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目を奪われる。
雲間より覗いた夕陽の赤が視界の全てを染め上げるように、ミシャの視界の全ては鮮烈な戦闘風景にその一切を埋め尽くされていた。リリオンの背中越しに馬鹿みたいに口を開けて息をすることも忘れていた。
ランタンがその華奢な小躯とは裏腹に、異様に戦えることは知っていた。
単独探索者をやるような人間が弱いはずがないと当たり前に知っているはずだったのだが、それでも実際問題ランタンの戦いぶりを目の当たりにすると、己の知っている森羅万象の法則全てが崩れていくような気がした。
ランタンとミシャの身長はそれほど変わりはしない。女としての矜恃がそれを認めることを拒むが、顎や首、たまに触れる肩の辺りの輪郭線を確認すると体重はいくらか少年の方が軽いように思える。色々あって最近は少しその差が大きくなったような気もする。ランタンの体重は一定であるのに。
とは言えその差も目の前の巨大な蜥蜴と比べるのならば大した問題ではない。引き上げ屋をやっていると重量には敏感で、ミシャは彼我の体重差がおよそ六十倍ほどだろうと目算する。それが突っ込んでくる。
赤ん坊を想像させるむちっとした腕が地面を掻いて振り回されて、その度に地面が抉れて後方に吹き飛んでいく。鈍重そうな巨躯が思いもよらぬ速度で接近してくる。地面が揺れてミシャは知らずリリオンの背を掴む。
驚きであって恐怖ではない。
蜥蜴は餌にもならぬ小さな虫を潰すように、肉の詰まった重量級の腕を地面を揺らすそ勢いのままにランタンへと叩きつけた。その腕が強力なバネ仕掛けを踏んだように、己が背を飛び越えるように弾かれる。
それでも蜥蜴は止まらない。今まで蓄えた速度が蜥蜴の巨躯を慣性の法則に則って前へと進め、ミシャはやはり世の原理法則が崩壊したのだと思った。
突っ込んでくる巨大な蜥蜴が、直角に方向転換をした。扁平の頭部が拉げ、全身の鱗が衝撃を伝えて波打ったのをミシャは目撃した。
目撃したのにもかかわらず、ミシャはそれがランタンの戦鎚によって引き起こされた現象だとは信じられなかった。
「すっごい……」
呼吸の代わりに呟いたそれは、感嘆と言うよりは呆れに近く。
ミシャは戦うランタンを初めて見た。
ある時は探索者に絡まれ、ある時は襲撃者に絡まれ、ある時は破落戸に絡まれ。よくもまあこんなに声をかけられるものだとミシャが心配するより先に呆れるほどに、ランタンは気弱そうな小躯のためかよく喧嘩を吹っ掛けられる。
それらとランタンは戦うことはない。
そこにあるのは一方的な仕置きであり、近くは関節を外すに留めることが多くなったが、ミシャが目撃して悲鳴を上げた時には、ミシャを安心させるかのように笑いながら頭部を砕いた。あんなものは戦いではなかったし、この少年を薄気味悪く思ったのも今にしてみれば懐かしい。
小躯が蜥蜴を飛び越える。黒い外套の揺れは、悠然と羽ばたく黒鳥の翼に似ている。
外套の下ですっと伸びた腕が戦鎚を振り回す。黒色の鎚頭が風を切ると白い暈が掛かる。蜥蜴を打ち付けると、直撃と同時に紅蓮が迸りミシャの目を焼いた。遅れて破裂音が睫毛を震わせる。それでもミシャは目蓋を動かすこともない。
意識して目で追い続けていても、視界の中から一時消えてしまう。ランタンの速度に眼球運動が追いつかない。小さな身体を意のままに操っている。身体が小さいからこそ、その隅々まで意識を浸透させることができるのか。
「はあ……」
それにしてもランタンの戦う姿は。
格好良いかもしれない。
