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カボチャ頭のランタン  作者: mm
04.Value Of Life
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 タズが当たり前のように右手を出したので、リリオンも右手で応えた。あれ、とランタンは思ったが口を挟む暇もなく興奮が最高潮に達して、両者はテーブルに肘を突き、手を合わせて睨み合っている。

 ふうふうとタズの荒い呼吸が歓声を押しのけて響く。

「……口がくさいわ、ランタンを見習ったらどう?」

 ランタンはリリオンの背後にいて少女の顔を見ることはできないが、その分だけタズの表情ははっきりと見えた。

 赤角(ブラッドホーン)の通り名を表す角よりも、今では顔の方が真っ赤に染まっている。ぎりぎりと歯が軋み、唇が結ばれて鼻の穴が膨らんで蒸気を幻視させるほどの荒い鼻息を吹き出した。

 リリオンの手の甲に掛かるタズの爪が赤から白に。店主が組んだ手を解すように揺する。

「タズ、力を――」

「平気よ。はやく始めましょう。負かしてあげるわ」

 おらあ行けえリリオン。生意気な小娘を泣かしたれや。女の子に手を上げるなんて最低よ。ここは毛無が来るような場所じゃねえんだよ。腕を捻切って二度とジョッキを持てねえようにしてやれ。ランタン逃げんなこらあ。黙れ吠えるな。

「いざ尋常に――」

 と、暴風のような歓声が二人に襲いかかり、ふと一瞬の沈黙が。

 リリオンが大きく息を吸い込んで、タズが鋭く吐き出す。呼吸を止める。

「――勝負!」

 火ぶたを切って落とした店主は力の奔流に弾き飛ばされたかのようだった。慌ただしくテーブルから離れて、第一声から早速声を嗄らしてしまった。だみ声が聞き取りづらい実況を吐き出す。

 始まった腕相撲は、タズの圧倒的優勢という当初の予想を裏切って拮抗している。組んだ手はぶるぶると震えてどちらにも傾かず、互いに左手で掴んだテーブルはこういったことが日常茶飯事なのだろう鋼鉄の補強が入っていたが、それでも今にも破裂しそうな不穏な音を響かせている。

「行け行け行け行けっ!」

「気い抜くなよっ!」

 獣を追い立てるような拍手と足踏み。無責任な応援と罵声。

 両者は喉の奥から染み出すような唸り声を上げて、タズの目は毛細血管が切れて赤く充血している。リリオンはどんな顔をしているんだろう、とランタンはその背中を見つめる。拳に力が入って、まるでランタンこそが勝負をしているように息が詰まった。

 リリオンは勝てる、とそう思っていた。だがタズが予想以上に強い。贔屓目が過ぎたことを反省する。情によって実際の戦力差が変動するわけではない。

 勝負は拮抗しているように見えてリリオンの分が悪かった。

 身体付き、筋肉の量だけが力の出力量を決めるわけではない。

 魔精による身体能力の強化によって探索者の能力には性差が殆どない。例えば男らしく強引な、例えば女らしく細やかな、と言うような性格的な性差はあれど、肉体的な性差はまずないと考えていい。男よりも力の強い女など掃いて捨てるほどいる。

 だがそれでも筋肉量が出力量の全てではないと言うだけで、筋肉量の多寡は力強さに関係することは疑いようのない事実である。そして探索者としての経歴もタズの方が圧倒的に長く、故に不確定要素であるはずの魔精の量もリリオンは負けていた。

