081 迷宮
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二泊三日を予定している最終目標討伐作戦は、暢気な遠足のような響きとは裏腹に女の涙によって幕を開けることになった。
リリオンはランタンにいっぱい撫でてもらえて満足で、抱き寄せられた胸の中で悲しみを癒すと、すんすんと鼻を啜り上げる振りをして少年の体臭を嗅いだ。凜とした面ながらもぐずぐずと鼻を鳴らすレティシアを、泣かなかったリリオンは胸からちょっとだけ顔を離して大人ぶった視線で見つめる。
「ランタンに、なでてもらう?」
「……大丈夫だ」
ランタンは女二人の謎のやり取りを呆れるよう聞き、エドガーはもうお手上げという感じだった。どれほど時を重ねようとも男にとって女は永遠の謎であるらしい。視線が混じるとどちらともなく苦笑を漏らした。ランタンは目を擦ろうとするレティシアにハンカチを取り出して渡す。
「ありがとう」
目と鼻を拭ったハンカチはそのままはレティシアにくれてやり、しつこく顔を押しつけるリリオンを突き放してランタンは立ち上がった。エドガーもそれに続き、痩せた身体がいかにも重たげと言うようにどっこいしょと漏らす様に英雄らしさはなく、日向の揺り椅子から立ち上がる老人そのものだ。
「さてじゃあ行くか。道中の魔物は――」
「殲滅済みです。たぶん再出現もないと思いますけど」
とは言えのんびりとした再出現を待てないせっかちなはぐれ魔物がでないとも限らない。
四人は迷宮を行くにあたって隊列を組むことにした。
たった二人の探索ではどうすることもできないものだが、四人居ればそれなりに格好が付くのがランタンにとっては新鮮で何だか面白いことだった。
じゃあどうしましょうか、とランタンが言えばエドガーが、俺は最近耳が遠くてな、とぼやく。レティシアが、では私が、と言えばリリオンが張り合って、わたしやりたい、と挙手をしたので結局はランタンが先頭を行くことになった。
理由は一度通った道であるというのと、余程魔物は出ないだろうという楽観からである。
先頭をランタン、その後ろがリリオンとレティシアが横並びで、殿を務めるがエドガーと陣形は菱形であった。
本来先頭を行くのは最も索敵能力に優れた探索者であって、ランタンの索敵能力は低くもないが高くもない。経験によっていくらか補えている部分はあったが、素の索敵能力、詰まるところの視力聴力はリリオンの方が優れているかもしれず、レティシアは未知数であったがエドガーは耳が本当に衰えていたとしても、この中で最も広い知覚範囲を誇るのは疑うべきもないように思う。
「そう言えばお耳のそれは――」
「これか?」
軽く振り返ると、エドガーは右耳の義耳を指で弾いた。
「集音の魔道装具だ。とは言っても、もう力は失っているがな。ただの飾りさ」
鳴った音は金属ではない。だが肉や骨を打った音とも違って軽かった。本物の耳と見まがうほどの精巧な造りだが老人の肌の色より少し濃い色をしているのは、エドガーの皮膚が過ぎ去る年月により色褪せたからなのだろう。
歩きながらたわいもない雑談を語った。そう言えば人となりを知るための探索でもあったな、とランタンは今更ながらに思い、レティシアはまるで台本でも読むかのように己を語るのが、何とも生真面目で好感が持てる。
レティシア・オリーリー・ネイリング。
ネイリング家の長女として生を受けたのは十八年前で、兄が二人に弟が一人。二人いる兄のうち、長兄を宝剣と共に失っている。そのことは司書は教えてくれなかった。好きな食べ物は柑橘類で、ランタンは運び屋の大荷物を思い出して納得がいった。ちなみに嫌いな食べ物は加工していないトマトだとか。青臭いですもんね、というと、いや中のドロドロが、と返ってきた。
「わたしはきらいな食べ物ないよ」
「気付け薬は?」
「あれはくすりだもの」
「今のはランタンが悪いな」
「ええ私もそう思います」
レティシアの剣の師は父でありエドガーであり長兄であった。レティシアは左腰に長剣を佩いている。鞘は瞳と同じ深い緑で、銀の装飾が施されている。彫金された竜種の彫り物は、初代ネイリングの妻を模したものであるらしい。