ミシャはびくっと身体を震わせた。焦点をランタンに合わせて狭まっていた視界がばっと開けて、ミシャは思い出して喘ぐような呼吸を繰り返した。リリオンを掴んだ掌が湿っていた。慌てて服で掌を拭う。
戦っているのはランタンばかりではない。ランタンの知り合いだという犬人族の探索者もいる。
「ねえ、リリオンちゃん」
自らを守ってくれている少女の背から抜け出して、ミシャはその横に並んだ。声をかけて顔を見上げるとリリオンは唇を結んでいる。噛みしめるような唇はへの字を書いている。
盾は前で、時折跳ね飛んでくる石塊が起重機にぶつかるのを防いで微動だにしない。剣は鋒を地面に突き立てるようにゆったりと下げて、肩幅ほどに開いた足は左前。
少女はやや半身となって構えている。視線はずっと戦闘から逸らされることなく、ミシャが呼びかけたことにも気が付いてはいない。
「リリオンちゃん」
ミシャは剣を握る手に触れた。骨張ったが手が震え、その瞬間に獰猛な気配が膨らんだ。リリオンが反射的に剣を振り上げようとするのが感じられ、ミシャはそれを強く押さえ込んだ。
例えば起重機で高重量の荷を引き上げる時、手の中で操るレバーには強烈な反発力が存在している。ミシャはそれを技術ではなく力で押さえ込む。そんなミシャにでさえ、リリオンの手はまるで暴れる虎を抱きとめるような印象を抱かせた。
あと一秒、リリオンが力を抜くのが遅れたら弾き飛ばされていた。それでもミシャの引き上げ業で鍛えた細腕は、リリオンが理性を取り戻す一瞬を稼ぎだした。
額を拭って大きく息を吐きたいところだが、ミシャはそのままにこりと笑った。
「そんな風にしてると息詰まっちゃうよ。はい、深呼吸」
語尾の跳ねる独特の敬語は噛み殺し、同年代の友人に語りかけるように気兼ねなく声を発する。
鼻から息を吸って、口から吐き出す。吐く時に唇から赤い舌が零れた。リリオンは犬のように素直に何度も深呼吸を繰り返した。
ランタンから与えられた命令に気負いがあるのだろうか。まだ少し表情が硬い。開いた口から出る声が少し低いのは、深呼吸をしてなお止めていた呼吸が戻らぬためか。
「ミシャさん、なに? わたしがちゃんと守ってるから、心配しなくても平気よ」
「うん、ありがとう。頼りにしてる。ちょっと、あの犬の人の名前は何だったかなって」
「……ジャックさんのこと?」
「ああ、そうだ。ジャックさんね」
口の中で名前を転がしながらミシャは戦いに目を向ける、引き摺られそうになる視線を意思の力は引き千切り、それでも景色全てを見ようと視界を広く取ったのはランタンに焦点を合わせぬ代わりに、その姿を視界に含めるための姑息であった。
大理石模様の長毛種。尖った耳の先から、犬足に尖る爪の付け根までしっかりと体毛に覆われている。血の濃い亜人探索者に良く見られる深い前傾姿勢の構え。
それを四つ足で歩いていた時の名残だと差別的に揶揄する者もいるが、多くの亜人はそんな揶揄を無視して己の血によってのみ体現する戦闘姿勢をむしろ誇っている。人族の身では転倒しかねない前傾姿勢を実現するのは、人族を圧倒的に上回る身体能力によるものである。魔精によってその力差が埋まっても、生来備わっている特殊な肉の付き方を再現することはできない。
けれどランタンの戦い方を奔放とするのならば、ジャックの戦い方は堅実である。基礎身体能力の高さに驕ることなく、超攻撃的に見えるその前傾姿勢とは裏腹にジャックの戦い方は危なげがない。
常に余裕を持って、危険を冒さず、だが弱気なわけでもない。
ジャックのナイフは確実に蜥蜴の命を削ぎ落としている。
「ジャックさんとランタンさんは仲良いの?」
「まだ一回しか話したことない、と思う。たぶん」
「へえ、そうなんだ」
