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カボチャ頭のランタン  作者: mm
04.Value Of Life
91/518

091 迷宮

091


 歩く。ひたすらに。

 探索において休憩のタイミングは、魔物の出現を基点にすることが多い。

 事前に魔物の存在を察知すれば大事を取ってその前に休憩を取ることもあるし、休憩なしで戦闘に突入したら、その後には確実な探索者の休息が訪れる。魔精結晶の回収は戦闘に比べればほとんど休憩のようなものであるし、一つの戦闘を終えれば肉体や武器への急激な負荷は避けられない。

 勝利の余韻は士気を高めるが、無駄に興奮状態を長引かせれば、無駄に体力、精神ともに消耗を招く。仕切り直しは、やむを得ない事情がない限りは必要である。

 そして魔物の出現がない場合は、指揮者の一声で全てが決まる。

 指揮者の中には探索班全員の体調管理を己の義務としてみている者もいるし、時間を神と崇めて予定の遵守にこだわる者もいる。どちらが優れている、という話ではない。それは探索班の色である。

 この探索班の指揮者はエドガーである。締めるべき所は締めるし、膨大な探索経験をその老身に宿しているためか彼が後ろについていると、それだけで探索班の士気は上がる。だがエドガーは割合、放任主義のようだった。自分で考えさせるのはネイリング家での後進育成という役目が染みついているのか、あるいは古い探索者に多く見られる大雑把さゆえか。

 三日、魔物が出現していない。

 目覚め、朝食を取り、ひたすらに歩く。栄養補給や水分補給で、いちいち立ち止まることはない。ただただ、ひたすらに歩き詰める。

 先頭はベリレで、二番手のリリララが時折ベリレを追い抜いて立ち止まるのはその時ばかりだ。リリララが耳を澄ませて魔物の存在を探る、その僅かな停止は、休憩と言うよりはむしろ疲労を実感するための時間のようだった。

 そして夜になると、濡れた布で身体を清め、たらふくの夕食を取り、少しの会話の後、たっぷり眠る。見張り以外。

 夜の見張りは初日のベリレから、レティシア、ランタン、再びベリレに戻り、今晩はレティシアがその役目を負う。

 リリオンもいずれその役目をするかもしれないが、今はまだ免除であった。

 睡眠時間は八時間たっぷり取っており、見張りは二交代制で五時間の夜番を若い三人で、そして早朝からの三時間をエドガーが引き継ぐ。エドガーばかりが連日の五時間睡眠であるのだが、エドガー曰く。

 老人の朝は早いからな、とまるで気にした様子がない。

 歩く速度が速い。

 ベリレの二メートルの長身。

 ベリレは横にも身体が大きくて、つい見落としがちなのだがベリレの脚は相応に長い。リリオンに負けず劣らず、と言いたいところだがリリオンの足の方がちょっと長い。

 とは言え長いことに変わりはない。ベリレの一歩は大きく、遠慮というものがない。ランタンやリリララは小走りと早足の中間ほどの歩調となっている。リリオンやエドガーは平然としていて、レティシアはあの腰巻きの下に長い脚を隠しているようだった。

 迷宮内の温度は相変わらずに低い。けれど全身はじっとりと蒸されているようで、背中は排熱が追いつかずに汗ばんでいる。ランタンばかりではなく、エドガー以外の誰もが汗だくだった。

 特に左隣を歩くリリオンは持ち前の代謝のよさも相まって、玉の汗が顎から滴り落ちるほどだった。いつもは三つ編みにしているリリオンの髪は、今は頭頂近くで丸く結い上げている。それは大きな銀の蕾のようだ。(うなじ)(ほつ)れる、纏めきれなかった後れ毛に汗が鈴なりになっていて、少女は時折それを掌で拭い、掌をズボンで拭った。

 少女が歩きながら水筒に口を付けると、歯が飲み口に当たってカチカチと音を立てた。

 ベリレは後ろを振り返らない。なぜならエドガーが声を掛けないから。

 リリララの耳が魔物の存在を捕捉することはなかった。戦闘はない、という判断である。そのため体力の消耗を度外視した強行軍をエドガーは指示した。

 エドガーの命はそれだけで明確な速度の指示はなかった。

 三日間の進行速度は、少しずつ加速している。ベリレは限界を探っているのか、それとも一向に声を掛けてくれないエドガーに声を、叱責ですら構わないからほしがっている、と言う感じだった。

