランタンは思い、しかし本当に余計な一言を呟いたのは己自身だった。三人の女の視線が冷たさを帯びてランタンを刺し貫き、ランタンは素知らぬ顔をしてそれを切り抜けようとする。
「約束破りはいかんよ、ランタン」
「まったくお嬢の言う通りだ。男の風上にも置けねえな」
辛辣だな、とランタンは思わず苦笑を漏らすが、リリオンの指先は、自らの瞳に湛えた冷たさに侵されたように小さく震えた。
「わたしは、ランタンに何をお願いしたらいいのかしら」
「まあ、何か願い事ができたら言って。可能なことならするよ」
「……優しいというか、甘いというか。ランタンは、何なんだろうな。君は」
細められた緑瞳は、笑みの形ではない。視線は二人の間に一本線を引いて、その外側から得体の知れぬ者を見定める時の視線に似ている。だが似ているだけで、宝石のように美しい緑瞳には何やら複雑な感情が乱反射するように揺れる光が湛えられている。
ベリレもレティシアも、あるいはリリララさえも長兄ヴィクトルの影響が色濃く残っている。それもまたランタンを落ち着かなくさせる要因の一つなのだろう。
ベリレに構ってやることで、少しだけ視野が広がったような気がする。だが人の感情は複雑でランタンはそれがもどかしい。
「何なんだろうなって、レティシアさん。ただの探索者ですよ」
「ただの探索者は、お嬢やエドガー様と探索なんかできねえよ」
ふ、とリリララはレティシアの右の爪を吹き、そして左の爪を整えはじめた。
「そのおかげで、ベリレは苦労しているみたいですね。偉大な人たちに囲まれて、押し潰されずよくもあんなに大きく育ったものですよ」
ランタンはリリオンの爪先を指の腹で撫でて、滑らかになったことを確認するとリリララに倣って左手を手に取った。ベリレのことを口にするとリリオンは口を尖らせる。ランタンがベリレのことを深く知ろうとするのは、それが自らの睡眠環境改善のためだけではなく、少女のこの表情を見るためであるのかもしれない。
「昨夜、二人して随分と話し込んでいたようだな」
「えっ! そうなの、ランタン?」
「今日が休みだからって、夜更かしなんてね。なりはでかいけど子供ですよね、やっぱり」
昨晩の見張り当番はランタンで、何故だかベリレはランタンに付き合って明け方までずっと起きていた。早々にランタンによって寝かしつけられたリリオンはその事実に何か愕然としたように声を上げて、むう、と頬を膨らませる。ランタンは膨らんだその頬を突いた。
「……どんなお話ししてたの?」
「昔話」
「ランタンの?」
「まさか、僕は聞き役だよ」
リリオンはつまらなそうに、ふうん、と口ずさんで悩まし気な視線をランタンに向けるも、ランタンは曖昧に微笑むだけである。
昔話は十年前に蛇竜に贄として捧げられ、そして英雄に救い出された幼熊が、歳を重ねて英雄の足跡を知りその偉大さを知って思い悩む話だ。そして苦悩する幼熊に手を差し伸べたのがまた、大貴族の跡取りだというのだから笑えない。長兄ヴィクトルも確かに尊敬すべき人物なのだろうが、英雄に貴族に可愛いがられるベリレへの、外野の期待や嫉妬は、ベリレをただの探索者に満足することを許さなかった、と言うような七面倒くさい話である。
それは確かにリリオンの興味をそそるものではないだろうに、しかし何ともつれない反応である。
本当によく潰れなかった、と思う。ベリレはリリオンほども純粋に、届かぬと思い込んでなお努力を弛まぬ資質を持っている。それはベリレをより追い詰める資質でもある。だが、そろそろ。
