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カボチャ頭のランタン  作者: mm
04.Value Of Life
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 老人は今から五十年以上も昔に初めて迷宮に降りた。

 十六歳の老人は老人ではなく少年で、熱意はあったが戦闘技術もへったくれもなかったので、取り敢えずは厚みと重みのある頑丈な短刀一つを帯びるだけで運び屋となった。運び屋の刃は自刃用のものであったが、その短刀は技術はなくとも厚みと重みで魔物に一矢報いるだけの力を秘めていた。

 隠すようにして持ち込んだその短刀が、その実、多くの運び屋が同じような短刀を選ぶことを知ったのはそれから数ヶ月も後のことだ。誰だって死にたくはないし、追い詰められる前から諦めるようなことはしない。その抵抗が、壮絶なる死に様を引き寄せることも多いようであったが。

 運び屋として荷牽き奴隷のように雇い主である探索班の後ろを歩く。優しかった探索者もいたし、そうでない探索者もいた。

 ただ優しくとも優しくなくとも荷車は死ぬほど重たいことには変わりはなかった。

 四点方式に結びつけられたロープは迷宮口直下に己を引き止めようとする亡者の手のようである。行ったら死ぬぞ、進んだら帰れないぞ、と爪を立てて身体を後ろに引っ張られた。だが老人はそれを無視して進んだ。

 一歩進むごとに骨が軋み、少なくとも予算の大半をつぎ込んだ上等な靴の中で足裏の皮膚はあっという間に肉刺を作りそして潰れた。一度目の休憩が訪れる前に体内の水分が全て汗になって流れ出たかと思うほどに汗を拭き、痛みに呻き声を上げると容赦なく怒鳴られた。

 その呻き声が魔物を呼ぶとも限らない。

 疲労が重なるほどに呻き声を上げる余裕もなくなったが、やはり怒鳴られる。先へ進むほどに荷車は重たくなって探索班の歩調について行かれなくなった。

 疲れたから重たく感じるのではなく、実際にそれは重量を増した。殺した魔物から得た魔精結晶はそれほどの重量ではないが、毛や鱗ごと剥いだ皮は見た目以上の重量で、もっと幼い日に遠目に見た貴族が首に巻いていた毛皮の襟巻きはもしかしたらお洒落ではなく鍛錬のためのものなのではないかと、その重みに現実逃避したことも覚えている。

 怒鳴られ殴られ慰められて、その探索班に一人欠員が出たのは半年後。

 その時の補充は他の探索班からの引き抜きで、失ったのが頑強な前衛剣士だったのが災いした。老人は荷牽きによって鍛えられたがまだ体付きは細く、熱意と真面目さを持っていても人員補充の決定権を持つ指揮者の眼鏡には適わなかった。

 結局老人が探索者になったのはそれからさらに一年後のことであった。その時は最終目標戦で二人死んで、二人の首を地上まで運んだのが老人だった。教会に祈りを捧げてもらい埋葬し、酒を飲んで、厄落としとばかりに娼館へと連れて行かれたその帰りに死んだ探索者の剣を渡された。

 刃渡りは一メートルと二十センチ。片刃で、身幅は細く、鍔はない。柄は握り一つ分の鮫革巻。柄頭に魔物の血で染めた青黒い飾り紐が揺れていた。それは魔物の敵意を引くための、前衛職御用達の呪いのお守りである。

 振ってみろ、と言われたので剣を振った。

 べろべろに酔っ払った指先は冷たく、娼婦の手管に幾度も果てた身体は重たかった。

 だが剣は空を斬った。音も無く。

 上段から左に切り落とし、角度を変えて右に切り上げる。右から左に真横に切って、左から右下に。そして右下から左に切り上げて止まったその鋒は、最初に構えた上段に収まっている。

