089 迷宮
089
先程、勝負だ、と勢い勇んで叫んだベリレが今は何とも情けない顔をしているのが面白かった。それを面白がることでランタンは呆気にとられた驚いた己に平常心を上書きする。
勢いのままに火蓋が切られた勝負の内容をランタンは知らないが、少しばかり乗り気であったので、急に乱入してきて一番美味しい、戦闘を終了させる一撃を放ったリリオンが小憎らしい。
少女は断末魔の止んだ地竜の横っ腹に足を掛けて、一撃で心臓を貫いた大剣をずるりと引き抜いた。傷口からどっぷりと青い血が溢れ出した。
四肢を地面に固定された地竜は倒れることもできずに奇妙な彫像のような死に様を晒している。
リリオンは足元に広がりつつある血溜まりを避けるように二歩後退り、剣を汚す血脂を鷹揚に振り落として盾に収めた。そしてしてやったりとした笑みを浮かべて男二人を振り返った少女は、その背中にレティシアとリリララを従えている。
「まあまあ上出来ってとこだな」
「お疲れ、リリオン。やったな」
リリオンは二人に褒められて嬉しそうだ。それを見て男二人の表情は何とも微妙である。
「ふふ、二人もお疲れさま」
そんな二人にレティシアが声を掛けて、ベリレはようやく曖昧な表情を喜びに固定した。緊張を孕んだ喜びに頬が上気していて、それは先程までは持て余した戦意の残り火であった筈なのに、何とも現金なことである。ベリレは構えたまま、振り下ろす先を見失った長尺棍をあっさりと背に戻して、それを見たランタンも戦鎚を腰に差し戻す。
持て余して燻る感情を捨てるように深呼吸を一つ吐き出してランタンは自らの太股を叩いた。
痛みという程ではない違和感がある。初撃の上段蹴りのせいなのだろうが、それは不思議と不快な感覚ではなかった。身体の調子が良い。我ながら地竜に対して上段蹴りなど馬鹿の所行であると思うのだが、あの瞬間、それができるという必殺の確信があった。
リリララの魔道やベリレの鬼神もかくやの戦い振りに感化されてしまったのかもしれない。
魔道により生み出された天井の棘はさながら巨大な鮫の口腔に囚われたかのような印象を受ける。何列にもなって突き出す鐵の牙には、先頭で突っ込んだ地竜の血肉が付着していよいよ生物じみている。滑らかな足場が不意にぬらつく舌にへと変容するんじゃないかという不安すらあった。
それを引き起こしたリリララの顔色はその言葉遣い程にも悪い。血の気を失った青白い面に浮かぶ右の頬の引き攣るような笑みが空元気のように思えた。だがランタンが心配げな視線を送ると、余計なお世話だと言わんばかりの強気な眼光が返ってくる。
「お二人も、援護ありがとうございます。おかげさまで引き分けでした、ね」
ランタンは互いの健闘を称えるように、ベリレの二の腕をぽんと叩いた。せっかくの喜びに水を差されたベリレが煩わしそうな視線をランタンに寄越した。
戦闘によって血が流入して膨張するベリレの二の腕はじんわりとした熱を保有している。鉄の身体は冷え固まったそれではなく、どのような姿にでも形を変えることのできる自由さそのものである。剛柔自在の棍捌き。二メートルを超える総金属の長尺八角棍はおそらくランタンよりも重いだろうし、棍に付属する棘鎖も含めると百キロに近い筈だ。戦鎚と長尺棍では求められる技術に差異があるがベリレはランタンなど足元にも及ばない技術があった。
棍自体の技術もそうであるが,鎖を操る技もまた格別である。鎖を操る時は棍を振り回すような乱暴な真似は殆どしない。ほんの僅かな手首の反し、それだけで棘鎖は薙ぎ払うのも絡みつくのも自由自在であった。まるで鎖自体が意思を持っているようである。
「ほらね、お嬢。やっぱり馬鹿な勝負をしてやがった。ったくこれだから男は」
「いやっ、違うんですレティシア様っ」
それ程の力量を持っている若い騎士見習いはあわあわと慌てている。
