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あの、その、と呼び止める声。
それが自分たちに向けられたものだと認識していたが、ランタンは無視して歩みを止めなかった。だがリリオンはびたりと立ち止まって、手を繋いでいたランタンは鎖に繋がれた犬のように引き止められた。肉串を食べるのに集中していればいいものを、と不満げな顔を隠さない。
もうなんだよ、と口に出さずに振り返ると、ふと酸っぱい臭いがした。
やだな、と思うけれど立ち止まってしまったものはしかたがないし、振り返ってしまってはどうしようもない。
臭いの元は呼び止めた男だった。
浅黒い肌の顔つきは中年のようだが、視線の合わないおどおどとした目は若さを感じさせる。背はリリオンより僅かに低いように思うが、それは気の弱そうな猫背のためだろう。うっすら脂肪の付いた身体は鍛えられて分厚く、重心が全体的に下の方にある。
足が太い。手が大きい。顎の張った顔つきは歯を食いしばることが多いためか。
その身体付きは探索者に似ているが、探索者のものではない。ランタンが思い出したのはケイスの身体だったが、元探索者であるケイスよりも特化している。
運び屋かな。ランタンは頭巾の下で探るように目を細めた。
何の用だろうか。商工ギルドに職の口利きでも求めているのだろうか。それともランタン自身に己を売り込むつもりだろうか。
ランタンは過去幾人かの運び屋志願者を袖にしてきたことがあり、またあの一件以来ランタンからの紹介文を求める者もちらほらと出始めた。対応の面倒くささを思い出して溜め息を吐く。
「何かご用ですか」
男が怯えるように震える。ランタンの声は自分自身でも顔を顰めるほどに冷淡だ。リリオンも驚いたようにランタンの顔を窺った。
「あの、……ラ、ランタンさん、ですか?」
ンにアクセントを置いた問い掛けにランタンは思わず首を横に振った。
それが己の名であると気が付いた頃にはもう遅い。
男はまさかそんなはずないと言うように大げさに顔を歪めて、猫背がぴんと真っ直ぐに伸びる。それから誰かに助けを求めるように視線を彷徨わせた。
だが男を助けに来る者はいない。ランタンも横に振った首を、縦には振り直さない。
男は大きな身体を再び丸めて、太い指を臍の前でこねている。老け顔がそれをしても可愛げは皆無であるが、ランタンに罪悪感を抱かせるような何とも言えない哀愁がある。大柄な身体に見合わず気の弱そうな雰囲気があった。
可哀想よ、とリリオンがランタンの手を強く握って揺らす。ランタンは渋々口を開く。
「あー、実は――」
「あ、あの、ほ、本当に違うんですか。あの、小さい探索者だと聞いたのですが」
「――違う人です。僕じゃあない」
言うべき言葉を飲み込んで、ランタンははっきりと否定した。そして更に続ける。
「しかしランタンが小さいなんて、そんな変な話を一体誰に聞いたんです?」
「え、あの、お嬢様から」
「そうですか。ではそのお嬢様なる人にお伝えください。ランタンは小さくない、と」
「え?」
ランタンの言葉に反応したのは男ではなくリリオンで、じろりと睨むと少女は咄嗟に視線を逸らした。
「あの、あの小さい探索者ではないのですか」
「違います。ランタンが小さいのではなく、周りが大きいのです」
男の視線がランタンから、説明を求めてリリオンへと移動して、けれど視線を逸らし続けるリリオンはその視線に気が付かない。それどころかその横顔には感情を押し殺す無表情が貼り付けられている。男は再びランタンへと視線を戻した。
はっきりと言い切ったランタンは、理解の悪い男に向かって大きく溜め息を吐き出した。
「いいですか。周りが大きいのです」
「周り、あの、さっきも聞きました……」
「リリオン」
呼んだ声に感情はない。
「――はいっ」
応える声は高く跳ねる。そこにある緊張に当てられて男の身体が強張った。
「串を前に」
「はいっ」