 描いたのは五芒星で、それは意識してのことではなかった。

 剣に、あるいは死んだ探索者に振らされたと思った。

 一つ足らんがまあいいか、と言ったのは誰か。指揮者以外はその場にいないのに、記憶は曖昧である。

 次の探索から前衛を任された。欠員補充は二人で、一人は己、もう一人は己の代わりの運び屋だった。

 つまりは二人分の働きを要求されて、それをこなした。形見と呼ぶべきその剣を失ったのはいつのことだったか。忙殺と呼ぶにふさわしい迷宮攻略の記憶はあれど、その仔細を思い出すことは難しい。

 覚えているのは二十の時に自らの探索班を興したということと、その時には既に剣を失っていたという事実である。

 十八からの二年間、老人は少しだけ有名になった。二人分働けと言外に命令した指揮者を忙しすぎてぶっ殺してやろうと思ったことは何度もあり、その度に忙しすぎて思うだけで未遂に終わった。けれどどれだけ忙しくても売られた喧嘩は全て買ったし、迷宮に降りて最終目標に止めを刺すのは己の役割で、歓楽街では羽目を外して出入り禁止になった娼館が幾つもあった。

 老人は新鋭の探索者としてそれなりに有名になり、だから所属していた探索班を抜けた。探索班への勧誘も断って自らの探索班を作った。

 老人は指揮者を最後までぶっ殺さなかったし、指揮者は一緒に酒を飲みに行けば奢ってくれたし、娼館の代金だって気が付けば支払いが済んでいたし、老人を引き止めなかったどころか餞別をくれた。

 指揮者は老人が探索班を抜けて三年と立たずに未帰還となったが、老人は結局その指揮者を超えることはできなかったのではないかと未だに考えることがある。

 十八才で探索者となった。そして五十と一年の年月が過ぎ去った。

 老人は今、英雄と呼ばれることもあったがそれでもあの指揮者の背中を追っているような気がする。

 二十七才の探索者は名をエドガー・バックホルツといった。

 竜を殺したことにより王陛下から貴族位と名を賜り、今はエドガー・アクトゥス・バックホルツという。




 探索者ギルド総長とは旧知の仲で、よろしく頼む、と言われた。

 エドガーはよろしく頼むと言われてもなあと思ったのだが、この総長は一介の探索者であった頃から何かにつけて鬱陶しい男であり、思ったことを口に出せばなぜそう思ったのか自分が納得するまで相手に語らせるようなところがあるので適当に頷いておいた。

 老人同士の会話などは何も面白くはない。やれ身体が痛いだの、どこそこが悪いなど、あいつが死んだだのという会話になる。全く以て建設的ではない。それに比べて若者の会話はどうだ。下らぬ事を大事のように語り、関心事は自己のことで、百の言葉を交えてそれに意味を持たないことすらある。己にもそんな時期があったのだろうが、若者の会話を見聞きするのをエドガーは年老いて好むようになった。

 引き止めようする総長との会話を切り上げて念を押された、よろしく頼む、に無責任に頷く。

 探索者ギルドの裏口から出されて、用意された馬車を断った。どの都市でも探索者はやはり荒れているものだなと通り過ぎざる後輩たちを観察し、その途中で狂乱して駆け抜ける亜人族の群れを見て眉を顰めた。この都市は特に酷いのかもしれない。

 そして彼らがやって来た方から仲間の気配を感じて苦笑を漏らす。狂乱の道標を辿って、蹴破られて打ち捨てられた扉が一つ。

 開放された入り口からは子猫の髭が覗いていた。

 それはまさしく子猫のような警戒心だ。風音一つに反応して身を翻す臆病さが店の外まで髭を伸ばして周囲を探っている。安易に近付けば驚かしてしまうかもしれない、と思うと、こっそり近付いて脅かしてやろうという稚気がむくむくと湧いてきた。