その割には連携が繋がっている。役割分担がはっきりしているからそう感じるのだろうか。
ランタンが蜥蜴を殴打し、そのまま駆け抜けていく。鱗が砕けてきらきらと舞い散り、それがまるでランタン自身が輝いているような妙な雰囲気を感じたのはミシャの贔屓目か。
ランタンと入れ替わるように、鱗を失った肉体にジャックがナイフを突き立てて切り裂く。
青い血が溢れて、蜥蜴は己が血溜まりに泳ぐようだ。
四肢が無残に刻まれている。特に後肢は損傷が酷く、膝から下は骨だけで繋がるだけで力を失って萎んでいる。蜥蜴は獲物を丸呑みにして消化不良を起こしている蛇のように蠢いていた。
「わたしなら……」
ぼそっとリリオンが呟く。リリオンは自分が呟いたことにも気が付かぬように、ミシャと会話を交わしながらも戦いから目を逸らすことはなかった。ランタンを目で追っているわけではない。ミシャと同じように戦闘の全体像を見てるようだった。
「ふふ」
ミシャはそれに気が付いて、自然と黙り込んだ。
リリオンの淡褐色の瞳にむらむらとした感情が見え隠れしている。
嫉妬。
リリオンは守りを任されたことに嬉しさと責任感を抱くと同時に、ランタンと並び立てない事へのもどかしさも感じていた。共に戦っているジャックを羨ましそうに、そして恨めしげに視界に収める取り繕うともしない素顔が幼い。
だがそれだけではない。
ミシャはリリオンに愛おしさを感じた。抱きしめて髪をくしゃくしゃに撫で回してやりたい。ランタンが甘やかす理由がよく判る。あとで起重機の座席に隠してあるチョコバーを食べさせてあげようと思う。
リリオンはジャックの戦い方を見ている。ランタンと上手く戦えているその動きを目に焼き付けている。自らを高めるために、いつ戦いの中に名を呼ばれてもいいように。
リリオンは瞬きもせず、構えも解かず、ずっとそれを見つめ続けている。
老人が一人。男が一人。女が一人。
三人の手首で枷のようにギルド証が揺れる。老人のものは黒いほどに年季が入り、男の者はまだ輝きがあり、女のものは薄汚れている。
そこは迷宮特区を一望できる特等席だった。
迷宮特区を囲む外殻は東西南北に堆い連塔を設け、その南と北の連塔には巨人も通れる門を抱いている。
外殻は内部を迷宮特区を守護する各所属の兵士たちの待機所として、塔はその司令部としてそこにある。また外殻自体は物理的に魔物を塞き止める防波堤であり、魔道的に迷宮を封じる円陣でもある。
ゆえにおいそれと無関係な人間が入り込むことはできず、侵入が見つかれば問答無用で叩き斬られるか、それならばまだマシな部類で生け捕りにされたが最後、侵入の理由はおろか脳の中身を一言一句言語化して吐き出すまで苦痛から解放されることはないとまで噂される。
それは事実でもあったが、無断侵入を未然に防ぐための脅し文句でもある。
老人はその昔、幼い頃に塔の一番上から迷宮特区を見下ろしたことがある。
こそりと塔に忍び込んだら、三秒後には見つかって、泣きに泣いたら首根っこを引っ掴まれて塔の一番上まで連れて行かれた。その時は確実に塔の一番上からぶん投げられるのだと思ったものだが、その時に首根っこを掴んだ守護兵士は、もう泣き止め、と迷宮特区の景色を肩車さえして見せてくれた。
その迷宮特区はこの都市のものではなかったが、そこにある営みはあの頃と変わらない。もう六十余年も昔のことだ。
あの頃は幼さ故の無害から侵入を許され、今はその武名によって塔の最も高いところへと案内された。西日による赤い逆光を嫌って西の塔を所望すれば一も二もなく頷かれ、共として若い二人を指差せばどうぞお好きにと掌を見せられる。
二人が競い合うように迷宮特区を見下ろして、女が嫌がらせに男の背をど突く。落っこちそうになった男は女の手を乱暴にはね除けた。若々しい騒々しさは微笑ましくも鬱陶しくもある。