リリオンは命令の不可解さに疑問を挟まず、言われるがままに食べかけの肉串を目の前に持ち上げた。男の目が二つの羊肉が突き刺さる肉串に注がれる。そしてランタンは指を差す。
「このお肉、どうですか。一口では食べられないほど大きいでしょう」
「は、はあ。大きいお肉ですね」
「そうでしょう。大きいお肉です。ですがその下の肉はどうですか」
「あ、あの」
「どうですか?」
「あ、あの、……美味しそう、です」
「違います。もっと大きい、が正解です。繰り返してください。もっと大きい」
「あ、は、はい。もっと大きい、です」
ランタンは勿体ぶって頷く。
「そう言うことです」
「あの、あの、どういうことですか?」
「……大きいお肉があって、その下にはもっと大きいお肉がある。だからといってこの最初に指したお肉が小さいと言うことにはならないでしょう。あるのは大きいお肉ともっと大きいお肉です」
男が何か口を開こうとしたが、ランタンは口を挟ませない。探索者の肺活量を無駄に使い、一息に言葉を紡ぐ。
つまり、と細い喉を目一杯震わせて艶のある声を発する。
「ランタンが小さいのではなく周囲がランタンよりも大きいだけなのです。ご理解いただけたでしょうか。ご理解いただけたようで何よりです。ではご理解なさったことをお嬢様とやらにお伝えください。それではさようならごきげんよう」
金魚のようにぱくぱくと口を開閉し、二の句が告げられない男をその場に置き去りにしてランタンはリリオンの手を引いて立ち去った。
去り際に汗の酸っぱさだけではなく、少しだけ柑橘系の匂いを感じる。
大きな身体に隠れていたが、男は大きな背嚢を背負っている。その膨らみは果実の膨らみか。多く買い込んだために、底の方で潰れているのかもしれない。
果実水飲みたいな、とランタンは思う。
リリオンは足が杭になったようにランタンに引きずられている。
「ちゃんと歩きな」
「うん、ランタン」
リリオンはようやく自分の足で歩き出し、大きいお肉を一口で口の中に詰め込んで咀嚼する。意味不明な理論を噛み砕いて理解するように。ごくんと音を立てて喉が動く。
「ランタン」
「なに」
「ランタンはなにを言っているの?」
「もう一度、一から説明が必要?」
「……いらない」
リリオンはもっと大きい肉を入れられるだけ口の中に入れて、串に取り残された残りの小さな一口をランタンが口にした。
「でも、どうしてあんなこと言ったの? お肉の話じゃなくて」
脂に濡れた唇を舐めて、ランタンに視線を落とす。役割を失った木串をその場に折り捨てる。
「ランタンはランタンなのに……」
「まあ癖だよね」
ランタンは多少人付き合いが良くなったとは言え元が悪すぎるので、差し引きで言えばまだ人見知りであることに変わりはない。まず声をかけられた時に聞こえなかった振りをすることや、拒否から入る癖はなかなか抜けない。特にランタンを、ランタンだと認識しきれていない人間に対しては嘘をついてあしらう傾向がみられた。
「でも何の用だったのかしら」
「さあね、何でもいいよ」
「……お嬢様って誰なの?」
ランタンは苦笑して肩を竦める。
気になるところはそこであり、そんな大げさな呼び方をされる人間にランタンは心当たりが無い。
あの男が運び屋であるのならばその雇い主が探索者であることは間違いないように思うが、お嬢様と呼ばれる身分は貴族かどこぞの大店の箱入り娘であり、それを探索者とイコールで、結びつけるのは困難だ。
貴族が探索をしないわけではないし、探索者から貴族に成り上がったものもいれば、探索によって生計を立てている探索貴族も居る。だが人捜しに使うほど近しい従者が運び屋を兼ねると言うことはまずないように思う。
貴族のボンがお供を従えて迷宮特区をぞろぞろと行くのをランタンは見たことがあるが、貴族にとって行列の最後尾にある運び屋は探索を共にする仲間ではなく、馬車の後ろに付いてくる馬糞拾いの乞食と大差ないように思えた。
もっともその貴族がそうであっただけかもしれないが。
「僕に聞かれてもね」
