090 迷宮
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丸鶏のスープは野菜がごろごろと入っており、櫛切りにされたトマトが彩りと、そしてトマト特有の独特の酸味をスープの中に溶かしている。付け合わせは塩漬けの豚肉と鹿肉、そして大量の蒸かした芋である。
リリオンとベリレとドゥイは見た目通りの大食漢であり、運び屋の大男はマイペースなものだったが、育ち盛りの探索者二人はいかに多くの食料を自分の胃袋の中へと獲得するかを競い合うようにして料理を貪り食っている。
リリオンはあまりベリレを恐れなくなったように思う。それは睨まれることになれたと言うよりは、僅かばかりの敵愾心であるのかもしれない。ベリレがごっそりと芋を自分の皿へと取るとリリオンも、肉を取ればリリオンも肉を、と。
エドガーはいかにも老人らしく、食欲旺盛な若者を肴にして気分良く酒を舐めており、リリララやシュアはその暴食の宴にも慣れたものなのか自らの食事を粛々と進めている。三人の食欲の影に隠れているが、リリララも何だかんだとよく食べていた。スープに黒パンを千切って浸し、パン粥のようにしている。
そしてレティシアは貴族令嬢の感覚からすれば眉を顰めてもおかしくないような乱暴狼藉の宴に、しかし不思議と楽しそうである。慈しむような視線は昔を懐かしんでいるようにも見える。
さすがにこれは、と思うのはランタンばかりであるのかもしれない。
「ねえランタン! これおいしい!」
「うん、よかったね。でもちゃんと飲み込んでから話そうか」
「うん!」
鹿の肋から肉を歯で綺麗に刮ぎ取った残骸を見せつけてくる。そしてその向かいではベリレが喉奥からげぷと息を。
ランタンは深く眉根を寄せる。
迷宮での食事など決まり切った作法があるわけではないし、そもそもそんな作法がどうのと言う事自体が野暮であるし、食事中の諫言ほど鬱陶しいものはない。
食事はただ一点、回復のためにあるべきなのだ。だがランタンは無言のままちらりとベリレを見た。
「なんだよ」
「特に何も、よく食べるなって思って。騎士団の食事もこんな感じなんですか?」
ランタンは行儀よく食事を進めているレティシアに視線を移す。
「やっぱり基本的には指揮者の色によるかな。騎士意識の強い指揮者の下だと規律がはっきりしているし、探索者からの転身者が指揮者となっていると、まあこれぐらいはまだ可愛いものだと聞くな。迷宮だと外の目がない分、どうしても地がな」
レティシアは苦笑して、リリララが豚肉の一切れを指に抓んで口の中に放り込む。そして脂に濡れた指を舐った。
「お嬢に聞いてどうすんだよ。お嬢との探索でそんな狼藉を働く奴はいねえよ」
「……まあ、そうだな。でも兄は酷かったぞ」
「そうなんですか?」
「ああ、さっきも言ったろ? 食事作法にうるさい教育係も、迷宮にまでは付いてこないからな。手づかみで物を食べる兄などその時初めて見た」
人目がない、と人は獣になるのだろうか。
ベリレとリリオンは二人揃って詰め込むようにして肉を口の中に放り込み、頬をぱんぱんに丸くして、ぎしぎしと咀嚼を繰り返すと溢れた肉汁が口角から垂れる。ベリレはぐいとそれを袖で拭い、リリオンのそれはランタンが拭いてやる。そして二人は麦酒をなのか、麦酒でなのかわからないが酒を一息に飲み干す。
ごっくん。けぷ。
「……でも、そう言えばランタンは長く単独だったか」
レティシアはランタンの手元を覗き込む。
肉と芋、そして黒パンが皿の上で綺麗に分けられている。ベリレやリリオンなどは大量の芋の上に肉を置いて、黒パンはもう膝の上にまで追いやられていた。わざわざナイフとフォークで肉を切り分ける、とまではさすがにいかないが、ランタンの一口は頬一杯ではなく本当にただの一口でしかない。
「女々しい食い方だな」
レティシアは感心してくれたが、リリララは辛辣だ。
でも酷かろうと下品になるよりはマシだと思う。そんなことを思っていたらベリレの手の進みが遅くなっていることに気が付いた。今更ながらレティシアの眼前であることに思い至ったのかもしれない。
「ベリレは、ヴィクトルや俺の悪いところを覚えてしまったな」
