092 迷宮
092
眠ったと言えば眠ったし、眠っていないと言えば眠っていない。
ランタンの小躯の奥底に潜む神経質さや、消し去りきれぬ他人への恐れが、警戒心となってどうしても意識を夢の中に手放すことを拒むのである。目を瞑ってもランタンの眠りは浅く、少年は暗闇の中、夢と現の間を彷徨う己をはっきりと記憶している。
太陽も昇らぬ迷宮に朝が訪れるまで、他人の寝息や寝返りを聞くだけの、不愉快な微睡みを過ごした。
ふむ、とランタンは思う。何でこの子は平気なんだろうな、とリリオンを見上げる。
ランタンは少女に抱きすくめられて完全に熟睡できる。時折息苦しさや、少女の寝返りに目を覚ますこともあったが、概ね安心感を抱いていると言って間違いではない。
ランタンは珍しく、己の方からリリオンに寄り添った。少女の隣は、その体温の高さのせいかぽかぽかと暖かい。リリオンは、喜んでランタンに寄り添うくせに、いざランタンが寄り添ってくると、驚き戸惑ったように瞬きをした。
ふむふむ、とランタンは思う。睡眠不足ではあるが、まあ大丈夫だろうと軽く考えていた。だが理性でそう言い聞かせてはいたが、本能はやはり眠気を欲しているようだった。
どうしたもんかな。
ランタンは己に向けられる幾つもの視線に、甘ったるいおっとりとした微笑みを返した。他意はない。ただ眠たいだけであるが、しかしどうにも警戒しているのは己ばかりではないのかもしれない。ベリレとドゥイがぎくりと身体を強張らせた。リリララは顰めっ面になっていて、レティシアは戸惑っている。エドガーはいつも通りで、シュアは面白がっていた。
真横のリリオンはそのランタンの顔を見ることはできずにいて、恐る恐る差し出したスプーンにランタンが素直に食らいついたことに、得も言われぬ感動を覚えているようだった。
朝方に温めたスープは、鍋に毛布を巻いて保温をしていたがやはり昼も過ぎると、迷宮の低気温も相まってだいぶぬるくなってしまう。だが、うまい。
探索班は、全員で車座になって遅い昼休憩をしていた。
朝食の残りのスープに、ビスケットや黒パン。それにチーズや干し肉等の調理不要の食品と、レティシアが毎食毎食、切り分けて振る舞ってくれるオレンジが添えられている。
割合豪勢であるが、あくまでも中途の休憩。ゆえに火は熾さない。
行軍の中断はリリララが魔物の気配を察知したからである。
聞こえたのは唸り声のような音でそれは腹の鳴く音ではないか、とリリララは言った。
「初日に地竜三匹。六日目でようやく、か」
「出現間隔からすると、なかなか厄介な相手になりそうですね」
エドガーの呟きに、レティシアが形のいい眉を顰ませる。
迷宮内の出現する魔物は、数が多ければ個体の質が下がり、質が上がれば全体数が減るらしい。魔精によって生み出される魔物たちは、迷宮内に存在する魔精量を振り分けられてその存在を顕現させると考えられている。
迷宮内の魔精は人の身からすると無尽蔵とも思えるほどに濃密だが、そのやりくりはなかなかシビアであるらしい。数を取るか質を取るか、はたまたほどほどの平凡を行くか。三者択一の大前提は滅多なことで崩れない迷宮の法則であった。
数を多く出現させるものは虫系が主であるが、もっとも酷いのはやはり迷宮兎であり、あれは数の暴力の権化である。そして個体の質が高い魔物の系統はやはり竜種が代表的である。
「六日で四匹は、少ないですか?」
ランタンが聞くとエドガーは曖昧に頷く。
「まだ先にいるのが一匹と決まったわけじゃないが、もしそうならまあ少ない方だな。今回はまず地竜が五匹出たわけだが、そのままどどっと同種の魔物が続くことが多い。だが――」
「――地竜じゃないでしょうね。あの耳障りな足音は聞こえないし。老個体で知恵が回る可能性もなくはないっすけど、唸り声にしろ腹の音にしろ、金属的な響きがなかったです。もっと鈍い、水中に響くような」
唸りが聞こえたのは一度だけ。リリララはよくその音色を逃さずに聞いた。
この兎の侍女はなかなか侮れぬ実力を持っている。