口の中が羊の脂に犯されて、吐く息が獣臭くてランタンは口中を舐めて唾液を飲んだ。
そこらの屋台で果実水を買おうと、柑橘の匂いを感じてから沸き立った欲求に視線を動かすがなかなか良い店には巡り会わない。飲むならば冷たいものが良いが、これ見よがしに氷を前面に押し出しているような屋台はそうない。
まあいいか、とランタンは屋台に寄った。涼を取りたいわけでもないし、中天にある太陽は薄雲の中にあり陽射しは穏やか。雲は空の端まで広がって薄く、気温の上がる心配は不要だ。
ランタンはリリオンにも奢ってやろうとポーチの中から半銅貨を引っ張り出した。
その背に声が掛けられた。頭巾の効果は極薄いようである。
またか、と思えど先ほどの男の声ではない。ランタンは親しげな雰囲気でかけられた声に首だけで振り返るとそこには犬人族の姿があった。
名前は何だっただろうか、とランタンは友好的な笑みを作りながら記憶を掘り返す。
それは天上から降り注ぐ救いの声だったのかもしれない。
あ、とリリオンが小さく呟き、ええっと、ともじもじした声が続く。リリオンは握ったランタンの手を恥ずかしそうに揉みしだき、当のランタンはというと素知らぬ顔で犬人族の男に微笑んだ。
この子に名前を教えてやってはくれませんか、と口にはせずとも男に伝わる。男はわざとらしく髪を掻いてがっくりと項垂れた。そしてゆっくりと面を上げて、申し訳なさそうな表情のリリオンに笑いかける。
「フリオだよ。フリオ・カノ。もう忘れないでね。ランタンにリリオン」
「お久しぶりです、カノさん」
ランタンは名を口に出して、それを忘却していた事実を埋葬する。
「うん、久しぶり。カノじゃなくてフリオでいいよ」
声をかけてきた犬人族はジャックの探索仲間のフリオ・カノだった。フリオは名を忘れられたことなど一つも気にしていないような人懐っい笑みを浮かべて、よかったら奢るよ、と二人に言った。
「ここじゃなくて冷たいのを出すところに行こうよ。ジャックがずいぶん世話になったみたいだからね」
「いえ、そんな」
「そんな謙遜すんなって。単独で岩蜥蜴とやり合うのは結構めんどいよ。倒せないわけじゃないけどなかなか無傷でとはいかないからね。ジャックはあれでうちの筆頭戦士だから怪我されると探索が大変でさ」
ランタンもリリオンも奢られることに頷いたわけではなかったが、話しかけながら自然と歩き始めたフリオを思わず追ってしまう。
フリオはぺちゃくちゃと一方的によく喋って、ランタンたちに口を挟ませる暇を与えなかった。
「へえ、そうなんですか」
沈黙の間を埋める必要がなく頷くだけで良いのはランタンとしても楽だったが、正直なところその強引さを苦手に感じていた。微笑みは既に友好的なものではなく、他の表情が特に思いつかないので貼り付けた曖昧な笑みになっている。
「でも僕は足を引っ張っただけですよ」
「――ランタンはがんばってたよ!」
会話の途中にねじ込んだ謙遜にリリオンが噛み付いた。思わぬ所からの声にランタンは頭上にあるリリオンの顔を見上げる。ランタンの謙遜が面白くないようで、リリオンは小さく頬を膨らませてつんと鼻を上に向けた。
「ランタンなら一人でだって――」
フリオに張り合うようにして放った言葉を、リリオンははっとして飲み込んだ。ランタンが不思議そうに見上げ、フリオはにっと口角を吊り上げた。
「そうそう、リリオンの言う通りだよ。探索者が謙遜したって得はないんだから」
「ないですか?」
「ああ、ないね。ランタンの価値が下がったら、それに助けられたジャックの面子が潰れる」
フリオはさらりと言ってその声音は雑談と大差なかったが、瞳だけが本気だった。
探索者の面子は単純明快に腕力にあり、弱い探索者は下に見られる。ランタンとしては下に見られたからと言って探索業に差し障りがないことを知っていたが、侮られると苛々することも知っている。
けれど探索者のその腕力は基本的に迷宮内のみで振るわれて、それを目撃するのは仲間ばかりである。先日の迷宮崩壊の場は己の腕力を周囲に誇示するための舞台であるのかもしれない。