「そんなに慌てなくたっても良いでしょ。引き分けなんだから」
ランタンが軽い口調で言うが、生意気にもすっかりと勝つ気分でいたらしいベリレは不満も露わにランタンを睨んだ。そんなベリレの挑発的な視線にランタンは何だか面白くなってしまい、その余裕綽々たる笑みがベリレはまた気に入らないようだ。
「まだ先は長いんだから、上下をはっきりさせたいならまた今度ね」
「何をうっ!」
がう、と掴みかかるように吠えるベリレの鳩尾にランタンは手刀を置いて牽制する。これ以上前に進もうものならば横隔膜を切り裂くぞ、と言うような稚気を込めたが腹筋の分厚さにすぐに引っ込める。突き指どころでは済まなさそうだ。
ベリレは不満げな顔を隠さない。技術はあってもすぐに頭に血が上ったり、視野が狭くなったりするようだ。ベリレが鎖を扱うのは、後方に下がって視野を広く取るための術なのかもしれない。
「まったくそんな大きな身体して、そんなにカッカするんじゃないよ」
「何だと!」
「だから、もっと堂々としてなって。ちゃんと強いんだから」
こいつめ、とランタンは固めた拳をベリレの脇腹に打ち込んで、ベリレは反射的にそれを防御した。まだ臨戦状態に片足を一歩踏み込んで抜け出していないのだろう。身に染みついた技が咄嗟に出たという感じで、拳を受けたベリレこそが驚いていた。
「もしかしたらただの木偶かもと思ってた自分が恥ずかしいよ」
「そんなことを思ってたのかっ」
「――今はもう思ってないよ」
そんなこと、とランタンははっきりとベリレを見上げる。からかうような口調はなく、素直な視線に晒されたベリレは戸惑うように黙りこくった。凄い凄い、とランタンが無邪気にベリレを追い詰めていると、助け船を出したのはリリオンだった。
「ランタンっ」
「ん、何?」
リリオンの呼びかけにランタンは最後に一度だけベリレの肩を叩き、戸惑ったままのベリレを置き去りに視線を移動させる。リリオンはランタンに見つめられると、何となく緊張を孕んだような面持ちになった。百面相だな、と思う。四肢を拘束されていたとはいえ、満面の笑みで地竜に向かって必殺の刺突を打ち込んだ少女である。
そんな怖い顔していたかな、とランタンは怪訝そうに己の頬を撫でた。
「あ」
頬を撫でるために腕を持ち上げた瞬間に、リリオンがぴくりと反応した。そこにあるのは期待と、それを空かされた哀愁だけだ。ランタンは思わず苦笑を漏らして、己の頬を撫でた右の手、その人差し指でちょいとリリオンの顔を眼前に呼び寄せる。一つ間を置くと、少女はせがむように肩を揺らした。ランタンは差し出された頭に覆い被せるように掌を乗せた。
「ご苦労」
一言。それだけで少女はこの上なく満足そうだ。おまけに一撫でしてやると、頬を笑みに溶かす。
「えへへ、ランタンもお疲れさま」
「うん、でもそんなに疲れちゃいないよ。三人の援護はあったし、ベリレは強いし。竜種って言ってもこんなものなんだね」
「ったく、えっらそうに」
「心強いことだ。いいことじゃないか。――私も次は前衛に回ろうかな。二人の戦いを見ているとそう思えるよ。な、リリオン」
「うんっ」
悪態を吐いたリリララは、しかし少なからずの驚きを持ってレティシアを見上げた。そんなリリララにレティシアは何も言わずに頷くだけだった。
「こら、お前たち。初戦が終わったぐらいではしゃいでるなよ」
非戦闘職二人を引き連れてエドガーが合流して、手つかずの地竜を一瞥すると冷厳な視線を五人へと向ける。
「さっさと解体すぞ。リリララはシュアの元で休んでいろ」
「あいさ」
「おや、素直だな」
「疲れてんだよ」
「リリララにしては珍しかったな。初撃で充分だっただろう?」
「景気付けさ。おい、あんまベタベタ触るなよ。せっかくサボれんだから座らせてくれ」
手招きをするシュアにリリララは降下直後のような拒絶感を見せず素直に近寄った。シュアはリリララの額に手を当て、頬を撫で、頸動脈に指を置いて脈拍を測っている。