「昔話ね。ベリレは昔なかなかの美少年だったって知ってるか? ねえお嬢。あたしが初めて会った時はもう結構でかかったけど、ちょっとその名残があったんだぜ」
「え、何ですかそれ。聞いてないです」
「家に来たばかりの時は髪は金色で、目の色ももっと薄くて、頬なんかふっくらしてな。ふふ、エドガー様が稚児趣味に走られたんじゃないかと少し騒ぎになったほどの美少年ぶりだったんだぞ」
「今じゃ見る影もねえすけどね」
四人揃って視線を向けると、組み手を終えて休憩中であったベリレは雄々しく、凜々しさすらある顔を引きつらせて怯えるように肩を振るわせた。その足元ではドゥイが座り込んでくたばっている。浴びるように水を飲んだのか、襟元どころか肩まで濡れていた。
「よし、お嬢できたぜ」
「うん、ごくろう」
「さ、仕上げしますよ。リリオンも、しょうがねえからそれ使わせてやるよ」
そう言って視線で示したのは爪の保護用のクリームだった。薄桃色をしていて、ほんのりと甘い匂いがする。リリララはそれを指先に小さく掬い取って、レティシアの指先に丁寧に擦り込んでいく。そうすると爪はつやつやとした真珠のような輝き帯びる。
リリオンは蓋の外された瓶を見つめて、十本の指をランタンに向けながらいじましげに瞬きを繰り返す。ランタンはしかたなく少女の爪をつやつやにしてやった。
「これぐらい自分でやんなよ」
「言われてますよ、お嬢」
リリオンへ向けた言葉を、リリララがレティシアへ。
「む、そうだな。リリララ、よかったら――」
「あたし、まだ指を失いたくないっす」
「ランタンの爪はわたしが――」
「大丈夫」
ランタンとリリララは二人してそっと視線を外す。そして指に付着したクリームを拭うように自分の指先に拭い付けた。リリオンとレティシアは二人揃って不満げな目付きで睨み付けてくる。睨まれた二人はちらりと目配せを交わして、完全に無視をすることに決め込んだ。
「二人とも……」
「ひどい」
恨めしげに呟かれてもそっけなく無視し、しかしリリララの耳がぴくりと反応したのは背後からベリレが近付いてくるためだった。
ランタンが振り返ると、ベリレは何か言いたげにしていたがむっつりと黙った。昨晩の話を吹聴されている、と思ったのかもしれない。ランタンが安心させるようにベリレに笑いかけると、大熊は大きく肩を上下させて安堵を漏らした。そしてそれから艶やかになったランタンの爪を見て不意に悪態を吐いた。
「ふん、女々しいな」
「言われてますよ、レティシアさん」
「レティシア様は女性だろうがっ!」
「まったく、二人とも。仲良くなったんじゃないのか?」
「いいえ――」
「――違いますっ」
ぴったりと息のあった二人に、リリオンがベリレを睨み付けるもベリレはレティシアへの言い訳に忙しく気付かなかった。リリオンは妙に大人びた溜め息を吐き出し、ランタンはそれが妙におかしくて笑ってしまった。
「女々しいと言ったのはランタンにです、決してレティシア様にでは」
「爪切るのの何が女々しいのさ。爪伸ばしたっていいことなんてないよ」
「今レティシア様に、ああ、くそ。お前、何言ってるんだ」
「爪伸ばしてると割れたりするし、剥がれやすいし」
「剥がれることなんてそうそうないだろ」
「剥がれるよ」
「どんな時に」
「相手の目の中に突っ込んだ時」
冗談でもなく、しれっとそんなことを言い放ったランタンにベリレは固まった。
ランタンは己の細指をそっとなぞる。右の人差し指。初めて敵の眼窩に指を突き入れた時、爪は剥がれ突き指になって最悪だった。
「知ってる? 眼球って硬いの」
「知らん。っていうかランタンの身長では相手の目には届かないだろ」