 四分の一。

 亜人族の肉の付き方は人族のそれよりも遥かに効率が良いらしい。だがリリオンに流れる四分の一の血統はそれを上回る。

 どうにか拮抗できているのはそのお陰で、けれど最後にものを言うのはやはり地力の差である。

 ほんの僅かリリオンが押し込まれた。

「ん――ぐ――ぎ――ぃ!」

 食いしばった歯の隙間から、結んだ唇を内側から押し広げるようにして苦悶の呻きが溢れた。

「踏ん張れっ、負けんなっ!」

「タズッ押し込めっ!」

 リリオンが足のスタンスを僅かに広げて、ねじ込むように肩を内に入れる。悪い判断ではないが、苦し紛れの小細工でもある。

「……はっ、あの状態で動けるか。なかなかやるじゃん」

 熱狂渦巻く歓声の中で、その声は醒めていたように思う。ランタンは喉の奥で知らず止めていた息を吐き出して、僅かに目を動かして声の主を視界に入れた。いつ横に並んだのか、それは兎人族の女だった。

 兎人族の特徴的な耳がぺたりと後ろに撫でつけられているため、身長はランタンと変わらない。男っぽく短い髪は脱色したような薄い茶色で、目の色はそれに赤を足した錆色だ。ランタンの視線に気が付いたのか女が首を回して顔を向けると、意味深に笑った。

 唇は左の口角が上がっていて、内斜視の右目が挑発的で蓮っ葉な雰囲気を醸し出している。兎らしさのある小さく形の良い鼻に薄くそばかすが散っている。

「応援しねーのか?」

「……してますが」

「口利けるんなら声に出せよ。あれが読心術(リーディング)でも使えんなら別だけどな」

 女はそう言ってリリオンを顎で指した。リリオンに有り金全部突っ込んだのだろうか、女はランタンを煽った。だが煽るにしても賭け勝負に熱狂しているわけでもなく、ランタンを嗾けるその声音は嗾けるという行為を楽しんでいるような感じだった。

 いけない、とランタンは思う。ランタンは女に促されるままに視線を戻す。リリオンの手首がタズの圧力に負けて甲側に反っていた。辛うじて、気合いで持ち堪えているだけで負けはすぐそこにある。

「がんばれ! 手首戻せ!」

 ランタンが叫ぶとリリオンが力で応えた。おおおおお、と観衆がどよめき、タズの表情が険しくなった。リリオンはタズを押し返して、甲と腕を一直線へと盛り返した。未だにタズの方が有利であることには間違いはないが、すぐそこにあった負けからリリオンは遠ざかる。

「あっはっはすげーバカ素直(すなお)だ。いいぞいいぞ、もっと応援しろよ。ほらほらほら、どうした」

「あなた、なんなんですか?」

「応援したれよ。お前のために頑張ってんだろ? それともあたしの方が気になんのか? ずいぶんと気が多いこったな」

 ランタンは肺の中の淀みを全て吐ききって、改めてリリオンを応援した。女の言葉によってランタンは応援しているわけではない。そんなことははっきりと判っているのにもかかわらず、ランタンは自らの口から出る応援が女によって汚されたような気がした。

 もう無視しよう。

「無視すんなよ」

「……うるさいです」

「あたしの言ったとおり応援したら盛り返したろ? 地力じゃ八割り負けのところを応援で五分五分に戻したんだ。じゃあ次はどうすんよ?」

「手首を自分に向けるんだよ! 肩から体重掛けて!」

「技術だけじゃ差は埋まんねーよ。あの牛野郎、(ヤク)で箍外してやがんぜ。魔道薬じゃないのがせめてもの救いだな、これっぽちの救いだけどな」

「――ほんと?」

「探索者なら戦いに挑む前に一発キメるのは常道だろ? 甘えなあ、まったくよう。それを加味すりゃドすっぴんでよう堪えてる方だな、あーあー顔真っ赤だ。あれで負けたら血涙だぜ」

「拳から視線を外すな! ああっ!」

 ランタンが叫ぶとリリオンはその度に腕を戻す。だが五分まで戻していたのが次第に四分、三分と不利になっていく。露わになった腕がぱんぱんに膨らんで、細腕に絡みつく血管がはち切れんばかりだった。口元から漏れる苦悶の呻きに、僅かに高い音が混じるようになったのは無酸素運動の限界が近づいたからだ。