 エドガーは放任主義どころか、これはむしろスパルタであるのかもしれない。

 速度は探索者ならば問題なく、ならばエドガーの更に後ろからついてくるドゥイはどうかというと、やはりあの大男は侮れぬ真面目さを発揮している。脱落どころか、相も変わらず弱音の一つも吐かぬのである。とは言えさすがに探索者との間にある身体能力の差は如何ともしがたく、肉体活性薬を服用しているが。

 そしてその姉のシュアは最初から最後まで荷車に乗っかって荷物の一つと化している。文字通り、探索者の速度に自らの足を使えばお荷物になることを理解しているのだ。

 しかしシュアはお荷物などではない。

 ランタンはリリオンにこそ好きにさせるものの、他者に身体に触れられることを好まない。リリオンと出会うより以前、ランタンは己の身体に触れる他者の肉体を汚らわしいものだと思っていた。言葉通りの不潔もあり、しかし多くは己の身体を蛞蝓(なめくじ)のように這い回る手指から伝わる欲望があからさまだったからだ。

 シュアは、さも本音であるように欲望を口にする。けれど疲労の溜まる身体に触れる彼女の手指は優しく繊細だ。まるで無垢な少女がそっと花を摘み取るように、シュアは肉体から疲労を摘み取ってゆく。彼女の手には他意がない。慰撫。ただそれのみに特化していて、ランタンの警戒心さえも摘み取るほどだった。

 この弟思いの姉がいなければ、ドゥイは薬品に頼ろうとも探索者の速度にはついてこられなかっただろう。

 遠く後ろを来るあの姉弟はどんな会話をしているのだろうか、とランタンはふと考えた。

 そんな余裕があるはずもないと思い至らないのは、少年が探索者の中でも上等な部類であるからこそだ。会話をする余裕がある、とはこの強行軍において余力を残していると言うことに他ならない。

 ただただ歩き続けることは、体力よりも精神を消耗させる。景色の変わらない単調な迷宮路では、己がどれほど進んだかも曖昧だ。リリオンが溜め息を吐き出して、気が付けばその唇が尖らされていた。

 体力はまだ余裕がある。だが少女の集中力は、と言うとそうではない。

 ランタンの視線は少女を通り過ぎて、そのままエドガーを振り返った。エドガーはそんなランタンの視線を察して、苦笑を零し、口を開く。

「昨日はどんな話をしたかな?」

「――! 海竜のお話よ、おじいちゃん」

 尖らせた唇にリリオンはぱっと笑みを浮かべた。

 この世界の海は、それなりに地獄に近い。海底に口を開いた迷宮は、当たり前に水攻めを喰らって内部の魔物は人知れず全滅しているらしいが、迷宮の中には水棲魔物が出現するものがある。そういった迷宮は、迷宮の崩壊を待たずして外界に魔物を流出させる。海水は魔精の霧さえも押し流して、彼方と此方を地続きならず、海続きにする。