「それは失礼。こほん、――岩蜥蜴は物凄く強かったですよ。並の探索班なら二、三人は殺られてましたね。まあ僕とジャックさんの敵ではないですけど」
「そうそうそんな感じ」
「岩蜥蜴だと思ったら実は岩竜でしたしね」
「あはは、それは言いすぎだな」
「……でもランタンなら竜種だってイチコロよね」
「竜種とは戦ったことないんだよね。でもリリオンが助けてくれたら余裕だよ」
「ええ、きっとそうよ。ランタンとわたしの二人なら」
大言壮語も甚だしい二人の会話にフリオは大笑いして楽しそうに頷いた。
「そんぐらいジャックも切り替えが速いとありがたいんだけどな」
「何かあったんですか?」
「ああ、あの馬鹿つまんないことで落ち込んでんだよ」
なんでも迷宮が崩壊したあの日、ジャックはランタンたちに合流する前にもう一戦こなしていたらしい。その時に戦場を共にした名も知らぬ武装職員が死んだそうだ。ジャックと別れた後に。
ランタンは、ふうん、と呟く。リリオンは、あら、と声を溢した。その声はどちらも素っ気ない。
武装職員、つまるところの戦士の死は特段に心動かされるような関心事ではない。近しい人間ならばさすがに別だが、フリオの話を聞く分にそう言うわけでもないようだった。
戦士は死ぬものだし、場合によってはそれすらも仕事のうちである。例えば目の前で死んでしまった、死なせてしまったのならば落ち込みもするだろう。けれど別れてからではどうしようもない。
「お優しいんですね、ジャックさん」
「良くも悪くもね。だからさ、ま、慰めてやってほしいのさ」
フリオが案内したのは一つの酒場であった。大通りから二つ道を外れたところにひっとり佇むようにある。
重苦しい両開きの扉を半分ほど開くとフリオはするりと中に滑り込む。それが作法なのだろうかと、ランタンはフリオが手を放して閉じようとする扉を慌てて押さえた。そして半開きを保ちリリオンを先に入れた。ランタンは扉の隙間から溢れる喧噪を肩でこじ開けるようにして続く。
ごちゃごちゃした臭いがする。アルコールと料理と、独特な人の臭い。
店には窓はなく、唯一ある窓と言えば入り口の扉に嵌められた曇りに曇った色硝子だけだった。天井も低くて、換気が悪いのか臭いが篭もっている。店の味と言えばそれまでだが、好き嫌いが分かれそうな店である。ランタンはあまり好きではない。
店内は隠れ家のような独特の雰囲気があって、店の隅でジャックは隠れるようにして酒を飲んでいた。店内は繁盛しているが、ジャックの落ち込む丸テーブルにはその陰気な雰囲気を避けるようにジャックともう一人しかいない。
二人は豆料理を肴にちびちびと酒を舐めている。
「な、重傷だろ? でも慰める前に注文な」
「柑橘系の果実水で」
「わたし麦酒がいい」
飲酒に関する法律はなく、ランタンが好んで飲まないのであまり二人の食事に酒が出ることはなかったがリリオンはいける口である。店主に大きな陶器製のジョッキで果実水と酒をもらい、ランタンもリリオンもその冷たさに驚いた。
「店の裏の井戸が異様に冷えるんだよ。たぶん冷気的な呪いだな」
「テメエなあ、何度言やわかんだよ。冬の精霊の祝福だっつうの」
店主はむちっと太った亜人の男で、それが豚なのか猪なのかランタンには判断が付かない。禿頭でもちもちしたピンクの肌は豚のようだったが、頬肉に埋もれる牙は小さくとも猪のそれである。半分半分で血が流れているのかもしれないが、混合獣人族なんてものをランタンは見たことがない。
「あと今週のお勧め持ってきて。あっこにいるから、美味いの頼むよ」
フリオは全くこちらに気が付かないジャックを指差した。店主は肩を竦めるが、首が肉にめり込んでいて何だか窮屈そうだった。
今週のお勧めって何だろうね、と会話を交わしながらジャックに忍び寄る。
ジャックと相席するのは犬耳の女で、女は酒を片手に呆れるような視線でジャックを眺めており、ジャックと言えば豆料理を手づかみで食べている。一粒一粒指先に抓んで口に運ぶ様子に落ち込み具合が見て取れた。