「まあ、顔は下りてきてるからね」
馬乗りになって、のし掛かってきた男の顔はすでに思い出せない。
ズボンを下ろすために半分腰を浮かせて体勢を崩したのか、それともランタンの顔を覗き込もうとしたのか、まず手始めに唇を吸おうとしたのかも定かではないし、知りたくもない。だがその時に降り注いだ生臭い吐息と、眼窩の中の温かさは、忘れたくともよく覚えている。指の痛みを感じたのは、そこから抜け出した後だったことも。
よくわかっていなさそうな三人を尻目に、リリララだけが一瞬妙な目付きでランタンを見た。
「いや、目に突っ込むなよ」
「最近はしないよ、でもまあ、念のためね」
文字通りに爪を研ぐことをランタンは怠らない。
レティシアの話ではベリレは過去なかなかの美少年であったようだが、すでに英雄の庇護下にあった少年は男に馬乗りにされた経験はないようだ。何とも羨ましい話である、とランタンは思う。その羨ましさが目に滲んだ。
「何だよ」
「何でもないよ」
嫉妬。ベリレはそれに少なからず敏感で、昨晩ある程度ランタンに気を許していたこともあって、不機嫌そうに声を荒げた。面倒くさい奴だな、と思ったランタンの反応も気にくわなかったのかもしれない。
「よし、じゃあ決着付けるか。昨日は引き分けだったし」
「ああ、望むところだ」
「武器有りだと危ないし、徒手格闘戦ね。目潰しは勘弁してやろう」
「はっ、吠え面をかくなよ」
「あなたの方こそねっ」
「なんでリリオンが言うのさ」
ランタンは腰も重たげに立ち上がり、ドゥイに戦闘指南を聞かせているエドガーに振り返った。
「ちょっといいですかあ?」
ランタンは無垢な顔をして呼びかける。
武器の使用は不可。探索に支障が出るような怪我はさせないように努力する。ランタンは爆発能力を使ってはいけない。それが勝負の規則である。
「なんで、こんなことに」
「だって勝負はどっちが多くの敵を倒すかでしょ? 雑魚やっつけたって何の自慢にもならないよ」
構えはなく、ゆらりとした自然な立ち姿を前にしてベリレが震える声で呟いた。その隣に並んだランタンはベリレに気合いを入れるように脇腹を引っぱたく。相変わらずの腹筋の硬さだ。
相対するのは大英雄。勝負はランタンとベリレ対エドガーである。
ランタンはエドガーに視線を飛ばした。英雄はこの探索班の中でもっとも得体の知れない男だ。
ああ、おっかない、いざという時はこの腹筋に盾になってもらおう。
ランタンのそんな思惑を見透かしたのかベリレは苦々しげに小柄な少年を見下ろして、しかしその頬に浮かぶ余裕の笑みに勇気づけられたのか、視線鋭くエドガーを睨んだ。そんなベリレにエドガーは怖がらせるように言い放つ。
「どうした、来んのか?」
「すぐに行きます、ベリレが」
「俺かよっ――!?」
とベリレが大声を上げた瞬間にランタンは踏み込んだ。エドガーの意識の継ぎ目、僅かに揺れた視線はベリレを見たはずである。距離は十メートルに足らず、ランタンの一足の踏み込みは音を置き去りにして、エドガーから薫る微かな酒気を感じるほどに肉薄する。
最短の鳩尾。手刀、直突き。
少しでも距離を稼ぐために伸ばした指が空を切り、半身になって見下ろすエドガーの顔を振り返ることもなく、ランタンは避けられたと悟った瞬間に右腕を振り上げて顎を狙った。遠い。紙一重が遥か先にある。旋転。エドガーは余裕から防御に回らず回避を選ぶ。放った後ろ回し蹴りはエドガーを一歩退かせるためのものであり、呆気にとられているベリレを叱りつけるためのものだった。
手伝え。
