080 迷宮
080
両手を重ねて膝頭を押さえる。そしてランタンは折り目正しく腰を折って頭を下げた。髪が墨を垂らしたように重力に引かれ、露わになった項はまるで断頭を待つかのごとく晒された。
「先日は大変無礼を働きまして申し訳ありませんでした」
早朝の色の淡い陽光にランタンの項は青白く血管の透けるほどであり、少年の後頭部には困惑の視線が落ちる。
朝の挨拶もそこそこで急な謝罪を受けたエドガーとレティシアはただただ困惑するばかりであり、ベリレはランタンから謝罪以外の他意を読み取ろうとするようにじっと少年を見つめている。
先日の酒場での一幕の後、レティシアたちは他の探索者と鉢合わせになると面倒になるので早々に立ち去った。そして取り残されたランタンがエドガーの言葉を考えていると、湧きつつある知恵熱を払うかのようにジャックに頭を叩かれ、そして叱られたのである。
曰く、あの大探索者と一緒に探索を行うことが探索者にとってどれほど名誉であるか、と。そして得られるものは名誉だけではないとも。英雄の探索はもとより、ネイリング家の探索も間近に見られるということは、積み重なり洗練された膨大な探索法や攻略歴を学ぶということに他ならない。
攻略した迷宮の数はランタンも多いが、探索方法が未だに手探りであることは自覚している。そしてあるいはジャックはそれを見抜いていたのかもしれない。
危険を伴うことは重々承知しているが、見返りは大きい。きっとお前のこれからにとって大きな財産になるぞ、とジャックは言った。それは命令ではなく、その事に想像の及ばなかったランタンに対する提案であり、ランタンは少しばかり飲酒したこともあって色々と相談をしてしまった。
ウェンダがそんなジャックとランタンを指差して、兄弟のようね、と言うものだからランタンはなんとなしに、お兄様、とジャックを呼んでみたらジャックは犬人族なのに全身に鳥肌を立てていた。身体を覆う長毛がぶわりと膨らんで引き締まった身体のジャックが丸くなり、ウェンダとフリオにからかわれていた。
その後も情報収集を兼ねて数少ない知人たちにエドガーやネイリング家のことをそれとなく聞いたのだが、その誰もが英雄を知らぬランタンに困惑して、それとなく、ではなくなってしまった。
例えば引き上げ屋であるミシャとアーニェは、英雄が贔屓にしていた引き上げ屋がいかにして大店へとなったかを熱く語ってくれた。話が終わってランタンがその熱意に呆気にとられているとアーニェは三対六腕でランタンの肩や腕をひっしと掴み、もちろんうちを使ってくれるのよね、と複眼の全てを使ってランタンを見つめた。他の選択肢を知らないランタンが頷くとアーニェは狭い店内でランタンを抱きしめて持ち上げて振り回した。
例えば商工ギルドのエーリカであれば、絵本となったエドガーの英雄譚をランタンにくれたかと思うと、ネイリング家の方とどうにかして会わせてもらえないかしらもちろんエドガー様とも、とにこやかな目付きの奥で瞳が冷徹な光を放っていた。首を横に振れば押しつけられた絵本が途方もない値段となって支払いを請求されそうなほどに。
そしてそんなエーリカの父親であるグランはエドガーの名を聞くと、俺らの世代の大英雄じゃねえか、と珍しく目を見開いて驚きを示し、エドガーの所有する竜骨剣を触らせて貰えねえかな、と言外に英雄を連れて来いとランタンに言っていた。首を横に振れば今後の整備代が値上がりしそうな目付きは娘に似ていて、ランタンは善処しますとしか答えられない。
例えばテスが、御仁を一目見ようと探索者が大挙して大変だった、と嘆いていた。その熱狂たるや凄まじく、第一波となった探索者集団の中には顔見知りが多く含まれていたことに憤慨していた。顔見知りであろうともテスは容赦なく痛めつけて捕縛したり追い返したりしたそうだ。
そう言えばジャックは冷静だったな、と思い出しそれを伝えると、あの子の憧れは私だけだ、と恥ずかしげもなく言うものだからランタンが照れてしまった。エドガーについては一度斬ってみたいな、と軽く言い放ちランタンは恐怖に震えた。
