087 迷宮
087
降下は三回に分けて行われた。
まず初めに非戦闘職を、そして食料等を積載した荷車を、そして最後に探索者を。
相変わらずミシャの手際は完璧だったが、それでも最初と最後では一時間近くの時間が経過している。非戦闘職はその待ち時間の間に、魔精酔いをある程度回復させなければならない。
今回の探索に随行する非戦闘職は二名。一人は運び屋の、ランタンが屁理屈で煙に巻いた大男で名をドゥイと言った。ドゥイはネイリング家の下男であり、いわゆるその本業は運び屋ではなかったが、下男として日がな何かしらを右から左へと運んでいるらしい。地上だろうと迷宮だろうと物を運べばあのような肉付きになるようだ。
「まあ、あいつがちょっと馬鹿なのは確かだ」
リリララが霧の中でランタンに言い聞かせる。白い霧の中で表情は見えないが、何故だかはっきりと睨みつけられているのがわかった。
「でもあいつは馬鹿なりに、やることはきっちりやるし、馬鹿真面目だ。だからお前みたいにまどろっこしい理屈をこねられると混乱する。いいか、頼み事は簡潔に、はっきりと伝えろ。そうすればあいつは理解できるし、ミスらない」
わかったか、と声と同時に叩かれた。ランタンは反射的にその手を掴もうとしたが、ただ霧を掴むばかりである。声の方向と、叩かれた角度が一致しない。
「だからもう二度とからかってやるなよ。からかうならベリレにしろ」
「……おい」
リリララの言葉にベリレが反応するが、声はいつも以上に低くぐったりとしている。ベリレはまだあまり探索の経験がないらしく緊張していて、更なる追い打ちで魔精酔いも引き起こしているようだった。それを見越してレティシアから横になって降下するようにと助言を貰っていたのに、ベリレは強がってこの様だった。
そしてリリオンはと言うと当たり前のようにランタンの太股の上に頭を乗せて、腰にしがみついている。ランタンの下腹部に顔面を押しつけるようにして、本人としてはこっそりと深呼吸をしている。ランタンは諦めとともにその髪を撫でてやって好きにさせていた。リリオンはそのお陰かベリレよりは症状がマシである。
大迷宮ともなると霧の膜が厚い。リリララの気配は霧中に溶けて、どこにいるか全くわからない。ふと背後から声がして、ランタンは耳の先をぴっと掴まれた。そして引っ張りながらリリララは囁く。
「シュアには逆らうなよ」
非戦闘職のもう一人はドゥイの双子の姉でシュアと言い、彼女は医療担当である。治癒の魔道を保持しているわけではないが、その医療技術はネイリング家でも上位に位置するようだ。大柄のドゥイの双子の姉と言うだけあって女性ながらにベリレ、ドゥイに次いで筋肉質な探索者のような立派な体格をしていた。
「……ちょっと怖そうでしたね」
三白眼の目に、高い鼻筋、厚い唇と大きな口はランタンと握手をする時に舌舐めずりをした。
「そう、じゃねーんだよ」
苦々しくリリララが言ってランタンの耳を捩った。掴まえようとすると、既に傍にリリララはいない。ランタンが不機嫌そうな雰囲気を醸し出すと、それを察したのかレティシアが苦笑を漏らした。
「お喋りはそこまでだ。抜けるぞ」
竜系大迷宮は肌寒い。
ランタンはしがみつくリリオンの温かさをはっきりと感じ取り、すぐ背後にいたはずのリリララがレティシアの傍で素知らぬ顔をしていたので睨み付ける。ベリレは青い顔をして、不調を誤魔化すように唇をむっつりとして腕組みをしていた。
六人の探索者を乗せた荷車の車輪が地表に触れると、エドガーとリリララが颯爽と荷車から降りて、リリララはレティシアの手を取っていた。ランタンはリリオンを抱え上げてゆっくりと、ベリレは根性を見せながらも足元がふらついている。
「思ったよりもお早いお着きで。愚弟はまだくたばっていますよ」
「引き上げ屋の腕が良いおかげだな。ドゥイはそのままでいいさ。探索者が回復するまでには慣れるだろ」
先に降りたシュアが皆を出迎えて、エドガーはけろりとしている。