 取り敢えず気配を消して、微かに残る狂乱の残滓に身を溶かす。影と日向の間を進み、ぴくぴく動く髭の隙間をすり抜ける。

 失われた扉の向こう側から怒鳴り声が聞こえてきて、それはエドガーの従騎士であるベリレの声である。貴族位を所持しているものの領地を持たぬエドガーはネイリング家の食客であり、そんな己を尋ねてベリレがやって来たのはまだ彼が小さく子熊であった頃だ。

 ちょうど良い。大熊もかくやという彼の体躯はエドガーを三人隠せるほどであり、声に乗って放射される怒気は隠れ蓑にするには充分な迫力を伴っている。それにしても誰にも気が付かれていないところを見ると己の隠行もなかなか捨てたものではないと、エドガーは笑う。

「見事」

 店内に踏み込み、声を発すると同時に子猫の髭をぴんと弾いた。

 その瞬間、子猫の髭だと思っていたものが、虎の尾だと思わされた。

 レティシア、ベリレ、リリララがエドガーを振り返る。犬人族の探索者三名が大きく目を見開いた。

 探索者ランタンはその瞬間、探索者リリオンを抱き寄せるとカウンターの奥へと身を翻らせた。エドガーへ打剣を投げつけながら。

 己に向かって来る高速の飛翔体をエドガーは一纏めに掴み取り、その威力に感心をした。

 細く軽い打剣に充分な重さが乗っている。虎は小さかったが牙は鋭い。放たれた打剣は牽制ではない。魔物相手では小型のものしか相手にできないような打剣であったが、人相手には殺傷するに充分だ。

 多少狙いは荒かったが、常人相手ならばどこに当たっても致命傷だろう。結構短気だな、とエドガーは己の仕打ちを棚に上げて思う。

 投擲を目撃した者はいない。全ての視線がエドガーに引き寄せられているためにランタンの手からそれが放たれた瞬間は誰にも見つからなかったし、打剣を掴んだエドガーの手際は神速と言って差し支えなかった。とは言え手中の打剣を消失させることは流石にできない。

 これを見たらばベリレがまた鬱陶しいでの、エドガーは打剣をそっと袖の内に隠した。

 表情はあくまでも穏やかで、ランタン以外はランタンの跳躍に驚いているばかりであった。

「それこそまさしく探索者のあるべき姿」

 カウンターの奥に隠れるランタンに向ける言葉としては、それはこの上ない皮肉のようであったが、その言葉は偽らざる本音であった。迷宮に潜り、魔物を打倒してこそ探索者である。

 若い内は様々なものに目を向けろと言われることもあるが、現在の高位探索者、その中の更に上位層は脇目も振らずに探索に明け暮れた果てにのみ辿り着ける高みであった。

 ランタンはカウンターから顔を半分出して、こちらを覗いている。近くで見ると本当に子供であると思う。肌の質感は幼い張りを持っていて柔らかそうで、エドガーは思わず瞬きを零した。

 虎であると思ったのだが、やはり子猫なのかもしれない。

 ランタン当人の慌ただしい心情は目に透けていたが、子猫が一丁前に大猫を守っているのが微笑ましくエドガーは頬を緩める。ランタンはリリオンをカウンターの下に抱き隠していて、差し違えんばかりの心構えであった。甘い顔立ちとは裏腹に、男であることに相異ない。

 ならこれでは、とランタンに圧を掛けてみたが少年は逃げ出さなかったし、向かってもこない。力でもって戦闘を進めるタイプかと思っていたが、なかなかどうして冷静であった。怯えて足が動かないわけではないのだろう。

 ランタンは手首から先を動かして、肉の動きも最小限に戦鎚に指を掛けている。睨む顔つきの奥に、きっちりと怯えを隠していた。集中した顔つきが仮面のように張り付いていた。