鍔を親指で持ち上げて、鍔元に宝石が埋め込まれているのを見せてくれた。黄金の台座に埋め込まれた宝石は四角の角を切り落とした八角形で、そこには思わず手を伸ばしたくなるような力が封ぜられていた。
「わあきれい。これって――?」
リリオンが聞くと、レティシアは頷く。
それは魔道剣だ。
「増幅器だ。こっちのは吸精式だな」
左手首、そして人差し指と中指に揃いで黄金の装飾品を装備している。
「増幅器ってことは、魔道剣士ですか」
例えば吸精式や交換式、あるいはそれ自体に強い魔精が込められた魔道具は魔道使いでなくても幾ばくかの練習により使用することは可能になる。だが増幅器はその名の通り魔道を増幅する装置であり、増幅するための魔道を所持しない者にはただの武器や装飾品でしかなかった。
「ああ、うちの家系は代々魔道が発現しやすくてな。ふふふ、何の魔道だと思う?」
「なんだろうね。ねえ、リリオン」
「うーんとね、えーっとね」
魔道には発現しやすい現象とそうでないものが混在する。例えば破壊と治癒ならば、圧倒的に破壊の魔道が発現しやすい。そしてその中でも火、水、風が最も多く、少し数を減らして氷、雷、地と続く。他にも治癒を筆頭として多種多様な魔道は存在するし、前述六種であってもその発現の仕方は千差万別である。
「剣が増幅器なら、その用途は攻撃ですよね」
「ああ、そうだな」
斬って治す、という乱暴な治癒魔道もあるとかないとか風の噂に聞くこともあるが、これはもう除外して良いだろう。剣に埋め込まれた宝石は光の反射か、緑と赤が互いが互いの色に染め上げようとするように、溶け合いつつも二色がそこに揺らいでいる。
「腕輪と指輪も、お持ちの魔道の発動を補助するため物ですか?」
「ああ、そうだ。こっちはまあ足止め用だな」
足止め、つまりは牽制。放たれる魔道は指一つ分の威力、と言うことだろうか。それでももって足止めとなると、限られるわけではないが当たりは付けやすくなる。
「そういやリリオン、前の最終目標は大変だったね。魔道くらって身動き取れなくなっちゃって」
なんだろうなあ、と頭を揺らしているリリオンにランタンは声を掛ける。リリオンは思索から呼び戻されてびくりとし、首の据わらぬ赤子のようにこくんと頷いて、はっと顔を上げた。
「かみなり! の魔道!」
キラキラの視線にレティシアは堪えきれぬように微笑み、大きく頷いた。そして左の人差し指をぴんと立てて、迷宮路の先を指差した。
闇を裂いて走ったのは、糸の如き閃光であった。ばち、と鳴った音は小さく、威力は低い。だがそれは文字通りの雷速で避けることは困難だし、威力は低くとも感電によって起こる追加効果は金蛙によって嫌と言うほどに思い知らされている。
「すごおい。わたしもできるかなあ」
リリオンはレティシアに魔道の使い方を聞いて困らせていた。
「魔道ならランタンも使えるだろ?」
エドガーが最後尾から問い掛ける。
その問い掛けに、どうしようかな、とランタンは答えに窮する。爆発能力は魔道ではない、と思う。これはこの世界に来て名前や幾つかの記憶に取って代わるようにして発現した能力だ、とそう思っていた。便利だから好き放題に使っていたけれど、今更ながらにこれは何だろうと思う。
もしかしたら魔道なのかもしれない。だが魔道を行使する際に訪れるという、倦怠感というものを感じたことはない。説明するのも煩わしいしまあいいか、とランタンは話を合わせることにした。
「でも使い方は教えらんないですよ。気が付いたらできるようになっていたので」
「自然発生か。たしかにそれは教えられるものではないな」
魔道の発現には幾つも方法があるようだ。例えば鳥が飛んだり魚が泳いだりするように、生まれながら呼吸をするように魔道を発現させる者。あるいはレティシアのように血統や環境によって素質を持ち、大系としてある魔道技術を学び発現させる者。
そしてもしかしたらランタンのように、ある日突然に自然発生させる者。これは何のきっかけもなく発現する者も稀にいたが、多くは追い詰められ命の危機に瀕した時に発現する場合が殆どだった。危機を退ける力であるからこそ、魔道は破壊によることが多いらしい。