魔道や索敵能力だけではなく、身のこなしにもそれは現れる。進行の際に前を歩くリリララの後ろ姿は、どうしたって目に入る。ほんのり茶色の丸い尻尾が愛らしい引き締まった小尻は、あれほど厳しい進行の中でほとんど揺れない。ぴしりと一本、芯の通った体軸を見るに、恐らく何かしらの格闘術を修めているのではないかとランタンは思う。
気が付けば口の中に豆のスープがあり、差し出したリリオンに視線を向けると少女はにへらと笑った。取り敢えず何も考えず無意識のまま、ランタンはリリオンにビスケットを食べさせてやる。少女の唇が指の先に触れた。
「緊張感ねえなあ。わかってんのか? 戦闘だぞ」
「緊張しながらご飯食べたら消化に悪いですよ。――それで今は音はありますか?」
「ないな。あれっきりだ」
リリララはエドガーに視線を向けた。
「やっぱりあれは腹の音じゃないすかね。自分の意志では止められなかった音なんだと思います」
「ふむ、つまりは意識的に身を潜めていると言うことだな。待ち伏せするとなると」
「蛇竜の可能性が高いですね。地竜にも待ち伏せるようなものもいますが、初日のは随分うるさかったですから、その筋はないと考えてしまってもよろしいでしょう」
「お嬢の意見にほぼ賛成で。まあ、完全にない、とは言い切れないすけど」
経験則から目の前でぽんぽんと会話が繰り広げられて、ランタンとリリオン、そして非戦闘職の二人と、ベリレもその話を聞くばかりだった。巨熊の従騎士は黙々と昼飯を喰らっている。それは戦闘への準備をしているようにも見えるし、それに没頭することで口を挟まない己を肯定しているようにも見える。
ベリレはこれで結構、皆に心配されている。
探索前に部屋を訪ねてきたレティシアやリリララ、そして昨晩のシュアも何だかんだと、今でこそ最年少をリリオンに譲りはしたが、外見とは正反対のベリレを気に掛けている。
気が付かぬは本人ばかり。
その理由は隣にいる老人が、ベリレの全てだからなのだろう。この熊の少年は他に目を向ける余裕がないのだ。
ベリレは消化に悪い食事の取り方をしている。あの夜に隣り合っていた二人の姿を見た時とは比べるべくもなく、はっきりと緊張していた。エドガーはそんなベリレを気遣うが、その気遣いにベリレはまたいたたまれなくなる。
シュアの言う通り不器用だ。エドガーも、そしてベリレも。
どうにかしてやりたいな、と思ったような気がするがきっと気のせいだろうとランタンはベリレを横目に見る。身体の大きな男がうじうじしているのが鬱陶しいだけで、これをどうにかしてやればきっと己の睡眠環境に好影響を与えるだろう、という打算による思考だ。そうに違いない。ランタンは言い訳がましく頷いた。
だがどうやって、と言うのはいつも後ろを引っ付いてくる悩みであるが、知ったことではない。ベリレの心配なんて、ランタンはしていないのだから。
「蛇ですか、昨日の話を思い出しますね」
ランタンが呟くとリリオンが隣で頷く。
「頭二個あるかな?」
「頭はどうか知らんが、往々にして有毒種が多いな。またしても食える竜種ではないが、ああ、そんな顔をするな」
ざんねん、と唇を突き出したリリオンにエドガーが笑いかけた。
「そうね、このご飯も美味しいものね。はい、ランタン」
ランタンはスープの具材である豆をもそもそと咀嚼して、こくんと飲み込み、オレンジに手を伸ばす。レティシアの手によって八等分に櫛切りにされて、食べやすいように皮と果肉の間に半ばまで刃を入れてあった。これは今朝から見られるようになった心遣いだ。恐らくリリララが助言をしたのだろう。ランタンは手を伸ばして、その一つをがぶりと噛んだ。
「あ、これ酸っぱいやつだ。――ベリレ」
「何だよ」
「蛇竜についての戦い方を教えて。どうせおじいさまの英雄譚に、一匹二匹出てくるでしょ?」
「どうせって何だよ」
ベリレは不満げな表情を隠しもしなかったが、それを語ることを嫌がりはしなかった。