何せ相手は大英雄。ランタンの回避読みの思考の裏をつき、踏み込んで腹で蹴り足を受け止めたかと思うと太股を脇に抱え込んだ。締め付けられる力は万力のようであり、捻ろうと捩ろうとまるで抜けない。内股の動脈が完全に塞がれて、あっという間に爪先が氷のように冷たくなった。
ランタンは足を引き抜くのを諦めて、残った足でエドガーの腰に飛びかかり、負けじと胴を締め上げる。だがエドガーの表情は毛ほども変わらない。
「うおおおっ!!」
エドガーはランタンをまるで長物のようにしてベリレを牽制し、しかしベリレはお構いなしに突っ込んできた。天地が逆さまになったランタンの視界にどでかい靴底が見える。
今までの憂さ晴らしに頭を踏まれるのかと思ったがそんなことはなく、ベリレはランタンの頭を跨いで深く踏み込むと容赦のない上段蹴りを放った。どん、と破裂する音はそれが軽々とエドガーの片手に受け止められた音で、エドガーはベリレの足首を掴まえると腕の力だけで大熊を放り投げた。
あとで骨は拾ってやろう。
ランタンはエドガーの胴を締めながら、一気に上体を引き起こした。鼻頭に頭突きを叩き込んでやろうとして、しかしそれはランタンの足を締めているはずの腕に受け止められる。足は感覚を失っていて、それが手放されたことにすら気が付くことができなかった。
ぶん投げられた。
「ああ、くそ、――ってうおあっ!?」
起き上がり様のベリレの肩に着地したランタンは、その盛り上がった僧帽筋を緩衝剤に勢いを殺した。
「ナイス、ベリレ」
「うるさい、降りろっ」
労いにベリレの頭を一撫でして、ランタンはその肩から飛び降りる。とんとん、と地面を蹴って足の感覚を取り戻す。わかっていたことだが鬼のように強い。
エドガーは余裕綽々たる笑みを浮かべており、攻める気はまるでないようだった。それは少しばかり腹立たしいが、息を整える間をもらえたと思えばありがたい。
「ベリレっておじいさまから一本取ったことってある?」
「ない」
「ったく、もう少し甘やかしてもいいだろうに」
「手を抜いたら訓練にならないだろう。それに俺には特に厳しくしてくださった」
「なるほどね、何とも真面目なことで大変結構。それでそんなベリレだけが知っている、おじいさまの弱点とかないの?」
「あるわけないだろ、馬鹿か。エドガー様だぞ」
「……じゃあ攻めるだけだね。取り敢えず挟撃の維持を最優先で。行けっ」
尻を引っぱたく。
先行するベリレの影に追従し、ランタンは左回りにエドガーの背後を取った。ベリレは真正面からエドガーに乱打戦を仕掛けており、数を放っているのにその一撃は何とも重たそうである。発達した背筋からの左右の振り回しはなかなかの脅威だが、その筋肉が邪魔をして直線に腕を振るうのがどうにも窮屈そうだった。
豪腕の唸りは、しかしそれが躱されるがゆえの音色で、反撃の掌打がベリレの胸元を押すと巨体が大きく踏鞴を踏んだ。押した反動で振り返ったエドガーは膝を狙ったランタンの姿を容易に捉えている。ぞっ、とランタンの首筋が総毛立った。
右肩担ぎの構えは、竜骨刀を握っているわけではない。振り下ろしたのは拳を固めた鉄槌で、鎖骨を砕きに来ているそれをランタンは腕の交差で受け止める。衝撃が骨の芯まで染み渡り、金属の足場がまるで砂岩のように砕けて罅が入った。
「よく止めたな」
「――探索に支障が出ますので。おじいさまの反則負けでは決着が付きません」
呻きを漏らさなかったのは、ランタンなりの負けん気である。平静を装っているものの、お喋りなんかをしている余裕はまるでない。厳しくするのはベリレにだけにして欲しい。