「レティシアは結晶の回収。尾の先だ。終わったら休んでよし」
「はい」
「ベリレは散らばった死体から鱗と爪を回収。鱗は大判ものだけでいい。ドゥイ、お前の手よりも大きい鱗を竜の肉から剥がすんだ。難しいものはベリレに頼めよ。行け」
「お任せ下さい」
「は、はい」
「で、お前らは俺と一緒に解体だ」
一緒に、と言う言葉にベリレが反応して一睨みを。
「ベリレ」
「も、申し訳ありませんっ! すぐに行きます」
そして怒られている。いやエドガーの声は怒るという程ではなく、ベリレが過剰に反応しているようだ。逃げ出すようにもっとも遠くに散らばった肉塊へと走って行って、エドガーは何とも言えぬ苦笑を湛える。
「すまんな」
「いいえ、ここまでくると可愛いもんですよ」
「どうにもランタンのことが気になるようだ。年が近く、実力で負けると思える相手は初めてだからな」
「……気にしているのはおじいさまのことかと思いますけど。まあいいや」
ランタンは原形を留めている二匹の地竜に目を向けた。一匹は最初にベリレが仕留めた地竜だ。ひどい傷は脳漿をぶちまけた頭部と、拉げて千切れ掛けている首。もう一匹はリリオンが止めを刺したもので、四肢がリリララの魔道により金属質で覆われている以外の目立った傷は刺突孔ぐらいのものである。
残りの三匹は振り回された尻尾により破砕されて、簡単に言えば地獄の肉林である。辺りに散乱する肉塊が熱源となって、肌寒かったはずの迷宮はむわっとした生臭い熱気を帯びている。
素材の回収はそれ自体が目的ではなく、荷車を通行できるための整理であると思う。
「目的は宝剣なのに、きっちり回収するんですね。荷物になるのに。ね、リリオン」
「でも、やっぱりもったいないわよ。竜種の素材ってとっても高価なのよ」
「それは知ってるけどさ」
「まったく、リリオンの言う通りだ。ランタンは探索者の風上にも置けん奴だな。どれほどの探索者が少しでも多くの迷宮資源を持ち帰ろうと心血を注いできたか分かっていないようだ」
「……それで目的が果たせなきゃ元も子もないじゃないですか」
「真面目なことだが、それでは息が詰まるぞ。資源回収は探索者にとっては息抜きだ。迷宮での楽しみなど少ないからな。それに――」
エドガーはすらりと竜骨刀を抜き放った。
「ランタンは、リリオンもだが、あまり解体はしたことがないんだろ。魔物の身体構造を理解すると戦闘の助けになるぞ」
「僕――」
「リリオン、注目」
これでもそういうの得意ですよ、と言わなくてよかった。
下から上への一刀は、一切の音を持たず地竜の首を落とした。鱗、皮、脂肪、筋肉、筋、骨。そして逆回しにもう一巡したはずなのに停滞どころか淀みすらない。この技量の前ではランタンの得意など無いも同然である。
リリオンは瞬き一つなくエドガーの一刀を瞳に焼き付けて、難しげに息を漏らした。
「わたしにできるかしら」
「まずはやってみる所からだ。四肢を落として仰向けにするぞ」
リリオンは大剣を抜き放ち、方盾を地面に降ろす。
「はい。……竜種のお肉はどうするの? わたし食べたことないけど」
「ふむ、そうさな。こいつは食わん方がいいだろう。もう少し上、裏から狙え。前面は膝蓋骨が発達して盾状になってる」
「美味しくないの?」
「それは料理人の腕次第だな。こいつの場合は毒だ。角度が悪い。膝窩は鱗が薄くなってるだろ? その変わり目から、膝の鱗、上から四枚目、この下端を通すように斜めに剣を入れろ」
「はい。そっか毒じゃ食べられないわね」
「金属鱗を持つ竜は、肉に鉄を溜め込んでることがある。一食二食なら、まあ気にする程でもないが、食わんにこしたことはない。ドゥイが充分な量の食料を運んでくれているからな」