「いえ、そんな――」
「おじいさまは、あまり食事作法なんかは」
「苦手だ。貴族位はもらったが、所詮は探索者だからな。堅苦しいのはどうにも好かん」
「でも英雄さまともなると貴族のパーティにもお誘いがあるんじゃないですか?」
「まあな、だがある程度はお目こぼしがあるし、そもそも探索者に行儀のよさは求められんよ。荒々しく、獣のように料理を貪れば喝采ものさ。おお、まさしく竜の化身よ! とな」
エドガーは蟒蛇のように豪快に酒杯を空けた。エドガーの隣で、空になった杯にシュアが酒をつぐ。
「ふふふ、聞いていますよ。エドガー様」
「何の話だ?」
「パーティに出られても、いつも早々に姿を消したそうじゃないですか。ご婦人方と。料理を味わう暇などなかったのでしょう?」
「もう昔の話だからなあ。そうだったかもしれんが、さてどうだったかな。だがベリレ」
「は、はいっ」
「そっちの方は程々にな。下手すると命に響く。ランタンも気を付けるんだぞ」
「はいっ」
「はいってベリレ……」
リリララの視線は軽蔑に程近く、レティシアは困ったような呆れるような。そんな視線に晒されたベリレは、しかしその理由がわからずに戸惑い、リリオンはその隙に火に掛けられた肉を自らの皿へと。
「ちゃんと食べきってから取りな。誰もリリオンの分を取るような真似はしないから。足らないようなら僕の分をあげるし」
ランタンはそう言って、芋をぱくりと食べる。リリオンはランタンの皿を覗き込み、己の皿と比べた。
「ダメよ、ランタンもちゃん食べないと。それならわたしの分を――」
ランタンが皿の上に取っているのは鹿の肩肉である。脂の殆どない赤身肉で、リリオンの差し出したのは脂のたっぷりとのった豚肉だった。脂身多いなあ、と思う。
「大丈夫、これで足りるから」
鹿肉は筋繊維がはっきりしている。噛み付くとびりっと裂けるようであり、咀嚼すると独特な獣の臭気がある。その臭いは羊ほど酷くはない。どことなく草っぽい素朴な匂いは、決して悪いものではない。淡泊な味は濃い味付けの中にあってちょうどよかった。
「ベリレも程々にな。少なくとも俺の酒のあて程度は残してくれな」
「……はい」
「だがランタン」
「はい?」
「お前は食わなさすぎだ。先は長いんだから色んなものを食えよ」
「ちゃんと食べてますって、でも脂ってあんまり取ると身体重たくなりません?」
ランタンはスープの中から鶏肉を見つけて口に含む。塩っ辛く、だが骨からはほろりと肉が外れた。ランタンはその骨を火の中へと投げ入れて、もぐもぐと口を動かしている。全員の視線がランタンを捉えていて、ランタンは咀嚼物を飲み込んでから口を開いた。
「なんですか?」
「なんですかじゃねえよ!」
リリララの言葉はそこ場全ての代弁である。誰も彼もが納得に頷いていた。料理を囲む八人の中でランタンはあからさまに最軽量である。リリララは前衛戦闘職ではなかったが、それでもぴちっと締め付けられた四肢はすらりと鍛えられて、特に足は兎人族らしい形のいい筋肉が発達している。
「その身体なら、さすがにもう少し太った方がいいだろ。――体重が足らないと自分でも言っていたじゃないか」
「まあ、そうなんですけど。でもいざという時に動きが鈍るよりはマシかなって」
「……お前は命の瀬戸際を狙いすぎだ。体重の増減なんて日々起こるものだろ。一食分でどうにかなるような戦い方をまず改めるべきだ。危険は少なく、見返りは大きくが探索の基本だろう」
「それができればいいんですけどね」
「心構えの問題だよ。お前は端っから危険を減らす努力を放棄しているようにみえる。今日の戦闘だって――」
「そんなことはないと思いますけど――、ベリレ睨まないで」
こんなものは反論ではない。エドガーの言葉にランタンが返答する度に、ベリレはじっとランタンを睨む。ベリレにとってエドガーの言葉は傾聴するものであって、応答するものではないのかもしれない。エドガーのことを尊敬している、というか。
「おじいさまのこと大好きすぎない? ベリレって」
「それの何が悪い」