 しかし赤く色を変えた虹彩はランタンの制御の埒外であるようだ。

 虹彩の色が変わる。焦げ茶色の落ち着いた色から、燃えるような真紅。聞いた話では橙色だと聞いたが、ただそれは緩やかに変遷する色の移り変わりの一つなのだろう。

 虹彩色の変化は、通常の人族には見られない特性である。

 極一部の亜人族と極々一部の魔道使いは感情や魔精が昂ぶった時に虹彩色を変化させるが、ランタンはその一部には当てはまらない。

 あとは魔物ぐらいのものだが、このランタンという少年は探索者ギルド医務局の常連であり、治療のついでに頭の先から爪先までの全ての情報を秘密裏に調べられている。魔精の親和性はすこぶる高いようだが人であると判断されている。流石に医務局の目は誤魔化すことは出来ないだろう。出生がギルドの情報網を持ってしても不明なので、もしかしたら我々の知らぬ未開の地から来たのかもしれない。

「エドガー様、御用事は」

「つまらんから切り上げてきた。――さて、ランタンだったか。驚かして悪かったな」

 瞳の色が薄れていく。赤。橙。赤茶。そして焦げ茶色へと、色を薄めた。それは炎の温度がゆっくりと下がり、消えていくのに似ている。それに合わせて警戒心が薄れていくのが判った。けれどランタンは目蓋を大きく持ち上げたまま、じっとエドガーを見つめ、その視線が足元へと。

 ランタンの足元、カウンターの影からひょっこりと顔を出したのは少女である。銀糸の髪に白い肌。形の良い目が大きくて、そこにはいっぱいの好奇心が詰め込まれていた。視線が合うと、唇を開く。

「竜殺しの英雄さま?」

「そう呼ばれることも、まあ、あるな」

 濃く長い睫毛に縁取られた淡褐色の瞳がぱっと輝いて、容姿だけで言えば少女はランタンよりもずっと大人びて見えたが、その瞳に宿る無垢さは幼生特有のものであった。カウンターに手を突いてばっと立ち上がると、よく隠れていたなと思わせるほどのすらりとした長身が露わになった。

 なるほどこれは、と思う。たまたま身体的な成長が早熟だった人族ではない。半分か、四分の一、あるいはもっと薄くか。だが確かに血が混じっている。身に纏う幼さは長命種ゆえの精神的な成長の緩やかさが関わっているのかもしれない。

「――わ、おじいちゃんだわ」

 少女の唇から、ぽろりと溢れた言葉にエドガーは久しぶりに虚を突かれた。こんな風に純粋な驚きに支配されたことは少し思い出せない。それはランタンがその気になったのなら、命を取られていたかもしれないほどの隙であるが、ランタンも驚愕の目付きで少女を見つめていた。

「なっ、お前! 無礼な!」

 反射的に激発するベリレを軽く小突いて制し、エドガーは声に出して笑った。ベリレはこめかみを押さえながらぎょっとしてエドガーを見つめる。ベリレばかりではない。レティシアもリリララも、呵々と笑ったエドガーを驚きを持って見つめている。

 英雄、大探索者、竜殺し、などとエドガーへの呼称は数あれど、おじいちゃん、という甘い響きは初めてであった。若い日の行いを顧みれば落胤の一人や二人はいるかもしれないが、正式には妻子を持たぬエドガーにとっておじいちゃんという響きはこの上なく新鮮であった。

 どこに感動があるかはわからないものだ。

「だってお話の中の英雄さまは――」

「おじいちゃんでかまわんよ」

 竜殺しの御伽噺、そこで活躍する英雄さまは二十七才で、今からは四十二年も昔の話である。当時は赤金だった髪色も今では色が抜けて氷を削ったような白であるし、全身に漲っていた生気が抜けるに任せて身体は萎んだ。魔精による保若も永遠の若さを保つことは出来ず、老いは身体を蝕む病魔の如く皮膚に皺を刻む。

 目を細めると眦の皮膚が重なるのが知覚できる。

 ランタンがようやくカウンターの奥から姿を現した。リリオンの身体を一撫でして、まるでその物怖じのしなさに(あやか)るように、そしてこつこつと靴音を鳴らして歩いてきた。その後ろをリリオンがちょこちょこと付いてくる。少年に歩幅を合わせていて、少しばかり窮屈そうだ。

