082 迷宮
082
レティシアは少し泣き虫で、リリオンは甘えん坊で、ランタンは綺麗好き。じゃあエドガーは、と言うとこれはもう鬼なのではないだろうかとランタンは思うのである。
ぴりぴりと肌が痺れる。
最終目標。
それは亜人探索者たちが語ったとおりに象牙に似た白色の外皮を持ち、風精魔道を操る雄の死神蟷螂であった。びびび、と忙しなく翅を震動させて飛翔し、逆三角形の小さな頭部に熟れた木苺のような複眼が飛び出している。
蟷螂は横壁を切り裂くようにぐるんと飛翔し距離を取ったかと思うと、天井に降り立って逆さまに張り付つく。無機質な複眼がじっと見下ろすのは四人か、それともたった一人の老人か。
二対四本。円に近く深い弧を描く鎌は薄く鋭い。だがそこに脆さはなく、反射する光が鈍いせいか金属的な重量を感じさせる。
染みついた人脂に曇るような物騒な光が、鎌が振るわれる度に宙に浮き上がった。
四人は戦闘準備万端に蟷螂を見上げている。本来ならば鎌から真空刃をばらけさせるために散開するべきなのだろうが、エドガーを先頭に四人は一纏まりになっていた。
まあ見ていろ、と言ったエドガーに逆らえる者は一人もいない。
そこには例えばランタンがリリオンに向けて言う気負いのような気配は当たり前になく、ランタンは何だか少し恥ずかしい気持ちになった。レティシアもリリオンも、素直にその背中に入るものだから恥ずかしさは更に増す。
けれど一度エドガーが動けば、そんな恥ずかしさなどあっという間に忘れてしまった。
英雄の背はしゃんと伸びていて、だがリリオンほども痩せている。腰の左右に佩いた四刀の一振りをすらりと抜いて、ゆったりとした脇構えに。
右下から左に切り上がる一刀は風を受ける白鷺の羽ばたきに似て悠然としている。
それは大蜘蛛を斬った抜き打ちよりも、もっと、もっと。
「遅い……?」
その呟きが空気に溶けるほどに。
だがエドガーの斬撃は、十重二十重に降り注ぐ真空刃を一太刀のもとに切り払い、微風の一撫でも後ろに通すことはない。ランタンはその不可解さに蟷螂から視線を外し、英雄の剣線、そしてその背中に視線を囚われた。
エドガーが身に付けている外套が邪魔だ、と少し苛立つ。
長身痩躯はリリオンと同じ。長い腕と長剣の射程も殆ど同じ。細身の竜骨刀は大剣よりも倍は軽く、剣線の荒々しさは更に倍も少ない。
静かな剣だ、と思う。
真空刃が迫る。一所に集まっているために、真空刃も一カ所だけを狙っている。だが真空刃は連続して放たれるのであって、僅かながらに時間差がある。
先頭に無色透明の獰猛な刃が一つ。そしてその奥に連なる大気の断層は、まるで色のない大百足が牙も百の足も目一杯に広げて襲いかかってくるようだった。
瞬きを忘れる。きっとリリオンも。見慣れているのかも知れないレティシアも、また。
竜骨刀の白刃は光を返さぬ深い白。鋒が滑り出す。大百足はもう目の前に。
踏み込みは軽く、竜骨刀の出だしの遅さは真空刃を引きつけるためで、剣線が遅く見えるは一閃して全てを切り裂く最短を通るが故の余裕そのもの。斬られて霧散する大百足は悲鳴を上げることもなく、ランタンは感嘆のため息を漏らすことすらできない。
爆発を用いれば一動作で真空刃を霧散させるという結果を真似することはできるかも知れないが、その過程に至ることは果たしてどうか。なるほど今ではジャックの説教の意味がよくわかる。ランタンは唇がむずむずするのを感じた。それは笑みか、それとも。
これは探索者の頂の一つである。
「ふむ、最終目標にあるまじき臆病さよな」