ランタンの言葉にベリレは即応して、ランタンは思わず呆気にとられてしまった。リリオンに負けず劣らず素直な子だなあ、とランタンは呆気にとられながらも思う。ベリレはじっとランタンを睨んで、手元の豚肉に大口で食らいついて獣のようにそれを引き千切った。ごっくん。
「ちゃんと噛んで食べな。消化に悪いよ」
思わず、リリオンに言うように小言が。ランタンはしまったと思う。今まで我慢していたのに反射的に言ってしまった。だがベリレは、うん、と頷いて二口目をランタンの言った通りにもぐもぐとしている。
ベリレの肉体の中には素直さと、反抗心が同居している。肉体が大きいがゆえに、啀み合うことなくその二つがすっぽり収まっていて、それは僅かな歪さと言えた。
ベリレは肉を飲み込み、息を大きく吸い、怒鳴った。
「第一! 前にもあれだけ教えたのに、お前はエドガー様の素晴らしさをまだ理解していないのか!」
「理解してるから、もう。そんなに怒らないでよ。肉あげようか?」
「いらんっ。と言うかっ、さっきエドガーさまに食えと言われたばかりだろうがっ。ええい、もうっ」
そう言ってベリレは自らの皿にあった肉をランタンの皿の上にでんっと押しつけてきた。早々に皿の上に確保してあったらしいその豚肉は脂が冷えて固まりつつある。これは、優しさをよそおった嫌がらせなのだろうか。
「じゃあ、じゃあ、わたしのもあげる!」
そしてリリオンからの追加が。それは半分食べかけであり、噛みきった後はリリオンの歯並びの良さがはっきりとわかる。大食漢だけれど、リリオンの口はそんなに大きくない。きっと顔が小さいせいだろうと思う。
その思索は半ば逃避行動である。まだ食べてもいないのに、胃もたれを起こしつつあるような気がした。
「ランタン、食っとけ。大迷宮の長丁場は日々の積み重ねが後々響いてくる。シュア、あとで胃薬を出してやれ」
「はい、わかりました」
「それとレティシア」
「……はい」
「トマトを隅に寄せているのはわかっているぞ。後回しにするな」
エドガーはすっと一息に酒杯を空にする。
「どうせいつかは向き合わねばならんのだ」
ランタンは肉を、レティシアはトマトを、二人揃って目を瞑って口の中に放り込んだ。
ドゥイはシュアのマッサージを受けて早々に眠りに落ちて、シュアは朝食の仕込みをはじめた。
そしてリリララは、戦闘に野営の準備にと八面六臂の活躍をした魔道使いはレティシアやエドガーに遠慮をしていたが、やはり疲労は重いらしくレティシアに促されるままに毛布に包まっている。
リリララは顔まですっぽり毛布に包まっていて、見えているのは兎の耳ばかりである。寝息もなく泥のように眠りリリララの耳は、完全にリラックスしているのか左右に開いてぺたんと力無く横たわっている。
起きている五人で火を囲んで以後の日程についての確認がてら言葉を交わしていたのだが、気が付けばリリオンはもう眠たげである。
ランタンに寄り添っていた少女は、ランタンの肩へとついに頭を預けてうつらうつらとし始める。すると示しを合わせたように皆々は口を噤んだ。
まだ夜が深いわけではない。リリオンは何だかんだと言葉数も少なかったし、きっと大人数であるという事実に緊張をしていたのだろうと思う。
ランタンはリリオンを支えるように少女の背に手を回して、そっと髪紐を解いてやった。緩く波打つ髪に指を通して梳る。髪の中には熱が篭もっていて、ランタンが頭皮を指で擦ってやると、少女は言葉にならない何かを呻くようで、やがてふっと身体から力が抜けて、すとんと太股の上に頭が。ランタンはごく自然に髪に指を通す。
「甘やかしてるな」
「あ、シュアさん。お疲れさまです」
「探索者たちほどじゃないさ。お、ベリレありがとう」
ベリレがシュアに酒を渡し、駆けつけ一杯シュアはそれに一つ口を付ける。
「ランタンは、いつもそんなにリリオンを甘やかしているのか?」
「そんなに甘やかしてはないですよ。……なんですかお二方、その目は」
エドガーは苦笑を杯で隠し、レティシアははっきりと笑った。
「食事中も甲斐甲斐しく世話を焼いていたじゃないか」
「いつもはもっと綺麗に食べられますよ。ただ少し、ふふ、今日はベリレに対抗意識があったみたいだから、まああれぐらいはいいでしょう」
「なんで俺に」
「さあ、全部食べられちゃうと思ったんじゃないの? ――ちょっと失礼」