ならばあるいはもしかして、いやしかし初めての爆発はいつだろうか、と記憶は定かではない。当時のランタンは過ごす時間の全てが命の危機であったような気がする。
「まあ魔道は感覚によるところが多いから、私も人に教えるのは苦手だな。魔道のことを知りたいならリリララに聞くといいぞ。リリララは凄腕の地の魔道使いだからな」
「……ランタンも、いっしょに聞いてくれる?」
リリララに喧嘩を吹っ掛けられたことが尾を引いているのかリリオンが尻込みをしていた。口は悪いが面倒見の良い奴なんだが、とレティシアの苦笑。口ばかりじゃなくて態度も、とランタンはもちろん口に出さない。
リリオンはランタンの答えを待ち惚けして、子犬のような視線に気付くのはそれから少し後のことだった。
ランタンがそれに気が付いたのは、エドガーの違和感だった。リリオンとレティシアは気が付いていないが、ぴりりとした警戒心が薄く先の方まで伸びていった。
やっぱりこの人凄い、とランタンは思う。その違和感はもしかしたらランタンに、敵の存在を気付かせるための警告であるのかもしれない。
雑談を交わしながらも、ランタンも警戒を怠ってはいなかったのだが。振り返ってもエドガーは知らん顔をしていて、ただ少しランタンに向かって意味深な視線を向ける。ランタンの視線が一瞬おもしろくなさそうにふて腐れて、その微妙な雰囲気に女二人が怪訝そうに顔を覗き込む。
「どうかしたか?」
レティシアもリリオンも暢気なものであった。名家ネイリング家の令嬢の、実戦経験はもしかしたらそれほど多くはないのかもしれない。あるいは斥候索敵はお嬢様のお仕事ではない、と言うことなのだろう。ランタンがちらりとリリオンに視線を向けると、少女は慌てて背負った盾を降ろした。
「そう急がなくてもいいぞ。まだ遠い」
エドガーの呟きに遅れてレティシアも抜剣する。ランタンは手中に打剣を握り、エドガーは柄に手を掛けようともしない。
「移動はしていないな。この速度ならあと十分ぐらいか」
警戒して進みながらエドガーは知覚することを報告してくれた。
魔物は接近はしていないがじっとしているわけではない。忙しなく動き回っているが、しかし足音は微か。しかし老い遠くなった耳に聞こえる微かな音色をランタンは聞くことができない。足音の感覚から八脚であることが判るらしく、その消音具合から柔毛で覆われていることも感じ取れるらしい。
「蜘蛛ですか?」
「おそらくな。巣を張って待ち構えてるんだろう」
蜘蛛型の魔物において気を付けるべきは、天地無用に足場とし、見かけ以上に高速で移動すること。そして腹部後端にある糸疣は当然のこと、種類によっては口部脚部から射出される粘性の糸と、それによって制作される巣や罠の存在だ。そして牙や、あるいは身体を覆う毛針が毒を有している場合も考慮しなくてはならない。特に毛針は空気中に散布されている場合があり、吸い込めば呼吸器系に害がある。
「止まれ」
まだ蜘蛛の姿は見えず、足音もない。蜘蛛は既にこちらを知覚していて、動きを止めて待ち伏せをしている。そして待ち伏せ型の魔物は死角に罠を構えることが多く、この場合では迷宮路が大きく弧を描く先に巣があるのだろうと予想された。
と言うかこの距離ならば寝ぼけていたとしても気がつける。
「ちょっと顔出して、引き寄せましょうか?」
「いい、いい。こんなもんは燻し出したほうが楽だ」
「はあ……」
そう言ってエドガーが取り出したのは可燃性の液体を満たした瓶である。それに何となく拍子抜けしたランタンは間抜けな声を上げた。
「もっと英雄っぽく振る舞った方がいいか?」
「いえ、そういうわけでは」
エドガーは小さな苦笑を漏らして、瓶をちゃぷちゃぷと揺らした。
「レティシア、着火を頼む」
「はい、お任せください」
「二人は尻に火が付いて慌てて出てきたところを叩け。天井に出たら俺がやろう。二秒経って出てこなかったら奥に逃げたと言うことだ。そしたら、まあ取り合いだな。止め刺した奴は飯の用意をサボってよし」