そして司書からはそれらが本物の英雄と貴族であることにお墨付きをもらった。
探索者ギルドにもその来訪は事前に知らされていなかったようであり、突然の来訪にずいぶんと慌てたようであった。攻略予定の竜系迷宮も、すでに別の高位探索班への賃貸が決まっていたのだが、レティシアが強引な横やりをぶち込んだのだそうだ。エドガーの求心力も関係しているのだろうが、横やりを押し通したその必死さが目に見えるようであった。
あれはなかなかしつこい女だぞ、と司書は笑っていた。
そしてエドガーやレティシアについての様々な情報を土産に聞かせてくれもした。司書は余程深くギルドの情報群に接触できるようで内緒の話もいくつかあった。
そして二人を信頼に値する人物であると、そこの部分で迷っているのなら心配はいらないとランタンの背を押してくれた。
ランタンは己の言動を顧みて、生意気が過ぎたことを恥じた。
リリオンとミシャは手を握り合ってランタンを固唾をのんで見守っている。
エドガーは困惑からどこか面白がるような視線をランタンの後頭部に向けて、けれど全てはレティシアに一任していた。対処を任されたレティシアは野生の獣に触れるように恐る恐るランタンの頭に手を伸ばした。
指先が髪を掻き分ける。獣が襲いかかってこないことを確かめるように慎重に探りを入れる指先がさわさわと頭皮を撫でて、その指先は這うようにして項へと。そして項から頸動脈を一撫ですると、遂にはランタンの顎を持ち上げた。
視線が交差して、レティシアは尊大な表情を唇に。けれど瞳にはやはりまだ困惑も。
「許す、――で、いいのか?」
「こほん。レティシア様よりお許しを賜りましたこと誠にありがたく――」
至極真面目な表情のランタンにレティシアはようやくほっとして口元を緩めた。
「ふ、ふふ。なかなか上手だが、いかにも例文という感じだな」
「厳しいですね。謝罪に独自性はいらないでしょうに」
不安そうに見ていた二人は、ふわりと柔らかくなった雰囲気に胸を撫で下ろした。リリオンは顎からは指を外したもののランタンに触れたままのレティシアから少年を奪い返した。レティシアは微笑みを湛えたままにリリオンに視線を移す。
「今回はよろしく頼む。ランタン、リリオン」
リリオンはこそこそとランタンの外套を摘まんだまま、小さく会釈を返すだけだった。
「はい、こちらこそよろしくお願いします。レティシア様、エドガー様」
「そんなに堅苦しい呼び方じゃなくて構わんぞ。迷宮じゃ爵位もへったくれもないからな」
「では、おじいさま、と。んー―、お姉さまにでもしますか?」
「え、いや、それは」
鳥肌こそは立っていないが戸惑っている。
「ではレティシアさん、と」
戸惑いの尾を引いたままの頷きに。面白くなさそうなのはベリレである。
今回の探索はただ最終目標を討伐するだけではなく、むしろ本題はいくつかの話し合いのためである。そのため降下するのはランタン、リリオン、レティシア、エドガーの四名で運び屋の随行すらない。そして更に言えばエドガーが探索者に見つかると面倒なので、やや眠いほどの早朝である。
「今日はどうされたんですか?」
留守番のはずのベリレがなぜいるのか、とランタンは微笑む。
「見送りだ」
「それはまあ、こんな朝早くから。わざわざありがとございます」
「お前の見送りじゃない」
ベリレはむすりと眉を顰めて不満もたっぷりに言い放った。そこには羨むような響きも伴っていて、視線はランタンではなくその頭上を飛び越えてエドガーに向かっている。何とも判りやすくて、それはむしろ微笑ましくもあった。ベリレは留守番を言いつけられたことにふて腐れているのだ。それでいて見送りに来るあたりが何とも健気である。
「それは残念。ねえリリオン」
「え、……うん」
リリオンはベリレをちらりと一瞥するとすぐに目を逸らして、ランタンを盾にするように背中に隠れる。
腕相撲での昂揚も酒精による発揚も失われた今、身体が大きくて何かにつけて睨むような視線を向けてくるベリレをリリオンは苦手に思っているようだった。