リリオンの身体がぽかぽかと暖かくなり、少女は完全に眠りに落ちた。ランタンはリリオンを抱え上げて中座する。たらふくの食事を取ったせいか、リリオンははっきりと重たかった。
寝床は、壁の左右に男と女で足を向かい合わせるように用意されている。迷宮の構造は事前に調べてあって、金属質の地面に身を横たえては身体を冷やしてしまうのでそれなりに上等な断熱材が敷かれていた。毛布は起毛のもので何とも暖かそうで、枕はその毛布を丸めて造ったものだ。
たったこれだけのことにレティシアは何を戸惑っていたんだろう、と思う。あのお嬢様はしっかりしているように見えて、なかなかどうして不器用なのかもしれない。
ランタンはリリオンの靴を脱がせた。そして襟元にそっと指を忍び込ませて首を緩めてやる。指が喉を撫でると猫のようにうわごとを呟いた。ランタンは手の甲で少女の頬を撫でてやって、首までぴったりと毛布をかけてやって踵を返す。
「ほら、やっぱり甘やかしているじゃないか」
「子供を寝かしつけることぐらい普通のことでしょう。皆さんもしたりされたりしませんでしたか?」
「まあドゥイの世話は焼いたな。今じゃ裸で寝かせても風邪もひかなそうだが」
ドゥイは大の字になって寝ていて、毛布から四肢が飛び出している。ほんの僅かだが鼾をかいているが、鼻の奥でぐるぐると鳴る程度なので気にはならなかった。
「私は記憶がないなあ。記憶にもないような小さい頃にはあったかもしれないが」
「ふうん、じゃあベリレは?」
と尋ねた先はエドガーである。
「子熊の頃には多少な。……あのちび助が随分でかくなったもんだ」
「何を今更」
ランタンは思わず苦笑した。
ベリレの巨躯は急にぽんと大きくなったわけでもないだろうに、エドガーはベリレに視線を投げるとまるで意外なものを見たとでも言うようにぽつりと呟いた。
ベリレは戸惑うように唇を閉ざしていて、嬉しがっているような、そうでないような。もしかしたら照れているのかもしれない。
ランタンの視線に気が付き、今度はベリレが。
「――じゃあ、お前はどうなんだよ」
「僕? 僕は、――知らない」
「なんだそれ」
「レティシアさんと同じく記憶無し。でもまあたぶん、そんな悪くはなかったと思うよ。知らないけど」
「……なんだよ、それ」
ランタンは肩を竦めるだけで答えない。ベリレは何かを聞こうとしたようだが、ぐいっと酒を呷って言葉ごと飲み込んだ。食事中は麦酒だったのだが、ランタン以外の四人は蒸留酒をお湯割りにして飲んでいる。割っているとは言え、度数はそれなりに高くベリレの吐きだした息が熱い。
「ほどほどにしときなよ。ベリレだけじゃなくて、おじいさまも。お食事中もずっと飲まれてたでしょうに」
「これぐらいでは酔わんよ。昔は探索と言えば水ではなく酒だったからな」
「そうだったんですか」
「その時代に生まれていたらランタンは探索者ではなかったのかもしれないね」
ランタンは一人、白湯に蜂蜜を溶かしたもの飲んでいた。レティシアの言葉にランタンはどんな顔をしていいかわからない。探索者以外の自分は一体何になれただろうかと思う。
「水精結晶が安くなったのはここ二十年ぐらいか。水は澱むとすぐ腐ってしまうからな。もっぱら持ち込むのは酒樽だった。まあそれも、大迷宮の帰りにもなると酸っぱくなったりするのもあってな。火を入れてどうにか飲むんだよ」
「へえ、酔っ払っちゃって探索どころじゃないですね」
「探索者は酔わんよ、そう簡単にはな」
「……私に言わせていただけば、探索者も酔いますよ。私が一体どれほどの騎士団員のげろの始末をしたと思っているんですか。胃薬や二日酔いの薬を取りに来る者の多さと言ったら。エドガー様も探索者の心得を教える前に、まず酒の飲み方を教えたらどうですか」
「考えとくよ」
エドガーは鹿肉を火に炙った。濃い飴色の表面にふつふつと焼き色が浮かぶ。
「昔は運び屋の人数も多かったな。水物は重くてしょうがないし、荷車の性能も悪かったし。ドゥイは労ってやらんとな」
「いざとなったら俺が手伝いますっ」
「ふ、ありがとう、ベリレ。だがうちの愚弟はあれでなかなかやるから要らない心配だよ」