 ランタンはエドガーに近づくと顔を持ち上げた。彫りの浅い顔立ち。男臭さは全くないが、さりとて女のようでもない。ただ幼い、童顔である。だがその目だけがはっきりとした知性を感じさせて、そこだけが大人びている。

 声の固さは、それがつまりリリオンとの年齢差である。

 とは言えエドガーからしてみればそんなものは誤差でしかない。ランタンもリリオンも子供で、ただ純粋な無垢さも可愛らしいが、身の丈に合わぬ背伸びも同様に愛でるべきものだった。

「初めまして、エドガーさま」

「……」

「おじいさま」

「くくく、ああ、初めましてランタン」

 返事を返さなかったのはそう呼ばれたかったわけではなかったが、やはり子供は面白い。考え無しの行動も、色々と考えすぎての行動も、それは何とも突拍子がなくて実に良い。

「おじいさまは、ご高名な方なのですね」

「気が付けばそうだな」

 ランタンに小さく頷いた。そしてレティシアに面を向ける。横顔。髪から覗く耳が青白い。

「ネイリングさま。貴女はおじいさまのお名前によって、僕が首を縦に振るだろうと思われた。間違いはありませんか?」

「ああ」

「――申し訳ありませんが、僕はおじいさまのことを存じ上げません」

 ランタンがベリレを振り返る。知らぬ事を侮辱と捉えたベリレが口を開き掛けたが、見つめられて反射的に言葉を飲み込む。その顔にランタンは眼差しを伏せた。

「無知でごめんなさい。でも侮辱をしているわけではなく。知る機会が本当になかったんです」

 知らぬ事を恥じているのが、見ていて理解できた。そしてそれを口に出すことに恐れを抱いていることも。末端の青白さはそのせいで、この少年にとって物を知らぬと言うことは悪であるらしい。

「ですがおじいさまの武勇の一端を身を以て実感させて頂きました」

 そう言ってランタンはエドガーにぐいっと手を差し出した。手は小さいが、指がすっと長いのでそう感じさせない。爪が丸く整えられていて、掌を上に向けるとそれを見ることは出来ない。掌は白く、肉刺がない。皮膚も厚くなっていない。およそ探索者の手ではない。

 その仕草はまるで小遣いをせびる子供のようで、エドガーは苦笑を零しながらその掌に打剣を返してやった。

 いつの間に、と呟いたのは大理石(マール)模様の犬頭で、それ以外の者たちには全く以て意味不明のやり取りだった。ランタンはそんな視線も何処吹く風で、ご無礼を働きました、と打剣を外套の内側にしまった。

 眉がハの字になっている。言いたくない言葉があり、けれどそれを言わなければならないというような。少年にはそれを言う権利があり、それに申し訳の無さを覚える必要はない。

 臆病さ。思慮深さ。優しさ。そして同時に容赦なく打剣を投げ打つ苛烈さや、無鉄砲さを併せ持っている。

 レティシアが苦しそうに息を飲んで、ランタンへと手を伸ばした。

「一緒に来ては、くれないか?」

 ランタンは困ったように口を結んで、表情を俯かせた。




 英雄、エドガーなんとかかんとか。ランタンは驚きに支配されて、ついさっき聞いた名前が思い出せない。

 老人は外套の下には曇銀の軽鎧を身に纏い、それに身を包んだ身体付きは鍛え上げられていたが老いによる痩せ方が始まっているようだった。腰の左右に二振ずつ、白鞘に収められた刀を差し、それはまるで長い尾羽のようだ。

 白髪の痩躯。脂の抜けた真白い髪を真ん中で分けて、頭部をぐるりと囲む細い銀輪で押さえている。露わな額から顔面を走る切傷があり、右耳が失われていて精巧な造りの義耳へと置き換わっている。顔の傷は相当古いらしく、肉の陥没や皮膚の褪色は浅く薄れている。