「蛇竜は、基本的には蛇とそう変わらない。足が無くて、鱗は鰐のようにごつごつしているものから、蚯蚓のようなものもいる。だが基本的な攻撃手段は噛みつきと、体当たりからの絞殺だ。噛み付きに留意するべきは、先程もエドガー様が言ったように毒がそうだ。噛んで注入する、というよりは吐きかける種類のものが多い。そもそもお前ぐらいの大きさなら大抵は丸呑みにできるほど大きいから、牙を立てる必要がない。だから前面には立たない方がいい。噛みつきを誘おうとして毒をくらうことはよくある。だが、かといって懐の内に入り込むのもあまりよくない。巻き付かれれば最後、抜け出すことは困難で、首に巻き付かれると窒息以前に頸椎を、身体なら全身の骨が砕けて死ぬ」
ベリレは、一つ一つを思い出すようにしながら語る。きっと隣でエドガーが一つ一つ頷いていることにも気が付いていない。ベリレは自分の頭の中身を覗き込むので精一杯だった。そして言葉を結ぶとようやくエドガーを見て、大英雄の反応に安堵しているようだった。
ベリレに少しの余裕が生まれて、ランタンへ寄越した視線は少しばかり生意気そうだ。
「せいぜい気を付けることだな」
「お――」
お互いにね、と大人の余裕を持って返そうかと思ったらランタンはリリオンに肩を引き寄せられた。驚いたベリレから視線をリリオンへと移動させると、少女はベリレをきっと睨み付けている。
「ランタンは、大丈夫よっ」
リリオンはランタンを抱きしめながら啖呵を切った。はっきりと言い切ったリリオンに、ベリレは不可解そうに眉根を寄せる。眉間に深く皺が刻まれて睨み返しているようにも見えるそれが、その実、何を言われるのかと怯えを隠す仮面であるとすぐにわかった。耳がぴくぴく。
「……なんで、そんなことが言い切れるんだよ」
「ランタンが危なくなったらわたしが守るもの。だからランタンは大丈夫なの」
ふふん、とリリオンは鼻を鳴らし、ベリレは何故だかぐうの音も出ない。根拠のないリリオンの自信に呆れているわけでもなく、難しい顔つきになっている。
ランタンは己の肩を抱くリリオンの手をからそっと抜け出して、少女から身を離した。
「ありがたいけど、僕は別に危ないことなんてしないよ。ねえ、皆様」
反応は一つも返ってこない。ランタンは不満もたっぷりに唇を曲げた。
「なんで無視するんですか」
「……それはお前が馬鹿だからだ。危ないことしかしてねえよ。ったく、冗談にしても笑えねえ」
「うむ、あまりリリオンに心配を掛けるんじゃないぞ。ランタン」
「さて、蛇竜の対処法に注釈を入れるのならば――」
女二人には諭されて、エドガーに至っては完全に無視である。
「接近する際は、尾の先か、頭部ならば側頭から首の付け根辺りだな。深追いは禁物。常に胴体の確認は怠らないように。リリララ、距離はわかるか?」
「二十ってことはないと思います。十キロ超ってとこでしょうが、あんま自信はないです。もっと近いかも」
「いや充分、ご苦労」
「いえ、どうせ今回あたしはあんまり使い物になんないので」
「どうして?」
リリオンが素直な疑問をあげると、リリララは肩を竦める。
「蛇どもは天地無用だからな。地形を弄っての足止めはあんまり効果がな。あいつら感度もいいから、うまいこと隙を突かないと串刺しにもできねえし。ま、ある程度の補助はするから、リリオンは今回前衛に上がっていいぜ」
「やった!」
リリオンは一つ手を叩いて黄色い声を上げた。
「今回は俺も参加しよう。前衛は俺にベリレ、リリオンに――」
「私は今回も後衛に。もっとも竜種が雷撃に耐性があるようなら、前に上がりますが」
「攻めたがりですね、レティシアさん」
「ランタンには負けるさ」
レティシアはオレンジを口にして、酸っぱそうに片目を閉じる。
「では、ランタンはどうする?」
含みのあるエドガーの問い掛けにランタンは視線を動かさず、視界を広げてシュアを見る。女は僅か、肩を竦めただけだった。報告はしていない、とそう言っているようだ。
だがエドガーはランタンがあまり寝られていない、と感づいているのか、少なくとも多少不調であることは察しているようだった。
「参加しますよ。ベリレと勝負を付けないといけませんし。ねえ」
「お前には負けないっ」
ランタンの挑発に容易く乗ったベリレは、がお、と吠える。ランタンは小さく頷く。