「ああ、ドゥイはちょっと凄いな。探索者見習いでもないのに、弱音も吐かずによく働く」
「あの連結の荷車は凄いですよね。初動はどれほど重いんでしょう」
どこかずれたランタンの言葉にレティシアは杯から口を外せない。
「凄いが、あれもどうなんだろうな」
「……お嫌いですか? 連結荷車」
「昨今の運び屋、と言うか探索者見習いを不憫に思うことはある。今でも大迷宮なんかだと多くなるが、昔は探索者一人に運び屋一人と言うこともそんなに珍しい事じゃなかったからな。荷車の性能は悪く水物は重くても、後ろを押してくれる仲間がいたわけだ。それが今は荷物が減ったついでに、運び屋も減って、結局の仕事量はむしろ増えているのかもしれん。探索者の集団の中で、見習い一人というのも心細かろうよ」
ランタンは単独探索者だった頃に、探索者ギルドを赴いた時の感覚を思い出す。それはきっと似て非なる感覚なのだろうが、近しい感覚であると思う。孤独さは、春暖に囲まれてこそ際立つ。ランタンは運び屋の心労が容易に想像できた。一度の探索で胃に穴が空いてしまうかもしれない。
「昔の探索班は苦楽を共にした運び屋たちがそのまま、というのも多かったからな。もちろん欠員補充で上がるのもあったが、今は知らん者がめいめいに集まって、だろう?」
「元単独探索者に聞かないでくださいよ」
「それもそうか。まあ何にせよ、昔よりは苦労は多いだろうな。それを嫌って運び屋を経ずに迷宮に行く奴も多くなったし、初探索での未帰還率はちょっと考えんといかんな」
未帰還。それは自然淘汰であるし、仕方のないことと言えば仕方がないが、初回探索ならばほんのちょっとの知識や経験の有る無しで未帰還率は大幅に減少する。己の実力に見合った迷宮を吟味し、あるいは攻略不能と判断したら最終目標のみを諦めて、雑魚魔物だけで金を稼ぎ次に繋げることだってできる。
苦労、と言うのはもしかしたら己の分を知ることであるのかもしれない。肉体にしろ精神にしろ。
「ふふ、愚弟は楽しんでいるようですよ。今回の探索を」
「おや、そうか。それは心強いな」
シュアは肉食獣のような目を柔らかく細めて、視線をランタンに流した。
「ええ、探索者たちの戦い振りに興奮しておりましたよ。ベリレの戦い振りなんかには特にね」
「そう、なんですか」
「やったじゃん、ベリレ。ねえレティシアさん」
「ああ、本当にな。隊長格と比べても、遜色はないんじゃないか」
「そんな! 恐れ多いっ!」
「謙遜するなよ。ランタンのことも、ビックリして見ていたぞ」
「僕は……怖がられてるんじゃないんですか」
「いや、そんなことはない。凄い凄いと鬱陶しい程のはしゃぎっぷりだったよ」
どうにも想像が付かない。ランタンは軽く肩を竦めた。
「別にランタンを嫌ってるわけではないよ。あれは」
「そうですか?」
「そうだよ。――ふふ、あれはなあ馬鹿だろう? だが何も考えてない訳じゃないんだ」
シュアは酒杯を一息に呷る。
「私は昔なあ、あれの馬鹿は病気だと思っていたんだよ。だから病気を治してやれば馬鹿じゃなくなると思って今こんなことになっているわけだが」
「弟さん思いなんですね」
意外、と言ったら失礼だろうか。ランタンは内心の驚きを隠して、隣に座るシュアを見上げる。
「そんないいもんじゃないよ。馬鹿が鬱陶しかったからどうにかしようと思っただけだし。なんとも傲慢なことだがな。まあそうやって色々勉強して、人間を知るとあれが病気じゃないんだとようやく気が付いたよ」
苦笑。
「そうなると大変さ。折角勉強したのに病気じゃないときた、あれの馬鹿は地なんだとわかった私の荒れようといったら、そりゃもう酷いものさ。八つ当たりにぶっ殺してやろうと思ったね、病気じゃないことを喜ぶより先に」
「過激ですね」
そっちは何だか容易に想像できた。だがシュアの横顔にその想像がすっかりと塗り潰される。苦笑は、苦みが濃く出ていた。
「そしたらね、謝られたよ。ドゥイに。あの時はさすがに参った。あれは馬鹿だが、私が思っていた馬鹿じゃなかった。私はドゥイは何も考えていないものだと思っていたが、そうじゃなかった。普通の人間と同じように色々考えていて、ただそれを口にするのが少し苦手なだけだった。あれは何かを言おうとしていて、聞こうとしなかったのは私だった」
