078
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「あたしをどう見ればお嬢様に見えんだよ」
兎女はあからさまに苛立ったように視線をきつくしてランタンに向かって吐き捨てた。
ランタンは刺し殺さんばかりの視線もどこ吹く風で、もちろん兎女がお嬢様ではないことを判っていたが、驚きを誤魔化すような曖昧な笑みを口元に浮かべる。
兎女はお嬢様ではないのだろうが、意識せぬ動きが洗練されているように思えた。
垂れ耳とはまた違う、後ろに倒れる兎の耳が苛立ちを反映して小さく震える。色の薄い茶色の短髪。眉間の皺と擦れたような目尻の鋭さ。鼻のそばかすや、左の口角の釣り上がるひねた唇。言葉遣いは路地裏でたむろする不良少女のようにわかりやすく荒く、舌打ちは堂に入っている。
それは演技かもしれないし、そうでないかもしれない。
兎女はどこをどう見てもお嬢様と呼ばれる類いの人間ではなかったが、やろうと思えばお嬢様にもなれるだろうと思う。
ランタンは視線を兎女の背後へと向けた。ランタンの瞳に映る巨大な影に、兎女がはっとして振り返った。
彼が扉をくぐったのはいつだったのだろうか。
腕相撲が終わり、飲み会が暴走し、兎女が喧嘩を売ってきて。
ダメだな、とランタンは思う。ジャックたちの馴染みの店とは言え、慣れぬ場所で意識を弛ませた。
意図的に意識の間隙を狙ったのか、それとも偶然か。どちらにしろ良いことではない。それがいつから店内にあったのかランタンは判らない。
「ベリレ、てめえ何しに」
「何、だと?」
兎女が振り返った先。現れた影は、一歩踏み出すだけで床が軋むような巨漢であった。兎女にベリレと呼ばれたその男は大きな口をはっきりと歪めた。
「お前なんかがお嬢様なんかに見えるわけがないだろ。つまらん言葉遊びに付き合うんじゃない」
低い声。それは意識せぬ若々しい張りがありつつも、やや堅苦しい低音だった。
輪郭のがっしりした顔立ちは無骨ではなく凜々しさを感じさせる。濃い土色の髪はさっぱりと短く、眉も濃くて、彫りが深い。大人びた顔立ちをしているが、声の雰囲気を思い出し二十にも満たないのではないかと当たりを付ける。
「そんな言い方は酷いと思うな」
ランタンが言うとベリレはじろりと視線を向けた。ただの眼球運動に全身の筋肉が連動した。
ベリレの二メートルを超える長身は平均身長の高い探索者業界の中にあっても大柄である。がっちりした骨格を兼ね備えたその長身に、積み込めるだけ筋肉を積み込みましたというような立派な体躯はランタンとの対比でより巨大に見える。成り行きを見守る探索者がその対比に酒と笑い声を吹き出した。
「女の子に対して」
ランタンがそう言うとベリレだけではなく、兎女にも睨まれた。お嬢様に見えますよ、とランタンが真顔で言うとベリレが、どこがだ、と呟く。兎女はランタンを睨んだり、ベリレを睨んだりと忙しく視線を動かした。
ベリレの背中から肩の筋肉の盛り上がりは著しく、肩は丸く撫で肩である。それはまるで熊のような、とランタンはベリレの頭上へと視線を移した。
「それともあなたがお嬢様でしたか?」
「――自分のどこを見ればそう思えるんだ」
「丸くて可愛いお耳ですね。触らせてもらってもいいですか?」
伏せることもなく兎女が大きく笑って、ベリレは隠すようにして己の耳に触れた。
ベリレの頭上には半円状の、髪と同色の短い毛に覆われた耳がある。それはまさしく熊の耳で、ベリレは紛うことなく熊人族であった。耳でしかそうと判断付かぬ血の薄い亜人であるが、彼は毛皮に身を包まれていなくともまさしく熊である。
ランタンの言葉にベリレはさっと顔を赤くして、言葉も出ないようで喘ぐように口を動かす。深い彫りの奥にある目は黒目がちで怒りに歪めていてもランタンが感じたのは愛嬌であった。
「いいじゃねえか触らせてやれよ。そんで似合ってねえそいつを千切ってもらえ。そんならてめえのクソみてえな男っぷりが少しは上がるぜ。やったな!」