だがランタンは腕の交差を解きながらエドガーの手首を掴む。飛びつき逆十字。そのまま引き倒してしまおうと思ったがエドガーの足は微動だにせず、梃子の原理を利用しているのに肘を拉ぐこともできない。エドガーは腕にしがみつくランタンをそのままベリレに。
ならば。
「――っ、反則負けになるぞ?」
「爪の一つぐらいでは大した戦力の影響もありませんでしょうに」
爪の隙間に指を突っ込もうとしたら、遠心力に吹っ飛ばされた。そしてランタンの頭上を通り過ぎてベリレの横面打ちがエドガーの視覚の外から飛び込む。
軽く仰け反り、エドガーはそのまま大きく後ろに距離を取ってゆっくりと息を吐いた。
「挟撃の維持が最優先じゃないのか?」
「人のことを目隠しにして避けられてるんだからあいこでしょ?」
少しだけ息が揃ってきたかもしれない。
二人は揃ってエドガーに突っ込んではいいようにあしらわれて、しかし次第にエドガーへと近付いている実感があった。致命打は一つも与えられないが、それでも何やら面白くなってきたのをランタンは自覚する。それはきっとベリレもそうだ。なんとなくわかる。
ランタンの大振りの浴びせ蹴りをエドガーは両腕で受けて、その影からベリレが中段蹴りを放った。だがエドガーは後の先をあっさりと奪う。下段蹴りに軸足を刈られたベリレは体勢を崩し、ランタンは蹴り足を踏み込んでエドガーの背後に飛んだ。そして。
ランタンを目隠しにしたリリオンの上段蹴り。
「おっ、っと!」
初めてエドガーが呻いた。右の甲に受けた蹴り足がものすごい音を立てて、エドガーは押し返されるように左に足を滑らせる。
「ベリレさんばっかりずるいっ。わたしもランタンといっしょに戦いたいのにっ!」
「ずるいって、これは男の勝負――」
「リリオンっ、畳みかけろっ!」
反応良し。リリオンはベリレに一瞥も残さずに、エドガーを追った。
そしてリリオンを追ってベリレも加わると、まるで二匹の巨大な獣が暴れ回っているかのようである。
しかし急な乱入にもエドガーは早々に冷静さを取り戻し、二人の猛攻撃を凌ぐ。
躱し、払い、打ち落とし。
ランタンへ落とした鉄槌のような乱暴なことはせずに、あくまでも防御一辺倒。その場に仁王立ちになって、恐るべき技術で全てを凌いでいる。子供を相手にするのは何とも楽しそうで、口元に笑みすら浮かんでいる。ベリレも、リリオンも。
「これでっ、どうっ!」
「があっ!」
「なんの、まだまだ」
二匹の獣が雄叫びを上げて、エドガーはじゃれつく幼獣をあやすように転がした。そしてその恵まれた体格の影から、地を這うようにランタンが肉薄する。真一文字に唇を結び、狩猟者の沈黙を保ったままに全力で足を振り抜く。踏み込みの一瞬を狙った軸足刈りは、ついにエドガーの体軸を乱した。
「おっと――!」
地面に片手を付いて、驚愕の表情が捉えたのはランタンの頭を馬跳びして突っ込んでくる膝だった。
「リリララっ!」
「私もおりますよ」
仰け反るようにどうにか避けたエドガーにレティシアが追撃を掛ける。踏み付けるような踵落としを辛うじて受け止めて、大英雄は貴族令嬢の片足を掴んでぶん回してリリララへと投げつけた。
「お前ら」
「皆が楽しそうなのでつい。私にも一手ご教授を」
「こいつら全然ダメっぽいので、まあ手伝いっすよ。最近は魔道ばっかで身体鈍ってるし」
さしものエドガーももうこうなるとなりふりを構ってはいられない。容赦なく飛びかかる探索者たちを剛柔混合の格闘術で大きく吹っ飛ばすと、気合いを入れ直すように息を吐き袖を捲った。
年輪のような皺の刻まれた老いた顔に、エドガーは若々しく獰猛な笑みを浮かべその瞳はこの上なく剣呑である。