天井から駄々子のように鎌を振るい、降りてくる気配を見せない蟷螂にエドガーが呟いた。
臆病にもなるだろう。蟷螂が降りてこないのはエドガーが怖いからに他ならない。虫に脳があるのかは知らないが、小さな頭部の真ん中に収められた本能がはっきりと隔絶した力の差を感じ取っているのだろう。エドガーはそんな蟷螂に、そして背後の三人に向かって呟く。
「落とすぞ」
一刀。
ただ風を受けて浮力を保つような穏やかな羽ばたきが、その瞬間に地から飛び立つ竜の羽ばたきへと変じた。
無音の一刀が音を纏う。
ざん、と真空刃を叩き斬った一閃は鋒を地面に触れるすれすれに止めるも力の余波が亀裂を生み出した。しかし恐るべき一刀は、ただ一歩の踏み込みに付随する要素に過ぎない。
足を踏み鳴らすついでに真空刃を斬った。ランタンの頬が子供のように笑み、三日月に開いた唇から白い歯が零れる。すごい、と無邪気な一言にリリオンが思わずランタンに視線を向けた。
右足の踏み込み。震脚ですらないただの一歩に、体重を倍にして足らない重みが乗った。剃刀で切ったような亀裂が、踏み込みによって砕けて生まれた罅に飲み込まれ、それは放射状に広がってまるで獲物を待ち構える蜘蛛の巣のように蟷螂を追い詰める。
どん、と最下層が縦に揺れた。
それは錯覚だ。英雄から放たれ重圧が見せる幻である。だがそれでもリリオンは小さく悲鳴を漏らして咄嗟に腰を低く構え、レティシアさえも身体を硬くした。ランタンも反射的にリリオンを庇うように動き、驚いたのは英雄以外の誰も彼もだった。
蟷螂は真空刃を放った姿で、それはまるで恐怖で己を抱きしめているようだった。蟷螂は空間を満たした英雄の戦意から逃れるように翅を広げる。素早く後ろに飛んで、全ては英雄の意の中にある。
左の手。その四指三股の間に挟まれた六つの打剣は、最下層突入前にランタンが頼まれて貸した物だ。この重さでは牽制にしかならんな、などとどの口がそんなことを言ったのか。
ああもうやっぱり外套が邪魔だ、とランタンは英雄の投擲に目を凝らす。ランタンのように大げさに身体を捻らない。それはまるで野良猫でも追い払うような軽い手首の反し。
それが生み出したのは天に昇る流星である。
これも錯覚なのだろうか。それとも本当に大気の摩擦で赤熱しているのか。赤尾を引き昇っていく六つの打剣は、あっという間もなく蟷螂へと到達し、その広げた翅を食い破るだけでは物足りず物凄い轟音を残して天井深くに埋まって消えた。
打剣が地上まで到達していても驚きはしない。
翅に絡みつく毛細血管にも似た燐光が、そこから水銀が溢れるかのような残光を引いて、やがて光を失った。光に透ける銀板彫刻のようだった蟷螂の翅が、たった六つの打剣で見るも無惨な有様に。
ひゅるりひゅるりと音を巻いて蟷螂が落ちる。痙攣するような翅の動きは流石最終目標か。普通の魔物ならば打剣の抜ける衝撃に絶命は必至であるが、死神蟷螂は歪ながらも体勢を立て直す。翅で浮力を生み出すことは不可能と察するや、それを畳み、纏った風精魔道が落下の衝撃を和らげた。
「さて、相手は手負いとはいえ最終目標。俺はもう疲れたから、三人とも手伝え。老人をあまり働かせるな」
「だっておじいちゃんが……」
「見ていろと言ったのは貴方でしょうに」
二人揃って不満を口に出すと、エドガーは空惚けるようにして皮肉気な笑みを口元に浮かべた。そしてそういったエドガーの気性を把握しているレティシアだけが、英雄の言に素早く身体を動かす。
左の手、揃えた二指が身を翻そうとする蟷螂に狙いを定めた。