「さすがはエドガー様、気付け薬はご不要のようですね」
「いや、一粒もらおうか。これを食わんと探索が始まらん」
気付け薬の缶をじゃらじゃらと振って笑うシュアはエドガーが気付け薬を口に放り込むのを横目に、獲物を前にした肉食獣のような笑みを五人に向けて、一通りの顔色を確かめる。
「レティシア様とリリララは一粒。ほらリリララは口を開けて」
「いらねえよ。ああもう、自分で食うからやめろ。触るな」
「んふ。ベリレとリリオンは二粒な」
二人は諦めたように口を開いて、その口にぽいぽいっと緑の粒が放り込まれる。ベリレは渋い顔をして尻からどしゃりと座り込んで、ランタンは辛みに呻くリリオンを寝かせてやった。ランタンは青白い顔をしていたが、端から見ると平然としている。しかしシュアはじっとランタンの顔色を覗き込むと、じゃらじゃらじゃら、と三度缶を振った。
「ではランタンには特別に三粒やろう」
「いらないです」
「若い内から遠慮するんじゃないよ。ほら、口開けて。魔精との親和性が高いのは確かだが、我慢できるのと負担じゃないのとは別だぞ」
それらしい理由付けを否定することもできずに、ランタンは渋々と口を開いた。
「んー、歯並び綺麗だな。ちょっと歯が小さいけど、虫歯もないし、舌もピンク色だし。すこし奥歯がすり減ってるか」
唇に指を掛けられて歯茎まで見られて、ようやく気付け薬を三粒口の中に放り込まれた。ランタンはそれを意地になって噛み砕き、その痛い程の辛みにぷっくりと涙を溜めてシュアを睨む。
「一粒で良くないですか」
「一粒じゃ泣き顔が見れないじゃないか」
嫌がらせは弟であるドゥイをからかった意趣返しかと思ったが、どうやらただの趣味であるらしい。
「ああ、いい顔だなあ。生意気そうで。リリララもいるし、楽しい探索になりそうだな」
ランタンはぴっと親指で涙を払った。面倒な手合いだな、と思うが同時に何だかんだと慣れている手合いでもある。強引なやり口は、ランタンを勧誘する探索者たちの振る舞いに似ていたが、場を弁えていて尻に触るような真似はしない。
「ええ、そうですね」
シュアは素っ気ないランタンの一言に満足気に頷き、リリオンをはじめとする魔精酔い組を一人一人確認して結局はリリララに絡んでいた。はっきりとリリララは苦い顔をしていて、シュアは楽しそうだ。
「うっぜえっ、ランタンに行けよ馬鹿っ!」
「そう言うなよ。ランタンに嫉妬しているのか?」
「……てめえは自分の脳の治療をしてろ」
逆らうなと言うのは、身代わりになれと言うことだったのかもしれない。ランタンはぎゃあぎゃあと騒ぐ二人から視線を逸らして、苦しそうな顔をしているリリオンの顔を覗き込む。横たわる少女の傍らに座って額の汗を拭ってやるとレティシアも様子を見に来た。
「重たそうだな」
「そうみたいですね」
それだけ大迷宮内の魔精が濃いと言うことだった。
そしてそれは出現する魔物の強さを表しているのと同様である。レティシアがリリオンを見下ろしながらぽつりと言葉を溢した。
「すまない。私の都合に付き合わせてしまって」
後ろめたさが素直に顔に出る。伏せられた緑の瞳が、ただ場違いな程に澄んでいた。ランタンの呆れるような、慈しむような視線はリリオンに向けていた名残でもあるが、レティシアに向けた素直な気持ちでもある。
「お気になさらなくて結構ですよ、レティシアさん。お手伝いは僕らからも望んでのことですから」
「……ありがとう」
強張っていたレティシアの口元が少し緩んだ。
「ふふ、しかし、竜種との戦いもランタンにかかってはお手伝いか」
「……そういうわけじゃありませんけど」
ランタンは念のためリリオンを目隠しして、唇を甘く。すっとレティシアに顔を寄せた。
「でも、頑張ったら、いっぱいご褒美下さいね」
悪戯っぽく微笑むランタンは、背後にベリレの刺すような怒気を感じて堪えきれぬように肩を揺らした。レティシアはそんなランタンに驚いたような顔つきになって、ぱちぱちと大きく瞬き。