「悪ガキどもめ。もう容赦はせんぞ」
一転攻勢、そうなるとエドガーの実力は恐ろしい。五人もいるのに三人四人はどうしたって防御に専念せざるを得ず、残りの攻め手も暴風のような徒手格闘に二の足を踏んでしまう。
だがそこに飛び込むのはいつだってランタンで、置いて行かれまいとリリオンが付き従い、ベリレが負けじと追いかけ、レティシアもリリララもそれに続いた。
なんだこれ、とランタンは思う。みんな何だか楽しげにしている。あるいは己も笑っているのかもしれない。
ランタンは顎先狙いの打突を辛うじて避け、左右から突っ込み上段中段に蹴りを放つ年少組にエドガーは押し返される。そしてその二人の間からレティシアが追いかけて拳を突き出し、影より這い出たリリララがエドガーの肺を裏から狙った。
リリオンの徒手格闘はランタン仕込みの喧嘩殺法で、レティシアとベリレは正々堂々を旨とするような騎士格闘術というようなものだったが、ベリレの方がやや乱暴だ。そしてリリララはなかなかのくせ者で、足音はなく俊敏。気配は稀薄で常に人の影と化し、狙いはいつだって必殺の急所である。
しかしその戦力を持ってしてもエドガーに一歩も二歩も足らない。
「一旦集合!」
ランタンの合図に全員が引き波のように後退し、エドガーもようやくと言ったようにゆっくりゆっくりと一息吐いた。こちら側は誰もが肩で息をしている。
「なんだ、降参か?」
「まさか、ご冗談を」
「なるほど、ならば一人ずつ沈めてやるか――」
「ですって」
ランタンはエドガーから視線を切って、飯の用意をしながら横目に観戦しているシュアに微笑む。
「エドガー様、失神させるなら絞め技で。打撃系は探索に支障が」
頸動脈を締められても、失神までには三秒かかる。その間は片手落ちだ。
「――シュア、お前は。……まったくランタン、手が早いな。いつの間にシュアを」
「おじいさまほどではありませんよ」
ランタンはリリオンとベリレに合図を送り、ついに最後の攻勢が始まる。
胸一杯に息を吸い込んだベリレの巨躯が一回り大きく膨らみ、酸素を燃焼させて突き進む。逆袈裟のように右の横打ちを放つと見せかけて、ここまでは堂々正直に振るった拳が、巨躯の旋転に変化する。ベリレは身体を振り回して左の裏拳を。
しかし手首を取られて転がされ、リリオンが長身を折りたたんでその下をかいくぐった。喉を狙った打突。首を傾けただけで躱され、手首と肘に手を添えられたかと思うとリリオンは真上に飛ばされていた。
驚きいっぱいの表情をしたリリオンの下をレティシアが突き進む。肝臓狙いの三日月蹴りは一歩踏み込んで腹に止められるも、今度はそこを踏み台に延髄蹴りへ。それを掴まえたエドガーの、リリララは既に背後へ。
レティシアの蹴りに己の意を紛れ込ませた無音の一撃。エドガーは恐るべき速度で旋転してレティシアを壁とする。そして再び振り返った先にいるランタンは、左手を背後に隠して、大きく跳び上がっているところだった
燃える瞳が、まるで迷宮に昇った太陽のようで。
小柄な全身から漲るような戦意を迸らせて、背後にリリオンを守るようにエドガーの顔上より高くから飛びかかる。右の手は掌打を狙ってか大きく開かれ、左は未だに隠したままだった。一秒に満たない高速の連携。その最後は小細工なしの正面戦闘。
ではなかった。
上空から切り裂くように振るわれた右手と、ぎりぎりまで隠していた左手がエドガーの眼前で高らかに鳴り響いた。破裂音。それは猫騙しである。
とエドガーが悟った時には、ランタンの強烈な気配の中に隠されていたドゥイがエドガーの腰に組み付き、大木を引っこ抜くように肩へと担ぎ上げる。