紫電一砲。鎖状の雷光が迸り、貫かれた蟷螂は感電し、まさしく鎖に絡め取られたかのように身悶える。そしてその雷光を追うように英雄がランタンたちから視線を蟷螂へと流す。その動作はまるで、行け、とただ一言に唆すようでランタンは子供っぽい反骨心を抱いたものの、気が付けば既に駆けだしていた。
ああもう悔しいな、と思うのは喜びなのかもしれない。
リリオンは既に先。それは二人の素直さの差であり、遊びに駆け出すかのような足取りのリリオンをランタンは追いかける。少女を追い越すよりも先に、援護に放たれる雷光に追い越された。
蟷螂は感電の鎖を引き千切り、纏った風の鎧が雷光を減衰させる。ランタンは爆発を用いて加速して、抜かされたリリオンがあっと声を上げた。追いてかないで、と引かれる後ろ髪を意識的に無視し、思考を埋めるのは英雄の一歩である。
エドガーの重心移動はどうだっただろうか。
経験則として身についた己の身体の使い方が一瞬にして崩壊し、英雄の動きの再構築を試みるも何だかよくわからなくてランタンは獣のように唸るやいなや、そもそも重心移動って何だっけ、ああもうよくわかんないや、と一秒もかからずに真似事を諦める。
くすぶる苛立ちを先端に乗せるようにして、肩からぐるんと回した縦振りの一撃は純然たる力任せに他ならない。風の鎧をぶち抜いた一撃を蟷螂は鎌を交差させて受け止める。巡る衝撃に蟷螂の足元が陥没し、下段の鎌の胴薙ぎをランタンは危機感とは無縁そうな目付きで見つめた。
追いついたリリオンがランタンの足元の隙間に滑り込ませるように大剣を切り上げ、鎌を受け止めた。バチッと散った火花に炙られる。
ランタンは鍔競る戦鎚を更に押し込み支点として一回転するように爪先を蹴り上げる。蹴りが棒状の胸部を直撃し、吹き飛んだ蟷螂を雷光が追い、一撃目が直撃すると立て続けに二条の光がそれを貫く。
声もなく痙攣した蟷螂にリリオンが獣のように駆ける。風除けに盾を前に突きだして、右の肩に大剣を担ぐ。重心はその鋒か。少女の体重移動は何とも危なっかしく、それはエドガーの残影が目の前にちらついているからなのだろう。まるで顔面からすっ転ぶかのように見えた。
泳ぐように盾を脇に流し、力任せの切り落としはまさしくランタンの縦振りと同種の物だ。無防備な蟷螂の身体に刃先が埋まる。硬質な外皮を切り裂く一撃は、しかし両断には至らない。骨もないだろうに肉の半ばで大剣は止まり、青い血が溢れるとそれに押し流されるようにリリオンの身体が前に滑る。
「ええいっ!」
甘い裂帛。
背後にまで流れた盾を引き戻し、つんのめるに任せてリリオンは真横に振り抜いて蟷螂を殴りつけた。銅鑼を打ち鳴らしたような強烈な音が響き、腕を振り回して暴れる子供そのもののリリオンは蟷螂の懐にいた。
位置が深すぎる。打点をずらされた感覚など無いだろうが、蟷螂は腕を畳んで盾の一撃を防ぎ、傷口から噴いた血も何のその、根を張ったように微動だにしなかった。飛び出た複眼は何の感情も表さず、ただ命を刈り取る死神そのものの無表情さでリリオンを見下ろす。
襤褸翅は差し詰め死神の衣か。
翅が広がり、それはリリオンを包み隠し退路を塞ぐ。覆い隠される瞬間にちらりと覗いた蟷螂の相貌は、裂けるように醜悪な顎門を開いた。ランタンは駆け、追い越していった雷光はリリオンへの飛び火を恐れたのか翅の表面を滑るだけだった。
爆発はリリオンを巻き込むだろう。
ランタンは蟷螂に肉薄すると跳躍し、飛び越えざまに翅の隙間に戦鎚をねじ込んだ。鶴嘴が大型海生哺乳類を吊り上げる釣り針のように蟷螂の口腔に突っ込まれて上顎を貫通する。そのまま首を引っこ抜くようにランタンは蟷螂の背後へと降り立ちたかったが、持ち前の身の軽さがそれを妨げる。