 少女の限界が。

「応援で五分まで戻したんだ、ならこっちもがつんと一発キメてやろうぜ!」

 女が不敵に笑う。

「なあに人間ご褒美がありゃもっとがんばれるもんさ。あんだけバカ素直なら、その効果も覿面だろうよ。なあ、てめえの面子のために女が気合い入れてんだ。出し惜しみするんじゃねえぞ」

 ランタンは、薄い唇を引き延ばし目を覗き込むようにして笑う女の、その言葉に息を吸い込んだ。

 声が歓声を切り裂いて響く。

「勝ったら――」

 リリオンが負けるまで時間の問題だった。テーブルと手の甲の隙間はもう三センチほどしかない。リオンは身体ごと傾いている。タズは勝利を確信するように溢れんばかりに目を剥いて、口元はもう既に笑みを浮かべている。

 あの子に上げるご褒美は、とランタンの一瞬の沈黙。女がランタンの背中を力強く引っぱたいた。

「――なんでも言うこときいてあげる! リリオンっ!」

 女は声を上げて笑った、のかもしれない。




 それはあまりにも暴力的な、破壊の音色。

 その音は女の笑い声も、ランタンの応援も、店内に渦巻いて響き渡る歓声の全てを吹き飛ばして耳に痛いほどの沈黙をもたらした。

 欲望が炸裂した。

 その結果、鋼板補強のテーブルは天板が大槌を振り下ろしたように放射状にひび割れ、木製部分は内側から破裂したように消し飛んでいる。四本中片側二本の足が遥か上空から縦に落下した氷柱のように砕けた。

 牛人族の乙種探索者赤角(ブラッドホーン)タズの鍛え上げられた右腕はあらぬ方へと(ひし)がれ、天板の破壊を招いた手甲の激突は、その内部で中手骨の粉砕骨折を起こしていた。指の付け根からじくじくと血が溢れている。

「はあ?」

 水を打ったような沈黙の中でそう呟いたのはタズで、タズは叩きつけられたままリリオンに繋がれた己の手を不思議そうに眺めている。

 腕が変な方向に曲がっている。手首と肘の中間ほどに関節が追加されていた。

 折れたのは肘ではなく橈骨と尺骨の二本で、それは纏めて半ばから寸断されているようだった。骨の断面が内部から皮膚を突き破らんばかりに引き延ばしている。

 リリオンがぽいっと捨てるようにタズの手を放り出すと、タズの右手は重力に引かれるままに甲で己の右肘に触れた。なかなか綺麗に折れているようで、それはすなわち折れる瞬間に掛かった負荷の巨大さを物語っていた。

 店主が慌ててリリオンの手を取って高々と掲げる。

「決まったあああああ! 勝者リリオン! 大逆転だ-!」

 歓声はこれこそ正に耳に痛い。店内は地震でも起きたのかと言うほどに震動して、拍手も足踏みも笑い声も罵声も何もかもがリリオンを祝福しているようだった。

「はあああっ!? 折られた!? 俺の腕が?」

 はたしてそれは悲鳴だったのだろうか。戦いの名残と驚愕による意識の圧迫、そして薬の影響によってタズは痛みを感じていないようだ。肩から腕を持ち上げて、己を応援していたギャラリーに向かってそれが現実であるかを確認させている。

 テメ―負けたんだよボケが。賭け金返せやアル中。左も折ってやろうか負け牛が、とタズは散々に言われながらも夢現を確かめるように頬を抓られたり蹴られたり叩かれたりしている。ずいぶんと手荒いが本気の罵倒ではなくそれは野蛮な労いであるようだった。折れた腕を力任せに繋げ直されて、ついに本当に悲鳴を上げてもいたが。