金属の鱗や外皮を持つ魔物は地食性を有していることがあるらしい。自然にある鉱石を食べ、それを代謝分泌することで金属を体表面に纏うのだ。そして代謝しきれなかった分が血肉に蓄積されていき、人にとっては毒である。
「女の場合は子の事にもかかわるからな、……まだリリオンには関係ないか」
「なんで僕を見るんですか」
「さてな。膝周りに肉はほぼないが、斬る時は左右の腱を留意するように」
「……うん」
「自信がないなら先に腱だけ斬っても良いぞ」
ランタンが腰から狩猟刀を抜くと、リリオンは視線を寄越す。いらない、と雄弁に語る淡褐色の瞳が地竜の膝を見た。
「多少マズくても振り抜け。剣を信じろ」
リリオンは空の左手を前に突き出し、それは距離を測るようだった。半歩下がり、剣先に地竜の足を捉える位置に身体を置く。鼻から息を吸って、胸が膨らむ。
「――ふっ」
浅い角度の袈裟懸けは淀みなく裏から表へと切り抜け、けれど骨を断つ音をはっきりと響かせてリリオンは不満気だった。
「上出来じゃない?」
「惜しかったな。入りは良かったんだが腱の弾力に剣線が歪んだか。軸足も少し滑ったし、まあこんなものだろう。気を付けるは硬いばかりじゃないぞ。ちなみに動いてる奴を斬る場合には膝が伸びきった瞬間か真横から狙うといい」
「……おじいさまにしか狙えないですよ」
「お前の度胸があれば簡単なことだ。両断せずとも腱の一本を切れば充分だしな」
「狩猟刀抜く暇がないですよ」
「なら踏み折ればいいだろう。ほら次はランタンの番だぞ。さっさとやる」
「踏んでも体重足んないんですよ、ねっ」
ランタンは狩猟刀をどんぴしゃの角度で膝下へと滑り込ませ、音のない一撃は最後の最後で引っ掛かった。丁寧に狙いすぎて力が足りなかったのだ。繊維質が複雑に絡みついた竜皮は弾力に富み丈夫である。ちくしょう。
「振り抜けって言っただろ。まったく戦闘中とは大違いだな」
ランタンは照れ隠しのように、無言で竜皮の一枚を引き斬った。
初日はそれ以上の戦闘は起こらなかった。
ただひたすらの行軍は夜の二一時まで続いた。迷宮の中を魚群のように纏まって進む。歩きづめで肌寒さの中にあっても次第に身体は熱を帯び始めて汗を噴き、そして汗は外気に冷やされ、身体から熱を奪い、体温を上げるために身体は熱量を消費する。探索者の身でも、相応に過酷な行軍だった。
その中で運び屋のドゥイは弱音一つも吐かない。回収した地竜の鱗や爪はそれなりの重量があったが、行軍の速度は戦闘の前後で変わらず、ドゥイは指定された速度を頑なに維持する。ランタンはうっすらと汗するだけだったが、ドゥイは白い湯気が見える程に汗を掻いていて、そう言えばケイスもそうだったなと思い出す。
運び屋の仕事は大変だ。自らの意志で休むことは許されず、長時間に及ぶ高重量の運搬は有り体に言えば奴隷の仕事、それは苦役そのものである。絶えず負荷に晒され続けた肉体は休息を求めて痙攣して、消費され続ける酸素に肺が喘ぎ肩で息をしていた。だがそれでもドゥイは休みたいとも苦しいとも言わない。
そのせいもあってのことか、探索者の誰もが疲労を口に出すことはない。
初日の行軍は終了して、過酷なその中ですら回復を果たしたリリララとベリレが斥候に出ていた。近隣に竜種の危険がないことを確かめるついでに、鳴子を兼ねた阻塞を魔道によって張るようだ。何とも万能な地の魔道であるが、その対価はやはり大きい。物質への干渉と操作、変容には、現象を発現させる魔道よりも精神力を要する。
厳しい顔のベリレとは裏腹に顔色は悪くとも平然として戻ってきたリリララは、けれど当たり前のようにドゥイと一緒に野営の準備を免除される。
当初、お客様であるランタンとリリオンの二人も雑事はしなくてよいとレティシアは言ってくれたが、あくせく働く人々の中でのんびりできるような心根を二人ともしていなかった。
「おら、ランタン、きびきび働け! ほら、言えって」