蟷螂は鶴嘴が深く突き刺さることも厭わず顎を引いた。
小さい頭部と棒状の胴体。その繋ぎ目の丸い首節は左右には三百六十度以上旋回したが、上下角はその半分以下。
だが遠い。
流れる視界の中。翅の隙間から俯くリリオンが、そして竜骨刀を構えるエドガーが。
扇ぐような一撃。斬った。蟷螂の左半身。翅腕脚の一切が上から下に音もなく断ち切られて、抵抗すら感じさせないその一刀はけれど戦鎚を通して重い衝撃をランタンにもたらした。
引き戻される。蟷螂の身体を杭として、大木槌でそれを打ち付けたかのような衝撃がランタンの腕に弾けた。
「ぎ」
戦鎚から指に。指から手首に。そして肘、肩と。関節の全てを挫くかのような重み。掌に柄が食い込んだ。ランタンが取り落とさないように必死にそれを握り込み、視界の端では再びエドガーが上段に構えている。
なんで、と思わず思う。
首を両断しろとは言わない。ただちょっと切れ目を入れてくれるだけで良い。そうすれば後はランタンの体重でも蟷螂の首を引き千切ることが可能である。なのになぜ。その一刀は残った翅も切り落とし、ランタンはただ必死に柄を握り込むことしかできなかった。
音もなく、翅は薄布のようにはらりと地へと、そして遅れてやって来た衝撃は腕を引き千切るかのようである。
ランタンはもう怒れてきてしまって、ふつと湧いた感情に身を任せて腕を引いた。自由落下は既に失われ、押し合い圧し合う力の反発でランタンは中空に縫い止められているも同然である。もう知らない。腕が痛かろうと知ったことではない。
リリオンもそんなランタンの感情に呼応したのか、翅の檻から開放されると俯いていた面を持ち上げてそこにはぎらりとした瞳があった。
懐に入ると大剣やそもそもの腕の長さが不利になる。無理に腕を伸ばそうとはせず、肘を畳み脇を締める。大剣は逆手に持って、使うべきは刃ではなく柄の先だ。肘打ちの要領で小さな弧を描き、柄頭が跳ね上がった。ランタンに対抗して首を引く蟷螂の顎をかち上げた。どうだと言わんばかりの微笑みが見えた気がした。
ランタンにとって望ましい方向に衝撃が抜けて、少年はいよいよ感情を燃やした。
だと言うのに。
全力で首を引き抜いてやると思ったのは、八つ当たりも同然である。
だと言うのに。
これではまるで格好が付かない。
「放すなよ」
エドガーがランタンの首根っこを引っ掴んだ。
木の枝から降りられない子猫にするように。ひょいっと、軽々と。ランタンの心の内などまるっきり無視して。
骨張ってかさついた指。掌に鱗のように固くなった胼胝がある。それは老人の手。だと言うのに何という力の強さか、ランタンは一瞬前まで感じていた苛立ちが萎え萎んでしまったかのような感覚に囚われた。触れることで目に映した時よりもいっそうに力の差が思い知らされた。
この戦場は、徹頭徹尾エドガーの思い浮かべたものだったのかも知れない。
ランタンは身体の主導をエドガーに奪われたことを自覚する。抗う気力が零だったわけではないが、おそらく身を任せた方が正しいのだと感覚的に悟っていた。だが悟っていてもやはり少しだけ恐ろしい。ランタンはきつくきつく戦鎚を握る。
「な」
にを、と二音が声にならない。
ランタンは力の奔流に振り回された。視界が一気に地面へと接近して、顔面がそのまま叩きつけられるのかと思ったがやはり抗うことは許されない。精神は中空に縫い止められたままで、ランタンは子猫のごとき無力さの己を俯瞰している。