 そして大逆転を引き起こしたリリオンには惜しみない賞賛が降り注いでいた。

 リリオンへ賭けた女が二人抱き合って天井を突き抜けて空に吠えるように喜んでいるし、賭けを止めて応援のみに留めた消極的な味方は悲しみ半分喜び半分で、リリオンを応援しながらもタズに賭けた不届き者はもうやけくそに勝利を褒め称えている。リリオンを妹分のように可愛がっていた女探索者たちは今にも抱きしめんばかりであった。

 だが当のリリオンはそんな混沌極まりない惨状などは目にも耳にも入っていない。取り囲む女たちの頬を髪で叩くほど勢いで振り返り、丸く見開かれた淡褐色(ヘーゼル)の瞳に映るのはランタンばかりである。

「ランタン! 今の本当っ!?」

「嘘です」

 ぎらつくリリオンの瞳にランタンは思わず気圧されて後退り、そして後退った分だけ大きな歩幅で跳ねるようにして近寄って手を伸ばした。大きく開かれた少女の口は何を叫ぼうとしたのか、ランタンはその口を塞ぎ、指で鼻の下を拭う。

「鼻血出てる。啜っちゃダメ」

 左の鼻から粘度の高い鼻血が垂れて口に入りそうになっていた。ランタンが指摘するとリリオンは触ろうとして、それを止めると見られるのが恥ずかしいのか鼻を啜ろうとした。ランタンは片手でハンカチを取り出すと素早く少女の鼻口を隠してやった。

「全部出しちゃいな。――椅子くださーい。あと濡らしたタオル」

 リリオンがランタンの手ごとハンカチを掴んで勢いよく鼻をかんだ。ランタンは鼻血と鼻水を誰の目に触れさせることもなく折り畳んでしまうと、用意した椅子にリリオンを座らせてまた新しいハンカチで汚れた少女の汚れを隠してやった。鼻の付け根をそっと押さえてやるとリリオンはもごもごと鼻声で呟く。

「わたし勝ったよ」

「うん、おめでとう。よくがんばったね」

 椅子に座らせているのでリリオンの顔の位置が珍しくランタンよりも下にあって、少女の見上げる眼差しは喜びではなく純粋な戸惑いに染まっている。ランタンは空いた手でリリオンの頭を撫でてやった。いつもならば大喜びするその触れ合いも、細めた瞳の中にある戸惑いを消すに至らない。

 なんでなんで、と問い掛ける視線からランタンは目を逸らした。その先に赤錆の瞳があった。

 兎女が恥じらいもなく膝を割ってしゃがんでいた。ともすれば下品に映るその姿が妙に様になっている。丈の短いショートパンツから伸びる太股。その半ば程までが極細かな鱗革ストッキングに覆われている。僅かに露わになった太股の白さにランタンは目を逸らした。

 女の太股は脹ら脛を守る金属製の脛当て(グリーブ)に押し返されてなお丸い。程よく脂肪が乗った足はよく鍛えられている。

 兎女はガンを飛ばすようにしてランタンを見上げ、吊り上がった左の口角が頬の裂けるような角度で嫌な笑みを浮かべる。笑みを浮かべたままのっそりと立ち上がって、リリオンへと顔を向けた。その顔つきにリリオンが少しだけ怖じ気づいた。

「あたしはちゃあんと聞いたぜ。こいつ、何でも()うこと聞いてやるって言ってたよ。男なら約束は守らなきゃいけねえぜ。それとも実は付いちゃいねえのか?」

 ランタンの下半身に伸びた兎女の手がリリオンによって遮られた。べちん、と大きな音がして女の身体が吹っ飛び、リリオンは鼻をもぎ取るようにして汚れを拭い、鼻血が止まったことを確かめながら立ち上がった。兎女は空中で腰を切り、踵を接地させると軽やかに体勢を立て直す。