ベリレはそんなリリオンからふいと視線を外して、平静をよそおっているようだったが、不自然に硬い横顔には傷心があり、丸い耳は正直なものでしょんぼりとへこたれていた。自業自得とは言え、年ごろの男があからさまに異性に避けられるのは堪えるのだろう。
そんなベリレを見ながらランタンは、ふうん、と一言。
「何だ」
「いいえ、何も。――じゃあお二方、少し早いけど行きましょうか」
「ああ、そうだな」
「よろしく頼む。引き上げ屋」
「はいっ、おまかせくださいエドガー様」
貴族と英雄を降下させることに、ミシャは少しばかりの緊張を抱いているようだった。アーニェから、くれぐれも粗相のないように、とプレッシャーを掛けられているのだ。だがそれでもミシャの腕はいつも通りに抜群で、揺れのない降下を成功させた。
いつも通り。魔精の霧の中で一度止まる。視界は白一色で、貴族も英雄もことごとく霧の白さに染められている。
乳白色の霧を手探り、ランタンはリリオンの手を掴む。
握り返してくれる指の細さに緩む口元を、ランタンはきつく結んだ。
迷宮口直下。
魔精酔いを起こさなかったのはランタンとエドガーで、女二人は気持ち悪そうにしている。
黒肌のレティシアは顔色から体調を読み取ることは難しかったが、意志の強い緑瞳も今はふらついていて中心が定まらない。リリオンはいつもはいない二人の存在を少しばかり気にしていて、ランタンの足を枕にすることはなく、ぬいぐるみのように足を投げ出して座り込んでいた。
レティシアは己の意思で、そしてリリオンの口にランタンは気付け薬を押し込んで、顎を掴んで無理矢理にそれを噛み砕かせた。青白い顔に途端に生気が戻る。苦しみとはまさしく生きている証である。
「ううう、まずい……ひどい……」
「これの味は昔から変わらんのだよな」
癖になっているのか昔を懐かしんでいるのか、エドガーもなぜか気付け薬を口中で舐め溶かしている。
「不味くなかったら気付けにならないでしょう」
「美味くて驚くこともあろうよ」
「美味しかったら無駄に食べちゃうじゃないですか。あ、こら、水を一気に飲むな」
水精結晶一本を空にしそうな勢いで口をゆすぐリリオンから水筒を奪い取る。中身は半分ほども飲まれてしまっていて、ランタンは苦い顔を作った。この虫系小迷宮の攻略は最終目標を残すばかりであったが、それでも行軍中に尿意を催しかねないほどの水分補給は控えるべきだ。
今回の探索はランタンとリリオンの二人のものではないのだから。
ランタンは奪い返した水筒をレティシアへと回した。ありがとう、とレティシアは控えめに口をゆすぎ、その水の冷たさに目を丸くした。
「美味しい、いい水だな」
返された水筒からランタンも一口水を飲んで気持ちを落ち着ける。リリオンは投げ出していた足を折り畳んでぺたりと座り直して、レティシアも背筋を伸ばした。車座になった四人が、互いに確認し合うように視線を動かす。
あらかじめどのような話になるかはリリオンに告げてある。それを告げた時の少女の顔を思い出して、ランタンは地面に爪を立てる少女の手に己の手を重ねた。レテシィアの視線がそれを捉える。
まず口を開いたのはランタンだった。
「この子のことを、どこまで調べましたか」
「調べてはおらんよ。見ればわかる。ああ、そんな顔をするな、見てわかる奴はそんなにいない」
「リリオンに流れている血について、エドガー様から聞かされているのは私だけだ。だがリリララやベリレも、差別をするような性根はしていないことは判ってほしい。ただ多くに伝えるべきではないと――」
その配慮にランタンは目を伏せる。
「俺も見てわかるのは、混血であることぐらいだ。今のところは大きさも人族の範疇だしな、年の割にはちっと大きいがまあこれぐらいの大きさなら人族にもいないわけではないし」
「後学のためにお聞かせ頂けるとありがたいのですが、どう見ればそうとわかるのですか?」
ランタンが尋ねると、エドガーは困ったように髪を掻く。