「は、働っ、いてください」
「ったく、じゃあベリレにだ。もたもたすんな、ちゃんと働けっ、はい」
「い、いやだ。ベリレはいい奴だから」
荷車に腰掛けて休息している二人のやり取りにランタンは思わず苦笑を漏らした。
ベリレはいい奴だ。それはランタンも同意する所である。火熾しのために地面に這いつくばっている様子は、何だかとても間抜けで可愛げがあった。突き出した尻が巨大でどうにも蹴っ飛ばしたくなる。そんな姿に罵倒を投げかけるなんてランタンにはとてもできない。
「愚弟がすまんな。お前にからかわれたことを根に持っているんだ」
「……からかったことなんてないですよ」
あの時は他人がなんと言おうとランタンは半ば本気だったのである。
料理担当はシュアを筆頭にリリオンとランタンである。リリオンは中々の働きぶりを見せていたが、ランタンは免除組二人の台詞の通りにもたもたしている、と言うか余剰戦力であった。二人の手際は下手に手伝うと足手まといになりかねない。手持ち無沙汰なランタンはデザート用の林檎を兎に剥いて、免除組の元へと持って行った。
「お疲れのようですので、つまんで待っていてください。あとこれ」
と渡したのは濡らしたタオルである。たっぷりと汗を掻いたドゥイは少しばかり臭う。ランタンはそんなことはおくびにも出さずに、ただ食事の前の当たり前としてタオルを渡したのだが、リリララの目が少しばかりキツい。ランタンが戸惑いそれを見返すと、呆れたような溜め息を吐いた。
「悪意がないだけ質が悪いな」
「何がです?」
「ほら見ろ、すっかりビビっちまってる」
ランタンがドゥイに目を向けると、大男は肩を振るわせて視線を逸らした。それは侮られることは多くとも恐れられることの少ないランタンには何とも新鮮に感じられる。ランタンが妙な感動に浸っていると、その臑をリリララが蹴っ飛ばした。
「さっさと飯作ってこい」
「そうですね。ドゥイさんも、僕は怖くないのでよろしく」
にっこり笑ってみたものの、その頷きはどう見ても戸惑いである。
ランタンは諦め気味に肩を竦めて、あまりやることのない持ち場へと帰った。
やることはあまりないが食事は言うまでもなく探索にとっては最重要な要素である。人は食べなければ生きてはいけない。超人たらしめる魔精に浸っていようとも、空腹は満たされず飢えれば人は無力である。それに食事は閉塞空間における健全な娯楽だった。
迷宮では基本的に一日二食、朝晩の食事をしっかり、行軍中は小休憩毎にビスケットなどの補助食を取るのが多くの探索班で採用されている方法だった。そのためにドゥイが牽いてきた二ヶ月分にも及ぶ食料は膨大であり、そして保存食が多いことは無論だったが、何気なく種類も豊富である。
「ねえ、このトマト緑色よ」
リリオンがまだ硬く食べられそうもないトマトを片手に呟き、シュアはその手からひょいと未成熟のトマトを奪い完熟の物と交換した。
「それは探索後半に使うんだ」
「ああ、追熟か。ほら、前にオレンジの時も言ってたでしょ?」
「うん、早取りした野菜は貯蔵性が高いからね、ここは涼しいからどれほど赤くなるかは難しいところだが」
「へえ、不思議」
「よく考えられてるよなあ。これも騎士団のノウハウですか?」
「騎士団の探索でも、これほど豪勢な事はそうないよ」
シュアはレティシアに目を向けた。
「でもレティシアさんはトマト嫌いなんじゃ」
「だから用意したんだよ。二人の前では食べられると宣言したようだし、克服するいい機会だ」
貴族のご令嬢であるレティシアがなんと全員分の寝床を整えている。だが、それは不慣れなランタンの目から見てもあからさまに不慣れであり、エドガーに小言を頂戴しては凜々しい美貌を小難しげに引き締めて傾聴している。真面目なのは良いことなのだが、その度に手が止まるので一向に寝床が整えられる気配はない。