「おじいさまを差しておいて、とどめを狙いに行くなんて頼もしいことだね」
「え、あ、いや、ちが――」
「違わないでしょ? ベリレ。さあて頑張りましょうか」
「違うんです、エドガー様っ!」
「――よい、そうでなくては困る」
ああ、また、そんな言い方して、と思う。今までは気になりもしなかったが、ベリレの心を想像してみると、なかなかどうして重たい言葉であるように感じた。
「迷宮もそろそろ中層に近い。気は抜かないように」
行くぞ、とエドガーが声を掛けるとリリオンが跳ねるように立ち上がりランタンに手を伸ばす。ランタンはそれに掴まって立ち上がり、最後の最後に立ち上がったのがベリレだった。
巨熊は俯いて、ぼそりと弱音を呟く。ランタンはその言葉を聞かなかったことにして、取り敢えず一発ベリレの尻を蹴っ飛ばす。発破を掛けられて振り返ったベリレの目に映るのは、期待に目を輝かせるリリオンの尻を引っぱたくランタンの姿だった。
「なにを……?」
「ベリレのせいだからね、これ。ったく」
「はあ、意味が――!?」
喚くベリレを無視して、ランタンは大きく背伸びをする。そしてリリオンがそれを真似した。
雷撃から戦いは始まった。
絞るように背を向けたレティシアの腰の細さをランタンは横目に捉え、その左手に握り込まれた雷光に目を細める。やや腰を落としたレティシアのその姿は抜刀直前の緊張感を湛えていた。迷宮の先に立ちこめる闇に身を潜める竜種から隠した雷光は、今にも暴れだそうとするのを力ずくで抑えつけているかのように小さな紫電がばちばちと嘶く。
牽制程度、とレティシアは言ったが、それはきっと建前だ。
「やっぱり攻めたがりじゃないですか」
呟いたランタンの言葉に、笑みを吹き消すように深呼吸を二回。緑瞳に、雷光が反射した。
柳腰の旋転。
「――っ!」
放たれた雷撃。それは輝く短鎗のようである。平手で打たれたような破裂音を残して、瞬く間もないほどの速度で飛翔する。駆け抜ける雷槍に迷宮の闇がざっと払われて、魔物の輪郭が露わになった。
蛇、と言うよりは百足に似ている。
艶のない漆黒の身体。押し潰された菱形の頭部と、足のない扁平の胴体。尾の先までは二十メートル以上あるのかもしれず、その異様な竜種は鎌首を持ち上げて既にこちらを見つめていた。目はない。その顔は口の裂け目すらも把握できないのっぺりとしたもの。
隠したはずの雷の、その熱なり魔精なりをレティシアの背を透かして感覚していたのだろう。蛇竜は雷速の一撃を、すれ違うように避け、まるで解放されたバネのごとく飛びかかってきた。はっきりと照らされたその身体、艶の無さはざらつきで、鱗はなくゴム質で包まれているようだった。
蛇、と鳴った風切り音は扁平の形状が奏でる独特の音色。それは、けれど微かである。目を凝らせば胴体の縁が極薄い鰭のようにうねっているのがわかった。自律しているのではなく、風に煽られてはためいているようだった。
「せっいっ!」
ベリレの長尺棍が、鎖を巻き付けたままの野蠻な棍棒のような姿で振り上げられる。ランタンとエドガーは左右に広がって、リリオンはベリレの斜め後ろに控える。
高速で飛びかかる蛇竜をベリレが迎え撃った。蛇竜は待ち伏せをしていた慎重さを微塵も感じさせぬ真っ向勝負を挑んできて、ベリレは蛇竜から軸を半分ずらした形で長尺棍を振り下ろした。頭蓋を砕いてあまりある一撃である。直撃した蛇竜の頭部がぐにゃりと変形して、だがベリレの表情が渋い。
そして潰された頭部を追いかけるように、胴体が慣性にならって突っ込んでくるとリリオンが盾に身を隠しながら飛び出してそれを弾いた。衝突の音は鈍く、小さく。だが質量は見た目通りにある。力負けはしていないが、リリオンの足が滑って少しの後退を余儀なくされる。
頭部はぺちゃんこ。だが胴体は暴れている。エドガーとランタンが油断無くその胴を狙った。エドガーの袈裟懸けの一撃が、未来予知のごとき恐るべき身のこなしで躱される。
そして弧を描いて膨らんだ胴体はランタンに向かってくる。