 そうして出現し、海辺の街の脅威となったのが大海竜である。

 昨日道中に始まって、幾つもの甲板を足場にして足らず、遂には海面を氷漬けにするまでに至った海竜討伐戦はエドガーの二刀によって夕飯の最中に幕を閉じた。

 リリオンは、そして密かにランタンも単調な行軍の暇つぶしと呼ぶには豪華な英雄自らが語る冒険譚を楽しんだのだ。ランタンの楽しみ方は、少しばかり歪んでもいたが。

「今日は、何の話をしようか」

「ベリレからもご活躍は沢山窺ってますからね、どれも聞きたいな。ねえリリオン?」

「……わたし、ベリレさんから聞いていないもの。わからないわ」

「あれ、そうだっけ?」

「うん……、でも昨日もその前も、おじいちゃんは竜殺しの英雄さまだから竜種の話が多いのよね」

 リリオンは額から頬、そして顎の汗を拭って振り返る。そんなリリオンにエドガーは渋い笑みを浮かべた。

「そんな風に呼ばれもするがな、竜種専門じゃないぞ。じゃあ今日は混合獣(キメラ)の話でもしようか」

「混合獣、ですか。たしか一匹だけやったことがあったかな。山羊となんかの鳥だったなあ。あれ羊だっけ……? 何にせよ翼のある生き物って全滅した方がいいですよね」

 あまりにもな物言いに隣を歩くレティシアが、呆れを含んだ緑の視線を寄越した。

「レティシアさんには雷があるからわからないんですよ」

「ランタンには爆発があるじゃないか。あれほどの高威力を持っていて贅沢だな」

 視線が交わり、どちらともなく肩を竦める。

「面倒であることは確かだな。しかし混合獣は珍しい魔物だが、なかなか引きがいいな」

「うれしくないですよ」

「だが、たかが二匹混ざり程度でぐちぐち言ってちゃ格好悪いぞ。俺がやってまあまあ強かったのはあれだ。頭部は獅子三匹、角は山羊、胴は蜥蜴で翼は鷲、四肢が狒々と豹――」

 リリオンは一つ、二つと指を折る。片手では足らない。

「――尾は双頭の毒蛇だったな」

 そして獅子を三と数えるか一と数えるか、毒蛇を一と数えるか二と数えるかで迷っている。

「七匹だよ」

 そんな少女にランタンはそっと囁く。

「そうなの?」

「そうだよ」

 なぜならベリレがそう言っていたのだから。




 混合七獣。

 高難易度獣系中迷宮の道行きは、枯れた花の道であった。それはまるで沼地のようであり、ぬるりぬるりと腐臭を放ち、時として臑半ばまで埋まるほどに腐花は堆積していた。そんな腐花迷宮の最奥は、それまでと打って変わって、噎せ返るほどに甘く咲き狂う花園であり、その天辺には偽月の浮かぶ幻想的な異界であった。

 ごくり、とエドガーが唾を飲んだのは、その甘い香りに誘われてのことではない。

 最下層までの道程は、あるいは最終目標(フラグ)に生命の源である魔精を捧げたがゆえのことであったのかもしれない。それは花園に充ち満ちる魔精を悠然と泳ぐかのようだった。

 大魚のように、ゆたり、と振り返ったそれにエドガーは唾を飲み込んだ。

 花園の主はおぞましき異形でありながら、一種の神々しさを感じさせた。

 銀の鬣の三つ首の獅子は、それぞれが炎、冷気、そして毒を吐き出し、鬣から覗く角は紫電を纏った。

 銀の鱗に覆われた蜥蜴の胴は、あるいは竜種であったのかもしれず、狒々の前肢は人のそれと同じく知性を携え、豹の後肢は天地を問わず遍くを駆ける。

 そして鷲の翼は異形の巨躯を空へと昇らせた。そして混合獣の尾である双頭の毒蛇は、偽月の中に浮かんでなお地に咲く花を嗅ぐほどの大蛇であり、その双頭に意志を持つ。

 偽月の獣。混合七獣に立ち向かうは、大探索者エドガー率いる六名の探索者。

 いざ火蓋の切られた激突は、混合獣の火炎息吹から始まった。狂い咲く花々の一切を灰にする高熱の息吹は、強烈な閃光と音を纏い、不意を突かれた探索者の目が眩む。そして恐るべきことに混合獣は自らの放った炎の中に身を躍らせて、赤熱する身体を以て突撃を。

 仲間たちは熟練の探索者。匂い立つ神性にあてられたがゆえの隙。命取りになるには充分な一瞬。

 ああ探索者の命を燃やさんとする混合獣の激突を止めたのは、エドガーの神速の抜き打ちであった。

 目を灼かれ視界は白む。だが接近する熱量を感覚する事はエドガーにとっては造作もないことである。

 黒竜の芯骨より削り出された竜骨刀は恐るべき高熱であろうと炭化せず、超速の突進を迎え撃って欠けることすらしない。ただ閃光さえも吹き飛ばす激烈な高音を奏でて、それは叱咤するように震え、その白々とした刃を晒すばかりである。

 高熱に炙られたエドガーは声を出すことができない。だが探索者たちは確かに聞いた。その堂々とした背は確かに語った。

 たとえそれが神であろうと、俺に斬れぬものはない、と。

 おおお。と仲間たちは打ち震えた。あの竜殺しエドガーは、きっと神の使いでさえも斬ってみせるだろうと。その証拠にどうだ。あの神獣のごとき混合七獣が、まるで怯える子猫のように距離を空けたではないか。