「う、うるさい!」
苛立ち一転、兎女は完全にランタンに背を向けて生き生きとベリレをからかい始めた。
兎女の後頭部。短髪なので兎女の頭部が形の良い卵形をしているのがよく判った。
こんな綺麗な頭から、よくもまあこれほど口汚い言葉を吐き出せるものだとランタンは呆れながらも感心した。兎女の操る言葉には、ランタンの語彙にはない言葉も言い回しも多数含まれていたが、だが周囲の反応を見る限り相当に碌でもない言葉なのだろうというのは理解できた。
「ねえねえ、ランタン。今の、どういう……?」
「リリオンは知らなくてよろしい。ああいった言葉遣いは真似したらダメだよ」
「――わかった。あとランタンはわたしの耳にさわればいいのよ」
リリオンは自分の耳の先をぴんぴんと引っ張った。耳たぶが小さく、先の細い耳は綺麗だがそれほど触り心地が良さそうには思えない。
「それが僕へのお願い?」
ランタンが手を伸ばすと、少女は慌てて塞ぐようにして耳を隠した。
「ランタンがさわりたかったらいつでもさわってね、っていうだけよ。せっかくのお願いはもっと考えるの」
「ああそう、ほどほどのを頼むよ」
「うん」
兎女とベリレの言い争いが見世物となって人を呼び、けれどジャックたちも他の探索者も事の成り行きを尋ねようとはしなかった。探索者の人間関係はなかなか難しいもので、不躾にあっさりと深いところに踏み込んできたかと思うと、何でもないような所で配慮を見せることもあった。
おそらくそこにある面倒くささを感じ取ったのだろう。ジャックたちはランタンに声を掛けはしないが、三人で酒を飲みながら推測を立てていた。混ぜて欲しいな、とランタンは思うが、視線を床に落とすだけで口には出さない。
ベリレの影は大きく広がっている。その影が布に墨を落としたようにじわりと広がった。
「喧嘩するほど仲が良いのはよく判りましたので、――」
ベリレの巨躯、その背後に人が居る。ベリレが縦にも横にも大きいものだから、人一人がすっぽりと覆い隠されていた。それはベリレと同じタイミングで入ってきて、言い争いが始まってしまったものだから出てくるタイミングを逸してしまった。
ベリレの背から姿を現そうかどうかと、前後に揺れる人影が何とも哀愁を誘った。ランタンはいい加減に言い争いを聞くのも飽きてきたところだし、リリオンの情操教育にも悪いので口を挟む。
「――言葉遊びはそれぐらいにしてくれません?」
周囲は無責任に状況を煽って、ベリレは今にも背の長尺棍に手を伸ばさんばかりになっている。どの口がそんなことを言うのかという視線も無視してランタンは冷淡な声で諫めた。
言い争う二人が、言い返したくとも言い返せずに喉を詰まらせる。そして影から一人の女が。
ああまさにこの女が、と思う。
「私の仲間が失礼をした。ベリレもリリララも下がっていろ」
美しい女だった。
ベリレの影にあっては稀薄だった存在感が、今では目が奪われるほどにはっきりと感じられた。それはまるで影に咲くかのように。
黒曜石を思わせる艶やかな黒い肌。虹彩の緑は宝石のように鮮やかである。凜とした声。頷くような小さな謝罪に、女の髪が柔らかそうに揺れる。枯れていっそうに色を濃くした薔薇色の髪。
「リリララ、ありがとう。ご苦労だった。彼の言うとおり、頼みは自分の口で言うべきなのだろう」
「でもこいつ性格悪いっすよ」
「……少し黙っていろ」
「あいさ」
伏せられた睫毛。髪と同じ色だが、虹彩の緑と相まって赤が鮮やかだ。
女が一歩前に出た。背筋がすっと伸びていて、顔が小さい。実際よりも身長を高く見せるすらりとした体型は、けれどリリオンで見慣れているランタンには多少の面白くなさを感じさせるだけだった。身長は百七十後半ぐらいだろうか。
「私はレティシア・オリーリー・ネイリング。きみが探索者ランタンで間違いはないだろうか?」
椅子に座ったままのランタンへと視線を合わせるために、レティシアは幼子に視線を合わせるように腰を屈めた。