むかつく、と素直に思ったのは眠気による不機嫌さや、あるいはベリレのことを気にしたせいもあるのかもしれない。蛇竜はエドガーの一刀を避けるために、ランタンの戦鎚に自らの身を投げ出したのだ。魔物の本能か。一瞥もなくエドガーを強者として、そしてランタンは比較して弱者として区別した。
その順位付けは事実であるが、腹立たしいことには変わりがない。
ゆら、とランタンの眼差しに赤が燈る。それは紅蓮を撒き散らす戦鎚の赤である。返した手首に鶴嘴が獰猛な牙のごとく立ち上がり、足元から振り上げられた戦鎚は蛇竜の胴に深々と埋まった。
異様な感触。ベリレの渋い表情の理由がわかった。高弾力性の、鶴嘴を押し返すような抵抗は一瞬のこと。今、手の中に伝わってくるのは溶けた鉛に似た重く粘度のある液体の気配。
ランタンはそれを掻き泳ぐ負荷を感じながらも、鋭い呼気を吐き出して戦鎚を振り抜いた。
焼け焦げる臭気。
「一旦、退くぞ」
言われずとも、と思った時には蛇竜の腹下をいつの間にかかいくぐっていたエドガーがランタンの首根っこを掴んでいる。またかよ、と思いながらもランタンは足掻くように、戦鎚の先に爆発を巻き起こした。そしてエドガーに引っ張られる、ランタンの視界に水袋が内側から弾けたように溶断する蛇竜の姿が見えた。臭気は血の臭いではない、いかにも身体に悪そうな石油のような臭いだ。
掴まれた首筋がやはり熱い。ベリレはこの手に頭を撫でられる時、きっとはっきりと格の違いを思い知らされているのだと思うと、何もかもに腹が立ってきた。
ランタンがそんなことを考えていると、半溶解した皮膚が黒い液体となってランタンに降り注ぐ。そしてそれは後方より放たれる雷撃によって、消し炭へと、いや蒸発させられていた。あれはどうやら熱で溶けるようだ。
ランタンはぽいっと放り投げられてリリオンがそれを受け止める。
「あれはまだ無傷だ」
「寄生型ですか?」
「いや、あれは――」
蛇竜の下半身はぴくりとも動かず横たわり、だが上半身はベリレの潰した頭部は拉げたその形のままに鎌首を持ち上げる。口の裂け目が見えないのではない。そもそもとしてそれは口がないのだ。
蛇竜が、エドガーを避けるように右に回り込んで飛びかかる。
ほんの一瞬の目配せがエドガーとベリレの間に行われ、長尺棍の回転は棘鎖を走らせて蛇竜の首へと巻き付いた。蛇竜はその戒めを抜けようと身体を回転させるが、その瞬間にベリレは蛇とは逆の回転を鎖に伝える。一層深く蛇竜の首に棘鎖が巻き付き食い込んで、ベリレは力任せにその首根っこを地面に押さえつけた。
エドガーが刀を振るった。断頭ではない。骨から身を削ぐような浅い角度の横薙ぎが、ただでさえ扁平なその身を芸術的な剣線が裂いた。
断面に背骨を抜いたような窪みがあった。まるで幼虫の住み着いた木の幹を割った時のような。
「左っ!」
リリオンが盾を振り回し、しかしそれを回り込む何かがいた。蛇。長さで言えば二メートルに満たぬほどの、灰白の蛇竜がランタンの視界を横切った。
あの漆黒の巨躯は、恐らく皮膚分泌物の固まった鎧皮。それを脱ぎ捨てた蛇竜は、まるで拘束から解放されたような鋭さをもってランタンに飛びかかってきた。鏃型の頭部は発達した棘鰭が返しのようになっている。食虫植物じみた口は、まさに肉を掘り進むためにある。細かく並ぶ牙、喉奥の窪みは毒の噴射口。だが避けると後ろにリリオンが。
視界が遮られる。振り回した盾をリリオンは力任せに切り返し、その表面に水音が響いた。
ランタンが盾から飛び出す。しかしそこには既に蛇竜の姿がない。大きさを言えば十倍以上、重さを言えば二十倍以上もありそうな皮を脱ぎ捨てた蛇竜の身のこなしは一度視界から外してしまうと追うことが難しいほどに速かった。
振り返る。レティシアの方に抜けたわけではない。レティシアは指差していて、放たれる幾つもの雷撃が蛇竜の残影を照らし、尽くが躱される。そっちか。蛇竜は影のように気配はなく、足がないから足音もない。ランタンは忌々しげに目を凝らした。