 怖い、と思ったのはその傷跡のためではない。

 警戒はしていたが、その存在がいつ入店したのか全く気が付かなかった。英雄とは思えぬ気配の稀薄さは、けれどそれを現した瞬間に店内を覆い尽くすかのようだった。殺意ですらない。敵意ですらない。老人はただ隠していた気配を現しただけであった。

 たったそれだけで、濃密な存在感に息が詰まった。酒場が一瞬にて海の底へと変質したようで、それは溺れた者が空気を求めて暴れるのに似ている。

 瞬間跳躍したのは本能であり、打剣を投げ打ったのは自覚すらできない反射行動だった。そのため老人の手に見覚えのある打剣を見つけた瞬間に、懐から抜き取られたのだと思った。

 そのことが少しだけ冷静さをランタンに与えた。英雄のくせに手癖悪いな、と呆れ、そして指先にこびり付く投擲の残滓に気が付いて反省する。自分が投げていたとようやく気が付いた。

 痙攣する横隔膜の痛みに、浅く長く呼吸する。

 息苦しさすらある重圧の根源。それはレティシアの持つ貴族の血筋だとかそういった類いのものではない。おそらく戦歴。流した血の量、積み上げた死体の数、身に纏った怨嗟と呪いのような死の気配。

 圧倒的強者を目の前にして、ランタンは怯えたのである。思考の一切が戦闘のためのものへと置き換わっていく。

 そんなランタンを余所に、床に引き倒したリリオンがもぞもぞと身体を起こした。止める間もなくカウンターから顔を覗かせてリリオンはこの鬼よりも恐ろしい老人を、おじいちゃん、と呼んだ。その瞬間に、重圧が霧散した。

 鬼かと思った老人は本当に老人になった。

 顔の傷さえもが笑い皺へと形を変えて、すごいなこの子、とランタンは思わずリリオンを仰ぎ見る。恐怖はあっという間にリリオンへの賞賛に塗りつぶされた。

 ランタンは行くか逃げるかという中途半端な中腰をすくっと伸ばして、戦鎚に掛けた手は結局それを握らず、掌に浮いた汗をズボンで拭った。カウンターから姿を晒して、取り敢えず打剣を返してもらう。そして改めてお誘いにお断りを告げた。

 その結果、レティシアの顔が近い。

 黒やいっそ紫とも思えるほどの濃い色の肌は、触れるほどの距離で見ても破綻なくきめ細かい。濡れるようなる艶がある。鼻筋や唇もすっとしていて形良く、切れ上がって凜々しい目が大きく見開かれている。

 なぜだ、と肩を掴む女の指先、その爪を指の腹で撫でる。

「ちょっと痛い、かな?」

 ランタンが小さく伝えると、レティシアは今更ながら掴みかかった肩の細さに驚いたように慌てて放した。

「すまない、だが……」

 レティシアが謝罪を呟き、言葉を続けようとするとそれまで黙っていたジャックが言葉を挟んだ。

「まあ待て。たぶんこのままだと堂々巡りだ。そっちの二人も、あんまりこいつを睨むな。そういう態度はこれの思うつぼだ」

「……思うつぼって、ひどいな」

 ジャックはランタンの言葉を無視して、取り敢えず全員を座らせると店の奥から酒を持ってきた。皆には麦酒で、ランタンには度の薄い果実酒を更に加水したものだった。じゃあ乾杯、と有無を言わさずそれに口を付けると、何だか笑ってしまいたくなるような間抜けな沈黙が。

「第三者として、色々疑問がある」

 レティシアは訝しげにジャックを見つめる。

「ネイリングとは、王都の守護者であるあのネイリング家か」

「そうだ」

「ならば探索の戦力が足りないと言うことはないだろう。ネイリング家の所有する騎士団の精強さは有名だし、エドガーさまが声を掛ければ、こいつみたいな変態以外はどんな高位探索者だって選り取り見取りだろう」