 ゆらりと立ち上った闘気が。

「てめえ――」

「触っちゃダメ!」

「ああ?」

「手が無くなっちゃう!」

 どよ、と。リリオンの言葉は意味不明であったが、それ故にいっそうの恐ろしさが周囲に伝播される。

「んなわけが、――……まじか?」

 リリオンの深刻な頷きによって、兎女はランタンを物凄い目付きで見つめた。視線が顔から正中線を通って下半身へと注がれて、ごくりと唾を飲んだのは兎女だけではない。重なった音にランタンがはっと視線を巡らせると幾人もが気まずそうに目を伏せる。ランタンは羞恥と怒りとも呼べぬもどかしさに顔を赤らめた。

「あの成りでそんな凶悪なもんを、……あっぶねーとこだよ」

「……手が無くなるとは、こういうことです」

 ランタンは床板を踏み折って一足飛びに距離を詰め、音も無く狩猟刀を抜剣すると女の右手首に刃を押し当てていた。少し刃を引けば、兎女は手首から先を失うこととなる。その早業に先ほどとはまた別のどよめきが上がるが、殺意も敵意もないそれに脅威はないとばかりに兎女は平然としたものだ。

「次は無いですよ」

「耳赤いぜ」

「生まれつきです。あなたの長いお耳と同じように」

 ランタンは狩猟刀を鞘に戻した。女は手首が繋がっていることを確認するようにぐるぐると拳を回していた。離れるランタンの耳に、ふうん、と意味深な頷きが聞こえるがランタンはそれを無視した。

「てめえランタンおらあ! 俺とはやんねえのにその女とはやるってどういうことだあ!」

「うるさい負け牛。そう言うことはリリオンに勝ってから言ってください。いい勝負でしたよ」

「え、あ、おおう」

 ランタンと兎女のいざこざを嗅ぎつけたタズが、折れた腕を折れた椅子の脚の添え木で固めただけで喧嘩を売ってきた。ランタンは面倒くさそうにタズを煙に巻く。

 リリオンが不満げな、いやそれは切なげな表情も隠さずにじっとランタンの動きを目で追っている。

 これが勝者と敗者の違いか、とランタンは心が痛む。少女を煙に巻くことはできていなかった。

「あ、そうだ。配当金ってどうなってます?」

 胴元の取り分は五()であり、店内は五十人近くいてその内賭けをした者は四十名に若干足りない。リリオンに賭けたのはランタンを含めて僅か三名であり、ランタンが金貨袋を投げ入れたことでただでさえ多かったタズに賭けられていき金額が激増した。ランタンの掛け金を狙って。

「ほらよランタン!」

 それ故に配当金を足した金貨袋は倍以上ほども重たく、ポーチに収まりそうもない。ランタンは受け取った袋の中から一枚の金貨を取り出して店主に投げ返した。

「テーブルと床の修理代です」

 ランタンはそれでもやはり重たい金貨袋をじゃかじゃかとならす。

「それとこれが重くて持って帰るのが辛いから、騒いで疲れた皆さんに美味い酒と料理をお願いします。ふふふ、あの辺の人たちのおかげでお金の心配はいらないから、じゃんじゃん持ってきてくださいね」

 その歓声は今日一番だったかもしれない。元はと言えば自分の金なのに何とも気のいい人たちである。

「あ、でも負けた牛の人とリリオンはもう酒は駄目だよ。喧嘩するから」

 リリオンにそう言って笑いかけたが、少女は犬人族なんかよりも余程に雨に濡れた子犬のような哀れな視線をただランタンに向けるばかりだった。




「はいはい言いましたよ。何でもするって」

 結局、いつだって根負けするのはランタンだった。そしてそれが渋々ではないと言う自覚もあった。

 だが、ほらな、としたり顔で奢り酒を飲む兎女が鬱陶しくてランタンの表情は冴えない。腕相撲をするリリオンを応援したのは己の意思で、根負けしたのだって己の意思で兎女は無関係である。関係あるのはリリオンだけだ。