 偽月を背に跳び上がった混合獣が、今度は氷嵐のような息を吹いた。高熱に炙られた地表が急激に冷却されてひび割れ、それは氷震を起して花びらが一斉に舞い上がった。

 花吹雪を裂いて飛んだのは魔道使いの放った風刃である。それは混合獣に息吹を吐かせる余裕を与えなかったが、自由自在に天翔るのその巨躯を捉えることもできなかった。

 膠着状態、ではない。

 混合獣の銀の巨躯はまるで疾走する雷雲の如き。山羊の角から放たれる落雷は絶えず動き回れば滅多に当たることはないが、立ち止まれば必中の指向性の雷撃であり、魔道の行使には集中力を要する。頼みの風刃も逃げ回りながらでは息吹を封じるほどの数を放つことはできない。

 そして混合獣の攻撃はそればかりではない。尾となる大蛇は、それ自体で最終目標となりうる能力を有している。

 それは意思を持つ絞首台そのものの残酷さで、ちろりちろりと舌舐めずりをしていた。細く鋭い牙から絶えず滴る毒液を舐め取るように。

 探索者たちは散開して狙いを散らし、飛びかかってくる蛇の双頭を躱し、そして時にどうにか切り払う。けれどそれは直撃を避けるために腰が引け、致命傷をもらわぬ代わりにまた致命傷を与えることも困難であった。

 最下層はじりりと毒に蝕まれていた。

 三つ首の内の一つが吐き出す毒霧は花を枯らした。そしてその場に滞留した。ぞっと暗い毒霧は冥府へと手招きする亡者の影に似ている。皮膚が触れると灼熱の痛みがあり、金属を腐食させ、吸い込めば命に届きうる毒である。そしてそれは斬ってもただの霞であった。行動範囲が狭められ、苛立った一人の魔道剣士が火を以て焼き払った。

 閃光と音。魔道剣士は弾き飛ばされ、それを狙った蛇をエドガーが迎え撃ち、風刃が援護を。倒れた魔道剣士を仲間が引き起こした。そして吐き出される毒霧を起きざまに魔道剣士は燃やした。今度は離脱しつつ。

 ああやはり、とエドガーは思う。

 火炎息吹と毒霧息吹は同種のもの。可燃性の毒霧を、雷撃によって発火させているのだ。

 好機。火炎息吹の目くらましは、既に敵のものだけではなくなった。探索者たちにとって目の前の現象を理解することに時間は要らず、そしてエドガーの背を追うことに恐れなどなかった。

 風の魔道により滞留する毒霧をまるごと移動させ、魔道使いを狙う雷撃を大盾持ちの探索者が身を以て防いだ。そして毒霧の中に蛇を誘い、火の魔道により焼き払って視力と熱感知器官を一時的に消失、あるいは焼失させて、また別の仲間が獅子の三つ首を引きつける。

 二度と訪れぬ、万分の一秒の間隙にエドガーは身を躍らせる。

 エドガーは跳んだ。残火燻る蛇の双頭を踏み付けて、天辺より垂れる尾を駆け上り、右の袈裟懸けはついに蛇を斬り落とし、混合獣の背に立ったエドガーは二刀を以てその翼を切り裂いたのである。

 と言うのがベリレから聞かされた話である。

「――で地面に落ちたら、混合獣の尻の割れ目が増えてるわけさ、仲間の一人が大笑いだよ。そいつは危うく笑い死にするところだった」

「まあ」

 リリオンは頬を押さえて、笑うのを堪えるようだった。八の字になった眉に恥じらいがあり、むしろその顔にランタンは笑う。

 ベリレとエドガーの語るそれは表現の差異であって、内容はそれほど変わらないのだろう、とランタン思う。もうベリレは、とランタンは楽しむのだ。

 エドガーの言葉は時折古い探索者らしい伝法さを帯びるが、基本的には簡潔で淡々としている。

 ベリレのそれもであるが、世に語られるエドガーの逸話は魚が溺れるほどの尾びれ背びれが付いている。それは戦いの残酷さから目を逸らすための役割を持っていたし、ベリレのそれにはエドガーへの尊敬や憧憬が多分に含まれていて、同じことを語っていてもやはり受ける印象は大きく違った。