「変態ではないですけど」

 ランタンは手を伸ばしてジャックの尾の先を指で撫でようとして、結局その指先でリリオンの髪を巻いた。

 ジャックが間に立ってくれたのは、おそらくランタンのためであった。くるくると毛先を巻くランタンと、それをくすぐったがるリリオンにレティシアの目が穏やかになった。

「これでなければならない理由があるのか」

「ある。そういう、……託宣がなされたのだ」

 その言葉に髪を巻く指の動きが止まった。ゆるりとレティシアに目を向ける。

「託宣って、要はお告げだとかそういうのですか?」

 頷くレティシアに、ランタンは少しばかりカチンときた。

「それはつまり僕らは戦力として必要されていないってことですか? 幸運のお守りが欲しいのなら教会で祝福された阿呆みたいに高価なお札や首飾りをお求めになったらどうですか。お金がないんなら買ってさし上げましょうか?」

 ぺしんとジャックに頭を叩かれた。

「言葉が過ぎる。人には人の事情がある。言い過ぎだ」

 自覚があるので拗ねてジャックを見上げるランタンに、エドガーが語りかけた。

「二人のことは評価しているよ。戦力に値するから頼んでいる。使い物にならなそうなら、荷台にふん縛って迷宮に連れて行くさ。その方が手間がなくて楽だからな。邪魔にもならんし」

「つまり拒否を続ければそうなると」

「くくく、そんなことはせんよ。縛ったくらいじゃ止まらないだろう」

 意味深に目を細めるエドガーに、ランタンは睨み返した。背中にはどっと冷や汗を掻いていたが。

「英雄を睨むな。貴族を睨むな。――それでランタンはなぜ供をするのが嫌なんだ。攻略途中というのもあるだろうが、終わってからでも嫌なのか」

「嫌って言うか、理由は色々」

「それでは伝わらん。ちゃんと言葉にしろ」

 ジャックが呆れたようにランタンの頭をぐりぐりと押さえつけて掻き回してきた。こんがらがる思考を、まるで不器用ながらにも解してくれているようだった。

「一つ、危険度が判らない。僕一人ならまだしも、この子も連れて行くのに軽々しくは頷けない。二つ、人となりが判らない。知らない人と迷宮に行くのは嫌。三つ、知らない人と戦うのもあんまり好きじゃない」

 人見知りかよ、とリリララが呆れたように呟く。

「俺とはやっただろ」

「知ってる人ですもの」

「じゃあ姉ちゃんとはどうなんだよ」

 ランタンは一瞬言葉を詰まらせて、口の中で言葉を組み上げる。

「あれは僕が困っていたところを助けて頂いたので、今回の場合とは事情が……」

 言葉尻が完全に言語化される前に、レティシアが口を挟んだ。

「私たちがランタンに何をしてあげられるか、と言うことか?」

「別にそう言うわけでは」

「いや、頼み事をするのだ。相応の対価は支払わなければならない。しかし、君は――」

 少なくとも金では動かない。情に訴えて心を動かされても、最後の最後は頑なだ。

 かつん、とエドガーの指先がテーブルを叩いた。

「利はある」

 そしてランタンを招いて、耳元に口を寄せた。

 リリオンの血のことだ、と老人は囁く。

「がここでは言わない方がいいだろう。何処に耳があるかわからんからな。我々の目的にしても。そこでだ。二つ目と三つ目を我慢してもらいたい」

 冷たい顔でランタンは老人を見つめる。老人はそんなランタンに対して穏やかな視線で答えた。

「まずその探索途中の迷宮攻略に参加させてもらいたい。迷宮なら人目を気にする必要はないからな」

 にっと笑った老人に、ランタンは頷くしかなかった。


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