「こら、からかうんじゃない」
叱るその顔は美人なのだけど驚きが抜け切らなくて可愛らしい。
「つれないなあ。僕は本気なのに」
「ランタンッ!」
ベリレが熊のように吠えて、ランタンはついに声を出して笑った。
迷宮内の温度は十度以下で安定して肌寒く、空気は乾燥している。攻略を開始して気が付くと唇が割れていた。ランタンはちらりと唇を舐めて鉄の味を舐め取る。地上では夏になろうというのに、ここはもう冬の気配がうっすらと感じられる。
寒さと乾燥は度が過ぎなければ長期間の探索においては利点である。
例えば迷宮に持ち込んだ食料は余裕を持たせて二ヶ月分もの分量があり、その殆どが乾燥、塩漬け、砂糖漬けに発酵と長期保存を可能にする物ばかりであるが、しかしそれでも腐敗しないわけではない。特に高温多湿の迷宮では食料の保存は難儀するらしい。それに腐るのは何も食料ばかりではない。
例えば裂傷などの傷口もそうであるし、何よりむしむしじめじめした中を歩き続けると精神が腐る。
肌寒さも歩き始めれば気にならない。
「涼しいね、ランタン」
リリオンは体温が高いためかこの肌寒さを好んでいるようだったが、時折不安そうな表情をランタンに向けた。
迷宮の道幅は十メートル以上有り、竜種が住み着くにふさわしく天井も高い。迷宮を構成するのは金属質の硬質な物質であり、焼き入れをした鉄のようなくすんだ色をしている。
足音が天井や壁に反響して、それは背後から誰かが忍び寄ってくるような暗い音だった。
リリオンが後ろを振り返って、ついにエドガーに窘められる。
「後ろは大丈夫だから、前を向いていろ」
「……はい」
二人だけの探索ではないから、リリオンは我慢をしてランタンの手を取らない。ただランタンがエドガーの視線を気にしながらも、ほんの僅かリリオンに寄り添っている。腕を振ると時折、腕が触れる程に。
攻略は先頭にリリララ、次いでベリレ、その後ろにランタンを中央に置いて、左右にリリオン、レティシア、殿がエドガーだった。
ドゥイはそれよりもだいぶ後ろであり、それは戦闘の際に竜種が吐き出す息吹系の広範囲攻撃を想定してのことだった。ドゥイは食料その他を積み込んだ二台の荷車と、一台の空の荷車を連結した物を牽いていた。シュアはその荷車の後端を押すと言うようなことはせずに、自らも荷台に乗り込んで弟の背に声を掛けている。
応援と言うには厳しく、だがドゥイは従順であり、一定のペースを守っている。
「足場、あんまりよくないですね」
「ああ、そうだな。血で濡れたら余計に滑りそうだな」
地面は分厚い鉄板の上を歩いているような不愉快さがある。歩く度に跳ね返ってくる地面の固さは、今はまだよいが後々に膝や腰に影響を及ぼす可能性があった。それに戦闘時も慣れない内は足を取られるかもしれない。
「リリオンも、戦闘の時に気を付けてね」
「大丈夫よ」
「……転ばないようにってだけじゃなくて、よく壁とか地面とか叩いてるでしょ?」
リリオンの腕前は上がっているが、さすがにまだ高密度の金属を斬るには至らない。
「横と上は広いから良いけど、斬り下ろしは気を付けるんだよ」
「うん」
叩きつけて跳ね返ったり手が痺れる分にはまだよいが、おそらく高確率で剣が負けるだろうという予感が靴底から伝わってくる。長い探索の中で武器を失っては、にっちもさっちも行かない。荷車には予備装備も積んであったが、馴染まぬ装備では最下層の地を踏ませるわけにはいかない。
「そういえば、レティシアさんの雷撃って壁を伝ってこっちに来たりしません?」
「ちゃんと制御してあるから大丈夫だ。まあ、あえて無指向にして広範囲に散らすこともできるが、さすがに味方を巻き込むような真似はね。指輪の方は出力も絞ってあるしな」
見上げるランタンにレティシアは涼しげな視線を寄越した。
「……でもあまりおいたが過ぎるとわからないぞ」
ベリレをからかう際に、顔を寄せたことを根に持っているらしくレティシアはぱちぱちっと指先に紫電を纏わせる。