 幾ら英雄と言えども、戦闘はやはり残酷であるし、苦戦する時は苦戦するのだ。

 尾を斬り落とされて、翼を斬られようとも、混合獣にはまだ獅子の顔も山羊の角も狒々の手も豹の足も残っている。

それは辺り構わず毒霧を吐き散らし、容赦なく空間を焼き払う。赤熱紫電の突進は角に意識を牽くためのもので、本命はエドガーの足を狙った狒々の手であった。

 エドガーは何とその突進に膝をあわせたようだ。獅子は鼻血を吹いて、エドガーは山羊角を鷲掴みにする。

「また無茶な。雷撃はどうするんですか。熱は」

「手袋してたしな、まあ感電はしたんだが、それは気合いで耐える。感電すれば筋肉が収縮するだろ。がっちり掴む分には丁度良いから、そのまま首を捻折る。腕が動かんから、こう腰を回してな。これは運び屋の時の経験だな、酒樽を転がす時の――」

「……ランタンみたいなことするのね。おじいちゃんも」

「そんなことしたっけ?」

「したわよっ、もうっ。ついこの前っ」

 むっと頬を膨らませてリリオンは怒る。ランタンは、冗談だよ、と言いながらも、言い終わってから金蛙か、と思い出した。あれは痛かったなあ、と迫真の演技をするがリリオンは疑いの眼差しを送るばかりだ。

 ともあれ混合七獣は恐るべき強敵であり、リリオンはエドガーの話を興味深く聞いていて、疲労も忘れたかのように頬を赤くして、時に悲鳴を、時に歓声を上げる。もちろん小さな声で。

 斬り落とした蛇が付着する尻肉を噛み千切り、半分ほどに短くなった胴体を引っ提げて魔道使いに飛びかかったところでリリオンは、ほう、と溜め息を吐き出した。無力化したと思っていた蛇が何と死んだふりをしていたのだ。

 蛇の心臓は蜥蜴の胴部に納めてあり、双頭の蛇は半不死であった。迎え撃つ風の魔道使い。

 一撃目は掌を基点にした面の突風。二撃目は十字を描いた線の風刃。そして三撃目は指先より放たれた二点の風弾。胴を幾つにも寸断し、双頭を砕き、それでも蛇はまだ生きていたのかもしれないが、巻き付くことも噛み付くこともできなくなっていた。圧縮した空気の弾を、肉の内側で解放する。それは光も熱も伴わない爆発である。

「かっこいいな」

 やはりリリオンは魔道に憧れがあるようだ。レティシアの真似をするように目の前に手を突きだして指を揃える。レティシアが微笑み、するとリリララが振り向いた。

「それでほんとに使えたらどうすんだよ」

 その言葉にリリオンはビックリして手を引っ込めた。

「ベリレの背中に穴が空くぜ。背中から撃たれちゃベリレも浮かばれねえよ」

 そして肩を竦めて再び前を向く。リリオンは少しだけバツの悪そうに指を擦り合わせる。ベリレは全く興味もなさそうだった。万に一つもリリオンが魔道を使えるとは思っていないのだろう。

 けれどしばらく歩いて、ベリレは急に振り返る。

「どうかした?」

 ランタンが聞くと少しの逡巡、そして恥ずかしげに一言。

「……お話の続きを」

 エドガーは苦笑して、話を続けた。探索者は歩き続ける。




 結局この日も魔物の出現はなかった。

 ランタンは靴から足を引き抜いて、靴下を、まるで皮膚でも剥がすようにそっと脱いだ。汗で蒸れたそれを丸めて脇に置いて、ランタンは濡らした布で足を拭いた。熱した濡布は疲れと汚れを拭い取って、しかし後に残るのは冷たさばかり。

 すこし迷宮内の温度が下がっているのかもしれない。

 ランタンが足を綺麗にすると、シュアがその足元に跪いた。ランタンは荷車に腰掛けており、さも当たり前のようにまず右足を女の膝の上にぽいと放り出す。シュアも当たり前のようにそれを受け入れた。

 シュアの指が膝から脹ら脛を指圧しながら落ちて、細く滑らかな足首を優しく回した。関節に痛みはない。靴の内側に擦れたくるぶしが赤みを帯びている。女の指がそれを擦り、足底に親指が強く押し当てられる。筋肉の筋に沿って、何度も。