「――言葉にするのは難しい。違和感、としか言えないな。巨人族には独特の雰囲気があるんだが、リリオンからは僅かにそれを感じる。まあ純巨人族を見たことある奴にしかわからんだろうし、そもそもそれを見たことある奴も少ないからな。奴らは北の果てに封じられているし、北の都市では交易もあるがそれも限られた人間しか関わってないからな」
そう聞いてもリリオンの顔は晴れなかった。それはきっとこの都市に来て初期に出会った人物が一目見て己の血統に気が付いたことに起因しているのだろう。そんなこと言うとエドガーが膝を叩いて笑った。
「グラン・グランか。そういえばここで店を構えているんだったな。あれも特殊な男だ。気にするな」
「ご存じなのですか?」
「最も優れたる名工は誰か、という問いに名が上がるほどの男を知らんほうがおかしかろうよ。実用的な武具をつくることで有名な職人だな。飾りを嫌うから貴族たちには好かれなかったが、それでもあんまりにも斬れる剣を造るものだから、先王より直々に請われて剣を打ったこともあるほどだぞ」
もっともそれで貴族よりの依頼が増え、嫌気が差して王都から離れてしまったらしい。
「全然知らなかった。凄い人だったんだ」
「職人として鍛えられたモノを見る目で、あれと同等の奴はそうはいないな。しかしそうか、この探索が終わったら一度整備を頼むか……」
「あ、お会いしたいって言ってましたよ。グランさん」
「ふ、あれが興味があるのはこれだろうよ」
「そんなことないですよ」
そう言ってエドガーは腰の長刀を撫でる。見透かされるほど有名なのか、とランタンはグランのフォローをしつつ曖昧に微笑んだ。
「だから安心しろ、リリオン」
「――うん、わかりました。おじいちゃん」
船を漕ぐみたいにこくんと頷いてリリオンはエドガーに頭を下げる。髪が頬に掛かってランタンはそれを払う。横顔にあるのは完全な安心ではないが、それでもしゃんとした顔つきになっていた。
「――だが、既にそれを知っている者もいる」
レティシアの声は硬い。リリオンに斬り込むことに罪悪感を覚えているようで、しかし躊躇はない。
「二人がある貴族に目を付けられていることは調べさせてもらった。すまない」
「いえ」
リリオンばかりではなく、ランタンの顔も硬くなる。
「今はまだ様子見を決め込んでいるようだが、あれは執念深い」
レティシアは一度大きく深呼吸を挟む。
「簡潔に言おう。手を貸してくれるのならば、我が名に掛けて二人に手出しはさせない」
「……それはネイリング家の庇護下に入れてくださると言うことでしょうか?」
「そうだ」
頷いたレティシアをランタンはじっと見つめる。
貴族による手出しを防ぐために、より格の高い貴族の庇護を得る。それは願ってもない申し出であった。そしてこの貴族の令嬢が信頼できる人物であることを、司書から言い聞かされている。
だが。
「貴女にその権限がありますか」
レティシアが信頼できても、ネイリング家がそうであるとは限らない。
ネイリング家の現当主からしてみればランタンのことなどはどこかの馬の骨ですらないし、彼女の上には兄が二人いると聞いている。ネイリング家は実力主義であるようだが、それでも生まれの早さによる順列は無視できるものではないだろう。
迷宮攻略はその人数が増えるにつれて一人あたりの利益が頭割りに少なくなっていくので、大規模探索団は滅多に組まれることはない。そして今回のレティシアの探索が金銭目当てでないことは明白である。
もしレティシアがネイリング家において大きな権限を有しているのならば、きっと今回の探索は少数精鋭ではなくネイリング家自慢の騎士団を引き連れてきているのではないかと思う。
司書からの情報が確かならばレティシアの示した探索班で、ネイリング家の人間はレティシア本人とリリララの二名だけであった。エドガーはネイリング家の食客で、ベリレはそのエドガーの従騎士である。
今回の探索はレティシアの意思であっても、それはネイリング家の意思と同意ではない、と思う。
「違いますか?」