リリオンは首を左右に振って縦横無尽に駆け巡る蛇竜を追う、ランタンは視線だけを動かし、洒落臭いことにベリレは泰然自若にどっしりと棍を構えている。足元には鎖が、ベリレを囲むようにして無造作に横たわっている。そしてエドガーは待ち惚けるように右肩に竜骨刀を担ぎ、とんとんと肩を叩いていた。
瞬間。
その腕がぱっと閃いた。エドガーの刃圏に入った蛇竜の尾が斬り落とされている。ほんの五センチ程度。鱗の細かな白い蛇革に包まれるそれは、ゴム質の漆黒ではない。断面から青い血が流れる。
エドガーは尾を切り落とした刃先に視線を向けた。油に濡れたようにてかっている。
「分泌液は潤滑作用があるようだ。きちんと捉えないと滑るぞ」
と言われた通り、ベリレの巻き上げた鎖が蛇竜に巻き付いて、ぬるりと抜け出された。ベリレは鎖を引いて、その棘で引き裂こうとしているようだったが、それも上手くは行かない。表情が歪む。細かく生えた棘の隙間を縫うように、蛇竜は悠々と鎖の海を泳ぐ。
「跳ね上げろっ」
「うる――さいっ」
ランタンの命令に、ベリレは反射的に悪態を吐きながらもそれを実行する。
ベリレは誇り高いのにちょっぴり卑屈で、生意気だが素直だ。それに自信はないのに実力はある。
座りながら尻で踏めるほどの自由自在の震脚は、巨躯の全身を巡り、手足のごとく操ることのできる長尺棍はまさしくその肉体の延長である。長い長い鎖など指と変わらず、生える棘は伸びた爪かはたまたささくれかと言ったところだ。鎖に伝わった震動が地面に跳ね返り、蛇竜は放り投げられるように宙に。
「わたしもっ!」
鋭く振り回される大剣がランタンの頭上を通り過ぎた。ベリレへの対抗心に振り回された大剣は唸り声を上げて蛇竜の身を捉えて、残念ながらその身を滑った。蛇竜はてらてらと塗れるほどの分泌液の飛沫を散らして、ランタンの戦鎚は飛沫を毒素の一切も残さず燃やし尽くした。
下から振り上げた戦鎚が、松明のように燃える。そして。
高く掲げた戦鎚が号令を掛けるように振るわれた。瞬間。紅蓮の残滓を貫いて、雷槍が駆け抜ける。蛇竜は中空に身を捩り、既視感を覚えるような身のこなしで肌を鞣させるように魔道を避けようとした。だが突如、一枚の鉄板が地面から生えた。幅三センチに満たない鉄板はリリララの魔道によるものだ。レティシアより背後、リリララは中指をおっ立てている。
たったそれだけの金属の板に避を妨げられた蛇竜に雷撃が直撃した。
灰白の鱗が沸騰して下ろし金のように逆立った。異形の蛇は、いよいよ竜種じみて、ぞっとするような殺意を漲らせる。
竜は死んではない。傷つくほどに、内に秘めた獰猛さを解放するようだった。
その気配を察知してエドガーが動く。ランタンはその瞬間、リリオンの尻を引っぱたいた。
「たあっ!」
紅蓮も雷槍も、鉄板も切り裂いて、エドガーの出鼻さえも挫く歓喜の一撃が、あふるる殺意や獰猛さを分泌液として一回りも大きくなった蛇竜を半ばから両断して、後一歩踏み込めないベリレにランタンは怒鳴った。
ベリレは止めをエドガーに譲ろうとしていた。
「根性見せろ!」
蛇にして竜。その恐るべき生命力は、半身になっても失われることはない。憎悪も戦意も充分に湛えた冷たい瞳に、毒を滴らせる牙はまだそれが脅威を失っていないことを告げている。
だが混合獣の尾っぽのように、半不死などと言う上等なものではない。迷宮もまだ序盤、一皮剥けるには頃合いだ。
頭を潰せばそれで終い。だが激しくうねり、べったりと塗れるその頭部を滑らずに捉えることは。
――きっとベリレにならできる。
がおう、と威勢よく吠えたベリレが棍を翻して石突きが下から跳ね上がる。
音。それは硬質な金属同士がぶつかる甲高い衝突音。
ベリレの長尺棍は蛇竜の頭部を完璧に捉え、そしてランタンの戦鎚もまた同時に振り下ろされて、蛇竜は二つの武器の間にその頭部を押し潰されていた。
ランタンの手の中に痺れがあるように、ベリレの手の中にもまたそれがあるのだろう。熱い痺れが、皮膚を貫いて骨まで響いている。それはベリレの積み重ねた練武そのもの。
「また引き分けだね」
ぽかんとしたベリレに、ランタンはにっこりと獰猛な笑みを浮かべた。