 少女は眦の下がった嬉しそうな顔をしていて、先ほどまでの哀れっぽい視線との対比で表情が溶けるかのようだった。ランタンは思わず頬に苦笑を浮かべてリリオンに問い掛ける。

「僕に何をして欲しいの?」

 リリオンは唇の緩みを締め直そうとして失敗し、浮かんだだらしのない笑みを隠すように酔い覚ましの薄荷(ハッカ)水を口に運んだ。

「んー、んふふふ」

 それでも隠しきれない笑い声が薄荷水をぶくぶくと泡立ててコップから溢れた。

「なんでも――」

「可能な範囲内でならね」

 ケチケチすんなよ、と兎女が茶々を入れてきたのでランタンは極力女を視界から外した。

「空中浮遊しろとか、石を食えとか、不老不死にしてとか無理なものは無理だし、全裸で街中を歩けとかここに居る全員をぶち殺せとかの公序良俗に反するものも嫌だよ」

「そんな変なお願いしないわ」

「全裸徘徊と殺人が同レベルかよ……、ってか」

 兎女が口元の泡を肩口で拭いながらランタンを睨んだ。それは兎女ばかりではなく囲んで酒を飲む探索者たちも兎女ほどあからさまではなかったが、探るような視線を向けていた。

「嫌だけど無理じゃないってことか? ここの全員相手にして」

 たしか探索者は面子が大切なんだったか、とランタンは頬に笑みを浮かべる。

「やってみないと何とも言えないですね」

 挑発的な言葉に辺りがざわつく、タダ酒ほど美味いものはないと飲みまくって理性の薄れた探索者たちは持ち前の負けん気も相まって今にも飛びかからんとばかりに互いに目配せをしあっていた。あの辺は楽勝だな、とランタンは気のない振りをして確認する。

「わたしはランタンの味方だからね」

店主(マスター)! この子に店で一番良い肉を食べさせてやって! とっておきのやつ!」

 ランタンがカウンターの奥へと叫ぶと間髪入れずに了承の声が飛んできた。厨房の中で何が行われているかを見ることはできないが、脂が弾け肉が焼ける音と匂いが漂ってきて、亜人族の鋭敏な感覚器官はランタンよりもいっそう強くそれを感じ取っていた。

 席を同じくするジャックが唾を飲んで、運ばれてきたのは厚さが十センチもあるほどのステーキだった。

「すてき!」

 テーブルにどんと置かれたそれをランタンが一口大に切ってやると、レアな焼き加減の断面から肉汁が滴った。ランタンが手ずからリリオンに食べさせてやると、少女は頬が落ちないようにと手を当てる。目が糸のように細められた笑みは幸せいっぱいだ。

「ジャック、フリオ。探索班(チーム)の意思は統一するべきだと思う。私はランタンの味方をしたい」

「異議無し。ジャックは?」

「……異議無し」

「三皿追加で、後一番良いお酒も持ってきてください」

 ウェンダはリリオンと肩を組んで同盟を結んだことを周囲に存分にアピールし、ショットグラスに注がれた薄青く発光する酒を口の中に放り込んで遠吠えを放った。それは迷宮熟成させた古酒であり、酒中に魔精が溶け込んでいる。なかなかに珍しい逸品であった。

 ウェンダは高らかな遠吠えの残滓が響く中で、リリオンごとランタンを抱きしめる。美味すぎる、とその言葉は嗚咽に濡れて、そこから先はもう亜人族や探索者の意地に掛けて敵対を貫く者と欲望の赴くままにランタンに返った者の争いである。

 火種であるランタンは顔を引きつらせるばかりだった。

 ランタンの奢りを良いことに麦酒(エール)の飲み勝負が行われていたり、野良腕相撲はまだマシな方で店の片隅では上半身裸の男たちが寝技(グラップリング)のみでの試合をしていたり、空の酒瓶がすっ飛んで酔っ払いの脳天から血が噴き出してなぜか笑い声が上がったりもしている。