子猫ではない。意思は既に無く、それは水袋に等しい。
激流である。
小さな身体の中で激流が荒れ狂っていた。皮膚の下で肉と言わず骨と言わず全てが液体となって、それら全てが身体の端に寄っている。あれこれはもしかして、とランタンは妙に冷静で、よもやこれは英雄の一閃そのものなのではなかろうかと思うのである。
力の流れは荒れ狂っているようで、そうではない。力の大きさに驚いてそう思ってしまっているだけで、力は単純に一方向へと突き進んでいる。
僅かな力の淀みはランタンが生きているからで、これが竜骨刀ならば無駄の一つもない一撃が完成する。
強く握った手の中で戦鎚が存在を示す。蟷螂の首が限界角度に近くなり、力の行方を遮ろうと抵抗を増した。だがそれが無駄となった瞬間に抵抗が失われて、力の抜けるその感覚にランタンの精神は肉体へと戻る。
生木を折ったような、生々しい音を聞いたような気がする。
白日夢を見ていたようだった。夢から覚めた。
一秒どころではない。その半分の、半分の、半分にも満たない時間の中で知覚した情報にランタンは溺れた。皮膚を突き破らんばかりだった力の流れは、身体の内側に当たると百億の飛沫を迸らせながら、渦のような引き波を生んでランタンは本当に溺れたように呼吸を思い出す。
顔面が地面にめり込むこともなく、首を掴まれて浮いた足が揺れている。爪先がようやく地面に触れて、ランタンはぽいっと放されるとそのままぺたんと座り込んで瞬きを一つ。
戦鎚の先には蟷螂の頭が一つ。背後には首のない蟷螂の死骸が一つ。寄生虫も出てこない。レティシアは剣を収め。リリオンが駆け寄ってくる。エドガーは楽しげにランタンを見下ろし、戦いが終わり、迷宮核が顕現し、あるべくしてやはりある魔精酔いなどランタンはまったく感じなかった。
じとりと湿る掌と、ドキドキしている己があるばかりだ。
最下層で一休みして迷宮口直下まで戻った。あとはミシャを待つだけである。
一休みしても昂揚は失われずに帰路の足取りは軽かった。だがミシャを待つ二休み目には流石にランタンも冷静になるのである。
「むう」
昂揚が去ると疲労が訪れて、そうなると冷静になったランタンは子猫のように振り回されたことに不満を思いだして、子供同然にむくれる。形の良い唇を歪めてエドガーを見上げるさまはまるっきり爺と孫の図であった。
掻き回された精神はランタンを年相応の子供へと戻したのかも知れない。あと一瞬、珍しいものを見たとでも言うようなリリオンの視線がなければランタンは頬を膨らませる愚行に至っただろう。ランタンは鼻から吸った息を吐き出すために唇を解く。
吐き出されるのは息ばかりではない。
「どうしてあんなことをするんですか?」
「いや、勢いが足りなかったろう、あれでは。ちゃんと飯食っているか?」
「食べてますよ。蜘蛛よりもマシな物を」
「じゃあ量が足らんのか」
「……食べ物の話ではありません。おじいさまならもっと上手くやれたでしょう。何もあんな乱暴にしなくたって良いじゃないですか」
「英雄の戦い方が見たいと言ったじゃないか」
「言っておりませんが」
「そうだったか?」
エドガーは髭のない顎を揉んで、レティシアに視線を送って確認を取っている。釣られてランタンも視線を向けると、レティシアは事実を伝えるよりはどちらに味方をしようかと迷っているようにも見えた。凜々しい眉の後端が下がっていて、これでは味方になってもな、とランタンはリリオンに視線を向けた。微笑みは甘く、少女の眉も垂れ下がる。
「言ってないよね、リリオン」
「うん、ランタンは言ってないよ」