肉食獣のようなキツい目付きは変わらず、しかしシュアの白目が薄桃色に充血している。首筋が赤く、匂い立つよう熱気があった。
「私は、悪い奴だろう」
シュアは言ってランタンを見つめた。
「……酔ってますか」
「酔ってないよ。たった一杯ぐらいで」
持ち上げた空の杯がシュアの手の中から零れ落ちて、ランタンはそれをさっと受け止めた。そこに琥珀の滴が溜まり、そっと匂いを嗅ぐと噎せ返るような濃い酒精の香りが。
「……ベリレ、これちゃんとお湯割りにした?」
「え、あ。し、てないかもしれない……」
ベリレはシュアの変容に驚いていて、あたふたとしていた。たまに気を利かせたと思ったら、人間慣れないことをするものではない。
エドガーやレティシアも酔っているシュアを物珍しげに見つめている。
「――女の人酔い潰してどうするつもりさ、まったく。シュアさんはお酒弱いんですね」
「私も初めて見たよ、シュアはしっかりしている印象があったから」
「ははは、レティシアさま。私は酔っていませんよ」
口調ははっきりしているが、身に纏う雰囲気がそうではなかった。
「ほら、シュアさん、水飲んで」
「ランタン何を、だから大丈夫だと」
「飲め」
一言ランタンがはっきりと言うと、シュアは驚きに目を丸くする。そして従順に水を飲んだ。ごくごくと喉が上下していて、冷たい水が滑り落ちると赤くなっていた喉の色味が薄くなって、ふは、と漏らしたシュアの吐息は温冷入り交じっていた。
「ランタンは、……いい男だなあ」
シュアはぽつりと呟いて、ランタンの肩を掴む。そしてそのまま押し倒そうとして、声は寝床の方から。
「ずるい!」
珍しい。
一度寝たリリオンが、朝が来る前に起きてしまったようだ。上体を起こして首だけでこちらを向いていて、起きたもののやはりまだ眠いのか瞼が半分下がっている。毛布から這い出て立ち上がると、ふらりふらりとしていた。
「わたしも、ランタンと寝る」
そして近付いてきてそう呟いた。ランタンは取り敢えずシュアを押し返す。
「よし、じゃあ一緒に寝ようか。三人で」
「寝ません。リリオンもちゃんと一人で寝なよ」
「やだ」
「やだじゃないよ。僕はそっち側で寝るから、二人は向こう側でしょ?」
「じゃあ、わたしがそっちに行く」
なんでだよ、と思ったのはランタンばかりではない。
「――女は向こう側だろ」
ベリレが潔癖そうな声で言いリリオンを見た。睨む、と言うほどではない。ただちらりと視線を投げかけただけで、リリオンはそんなベリレにつんとそっぽを向いた。リリオンはベリレを怖がらなくなったのはいいのだが、これはどうにも。
「じゃあ、ランタンを向こうに持ってく」
「そいつは男だろっ」
「……」
「……男、だよな?」
「馬鹿。――ベリレも酔ってんの? ちゃんと見張りできる?」
「酔ってないし見張りもできる」
「無理なら替わってあげてもいいよ」
「できるって言ってるだろ!」
ああもう、がやがやとうるさくなってしまった。
疲れ切っているドゥイやリリララを起こしてしまわないだろうか。ランタンが視線を逸らすようにして二人を確かめ、ついにエドガーが大きく手を叩いて場を静めた。
「初日でまだ気力が有り余ってるようだが、明日のために残しておくとするか。さ、もう寝るぞ。ベリレは俺が起きるまで見張り頼むな」
「は、はいっ! お任せください」
立ち上がったエドガーにぽんと頭を撫でられて、ベリレは酔っていたのかもしれないが一気に素面になった。そしてレティシアにも、よろしくな、と肩を叩かれて有頂天だ。シュアは欠伸を一つ漏らして、また今度、とランタンに囁きを残して毛布に包まり、レティシアもそっと眠りについた。
そしてランタンは結局リリオンが眠りにつくまで添い寝をしてやって、ベリレに要らない一言をもらう羽目になった。
「甘やかしてるじゃないか、やっぱり」
「しかたないでしょ、あの子はまだ子供なんだから。じゃあベリレ、先に休ませてもらうね。おやすみなさい」
ベリレの肩に触れて、ランタンは毛布に包まる。
「ああ」
ベリレは一言呟き、ずっと火を見つめていた。