「どうして僕がランタンだと?」
ふ、と笑ったと息が触れた。蜜柑の匂い。
「一目見ればわかるさ」
「なぜ?」
レティシアは白い歯を零す。
「人伝に聞いた特徴と合致している。さらさらの黒髪。焦茶の瞳。黒の外套と鎧を纏わぬ石色の戦闘服。丸頭の戦鎚。それに聞いたとおりに良い匂いがするし――」
レティシアは更に顔を寄せて、すん、と鼻を鳴らした。そして視線をランタンの背後へ。少女がランタンの外套を握る。
「その傍に、もっと大きな少女を共にしている」
レティシアははっきりと美しい顔を、悪戯っぽく笑わせた。
崩した表情であってもそれは、お嬢様と呼ばれるにふさわしい気品のある笑みであった。ランタンは女の言葉を肯定するように頷いた。我ながらなかなか馬鹿なことを言ったものだ、と喉奥で苦笑を鳴らす。
「どなたから聞いたのかは判りませんけど、僕で間違いないようですね。それで僕に何かご用ですか?」
とは言っても予想は付く。
レティシアは一度真っ直ぐに屹立し、改めてランタンに視線を落とす。いやそれはただ目を伏せただけなのかもしれない。
そして。
「お嬢!」
「レティシア様、おやめください……!」
止める二人を意にも介さず、レティシアは膝を折った。視線は平行よりも更に下へ。
床は食べかすや飲み零しで衛生的ではなかったが、レティシアは片膝を突いてランタンの足元へと身を落とした。
腰に巻いた赤布は細雨の如く銀糸金糸が縫い込まれた見事な逸品であったが、レティシアはそれが汚れるのにも頓着しない。
それは血溜まりか、あるいは大輪の薔薇が咲くかのように。
美しい顔がゆっくりと持ち上げられた。
女はその中心でランタンを見つめる。
見上げる翠玉の瞳は、もしかしたら縋り付くようなと周囲は表現するかもしれない。だがその瞳に真正面から見つめられたランタンは、そのような惰弱な意思を微かにも感じなかった。
上位者が下位の者へと命令するような確信か。いや、これは断固たる意思であるのか。
物理的な圧力を錯覚させる強い視線に、ランタンは瞳を絡め取られて逸らすことができなかった。
緑瞳に己が映り、ランタンは映った己と視線が合って、あれ、と思う。
不意に感じた既視感は、しかしそれを思い出す暇もない。レティシアは胸に手を当てて、唇を開く。
口腔は赤く、歯は白く、声は強い。
「――私に、力を貸してくれないか。ランタン、リリオン」
頼む、と言った声には痛みがあったのかもしれない。
レティシア・オリーリー・ネイリングは貴族である。
ランタンはその事を知らなかったが、本能的にそうであることを悟っていた。腐れ貴族しか目にする機会の無かったランタンであったし、レティシアからはそういった者たちの持つ臭うような傲慢さを感じなかったが、それでもやはり貴族だと思った。
レティシアが発するのは斯くあるべしと言うような気高さであった。
「あのネイリングが」
周囲からのそのような驚愕がランタンの鼓膜を揺らす。
探索者ギルドと貴族があまり仲が宜しくないこともあって、探索者と貴族には接点がそれほどない。一部の高位探索者などは騎士団に勧誘されることもあったし、迷宮探索に限ったことではなく多大なる功績を残せば貴族位を賜るようなこともあったが、普通の探索者にとっては無関係な人々である。稀に喧嘩を売ったり売られたりして、揉め事を起こすぐらいで。
そのように身分の違う立場であったが、ネイリング家に限って言えば多くの探索者がその名前を知っていた。
ネイリング家はその起源に探索者を持つ貴族である。
そして彼らは幾つも代を変えた現在でさえ迷宮探索を行う生粋の探索者であり続けた。ネイリング家の所有する騎士団は、その最小単位を平均的な探索班の五人一組として行動し、実地鍛錬として迷宮に降りることも多い。
ネイリング家は貴族らしからぬ実力主義であり、血統に関係なく多くの探索者を取り立てていることで有名であった。騎士団には多くの探索者上がりが所属している。