「あ、フリオ。と――」
女とジャックの視線がフリオからリリオンへ、そしてジャックはリリオンを見て隣にいる頭巾の中身を察したようで、げえ、と声を発した。そんな酷い反応もないだろう、とランタンは頭巾を外した。
「こんにちは」
「なんでいんだよ」
「落ち込んでいると聞いたので、お慰めに。ね」
「うん、元気出してください」
リリオンが無責任に胸の前で拳を握った。ジャックは、ああおう、としどろもどろだ。
ランタンは視線を犬耳女に向けて、ご一緒してよろしいですか、と微笑んだ。女は口に運んだ酒をぶっと吹き出して、げほげほと噎せている。たぶん頷いているのだろう、と勝手な解釈をしたランタンは椅子を引いてリリオンを座らせる。そしてその隣に腰を下ろすと、フリオはわざわざランタンの隣から椅子を引きずってジャックの逆隣に座った。
「フリオ! なんでランタン!?」
気管に入った酒を排出してようやく落ち着いた犬耳女がフリオの襟首を引っ掴んで怒鳴るような剣幕で叫ぶ。指差されたランタンは、ご迷惑でしたか、と殊勝な様子で弱気な表情を作った。
犬耳女は慌てて首を振る。
「ぜんぜん大丈夫! こいつが陰気くさかったからちょっとビックリしただけ。私はウェンダよ、よろしくね。二人とも。ランタンと、リリオンよね?」
「はい」
犬耳女のウェンダはもう殆ど中身のないジョッキで二人と乾杯するとやけくそのようにジョッキの中を空にした。そしてカウンターを振り返って叫ぶ。
「おかわりちょうだー……い?」
その尻すぼみに何かあったのだろうかとランタンも振り返ると、そこには獣の瞳があった。
頭巾も取って開けた視界。よくよく店内を見回してみれば、店主が亜人ならば給仕も亜人で、酒を飲み料理を喰らう客も亜人ばかりであった。それも獣系の亜人族が大半を占めていて、犬猫兎に牛豚羊と多様性に富んでいたが人族はランタンしかいない。
亜人族共同体である。
被差別者だった歴史のある亜人族は、公式な種族的和解をした現在でも人族と距離を取ることがあり、また人族にも人族だけで集団を作る傾向がある。
積み重なった歴史はそうそう無しにできるものではなく、数多ある探索班の中で種族混合の探索班は少ないわけではないが、人族と亜人族の比率がほぼ五分であることを思うと決して多いとは言えない現状があった。
フリオに案内されてやって来たとはいえ二人は侵入者であることは間違いなかった。それともランタンの姿に驚いているのか。視線の中にある感情は驚愕も興味も、友好も敵意もある。
妙な緊張感のある沈黙が、一人の酔っぱらいによって破られる。
「ああ? なんで毛無しのガキどもがいるんだよ! おいフリオ!」
毛無とは獣系の亜人族が口にする侮蔑だった。
例えばジャックのように獣の血が濃い獣系亜人がウェンダのように頭部の耳でしかそうとわからないような血の薄い同族に向ける場合もあるが、基本的には人族に向けられる言葉である。
毛皮どころか、牙も爪も持たない脆弱種族への侮りだ。
男は ども、と言ったが酔いの回った瞳はランタンばかりに向けられていて、その視線に反応したのはリリオンだった。ランタンを視線から守ろうとするように音を立て椅子を蹴った。そんなリリオンの外套を引いて、ランタンは今にも飛びかかりそうな少女を引き止める。
ランタンのちろりと唇を湿らせたその仕草に酔っ払いが、なんだよ、と声を荒げた。
「ふふふ、毛無しって、おじさまに僕のをお見せしたことありましたっけ? お盛んなのはご自由ですけど、他の子と間違えちゃいませんか?」
そう言っていやらしく笑ったランタンに酔っ払いはいよいよもって酔いが回ったように顔を真っ赤に染めた。怒りと羞恥。
頭上にある兎の耳がぺたんと倒れる。
最初に笑ったのはフリオで、すぐにウェンダがそれに続く。カラッとして明るい笑い声は場を征するためのものだ。
誰かが口笛を吹いて囃し立て、それを合図にするようにして次々に笑いが溢れる。