「主筋の方々が迷宮に赴く時ぐらいだな、ちゃんとした料理人も連れて行くんだ」
エドガーが迷宮では身分は関係ないと言ったが、やはりそれは建前である。ネイリング家の主題は強さを求めることで、それは戦闘にのみ特化して、雑事は行う必要がない。レティシアが雑事をこなせば下々の仕事を奪う事になり、気安さは上に立つ者としての神聖さを失わせる。
「楽と言えば楽ですけど、ちょっと窮屈ですね」
「うん、ヴィクトル様はあまり好まれなかったな。大勢でぞろぞろと迷宮へ行くのを嫌がって、騎士団員にこっそりと声を掛けられていたなあ。ご自分で屠った魔物を料理して振る舞われたこともあったそうだよ。若い騎士団員はヴィクトル様にお声を掛けられることを乙女のように望んでいたね、まったく毛むくじゃらの男どもが。不潔なことだよ」
シュアはなかなかに辛辣だったが、その声は懐かしむように笑っていた。
「さ、ランタン。その鶏をぶつ切りにして鍋に放り込んでくれ。そろそろ火の用意ができそうだ」
ランタンは言われて塩蔵の丸鶏を三羽、乱暴に捌いて鍋に放り込んでいく。随分と塩辛くなりそうなものだが八人分の量ともなるとこれでちょうどよいらしい。探索者が集まっているのだからそもそもとして一人分が普通の一人分では到底物足りない。
額に汗して、顔を炭に汚したベリレが満足げな表情を浮かべていたので、ランタンは労いついでに尻を蹴った。
「お疲れさま」
「蹴るな」
もっともな言い分を無視して鍋を火に掛け、シュアが鍋に蓋をした。それには調圧弁が付いている。
「圧力鍋だ」
「おや博識だな。まだ軍用品から下りてきて間もないのに」
シュアの言葉にランタンは肩を竦める。
「爆発とかしませんかね?」
そして今度はランタンの言葉にシュアが肩を竦めた。その様子にリリオンがビックリしてランタンの背中に隠れ、そして同時に守るように後ろから抱きしめる。
「爆発するなんてこのお鍋ランタンみたいね」
「抑圧されているのか? 可哀想に、私が解放してあげようじゃないか」
「結構です。そう言うのはベリレにしてあげてください」
ランタンがリリオンに捕らわれていることをいいことに頬を撫で回すシュアは、意味深な視線をベリレに向けて思春期の少年はしどろもどろになってしまった。回れ右して逃げだしてしまえばいいものを、生真面目に直立して視線に耐えている。
「ベリレはなあ、少し生意気さが足りないんだよな。これに唾付けてる女は結構多いんだぞ。エドガー様の弟子で、ヴィクトル様にも可愛がられていたし、実力もある。まだ若く、将来性はばっちりだからな」
「へえ、そうなんだ」
「ま、本人が女に興味ない振りをしているから何があるわけでもないんだが。エドガー様は若い時分はお盛んだったらしいのに、まったくもって勿体ないことだよ。もっと遊んだらどうだ。こっそり避妊具を融通してやってもいいぞ」
「……勘弁してください、シュアさん」
ここまでくるとベリレは恥ずかしさよりも忌避感の方が強いらしく辱めを受けた乙女のように小声で呟く。その姿は何とも言えず哀れっぽく、それにリリオンの前で酷い下の話になることは防がねばならないのでランタンは助け船を出した。
「そう言えばベリレは、その、ヴィクトル、さま? の料理をごちそうになったことはある?」
「――いや、迷宮をご一緒させて頂いたことはあるが、手料理はないな。俺なんかがヴィクトル様の手料理など恐れ多い」
「そうなんだ、じゃあ――」
ランタンはつつと視線を滑らせる。
「レティシアさんが手ずから整えた寝床でお休みできるなんて、ドキドキしちゃうね」
「……!」
ベリレは言われて真っ赤になって、ランタンの視線の先では不慣れなレティシアを見ていられなくなったリリララが手を貸している姿があった。
そして圧力鍋が蒸気を噴いて、リリオンは警戒する猫のような目付きで鍋を睨んだ。