「だってさ、リリオン。折檻されないように気を付けようね」
「わたし、いい子にしてるわよ」
冗談なのか本気なのか、リリオンはつんとして言って、レティシアは雷をすっかり霧散させた指先でランタンの額を弾く。笑いが零れる程のどかだった。
そして先頭を歩くリリララの耳がぴくぴくと動く。地上にあっては後ろに撫でつけるように寝ていたリリララの耳が、迷宮ではぴんと直立している。元々は立っている方が正常らしいのだが、頭部への攻撃に対する的を小さくするために訓練して癖を付けているのだそうだ。
リリララは後ろ手に止まるように示した。そして、黙れ、とも。
「――エドガー様、足音です。数は五。四足で、尻尾を引き摺る音も。地竜ですね。こっちに向かってきてます」
「ふむ」
「まだ茶をしばくぐらいの余裕はありますが、……知覚されてる、んですかね?」
「距離的に髭に引っ掛かったとも思えんが、さてどうかな。予定では初日は戦闘はないと見ていたが、来てしまったのならしょうがない」
大迷宮では戦闘の間隔が数日空くことも珍しくなく、また先遣偵察隊の報告でも、初日は魔物との遭遇はない、との事だった。それは予定外の状況であったが誰も彼もが冷静なのはきっとエドガーが平然としているからなのだと思う。
「遭遇までの時間は?」
「このまま速度維持しても半時ぐらいはかかるんじゃないっすかね。あー、……これは壁も走ってるな。めんどくせえ」
リリララが舌打ちを一つ。彼女の耳は驚く程に高性能らしく、ランタンはひっそりと耳を澄まし、リリオンは壁に耳をくっつけている。何にも聞こえない。ランタンがリリオンに目を向けると、少女もふるふると首を横に振る。
そんな二人にリリララは赤錆色の視線を向けて唇を歪めた。
「あたしの真似をしようなんざ百年早えよ」
リリララは少なからず誇らしげに言って耳の根元から先っぽまでをぴっと撫でる。
「百年後にはわたしもできるかな?」
「……――頑張れば五十年ぐらいに縮まるんじゃねえの?」
「うん、わたしがんばるわ」
「おー、がんばんな」
拳を固めたリリオンにリリララは疲れたように言って、それからエドガーに視線を向けた。
「先に進むか。先頭はベリレに交代」
「はい、お任せ下さい」
「その後ろはあたしでいいすか、魔道の通りも確かめたいんで」
「ああ、わかった。引き続き索敵も頼む。魔物との距離が一〇〇〇を切ったら迎撃の用意」
エドガーの視線がランタンへ。
「じゃあ僕は遊撃ですね。おじいさまは後ろでどうぞ見守っていて下さいな」
ランタンが言うとエドガーは頷き、ランタンの肩をベリレの太い指が強く掴んだ。まるでランタンを押しのけて会話に横入りするように。
「エドガー様は休まれていて下さい。俺が一匹も後ろに通しはしませんので」
「……肩、痛いんだけど」
「ならお前も休んでいたらどうだ」
「お気遣いどうも。あと前に言ったよね、僕に触るなって」
ランタンは首だけで背後に振り返って、ぎらぎらした瞳のベリレを見上げた。そして己の肩に置かれたベリレの指に触れる。
凄い指。
爪自体がかなりの厚みを持っていて、節だった指はランタンとは比べるべくもなく太く、掌の皮が何度も塩を塗り込んだような弾力のある硬さを有していた。ちょっと折るのは大変そうだな、じゃあ爪か。
こちょこちょと爪の隙間をなぞるように触れてやると、それを挑発と受け取ったのか指が肩に食い込む。
「こら、二人ともやめないか」
レティシアが低い位置にあるランタンの頭をぽんと叩き、高い位置にあるベリレの額をぺんと叩いた。
「は、はい、レティシア様」
ベリレはビックリしたように額を押さえていて、瞳のぎらつきはどこへやら、なんだか嬉しそうに声をうわずらせている。
「友達になったんだろう? まったくもう」
「友達じゃないですけど」
「ええ違います。レティシア様は勘違いをしていらっしゃいます! こんな女に頭を撫でられて喜ぶような軟弱な奴と、どうして俺が」