「……よく調べたな」
「あなた方には負けます」
ランタンはリリオンの手をあやすように撫でる。リリオンの指が擽ったそうに反応して弛緩した。
「正直に言えば、今の私にそんな権限はない」
後出しとは言え隠し事をしない正直さは美点であるが、ランタンの視線は冷たくなった。だがそれでもレティシアは動揺しなかった。それは己の言葉の不誠実さを理解してなおの言葉であったからなのだろう。
「今はまだ私は無力だが、今回の探索、その成功によって私は力を得ることができる」
レティシアはただでさえ真っ直ぐに伸びた背をいっそう伸ばした。ランタンの視線を受け止めて飲み込んだ緑瞳の深さは、まるで澄んだ湖を覗き込むかのようでランタンは思わず気勢が削がれてしまった。
「今回の探索、その目的は一振りの剣だ」
初代ネイリングは謎の多い人物であったが、家譜には初代ネイリングがひたすらに強さを求める求道者であるような記述が幾つも散見される。そしてそんな彼を知るに最も際したものとして、強き子孫を求めるがあまりに竜種を娶った、という一文にその異常さは集約される。
ネイリング家には竜の血が流れている。
それは本当のことなのかもしれないし、あるいは強さに箔を付けるための嘘であるのかもしれない。けれどネイリング家の血には貴族とは思えないほどの数多くの血が混じっていることは紛れもない事実であった。
多くの貴族が純血を保ち、血を濃くすることに執着して近親婚を繰り返して衰退していく中で、ネイリング家は強者であれば奴隷であろうと嫁に取り、亜人族であったとしても愛娘の婿として迎え入れた。ネイリング家の複雑に色の混じり合った艶やかな黒肌はそういった混血の結晶であり、それでいて人族であり続けるのは初代ネイリングの血の強さの証そのものであった。
そしてその血と共に、初代ネイリングの性質も失われずに受け継がれている。
ネイリング家の当主となる者は力を示す必要があった。
それは竜系迷宮攻略すること、竜種の最終目標を討伐することによって示され、それにはまた幾つかの規定が存在する。それは攻略に対する員数の制限であり、最終目標の魔精量であり、また使用する武器がネイリング家に伝わる宝剣であることだった。
レティシアには兄が二人居り、家督を継ぐのは長兄であると父も次兄も末弟も、レティシアも、家の誰もがそう思って疑わなかった。
長兄はベリレにも引けを取らない堂々たる体躯と、幼い頃からエドガーに師事した剣の腕前と、家中の誰からも好かれる剛毅な性格を有していた。長兄付きの侍女であるリリララも、長兄の前では幾分も言葉遣いが柔らかくなるほどだった。
そんな長兄が満を持して宝剣を携えて迷宮に潜ったのはもう一年以上も昔のことで、試練が失敗に終わったことをもう家中の誰もが受け入れていた。
帰らなかったのは長兄ばかりではなく、長兄を慕い同行した騎士たちも運び屋さえもである。兄が未帰還になった際にその情報を持ち返るようにと言い聞かされていた彼らは、おそらく兄の敵討ちをするために命を投げ打ったのだとレティシアは思う。
長兄と三名の騎士と運び屋を飲み込んで迷宮は崩壊した。
長兄の死は哀しく、しばらくは泣いて過ごした。けれど死は覚悟していたことでもある。どれほどの強者であろうとも死ぬ時は死ぬ。ネイリング家ではそれを日頃から教え込まれている。諦めではなく。それでなお足掻くために。
しかし長兄の死がもたらした動揺が収まる頃に、それは起こった。
宝剣が戻らない。それはネイリング家を揺るがす大事であった。
迷宮で失われた武具の多くは永遠に日の目を見ることがなかったが、稀に魔剣妖刀の類いとなって人の手に戻ることがあった。それは時に魔物の腹の中に、あるいは人形の魔物装備として、またただ打ち捨てられたように迷宮路に転がっていることも。
ネイリング家の歴史の中で試練が失敗に終わり、宝剣が失われた記録は少なくない数が残されている。けれど宝剣が失われようとも試練は失われず、また強くあろうとする性質も失われない。家譜の中にある最初の失敗、その次に挑戦した試練で宝剣は竜の腹から見つかった。