「靴、合ってないんじゃないか?」

「まあそうですね」

「帰ったらちゃんと測って作ってもらえよ。稼いでるだろ」

「買った時はもっと大きくなる予定だったんですよ。この足」

 嘘。本当は一目見て、ごつごつしていて、大きくていかにも頼もしかったから買ったのだ。

 ランタンは指圧の擽ったさに、足の指を開いては閉じる。爪の切り揃えられた足指の一つ一つをシュアは揉んだ。柔らかい痺れにランタンが頬を緩めていると、その隣にリリオンがちょこんと座った。汗ばんだ身体に恥ずかしげもなく、甘酸っぱい匂いを薫らせている。

「リリオンも後で揉んでやるから、ちょっと待っててくれ」

「ううん、わたしは平気です。ランタン、手ちょうだい?」

「……しかたないなあ。ちゃんと返してよ」

 ランタンは、よいしょ、と左手で右腕を持って、まるで取り外すかのように肘の関節を、こきり、と鳴らした。リリオンは目を丸くして、シュアは鋭く細めた。

「あとで肘も見せてもらおうか。脱臼の経験は?」

「今のところはないです、たしか」

「もともと柔らかいのか、それとも緩いのかな。一度外れると癖になるから気を付けた方がいいぞ」

 ランタンは地竜の鱗を纏めたものに肘をついている。足はシュアに揉ませて、リリオンに腕を渡すと少女は献身的にそれを揉んだり撫でたりしている。

 片肘をついて首を傾けているランタンの姿は、いかにも尊大である。奉仕させることが当然とでも言うような物憂げな半眼が、視線を横切ったリリララを無意識に追った。

 尻尾も、小振りな尻も丸い。立ち止まり、振り返る。

「お前はどこの阿呆貴族だよ、二人も女(はべ)らして。なんなら爪も削ってやろうか?」

 そう言ったリリララの両手は清潔なタオルを山ほど抱えて塞がっている。

「んー、今のところ大丈夫です」

 ランタンは身体を起こして、右手を伸ばす。掌をリリララに向けて、甲は己の方へ。ぴんと指を伸ばして爪を見つめる。爪はまだそんなに伸びてはいない。

 リリララの皮肉にもランタンは真面目に応えて、兎の女は肩透かしを食らったように軽く肩を竦める。そしてランタンを通り過ぎた。向かう先はレティシアの元で、レティシアは布張りの目隠しの向こう側で湯浴みをしている。

 大きなたらい一杯の水を温めたのはランタンだった。爆発は加減が利かないので熱くなりすぎてしまったが、外気が冷たいので丁度良いのかもしれない

 湯船に浸かりたい。だが、たらいは足湯を楽しむ程度の深さしかない。ランタンの身体が小さかろうと、それに浸かるような真似はできない。

 ランタンは再び片肘をついて、背中を丸めた。

「レティシア様の湯浴み姿が気になるか?」

「まあ、ほどほどに。でも、ベリレほどじゃありませんよ」

 熊の少年は目隠しの方を少しも見ない。完全に背中を向けているが、その大きな背中から放射される気配はただ一枚の、水音すらも遮れない布の奥へと向かっている。ランタンは苦笑を一つ零して、今度は逆の足をシュアに。

「ランタン!」

「ん?」

「ランタンの手は、小さくて綺麗ね」

「なに急に?」

 リリオンは揉んでいたランタンの手を急に包み込んで、今度は温めるように擦りだした。そっと窺うような瞳には、妙な気配がある。感情が瞳に解りやすく浮かび上がる少女であるが、ランタンはそれを読み取ることができなかった。ランタンが小首を傾げてみると、リリオンはつんと唇を尖らせる。不満、これはわかる。