戯けるような台詞にレティシアが、負けませんよ、と剣を鳴らした。
「開始の合図はランタンに任せる」
「え、あ、はい」
戦鎚を手の中で回す。何か変な感覚だった。
「では、――どうぞ」
道を譲るかのようなその気の抜けた合図にリリオン以外が吹き出して、しかしエドガーの放り投げた瓶は浅い弧を描いて確実に道の先へと。そして曲がり角に到達した瞬間、レティシアの指から放たれた雷光が瓶を捉えて壁のような炎が広範囲を焼き包んだ。
そして炎に巻かれて大蜘蛛が先から飛び出してくる。四肢を覆う柔毛に火が付いていて、それはとても壁や天井を歩ける状態ではなかった。英雄の指示はこれを見越してのことだったのだろうか。ランタンは戦鎚を肩に担ぐ。
英雄ってずるい、と役目は終わったとばかりに腕を組むエドガーを、ランタンは背後に置き去りにしてリリオンと競い合うようにして駆けた。
「蜘蛛って海老とか蟹の味がするらしいですね」
「食べたことあるの?」
「ない」
食事を用意するのはランタンとリリオンの二人だった。レティシアは戦闘はさておき食事では役立たずであるようで、エドガーは大蜘蛛に止めを刺したからだ。
リリオンに先んじて大蜘蛛の頭を潰したのはランタンで、リリオンはリリオンで振り回された火の付いた足を切り落としもしたが、それを絶命させたのは腕組み棒立ち状態からいつの間にか抜刀していたエドガーの一刀であった。
左腰に佩いた長刀からの抜き打ちは、浅い角度に斬り上がる左回りの横薙ぎ。蜘蛛の外皮を切り裂いた一撃はともすれば凡庸であるかのようにも見えたが、けれど頭部を潰されてなお襲いかかる大蜘蛛の生命力をあっさりと断って戦闘を終わらせた。
もっとしっかり見ておくんだった、と思っても時間は返らない。
おそるべきは竜骨刀の切れ味か、はたまたエドガーの技量か。
「食ったことあるぞ。普通の蜘蛛はフライにすると結構いける。まあ殻の柔い蟹みたいなもんだ。手足は殆ど肉がないが、胴部は濃厚なチーズみたいな味がするな」
いや恐ろしいのはその食欲か。
話を振った張本人にもかかわらず、食事の用意をしながらランタンは次第にげんなりとしてきた。
「さすがにさっきの大きさはよう食わないがな。これぐらいのサイズのも大味で美味くはなかったな」
とそう言って示したのは両手で抱えるほどの大きさだった。それを見てランタンは露骨に顔を顰めて、いっそ哀れむようにしてエドガーを見つめる。
「なんでそんなものを食べたんですか」
「若い頃に食料の分配を失敗してなあ、他にも色々食ったぞ。基本的には成虫より幼虫の方が美味い。蝶とか甲虫とかな。まあ揚げて香辛料をかければ大抵のものはイケるんだが、百足は最悪だった。虫系の大迷宮なんて行くもんじゃないな。物質系よりはましか。流石に鉄やら石ころやらを食う気にはならん」
「じゃあカマキリは? カマキリは食べたことありますか?」
背後に最下層への霧を背負ったリリオンの問いかけには肩を竦めるだけだった。けれど少女はそれだけで納得したようで、棒みたいだものね、と最終目標の姿を思い出しながら鍋に牛乳を加える。もし、美味かった、とエドガーが言えばこの少女は最終目標を食そうとしたのだろうか。色々なことに興味があるのはいいけれど、ランタンはこの子を飢えさせないようにしようと心に刻む。
「お、いい匂い」
「もうすぐできるわよ」
みるみるできあがるホワイトシチューを覗き込んでレティシアが唸っている。お嬢様の仕事は雷による着火と、シチューにぶち込むためにベーコンをざくざくと大雑把に切ることだけだった。リリオンはシチューと同時に厚切りのハムを焼いて、その脇で目玉焼きを作っていたりもする。ランタンはランタンで今日の主食である黒パンを少しでもマシなものにしようとガーリックトーストにしたりピザトーストにしたりするものだから、それは大した手間ではないのだがレティシアは衝撃を受けたようだ。
「ランタンも、できるんだな」
「ずっと一人でしてましたし。携行食でもいいけど、あんまり続くと味気ないですし。あっちち、ああ直火って火力が判らないな」