味方にするならば勢いのあるものが良い。
「……碌な大人にならんぞ、お前」
エドガーは言葉を言った言ってないはさておいて、ランタンに苦言を呈する。それはもしかしたら己の過去を振り返っての言葉であり、そこには何ともほろ苦い響きがあった。だがランタンはよくわからないので小首を傾げ、リリオンがそれを真似るのでエドガーは呆れて笑うしかない。
「まあ言葉があったかどうかはさておいて、エドガーさまも何かお考えがあったのだろう」
見かねてレティシアが間に入り、ランタンとリリオンの二人の頭の傾きを正した。相も変わらず二人に見つめられるとレティシアは少しばかり怯えるような気配を見せる。それを見てランタンの頭は再び傾こうとするが、いい加減にどうしようもないのでレティシアは怯えながらも頭をそっと支える。
「んふふ」
ランタンが小さく笑う。からかわれたことに気が付いたレティシアが生首を放り投げるようにしてランタンを手放して、良い物を拾ったとばかりにリリオンが胸に受け取った。
「ではおじいさま、レティシアさんのありがたい案を採用するとして。その、何か、と教えて頂けますか」
「ううむ、そうだな。しいて言えば予想が外れた。お前はもう少し我が儘かと思っていたのだが」
「……我が儘に見えますか、僕?」
さも不服そうな顔をするランタンは、頭をリリオンに抱えられてされるがままにしている。
「ああ見えたな。あの犬人族、――名前を聞くのを忘れたが」
「……ジャックさん、ですか?」
「たぶんそれだが、あれと一緒に岩蜥蜴と戦ってたろ。あの時はもっと我が儘だった。見ていろ、と言って大人しくしているようなタマではないと思ったのだが」
「――だっておじいさまが凄いから」
そう言ったランタンはそれ以外に告げる言葉を持たないので、エドガーからの返答をじっと待った。当のエドガーは憧憬の視線も言葉も飽きるほどに受け止めたことがあるというのに、少年の視線に射貫かれて思わず表情を困らせた。
エドガーは若々しい仕草で腰に手を当て、顔を項垂れると溜め息を吐いて、それから早く地上に戻りたいとばかりに迷宮口を仰ぐ。そこには濃く白い霧が立ちこめているばかりだった。視線がランタンに戻される。言葉を待つ少年は確かに我が儘さとは無縁な従順な雰囲気があった。
「借りて良いか?」
エドガーが尋ねたのはリリオンで、少女は少し迷ったあとにこくりと頷いた。開放されたランタンはエドガーに首根っこを引っ掴まれる。昨日の戦闘を思い出してランタンは少しばかり震えたが、結局の所は振り回されるだけで何か危害を加えられたわけでもないので肩の力をゆっくりと抜いた。
必要なものは脱力である。
「振り回したのは悪かった」
エドガーが言うと、ランタンは掴まえられながらも首を横に振った。
「いいえ、おかげで身体の使い方のなんたるかを知りました。ほんの少しですけれど」
「え、ずるい! わたしも知りたい!」
「ふふふ、あとで教えてあげるね。上手く教えてあげられるかわからないけど、もう少し優しくはするから。それとも振り回されたい?」
「ええー、どうしようかな」
二人のやり取りの継ぎ目に、エドガーが口を挟む。
「身体の使い方を知るだけじゃあ、まだ足りない。ランタンは賦活薬、いわゆる肉体活性薬なんかはあまり使わないんだよな」
「はい」
「持続型も即効型も色々あるが、あれは体内にある魔精を強制的に活性化している」
「らしいですね」
「強制的というのはつまり己の意識で制御できないと言うことで、戦闘中にそれはあまりうまくない。薬が切れると揺り戻しもあるからな」