レティシアに叩かれたランタンの頭をリリオンが撫でていて、ランタンは面倒なのでされるがままにしていた。リリオンが急に矛先を向けられてびくりと慌てて腕を引っ込めて、ランタンはすっと目を細め――
「ランタンも先頭な。無駄口の罰だ」
エドガーに首根っこを引っ掴まれて振り返ることもできない。
ただそっと掌を当てられているだけなのに、首の動脈が大きく脈動しているような気がする。ベリレはランタンを睨んでいたはずなのにいきなり直立不動になって、それは呼吸どころか心臓さえも止めているようだった。その目の中に映るエドガーの顔をランタンは見ようとも思わない。
背中がじっとりと汗に濡れている。叱られる、という感覚を久し振りに思い出した。
「わたしはどうするの? おじいちゃん」
「リリオンはリリララの守りだ。大きく魔道を撃った後は消耗するからな」
「はい」
リリオンは従順に頷く。
そして気まずそうな顔をしている男二人に赤錆の目が呆れを示した。
「はあ、男ってほんと馬鹿だな。ねえお嬢?」
「ふふふ。まあ、可愛らしいものじゃないか」
「もうお嬢、そんなんだから馬鹿二人がつけあがるんですよ。おら、リリオンも馬鹿をあんまり甘やかしてんじゃねえよ」
「だって――」
エドガーはやれやれと腕を組み、リリオンは掴まれたランタンの細首にそっと触れる。
ベリレはもう睨むどころではなかった。
迎撃用意。
すでに地竜の足音は震動となって靴底に伝わる程だった。
「十メートル級だな。一発目はあたしの魔道だ。つっても壁のを落とすだけだから、あとは馬鹿二人頼むぞ」
「……まとめて呼ぶな」
「ベリレが二人分なんじゃないの?」
「うるさい」
「そーだね、また怒られちゃう」
ベリレの横顔はエドガーに叱られてから硬く、それでいてやる気に満ちていた。やや力が入りすぎているが戦意は充分。エドガーに褒めてほしくて堪らないというよりは失点を取り戻したいのだろう。逸る気持ちが肉体を突き破らんとするように武者震いをした。
迷宮路の向こう側に真っ直ぐな視線を向けて逸らしはしない。背から長尺棍をずるりと外す。
太く、長く、いかにも重たそうなそれをベリレは重さを感じさせぬように軽々と操る。
長尺棍は八角形で、その先端に一条の鎖を備えていた。それは地上では見られなかったものであるが、妙に馴染んでいる。これが本来の姿なのだろう。
鎖は棍の上部に幾重にも巻き付けられていた。鎖は連環の一つ一つに幾つもの棘を生やしており、それを巻き付けている様はさながら長大な狼牙棒のようである。
鬼の武器だな、とランタンは思う。
「そろそろ見えるぞ。集中しろ」
ランタンは半身になって、左目で迷宮の奥を、右目でリリララを見ていた。
リリララはランタンもかくやという軽装備である。
身体に張り付くようなぴったりとした装備の、腕と足を覆うそれは鱗革で艶めかしい光沢があり、剥き出しとなった太股の付け根と脇が不健康そうな白さを晒している。リリララの装備は拘束衣を思わせるタイトさで彼女を縛り付けるようだった。
リリララは相も変わらず挑発的にしゃがみ込んで地面に掌を押し当て、目を閉じている。凄まじい集中力でただ耳だけが地竜の足音を聞いている。
燐光。
手足の鱗革が魔物の青い血を流し込んだように青白い輝線を走らせた。それは心臓の鼓動にあわせるように明滅して、さっとリリララの頬を青く照らした。拘束が息苦しいとでも言うように、唇の隙間から浅い呼吸を繰り返している。
体内にある魔精が地脈に染みこんでゆく。
赤錆の瞳。リリララが瞼を持ち上げて、奥から地竜の姿が現れた。
地竜は鈍色の鱗に覆われて、それは刺々しく逆立つように角張っている。鰐のように突き出た顔に、獣の四足。
十メートル級とリリララは言ったがその半分は尻尾であり、身体を左右に振るようにして激走してくる。引き摺った尻尾の先が地面との摩擦に火花を起こして、ひどく耳障りな音を響かせていた。