チーズが溶けてふつふつと膨らみを見せたが、同時にパンの端が黒く焦げた。ランタンは火からパンを取り上げて、パンに付いた小さな火を吹き消す。リリオンが器にシチューをよそった。レティシアはせめてこれぐらいは、と自分で持ち込んだオレンジをこっそりと差し出している。
「シチューはいっぱいあるからね」
「おお、これは美味そうだ」
「そう、じゃないのよ。おじいちゃん」
「ははは、それは悪かった」
食事が配られるとエドガーは破顔して、レティシアは眉根に皺が寄っている。
「難しい顔して食べると消化に悪いですよ。それともトマト以外に食べられない物でも?」
「む、すまない。ちなみにトマトは嫌いなだけで食べられないわけではないからな」
レティシアはそう言ってトマトソースのピザトースト齧りついた。いかにも食べ慣れていないようでとろんと伸びたチーズに戸惑っている。ランタンがその伸びたチーズをスプーンで断ち切ってやると、ようやく安心して口を動かす。
「美味いな。シチューも、甘くて美味しい……」
そう言ってレティシアは令嬢らしからぬ大口を開けて食事を始めた。それは肉食動物が獲物の首筋を食い破るのに似て、仕草は粗野なように見えるがやはり気品がある。流石に口内に咀嚼物がある状態で口を開けることはなく、ごくんと飲み込んでようやくレティシアは口を開いた。
「ランタンは、どれほどの迷宮を攻略したんだ?」
「さあ、数えてないので。それは調べなかったんですか?」
なんとなしに言った言葉をレティシアは当てつけとして捉えたのか、食事に噎せるようにして黙った。そんな様子をランタンはもぐもぐと口を動かしながら見つめる。
竜の血を引いている、と言うのは真偽不明の伝説であるらしいのだが、何となくそれを真実だと思わせる迫力のある美人である。だが先の濡れた瞳といい、このしょぼくれた横顔といい、どうにも竜の血という印象から想起させる豪快さとのギャップに戸惑いがある。
「お互い様ですから気になさらなくていいですよ。僕も皆さんのこと調べましたもん。大英雄エドガー様のことは尋ねずともみんな教えてくれましたけどね」
エドガーの苦笑にランタンは肩を竦める。
「僕のこともっと調べといてくれたら思い出す手間が省けて楽だったんですけどね。たぶん、――四十には届かないぐらいだと思いますけど」
「一年足らずで、それか」
「小、中迷宮しかやってないですからね」
「それにしたって迷宮中毒と言う他ないな」
そう呟くエドガーの目には呆れと、無茶を許される若さへの羨望がある。
ギルドの査定としては、一週間以内に攻略できると試算できるものを小迷宮、一ヶ月以内に攻略できるものを中迷宮、それ以上を全てひっくるめて大迷宮としている。だが運び屋を伴わず、無意識的に強行軍を組んでしまう癖のあるランタンはその試算よりもいくらかも攻略速度は速い。
だがそれにしてもその数は異常である。
迷宮の規模や、あるいはそこで得た利益にもよるが普通の探索者が一月に攻略する迷宮の数は平均して二以下であった。小、中迷宮を一つ攻略したら、余程に体力に余裕があるかあるいは金銭的に困窮していない限りは来月までは休暇である。暇を持て余してちょっとした小遣い稼ぎをするにしたって、迷宮へ行くのではなく各ギルドからの魔物討伐依頼や下街でチンピラを小突いたりして稼ぐのである。
そんなことを露知らぬランタンは無邪気にレティシアを困らせていた。
「レティシアさんはどれくらい?」
「え、私か、私は……八つ、……これで九つ目だな」
それは少しばかり言い難そうでもある。
レティシアが探索者ギルド証を取得したのは司書からの情報が確かならば十四才で、今から四年前だ。年間二つか、と思いもしたが、そう言えばこの人の本業は貴族の令嬢であったとランタンは侮りを反省する。
貴族の日常がどのようなものかは全く知らないが、時間を好き勝手自由に使えるランタンとは違うのである。
色々なお勉強や人付き合いがあるのだろうなと思うと、ランタンは想像しただけでその煩わしさに苦笑を零し、想像の中で膨らませた貴族の息苦しさにレティシアに尊敬と憐憫の混ざった何とも言えない視線を向けた。