「いくらなんでも喧嘩っ早すぎない?」

「これぐらいは日常茶飯事だよ。喧嘩するほど仲が良いって言うしね。死ぬ前には止めるし」

 常識人であると思われるジャックもその混沌を止めには入らないし、フリオは笑いながら言って、ウェンダはリリオンにいかに酒が美味いかを語って困らせている。

 圧倒的身体能力を誇る亜人族だが、人族に比べるとやや理性の箍が緩い傾向があるようだった。生得的なその性質を自覚するが故に己を厳しく律する亜人族もいるようだが、彼らは基本的には享楽的な刹那主義者が多いようである。

 ジャックやフリオはどちらかと言えば前者で、ウェンダやタズは後者であるとランタンは思う。

 この女はどうだ、とランタンは兎女に目を向ける。赤錆の目は何かを企んでいるようだが、錆に包まれてその真意を知ることはできない。けれど奔放な口調や振る舞いは刹那主義者のそれだが、そこかしこにこちらを誘導しようとする細やかな意図が見られる。

 だがその誘導は商工ギルド職員エーリカほど絶対的なものではない。この場には不確定要素となるものが多すぎて、理性の箍が酒によってゆるゆるになった探索者たちのともすればランタンにとっても鬱陶しいノリは度々兎女の誘導に横やりを入れた。

 それは兎女に苛立ちをもたらし、苛立ちは行動を綻ばせる。兎女は我が物顔で肉を食らい、麦酒を飲んでいた。

 油の付いた指を舐って、その指を濡れ布巾に拭い付ける。手首にあるギルド証は薄汚れ、それ故に指の白さが目に付いた。人差し指の付けに銀の指輪が。

 女がテーブル上に身を乗り出してリリオンの薄荷水を横取りした。リリオンはきょとんとして、かえして、と手を伸ばす。兎女はその手を軽く叩いた。拒否の意思表示にリリオンは眉を顰める。

「何するの?」

「……なああたしとも()ってくれよ。あの牛野郎みたいに賭け勝負しようぜ」

 ランタンは口を挟まず、その成り行きを見つめる。リリオンは、かえして、と先ほどより強く言って女の手から薄荷水を奪い返した。そしてまた取られないようにと急いでジョッキを空にする。溢れた滴をランタンが指で払った。

「負けんのが怖えのか?」

 それはあからさまな挑発で、酔いの治まったリリオンと言えどもむっとさせるような嘲りを含んでいる。ランタンは何かを言い返そうとするリリオンの口を人差し指一本で封じた。

 何となく当たりも付いているし、兎女を泳がせるのもこれぐらいにしようかと思う。兎女はそんなランタンを睨み、言葉を続けた。

「こいつへの命令権を賭けて勝負しようぜ」

 放たれた言葉にリリオンがランタンの指を取っ払った。そして兎女の目を覗き込むように身を乗り出す。

「いやよ」

「ビビってんのか?」

「うん」

 今度の挑発をリリオンはあっさり認める。あっけらかんとしたリリオンに兎女は言葉を失って、怪訝そうな目付きで少女を見る。それはきっと素の表情なのだろう。目元の険が薄れると、なかなか愛嬌のある顔だと思う。三つ四つ年齢が上かと思っていたが、もしかしたらランタンと変わらないのかもしれない。

「せっかくランタンにお願いを聞いてもらえるんだもの。それがなくなるのは嫌よ」

 何を当たり前なことを言っているの、と無垢な瞳に見つめられて兎女の目が泳ぐ。ランタンは笑いを吹き出すのを堪えられなかった。兎女の目に再び険が。だが睨み付けられても先程の威圧感を感じなかった。

「僕に何か用があるならまどろっこしいのは抜きにして、ちゃんと自分の口から言ってね。ねえ、()()()?」

 ランタンが目を細めると、兎女は顔を歪めた。


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