ネイリング家は異端の貴族であったが、それでいて王都の守護を任ぜられる大貴族であり、過去幾人もの大将軍を輩出し、王家への忠心を認められて王家直系の姫君を娶ったこともあった。
貴族位を金で買うことはできても、連綿と繋がる歴史はそうはいかない。積み重なった歴史に血が澱むこともあったが、レティシアに流れる血は何も知らぬランタンにでさえ気品を感じさせた、
そしてそれを跪かせたランタンは何とも居心地が悪い。
宝石を踏み付けにするような背徳感を快楽とするような嗜好をランタンは有してはいなかった。ランタンは慌てて椅子を蹴って立ち上がり、レティシアに手を差し出した。
「立って、――こちらに座ってください」
レティシアは差し出した手を握った。掌はすべやかで、少し汗が滲み、少し冷たい。立ち上がらせるとき、体重は殆ど感じなかった。礼を言ってレティシアは手を離し、汚れた膝を払うこともなく、ランタンの引き寄せた椅子に腰掛ける。
それを見届けて、ランタンは尻餅をつくようにして椅子に座った。
レティシアの背後にベリレとリリララが素早く控えて、隙のない視線をランタンとリリオンにも向けた。その視線に怯えてリリオンが背中に隠れるような、あるいは二人と同じように背後に控えて牽制するかのような、複雑な視線を飛ばした。
レティシアが背後を振り返って、やめろ、と低い声で言う。
「度重なる失礼申し訳ない」
「いいえ、ずいぶんと愛されているのですね」
「ふ――ふふ、きみもな」
ランタンは肩を竦めて、ちらりと背後を振り返るとリリオンに向かって微笑んだ。それを受けてリリオンは怯えを消して瞳から複雑さがなくなった。むふん、と荒い鼻息がランタンの首筋を擽り、視線はいよいよ鋭いばかりである。
ベリレは撫で肩を怒らせるように腕を組み、リリララは足を肩幅をはみ出すほどに広げて腰に手を当てた。
お互い様だな、とランタンは少女を諫めることもなく視線をレティシアに戻した。
「さて、ええっと。力を貸してくれ、と言われましても、はいどうぞ、と頷くことはできません」
レティシアの視線は相も変わらず強烈な力を有しており、気を抜けば頷きかねない圧力は放っていた。それは命令することになれている貴族特有の傲慢さから来る力と言うよりは、貴族らしからぬ必死さのためであるように思える。
背後の二人は当然その必死さの理由を知っているのだろう、首を縦に振らないランタンへ注がれる二人の視線がきつくなる。
「僕らに何をさせたいんですか?」
「――共に、迷宮を探索してもらいたい」
でしょうね、とランタンは言葉をすんでの所で飲み込んだ。
探索者への頼みなどはたかが知れている。
共に探索をする。攻略して欲しい迷宮がある。ある魔物の素材が欲しい。ある魔物を討伐して欲しい。よくある依頼はそんなところで、探索者の素行の悪さと武力に目を付けて、ある人物を脅して欲しい、殺して欲しいというような碌でもないものが、それらに続くかもしかしたら上回る。
「なぜ?」
ランタンの質問には答えない。
レティシアは一瞬だけランタンから視線を外し、事の成り行きを見守る野次馬たちを見回した。そこにある苦々しさにランタンは気が付いて、思わず溜め息を吐いた。
どこの馬の骨とも知らない探索者を頼るほどなのだから、レティシアは余程に切羽詰まっているのだろう。それを口に出せないのは、彼女自身かあるいはその家の面子に関わる問題なのだろう。探索者であり、貴族でもある。守るべき誇りの重さは、単純に二倍どころではないはずだ。
「僕がそういったお誘いを全てお断りしているのを知っていますか?」
「……話は聞いている」
「僕を頷かせる理由をお持ちですか?」
その必死な気持ちだけで充分だ、とは言えはしない。
例えば危険に晒されるのがランタンだけであるのならば、ランタンはもしかしたら頷いていたかもしれない。けれど今は、自分の命にだけ責任がある単独探索者ではない。ランタンの頷き一つで、場合によってはリリオンも一緒に地獄の底へ真っ逆さまに落っこちる可能性があった。