酔っ払いの性的嗜好を揶揄するような言葉が投げかけられて、中には稚児趣味野郎とランタンとしても聞き捨てならない言葉も飛び交った。リリオンの耳を塞ぎたかったが至近距離からの音速攻撃にはさしものランタンも対処できない。
緊迫感が雲散霧消して妙な気配はうやむやになった。気が付いたら店の隅の丸テーブルこそが店の中心であるかのように人の輪ができている。
ジャックがむすっとしながら酒を呷ると、いい加減に機嫌を直せよ、と同族の男が親しげに肩を組んだ。場の流れを下から変えるために、ランタンがジャックの事情を暴露したのだ。
ランタンは申し訳なく思いながら今週のお勧めである迷宮兎のソテーを口に運んだ。この兎は先日にランタンが仕留めたものだ。ランタンが所有権を放棄したその死体をジャックが持ち込んだらしい。
結構日が経っているけれど腐ってはいなかった。
内臓を抜き、骨ごとぶつ切りにして火を通しただけの兎肉は淡泊だが、肉質はやや粘り気があってしっとりしている。ジャックが摘まんでいた豆料理もそうだがこの店の料理は酷く塩胡椒が利いていて、リリオンはもう二杯目の麦酒を煽っている。
「そうですよ。戦士が死ぬのは日常茶飯事なんですし、お友達ってわけでもないんでしょう? 別に知らん人の死を悲しむなとは言いませんし、みんなだって死んだその人のことをざまあみろって言ってるわけじゃないんですから。一通り悲しんで死者の魂を悼んだら、あとはさっさと日常に戻った方がいいですよ」
「そうそう探索班の一人が死者に絡め取られると、探索班ごと未帰還になりかねえからな。切り替えろよ」
年長の探索者がジャックの頭を小突くと犬頭は、うす、と頷いて骨ごと兎を噛み砕いてジョッキ一杯の麦酒を一息に煽った。それこそが死者への手向けであるように。
唇の端から溢れて体毛を濡らす滴を拳で拭う。
「けど職員殺しか、最近出てなかったけどよ。やっぱアンタンドウかね」
アンタンドウって何だろう、とランタンは果実水を舐めながら会話に聞き耳を立てる。変な名前の魔物だろうか。固有名詞を理解することは難しい。
「いやあ、でも迷宮崩壊に合わせて動くってのは解放戦線の手口でしょ?」
「死体が晒されてたんだろ。解放戦線はそんなまどろっこしいことはしねえよ」
また新しい単語だ、とランタンが素知らぬ顔をしているとふとジャックと目が合った。
「何か勘違いしてるみたいだけど、職員を殺したのは襲撃者だぞ」
「あ、そうなんですか? ふうん」
ざわ、と大人しい顔をしていたランタンに視線が注がれる。なんですか、とランタンは表情を硬くする。
「ランタンってアンタンドウ知らないの? お前さん何人もメンバー殺してなかったっけ?」
「襲撃者の区別なんか付きません。獣の顔と同じぐらいに」
「おーう、誰かこのクソ生意気な毛無のガキに教えてやってくれませんかね」
一人の亜人がやれやれとランタンを指差し、お前も知らないだけだろ、と突っ込まれて一笑いが巻き起こる。ジャックが鬱陶しげにそちらを見つめて、溜め息とともにランタンとその隣のリリオンにも説明をくれる。
「襲撃者って一纏めにしても色々派閥があるんだよ。その一つに反探索者ギルド同盟ってのがあんだよ。略してアンタンドウ、名前の通り探索者ギルドを毛嫌いしている」
「その辺はテス姉が詳しいわよ。テス姉は高額賞金付きで的かけられてるし」
「ねーちゃんは殺しすぎなんだよ……」
ウェンダがテスの名を口にすると、ジャックは項垂れて口を噤んだ。
「アンタンドウが襲撃者派閥の中じゃ一番でかいね。テスさんが殺しまくっても無くなんないぐらいに。貴族からも資金が回ってるって噂というか、誰もが知る秘密があるんだけど。誰もが、じゃなかったね」
何で知らないんだよ、と誰かが言う。
「襲撃者の顔を見て殺るかどうするかなんて決めませんし、そもそも興味が」
あっさりと言い放ったランタンに周囲はやんやと盛り上がる。俺もそんなこと言ってみてえと茶化す者もいれば、迷宮に引きこもりすぎなんだよと小言をくれる者もいる。