 見つめ合う少年少女の間に割って入ったのは、押さえきれぬ笑い声だ。

「ランタン、リリオンはね。ランタンがベリレにちょっかいを掛けるのに思うところがあるのさ」

「……そうなの?」

 リリオンは頷きも、首を横に振りもしなかった。ただぽつりと呟く。

「わたしのお尻、けっても、いいのよ?」

「ばか。そんな趣味はないよ。僕は」

 ランタンは手を引き抜いて、人差し指でリリオンの鼻の頭をつんと押した。少女は鼻を押さえて、いじましく、囁くように呻いている。

「尻なら撫でる方がいいよな。わたしとリリオンと触り比べてみるか」

「みません。……けどリリオン、僕とベリレが仲良しなのは嫌?」

「いやじゃない、けど」

 煮え切らぬ口調が全てを物語っているような気がする。

「まあ、べつに仲良くはないけど。どんなもんか確かめてるだけだよ」

「……うん」

「そんなこと言わずに、ベリレと仲良くしてやってくれよ。あれにとってはきっと初めての友達なんだから」

 こんな時に、シュアは表情を和らげる。つつと視線が脹ら脛を撫でるように這い上がる。

「騎士団にお友達はいないですか」

「あの子は騎士団の所属じゃないからな。ヴィクトル様を友人と呼んでいいものか、と言った感じさ。ベリレは頑なに弟子をとらなかった大英雄の、ただ一人の弟子だからな。あの子の立場はなかなか難しいよ。家中の者ではない。貴族の出でもない。嫉妬も期待も色々あるし、エドガー様はエドガー様で」

 エドガーはベリレと肩を並べている。ベリレは恥ずかしそうに背中を丸めていて、エドガーの背はしゃんと伸びている。それは寒々しい鉄の迷宮内に似つかわしくない暖かな姿だった。

「ベリレのことは可愛がっているし、相応に厳しくしていらっしゃるが、やはり甘い方が大きいね。あのお歳までずっとお一人だし、ずっと戦い続けてこられたお方だから子供への接し方は不器用で、極端だ。ランタンとリリオン。エドガー様とベリレの関係は似ているかもな」

「そうですかね」

 ランタンは言いながら、赤くなったリリオンの鼻を擽る。少女は目を細めた。

「そうだよ。エドガー様がランタンを気になさるから、ベリレはこのところちょっと焦っている。大好きなエドガー様を取られないようにとね。エドガー様はエドガー様で、そんなベリレに戸惑っている。初日の夜を覚えているか? あんな風にはっきりと、ベリレが好意を口に出すのは珍しい。まあ、そんな戸惑うお姿は珍しくて面白くもあるのだがな」

 ベリレは自分の居場所を守っているのかもしれない。

「そしてランタンがベリレを構うから、リリオンは拗ねる。……と思ったけど、もう大満足なのかな。ランタンは悪い男だね」

 リリオンは睫毛の隙間からシュアを、そしてベリレを見た。

「ベリレさんは、おじいちゃんのことばかりじゃないわ。戦ってる時、ずっとランタンのこと見てたもの」

「そうなのか? ほう、それは。私は戦闘に参加することはできないからな、そうか。ベリレ……」

 リリオンの言葉にシュアははっきりと驚きを示して、考え込むように眉根を寄せた。マッサージの手が止まっている。

「よく見てますね、皆のこと」

「うん? 身体ばかりじゃなくて、精神の方もケアも私の仕事だからね」

「僕にじゃなくてベリレに言ってあげたらどうです?」

「……思春期の子は難しいんだよ。ああ見えて繊細だからね」

「僕も思春期ですけど、年齢的にはたぶん」

「でもベリレよりはお兄さんだろ? よし、足終わり。次は――」

 ふと暖かな、湿っぽいいい匂い。目隠しの奥からレティシアが姿を現した。まだ髪が濡れていて、涼しげな目元が嫋やかに滑りランタンを捉える。

「先に使わせてもらったよ。待たせて悪かったな」

「いいえ、シュアさんのおかげで全然です。――ありがとうございます、汗流してきます」

「ああ、肘はまた後でな」

 シュアは耳元に顔を寄せた。

「……あとこれ、先に渡しておく」

「なんですか?」

 手の中に握らされたのは紙包みされた粒剤である。シュアは声を潜める。

「眠剤だ。あまり寝られていないんだろう」

 知らない人がいっぱいいるから。眠りは浅い。だからまず手始めにベリレを知ろうとしているのかもしれない。ランタンは内心で驚いて、しかしリリオンの目を気にして表情は澄ましている。

「よく、見てますね」

「仕事だからな。どうしても使いたくないなら私の寝床においで。子守歌を歌ってやるよ」

 ランタンは返事をせずに立ち上がった。欠伸を誤魔化して大きく背伸びを一つ。振り返ってリリオンに手を伸ばした。

「おいで、一緒に」

「うん!」

 リリオンはその手を掴むばかりか、ランタンを抱き上げて目隠しの奥へと一目散に飛んでいった。

 そこは二人っきりになれる唯一の場所だ。

 一人になりたい、じゃないんだ。とランタンはリリオンを脱がしてやりながら笑う。

 たぶん、その内に寝られるようになるだろう。


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