迷宮で失われた武具が人の手に戻ることは、その失われる武具の総数を考えれば稀であると言えたが、けれど珍しいことではなかった。だが失われた武具が縁故親類の元に戻ってくることは、長い歴史の中でも数えるほどしか記録されていない。
その一例がネイリング家の宝剣であり、それは史上唯一に複数回の帰還を果たした剣であった。
宝剣は幾度失われようとも、時に姿を変えて、時に主に牙を剥くほどの強大な魔を宿してネイリングの手元へと帰ってきた。
剣に認められることこそが、いつしかネイリング家の強さの証となった。
形を変えようとも不変である剣の本質、そして隷属にも似た帰還。
その剣は名を万物流転という。
その宝剣が失われて未だに戻らない。
ネイリング家の直系も傍系も、方々の迷宮へと探索に赴いたのだが、手がかりすら見つからない。
レティシアは拳を握る。指先が掌を突き破らんとばかりに爪が食い込んで、じんじんとした痛みが走っても指を解くことができなかった。そっと肩に触れるエドガーの心遣いさえも、有り難さと煩わしさが同時にあるようでレティシアは情けなさに唇を噛んだ。
胸につかえた息を吐こうとしても、喉奥に引っ掛かって止まってしまう。唇を解いて、無理矢理吐き出すとそれは惨めなほどに震えた。どうにか息を吸うとしゃくり上げるような響きを伴って、レティシアは泣きそうになっている己に気が付いた。
泣き虫なやつめ、と兄の言葉が蘇る。
「私は取り返したい」
ただ一つ闇の中にともされた灯り。
それに縋るしかない己の無力さが恥ずかしく、だがどれほどの恥知らずとなっても再び、この手に。
レティシアはランタンを見つめる。幼いこの少年たちを死地となりうる迷宮へと誘う己を殺してやりたい。レティシアは背筋を伸ばし、固めた拳をいっそう硬く、そして地面に押しつけた。
「お願いします。力を、貸してください」
地に擦りつけんばかりに頭を下げると、滴が二つ染みを作る。
だが涙を拭ってくれた兄はどこにも居ない。
薔薇色の髪を結い上げて露わになった項は粟立ち、後れ毛が震えている。
重ねたリリオンの手が引き抜かれて、ランタンの手に覆い被さった。細い指がランタンの指に絡められて、視線を向けると少女の淡褐色の瞳には昏い色があった。それに見つめられてランタンの心臓が、痛みを伴って一つ跳ねる。
「ランタン、わたし手伝ってあげたい」
少女の声は甘く高い。
だがそこには聞き慣れぬ大人びた苦い響きがあり、ランタンはリリオンの瞳から目を逸らすことができない。そこにある意思は硬く、絡む指先に伝わる体温は低い。黙って見つめ合い、視線を逸らしたのはリリオンだった。
ふいと逸らされた視線を追ってランタンはレティシアへと視線を戻す。レティシアはまだ頭を下げていた。
「レティシアさんは、お兄さまのこと大切だったのね」
レティシアははっと顔を上げて、そこには濡れた睫毛と瞳があった。声はなく、頷きもしない。しかしその問いかけは愚問であると緑瞳が語る。
リリオンは目を細めて頷いた。微笑みのようにも、しかし泣きそうな表情にも見える。
「わたしも、ママからもらったもの、みんななくしちゃったから。レティシアさんの気持ち、わかるよ」
声は震える。高く掠れる。
けれどリリオンは泣かない。
ランタンは少女の頭を優しく撫でて、それは少女のママほど上手くはないのかもしれないけれど、小さな頭をそっと胸にたぐる。白銀の髪を巻き込んで首筋を抱き寄せ、背中をあやす。
ランタンはリリオンのことを知らない。どれほど少女に踏み込んでいいかわからないからだ。大切なのは今で、それでいいのだと思っていた。だが自分がそうであるように、少女も過去に追い立てられることがきっとあるのだと、今更ながらに強く気付かされた。
ランタンはレティシアに力強く頷いて、力を貸すことを約束する。
リリオンのことをランタンは知らない。
けれどこの子を守るための力を得る。
そのためにできることは何でもしようと、そう思う。