「もう一個でかいのが迷宮解放戦線だな。これは外殻の破壊が目的で、迷宮の開放をお題目にしてる。はっきり言って頭おかしいから関わらない方がいい」
「ねえねえ、かかわった方がいい襲撃者っているの?」
酒精に頬を薄赤くしたリリオンが、甘えるようにランタンの裾を引っ張った。
そのもっともな疑問に酔っぱらいたちが、そうりゃそうだ、と騒ぎ出して混沌はいよいよと加速していく。ジョッキを傾ければ半分以上を溢してしまうへべれけが、酒臭いげっぷを吐いてランタンに顔を顰められて女性陣にはしらっとした視線を向けられる。
探索者がこれほど酔うとは余程の量を飲んだのか、それとも度数が高いのか。
気付けば三杯目に口を付けるリリオンは、少し頬が赤いだけで平然としたものである。
「いやでも、居んだよ。ほら、ランタンが前にぶっ殺したカルレリ・ファミリーっていただる?」
文字通りに呂律の回らぬ口調が鬱陶しい。
へべれけはランタンの肩に手を回そうとしたが、ランタンはそれを物凄く素っ気なく払った。指先で男を突くと、男はふらついて二、三歩下がった。ランタンが、困ったな、というような表情を作ると獣耳の女性たちが甘やかしも良いところで守ってくれた。その先鋒であり大将であるのは獣の耳を持たない少女であるが。
「あれの親玉が黒卵つーんだけど、そこの所属の襲撃者はぶっ殺すと高確率で麻薬が手に入る。コレは積極的に狩るべきだら?」
「……同意を求められてもね。僕は麻薬使わないし、っていうか癖になるからあんまり頼っちゃ駄目ですよ」
「わあってるよ、ひひ」
心配するランタンの視線をへべれけは煩わしそうに追い払う。へべれけは絶対にわかってはいないが、それによって身を滅ぼすのは個人の自由なのでランタンはそれ以上は言わなかった。へべれけはぼんやりと天井を見て、急に口を押さえるので慌てた仲間に店の外へと連れ出された。
「あーあ、リリオンはあんまり飲み過ぎたらいかんよ」
「平気よ。これ薄いもの」
「フリオさんを破産させないようにね」
「うん」
「やっべ奢りだった」
フリオがジャックに幾ら持っているか聞いているが素気なく突き放されている。ウェンダも完全に無視をしていて、リリオンは変わらぬ速度でジョッキを空けた。おかわりくださあい、と甘い声が店内に響く。
「あんまり飲むとおしっこしたくなるよ」
「がまんできるから平気」
ランタンはリリオンに生えた泡の髭を指で拭った。
一人がランタンに尋ねる。
「なあ二人って探索でもそんな感じなん?」
「なんですか藪から棒に」
「いや、ランタンってどんな風に探索してんのかなって。攻略ペースも速いし、何か秘密でもあるのかなって」
それを聞きたい探索者は多いらしく、酔っ払っていた者たちも、そしてジャックさえもじっとランタンを見つめた。ランタンはジョッキを傾ける。中身が酒ではないので、酔った振りをして適当にはぐらかすこともできない。
「別に秘密もありませんし、普通だと思いますけど」
「……普通はあんなに攻略ペースは速くないの。例えばさ、さっき麻薬には頼らんって言ってたけど、完全に素面で行くわけじゃないだろ?」
「薬に頼るのは最終目標戦後ですよ。治癒系の魔――」
「は?」
聞いた探索者が変な顔をして言葉を失い、恐る恐るジャックが代弁した。
「最終目標戦の前に活性薬とかは」
「飲まないですけど……」
妙な雰囲気になってランタンが戸惑って答える。
ジャックはリリオンに運ばれた満タンのジョッキを奪い取って一気飲みした。ああ、とリリオンが悲鳴を漏らす。ジャックは心を落ち着けるように一つ息を吐く。酒臭さにランタンは眉根を寄せた。
「お前、――何で生きてるんだよ」
「生物学的な話ですか?」
ランタンはわざとらしく小首を傾げた。リリオンがおかわりを頼む。周囲はざわざわしている。
ジャックはと言うと落ち込んでいた残滓も既に失って、ただただランタンの微笑みに引きつった表情を返すばかりだ。