「な、なんだ」
「凄いなあって思いまして。貴族と探索者の両立って、きっと大変なんでしょうね」
リリオンに負けず劣らず無垢な眼差しとなったランタンに見つめられて、レティシアはしどろもどろになっている。貴族令嬢ならば褒めそやされることに慣れていそうなものなのだが、それはもしかしたら照れているのかもしれない。竜と言うよりは蜥蜴かな。
蜥蜴が照れるかは知らないけれど、とそう思うとランタンの瞳は邪悪さを帯びていっそう煌めく。
「ねえ凄いね。リリオン」
「うん、すごい。おいしい」
リリオンはもぐもぐと口を動かしながら、きらきらの瞳でランタンに追従して頷く。少女は何が凄いのかはいまいち理解していないようだったが、ランタンの言葉を一つも疑わない少女の無垢さにレティシアはいよいよ追い詰められていった。
「な、何を言っているんだ。まったくもう」
レティシアは勢いよくシチューを掻き込んで、恥ずかしがりながらもまんざらではない様子である。空元気なのかもしれないけれど、取り敢えず眉間の皺が完全に消えたことにランタンは淡く口元を緩める。
食事を終えて一息吐けば最終目標戦である。当初ランタンとリリオンの二人での討伐を想定しての所に、大戦力であるエドガーとレティシアが加わることとなって戦力的には余裕があったが、それでもレティシアの調子が良くなることに越したことはない。精神状態の良し悪しは、肉体の良し悪しにも往々にして結びつくものである。
ランタンはデザートであるオレンジを切り分けて最も大きいものをレティシアに、そしてリリオン、エドガーの順に渡してやった。そして自分の物を半分食べると、残りをリリオンの口に放り込んだ。
「ちょっと酸っぱいですね。美味しいけど」
「あまり熟れている物より、これぐらいが好みなんだ。迷宮に長くいるとどんどん追熟も進むからな」
「そんなに長く、……って大迷宮を攻略したことがおありで?」
「ああ、今までに三つほど。内一つは完全に付いて行くだけだったがな」
エドガーは様々な迷宮を攻略しているのだろうが、まさかレティシアが三つも大迷宮を攻略しているとは思わなかった。だからこその九つか、とランタンは思わず本物の感嘆のため息を漏らした。
「大迷宮かあ、僕は行く気すら起きないなあ」
その言葉にレティシアとエドガーがぎょっとしてランタンを見つめた。レティシアが手の中で揉んでいたオレンジの皮が二つに折り畳まれて、あたりに柑橘系の香りが広がる。リリオンはすんすんと鼻を鳴らして、同じ匂いを自分の指にも見つけて喜んでいる。
「行く気すら起きないとは……?」
「だって運び屋使わないですもの。流石に一人二人で持ち込める食料なんてたかが知れていますし、蜘蛛を食べる気なんて起きないですし」
「ああ、そうか。そういうことなら――」
「それに最短でも一ヶ月でしょ? そんなに長い間、お風呂入らなかったら皮膚病になっちゃいますよ。ねえ?」
ランタンはリリオンの汚れた唇を拭ってやりながら、流すような視線を二人に向けた。レティシアはせっかく失った眉間の皺を再び取り戻し、エドガーは困惑の表情を浮かべてランタンを見やった。エドガーは一瞬レティシアに視線を向けたが、レティシアが固まっているので再び視線はランタンに。
「ランタン」
「なんでしょうか?」
「竜系迷宮はことごとく大迷宮だ」
ランタンはリリオンの唇に指を触れさせたまま言葉の意味を理解しかねるようにぴたりと動きを止めて、少女はその指をぱくりと口腔に含んで指先を舌で突く。オレンジの味がする、とむにゃむにゃ呟く。ランタンはその舌先を反射的に摘まんだ。すると口腔に唾液が溢れる。少女はそれに溺れるように名を呼んだ。
「りゃんたん!」
「なに?」
摘まんだ舌を開放してやると、少女は溜まった涎をごくんと飲み込んだ。
「ほら、前に言ってた、あれよ。おふろの形の荷車を持っていきましょ!」
リリオンはさも名案であるようにそれを告げて、ランタンは思わず、まさしくその通りだ、と頷いた。
そして暴走する二人に対して、止める術を持たない二人は互いに目配せをし合い代案を探すのだった。