レティシアが、なぜ、に答えられない以上、ランタンは安易に首を縦に振ることはできない。
ランタンの目にはレティシアも、そして後ろに控える二人も相当な手練れであるように思える。それらがランタンを頼るのならば、攻略対象の迷宮は確実に高難易度であり、もしそうでなかったら余程に厄介な状況であるのだろうと予想された。
「攻略対象は竜系迷宮だ」
竜系迷宮は滅多に現れない迷宮である。そしてその総てはもれなく高難易度であり、最低位の丙種探索者のみの探索班では問答無用に門前払い、甲乙種混合探索班でも一定以上の実績がなければ要相談、甲種のみであっても場合によっては攻略許可が下りないこともあるという。
そもそもとして、竜系迷宮の殆どは探索者ギルドから高位探索班へと攻略依頼として斡旋されて、予約受付に現れることすら極稀であった。
故に竜系迷宮に憧れる探索者は多いが、ランタンを頷かせるには至らない。
「竜系、……例えばそこに行くとして、探索班は僕ら含めた五人と運び屋さんですか?」
「いや、もう一人、帯同してくださる」
くださる、とランタンはその言い回しに違和感を覚えた。まさか、まさか、と見守っていた野次馬たちが騒ぎ出したので、その違和感は更に強まる。ベリレが、まだ何も言っていないのに顎を持ち上げて誇らしげなのが鬱陶しい。
嫌がらせに会話を打ち切ってやろうかとランタンは思う。けれど、そんな時はいつだって少女の無垢さが会話が澱むのを許さなかった。
「もう一人って、だれですか?」
「エドガー・アクトゥス・バックホルツ」
名前を言われてもね、とランタンが振り返ると、リリオンが目をまん丸にしていた。
リリオンばかりではない。ジャックたちも、野次馬の探索者たちも、あるいは店主さえもが目も口も丸くして、言葉を失うほどに驚いていた。ぐでんぐでんに泥酔していた者ですら、その瞳の中に酔いはない。
「来ているのか、あの竜殺しがっ……!?」
そう叫んだのは誰であったか。爆発するように広がりかけたざわめきが、レティシアが唇を割ると一気に静まる。それは情報収集をする探索者の表情だ。
「ああ、来ている。竜系迷宮を攻略するために、この街に」
「どこに!」
「今は探索者ギルドに、所用があると言っていたから――」
そう言った瞬間に、一瞬の沈黙がただの溜めであったことをランタンは知る。
腕相撲でリリオンが勝った時よりも更にうるさい。思わず耳を塞いで、それを抜けるほどの大音量。
英雄が。あの大探索者が。あの黒竜殺しのエドガー・アクトゥス・バックホルツが来ているなんて、と亜人族たちが怒号のような吠え声を上げながら扉に殺到した。
それはまさしく獣の如き身のこなしで、犬人族が持ち前の俊敏さで、猫人族が持ち前のしなやかさで、兎人族が持ち前の跳躍力で、有蹄種族の牛、猪、羊その他諸々の彼らは持ち前の突進力で、店の扉が一瞬で吹っ飛んで爆散し、彼らは暴徒のように走り去っていった。
ランタンは驚きのあまり声も出ない。もしかしたらエドガー・アクトゥス・バックホルツとは探索者の名前ではなく、人払いの何か特殊な呪いなのかもしれないと思わず考え込んでしまった。
店内に残されたのはレティシアたちと、ランタンとリリオン。そしてジャックたちだけであった。
「あんたらは行かなくていいのか? 英雄を目にする機会なんて滅多にねえぜ」
リリララがジャックに向かって言い放ち、テーブルに残された誰かの飲みかけの酒に手を付けた。
「店主も行ってしまったからな。店を空にするわけにはいかんだろう」
リリオンは亜人族の雪崩れに怯えてランタンにしがみつき、ランタンが二人の会話に店内を見渡すと、確かに店主どころか給仕もいなかった。一気に閑散とした店内に、けれど人が居なくなった状況に驚くのはランタンばかりである。
リリオンの怯えは亜人族の振る舞いによるもので、しかし少女はその振る舞いを理解できているようであった。
竜殺し、とはそれほどの名前であるのか。
「はあ、ふう」