けれどそれでも肉体活性薬が探索者の必需品であるのは、それだけの効果を有しているからに他ならない。
「ランタン。お前には身体の中にある魔精を意識してもらう」
「制御しろ、と?」
「できるものならな。まずは意識できるようになるだけでいい」
首根っこを掴まれたままのランタンは強い反骨心を背中に向ける。前に立つリリオンの瞳に映ったエドガーが唇を歪めた。リリオンが、わたしも、と手を伸ばしランタンは少女に腰を屈めるように促して、目の前に降りてくる唇を指で塞いだ。
「ぶう」
リリオンが唇をへの字に曲げたので、ランタンは手招きをしてエドガーを真似てその首根っこを掴まえた。筋肉の凝りを解すように揉んでやると途端にふにゃりと力が抜ける。
「お、リリオン上手いぞ。ランタンもあれぐらい力を抜け」
「……抜いているつもりですが」
「つもり、だと痛いぞ。私の時は、――……兄に手を握ってもらったな」
レティシアが、身体を揺らして脱力を表現しているランタンに向かってそう言った言葉には湿っぽい懐かしさがある。けれどランタンはそんなことよりも、痛いことをされるのか、と思わず身を固くした。エドガーが苦笑したのが掴まれた首から伝わってくる。
「まあいいや。痛いのは我慢しますので、どうぞお好きに――」
諦めと共に言う。するとリリオンが手の中から抜け出して、くるりと反転してランタンを見つめた。口元にある笑みは何かしらの企みが露わだった。
「えいっ。うふふ、これでどうかしら?」
エドガーに捕らえられて身動きが取れないことを良いことに、リリオンはランタンを胸に抱きしめて離さない。
薄い柔らかさの奥に骨があり、その更に奥には心臓の鼓動がある。少女の体温と、汗の匂いがある。
そして人目もあって、ランタンには羞恥がある。恥ずかしさは緊張と同意だ。
「お、良いぞ」
だと言うのにエドガーは褒める。うそだあ、とランタンは口を開くこともできないほどに抱きすくめられて今にも窒息しそうだった。
リリオンの体温は高い。それよりもエドガーの掌が。
何をされるのか。まさかリリオンと一緒くたに振り回されるのか。しかしこの位置では横壁に身体が叩き――
賦活。
エドガーの手が離れる。熱はまだそこにある。
「んう――」
声にならない。
それは妙な感覚だったし、馴染みのある感覚でもあった。熱いような冷たいような。興奮している気もするし、果てなく冷静であるような気もする。全身の細胞の一つ一つが把握できるような自己認識と、同時に感覚が肉体から抜け出して自分を他人事のように俯瞰する曖昧さ。
匂い。
すぐ傍にあるリリオンの匂いが薄い。レティシアからは少し濃く、エドガーからは噎せ返りそうなほどの。それは体臭ではない。死臭でもない。それはむしろ。これは迷宮の匂いに似ている。迷宮の匂いって何だろう。
うるさい。
五月蠅すぎて、静寂の中に放り込まれたような耳鳴りがする。心臓の鼓動は自分のものか、それともリリオンのものか。あるいはこれは迷宮の音か。迷宮の音って何だ。
「ランタン」
ランタンは少女の胸の中で無言で喘ぎ、無力な赤子のように少女の身体に全てを預け、離れがたく背中に爪を立ててしがみつく。もたらされた僅かな痛みを感じ取り、リリオンがうっとりと瞳を潤ませる。少年の髪をくしゃりとかき寄せ、いっそう強く抱きしめた。
「ランタン」
熱っぽい声は少女らしからぬ色気があった。
見ていられないとばかりにレティシアが視線を逸らしたことに二人は気付かず、エドガーは深く眉間に皺を寄せて己の掌をじっと見つめた。