地に一匹。左右の壁に各二匹。壁はつるつるしているし、爪を引っ掛けられるとは思わない。だが地竜はそこを当たり前のように走っている。吸盤ではないと思う。足音は硬質で吸い付くような雰囲気はなかった。
「爪が磁性体だな。二人とも武器を取られんように気を付けろよ」
「はい、ありがとうございますっ!」
「だが、その分だけ足を取られる鈍足どもだ、後ろに通すような真似は――」
「――しませんよ。どうぞ、ご安心を」
足を地面から引き剥がすような筋肉の動き。それは言われて辛うじて気付く違和感である。身体を左右に振って走るのは身体的な構造としてものと同時に、自重を使って磁力を引き千切っているためなのだろう。鈍足は呪いのようで、しかし竜の自重を支える磁力は恐ろしい。
鋭い呼気。赤錆の目が竜を睨む。
「リリオンっ、あたしの魔道が見たいっ言ってたよな。よく見とけ、カマすぜ!」
リリララが右の頬を吊り上げる好戦的な笑みを浮かべて、それは起こった。
地の魔道。その真骨頂は物質への干渉である。青の燐光が一瞬眩さを増し、ランタンは己とベリレの間を縫って疾風のように走った気配を感じた。熱のない風のような、それは魔精であり、リリララの意志そのものだった。
「すごい……」
呆然とするようなリリオンの声。
壁を走る地竜の進行方向に、突如として巨大な氷柱のような隆起が無数に発生した。壁の半ばから天井までにびっしりと突き出すように鈴なりになった隆起は、鼠返しならぬ竜種返しか。
硬質高密度の金属質がリリララの手にかかってはまるで粘土のようだった。
しかし地形を大規模に変容させたリリララの疲労は大きく、何とも重たげな息を吐きだした。
壁を走っていた四匹の地竜が竜種返しに引っ掛かり、それは苦痛の嘶きを漏らして壁から剥がれ落ちた。磁性の爪を有していようとも地竜は急停止することができず、その突き出された先端に鱗を引き裂かれて、青い血に濡れている。
巨大な生き物が中空で身を捩り、着地は衝撃波となって身体を打つ。
咆哮。
散開していた地竜が唯一竜種返しを逃れた一匹を先頭に一纏めになり、ベリレが長尺棍を頭上に構えた。
巨躯のベリレが長大な棍を構えるとそれだけで周囲に大きな重力が発生するような威圧感があった。物凄い集中力だな、と思う。凜々しい大人びた横顔に、距離を測る視線は冷静沈着。ゆったりと後ろにもたれるような重心の移動は、踏み込むための助走である。
地竜との距離は遠い。巨躯の一歩と長尺棍との射程を合わせても全く足りず、それを埋めるのは棘鎖だった。
恐ろしく滑らかな体重移動はエドガーと瓜二つ。
「おぅらぁっ!!」
裂帛は迸る若さの表れだ。
ベリレの踏み込みに高密度の足場が踏み固められる雪のような悲鳴を上げて、振り下ろされた長尺棍は釣り竿のごとく撓った。手首の捻りに鎖が解かれ、蛇のように飛びかかった棘鎖は十メートル以上の距離などものともしない。
先頭を走る地竜の鼻を打ち付け、それは止まることなく足を払った。爪の磁力など意味をなさぬ高速の薙ぎ払い。
だが地竜はそれをものともせずに前進し、鼻や臑から血を溢れさせながらも鎖を跨ぐ。
熊が笑う。奥歯がぎしりと鳴った。
ベリレがふっと手首を返した。手元の捻りが螺旋となって鎖を伝い、増幅されたそれは先端近くで地竜を三匹まとめて食らいつく巨大な顎門と化す。鎖を跨いだ地竜どもの胴に鎖が巻き付いたかと思うと、鱗の表面を滑りその隙間に棘が食い込む。
そして。
ベリレが長尺棍を引くとそれは糸鋸のように地竜の胴を食い荒らして解け、ベリレは吠えた。
「がおっ!」
先頭の地竜の首に鎖が巻き付き、棘は深く、それは宙を舞った。
一本釣り。翼を持たない地竜が飛んだ。
剛と柔。遥かなる高みにある英雄の背を追う、練武の結晶。
「なんだ――」
ランタンは駆ける。喉から血を溢す地竜を通り過ぎる。その背後でベリレが長尺棍を翻して引き寄せて地竜の頭蓋を砕いた。鈍い音と断末魔。
「――やるじゃん」
負けてられない。
ランタンは獰猛な笑みを浮かべて戦鎚を振り上げた。