一人状況の飲み込めないランタンは深呼吸をし、驚きを引っ込めて素知らぬ顔を作った。けれどそれはあまりにもな澄まし顔である、いかにも隠し事をしている顔つきはむしろ怪しさに満ちていた。
リリララが眉根を寄せ、レティシアが訝しげに、ウェンダが無言で頬を引きつらせ、リリオンさえもランタンを呼ぶ声が遠慮がちだった。女たちは勘が良いようであり、その雰囲気にはっとしてジャックがランタンを見つめる。
ランタンは逃げるようにして目を逸らした。
お前まさか、とジャックは今度こそはっきりと顔を歪める。
「知らないのか。竜殺しのエドガーを」
ベリレがそんな質問をするジャックを小馬鹿にするような目を向ける。まさかそんなわけはないだろう、とそんなわけであったランタンの澄まし顔に騙されている。
「そういうジャックさんは知っているんですか?」
苦し紛れの問いかけは呆然とするような驚きを皆々にもたらした。リリオンが、本当に知らないの、と聞いてはいけないことを聞くようにして尋ねてくるものだから、ランタンはひっそりと傷心する。唇を尖らせて取り敢えず拗ねることにして、リリオンの質問にはふて腐れて答えない。
「お前、なんで探索者やってるんだよ」
「……哲学的な話ですか?」
「ああ、そうだよ」
ジャックは呆れて言葉も出ない。レティシアとリリララは困ったように無言で、ベリレは怒りに言葉を失っていた。フリオとウェンダは何事かを囁きあっている。ランタンはリリオンに向き直った。
「そのエドガーさんって」
「エドガー様、…… いやバックホルツ様と呼べ!」
怒鳴るベリレは無視して、ランタンはレティシアにベリレをどうにかするようにと視線を寄越し、リリオンに続けた。
「その竜殺しさんってどんな人?」
「おとぎ話の中の人よ。むかーしむかしに、悪いドラゴンがいたの。大きくて、真っ黒で、ものすごく強くて、どうしようもないやつが」
「どんな風にどうしようもないの?」
「カミナリ雲といっしょに現れて、火を吹いて街を燃やして、人を病気にして、見ただけで死んじゃうの」
「……それはまあどうしようもないな」
「でしょ? それをやっつけたのがエドガーよ。探索者で、剣の達人なの。すごく強いのよ。ママがむかし教えてくれたの」
「へえ、そうなんだ。すごいお話だね」
「うん! わたし他にもいっぱい覚えてるのよ」
「じゃあまた今度、色んなお話を聞かせてね」
「まかせて!」
薄い胸を叩いたリリオンの頭を撫でてやって、ランタンは得意満面に振り返った。
「よく判りました。すごいお人なのですね」
「……あの話でか」
「幼い日に寝物語で聞かされるような英雄。男の子はそれに憧れて探索者を目指すのでしょう?」
まさしくその通りであった。多くの男は英雄譚を子守歌として幼少期を過ごすのである。多くの女は英雄を取り巻く悲喜こもごもの恋物語を子守歌として幼少期を過ごすのである。
そしてリリオンはそれをおとぎ話と言ったが、その男は実在する人物であった。おとぎ話の英雄に、あるいは王子様に、実際に会えるのならばあの騒ぎも頷ける。
「ああ、その通りだ。エドガー様は全探索者の憧れ。それを貴様はなぜ知らないんだ!」
「と言われましてもね。探索に忙しくて、よそ事に目を向ける暇がなかったもので」
それは言い訳でもあるが、事実でもあった。
ランタンの気負わぬその言葉に不意を突かれたベリレが、そしてレティシアたちも、ジャックたちもが表情を強張らせた。
「見事」
割って入ったのは老いた声。寒気。
「ラ――」
どのようにして跳躍したのか。
ランタンは座った状態からリリオンの手を掴むと、一瞬にしてカウンターの奥へと身を潜めた。同時に打剣を投げ打ち、ランタンはそんな己に気が付いていない。カウンターから半分覗かせた瞳には最大限の警戒を色として浮かびあがらせていた。
声の主、白髪の老人はランタンを孫を見るような穏やかな目付きで見つめた。
「それこそまさしく探索者のあるべき姿」
伝説がそこにいた。
それはこの上なくおっかない。