隠していた左手は、ドゥイへのハンドサインである。
声を出すな。そして全力前進。真面目で愚直な男は、言われたことを必ず成し遂げる。
ランタンはドゥイに担がれるエドガーに勝利を確信して笑いかけた。
「どうです?」
「――降参だ。まったく姉弟揃って」
「ありがとうございます。下ろしてあげてください」
「す、す、すみません、え、エドガー様」
「いや、よい。しかしまさかドゥイに最後を任せるとは」
「ベリレと組み技の練習するの見てましたからね」
ドゥイはレティシアとリリララに存分に労われている。リリオンは汗いっぱいになってランタンを背後から抱きしめて、ベリレはエドガーに一礼を。
「六人がかりでようやくだよ」
「やはり、エドガー様は凄いな」
ベリレは頬を昂揚させていた。それはエドガーの実力を改めて実感したからか、それとも目指した頂きにほんの僅か爪の先が触れたからか。
「けど決着は付かなかったね。序列の一番上がドゥイさんになっちゃったよ」
「――ああ、まったくだな」
「まだ決着付けたい?」
「……考えとく」
ランタンがそんなことを言うと、ベリレは清々しく笑う。そんなベリレにドゥイが慌てて首を振った。
「そんな謙遜しなくても。荷車引きをずっとして、組み手の練習もして、おじいさまに突っ込まされて、愚痴の一つもないなんて、そうそうできないですよ」
「俺は、ベリレが頑張ってるのを見てたから、俺も頑張るんだ」
「俺は――」
言葉もなく驚いているベリレの太股をランタンは叩いて場を離れることを示した。ランタンはリリオンを背中にひっつけたまま、シュアの元へと向かった。そこにはレティシアやリリララもいる。米の炊ける甘い香りが漂っていた。
「お疲れさま、ランタン、リリオン」
「レティシアさんもリリララさんも、お疲れさまです。お手伝いありがとうございます。リリオンもね。シュアさんも助かりました」
シュアはにっと笑って肩を竦めた。それに釣られるようにレティシアが微笑む。
「ランタン、ありがとうな、ベリレのことを」
「何がですか?」
「とぼけなくたっていいだろう。あの子が悩んでいたから、きっかけをやったんだろう?」
「まさか、なんで僕が」
「なんでって」
リリオンがランタンを殊更強く抱きしめる。
「それはランタンが優しいからよ」
「――優しい奴は人の目の中に指を突っ込まねえよ」
毒づくリリララにランタンは同意して頷いた。
「ただあれが睨んでくるのが邪魔だっただけだよ。まったくおじいさまが僕のこと見てるからって」
エドガーがランタンを見る時の視線と、ベリレを見る時の視線はまったく別種の物である。それなのにベリレは、エドガーにほっぽり出されるんじゃないかと不安になってしまったのだ。視線の質はまったく違うものだろうに。
「気が付いてたのか」
「ええ、リリララさん。こう見えて人の視線には敏感なので」
「ランタンは目立つからな。しかしエドガー様は何で」
「まあ、部外者二人なので気に掛けてもらっているのでしょう」
「部外者だなんて言うな。我々は仲間だろう」
「……ええ、そうですね。最後の連携は、なかなか楽しかったです。ねえリリ――」
リリララはあからさまに表情を歪めて、ふんとそっぽを向いた。
「――オン」
「うん。ランタン、汗の匂いするね」
リリオンはこくんと頷くついでにランタンの首筋に顔を埋める。
「ねえ、リリララさん。湯船って――」
「ざけんな」
兎耳の少女は取り付く島もなく、リリオンは日に日に濃くなる香りに頬を緩めた。