特区では迷宮の崩壊に伴い各所で幾つもの戦闘が発生していたが、崩壊した迷宮から一定以上の距離をあけるとそこには穏やかな日常がある。迷宮崩壊の封じ込めはほぼ完全に成されている。それはこの都市の探索者ギルドの練度の高さを現していた。
この場へと案内をしてくれた守護兵士の話を聞くに、殆ど手つかずの迷宮が崩壊し、そっくりそのままが特区に溢れ出したのだという。湧出した魔物の総数は百ではきかないだろう。
治安維持局はその名に恥じぬように魔物の移動経路を少数戦力で塞いでいる。幾つかの防衛線を抜かれてもいたが、致命的な後逸は殆どない。結局は袋小路に追い込んでいる。
「うわあ、すげえすげえっ」
女が身を乗り出して歓声を上げた。男はうるさそうにしてそれを睨んだが、歓声を上げた女は全く気にも留めない。その視線に気が付いているのにもかかわらず、男が居ないものとして振る舞っている。
「あの犬の人すげえな。怖えー」
男の苛立ち混じりの溜め息が老人の耳に響く。
岩蜥蜴と戦っている犬人族の働きぶりは確かに良い。個人的な好みを言えばやや積極性に欠けるようにも思えるが、それがあの探索者の性格なのだろうし、探索者としての振る舞いで言えば二重丸である。
探索者の戦いは魔物を殺してそれでお終いではない。その屍を踏み越えて、あるいはそれを背負いながら更に迷宮の奥へと進まなければならない。戦いを急いで体力の消耗を少なくすることは重要だが、体力の消耗を嫌った挙げ句に怪我をしていては世話がない。
怪我を治すような魔道薬は若い探索者にはむしろそれが致命傷になりかねない金額で、疲労を取る魔道薬ならば多少懐が痛む程度で済む。
女が一際高く歓声を上げた。
「いい加減にしろ。そんな騒ぐほどじゃないだろう。結構やるのは認めるが」
男がいい加減我慢できないというように、女に向かって怒鳴った。女は気の強い瞳で男を見上げる。
「はあ? マジで言ってんの。力の差もわかんねーのかよ。お前より圧倒的に強いだろあの犬の人」
ずけずけとした遠慮の無い物言いに、男が流石に表情を歪めた。女はへっと唇を曲げて挑発的に笑い捨て、調子外れの口笛を吹いて囃し立てた。
「何のためにここに来たと思ってるんだ。闘技会を見に来たわけじゃないんだぞ」
「うっわ囲んでるとは言え、最終目標相手にマジかよ」
その言葉に男は一瞬言葉を失った。
「――ばかっ! 何を見てるんだよっ」
「なにって普通あっち見るだろ、派手だし」
男の生真面目さを老人はよく知っていたし、女が口の悪さほど性格が悪くないことも知っている。だが今日に限っては、更に言えば迷宮特区を見下ろしてからは、二人ともまるで酔っ払ったようにその性質を強めている。
犬の人を男は蜥蜴と戦う犬人族だと思い、女は最終目標と戦っている犬頭の兜を装備した武装職員のことを指した。それだけのことだ。
観察対象は別でも最終目標戦は嫌でも目に入る。
崩壊した迷宮から現れた最終目標は大猿の魔物である。
二面六腕二尾二足。毛は全て焼き落とされていて、それを成した魔道は塔を登り際にちらりと目にしただけだった。それでもその魔道の大威力を思い知ることはでき、それに耐えた猿の頑丈さと言ったらさすがは最終目標である。
全身に火傷を負っても戦意は萎えておらず、むしろ痛みを憎悪に変えて殺意を高めているようだった。二面から放った猿叫はうるさい二人を一瞬黙らせた。
大猿は毛を失ったことでいよいよおぞましい姿を晒した。剥き出しになった肉体は人間の身体に似ていたが、人間には到達不可能な発達を遂げた筋肉を身に纏った異躯である。
対峙するのは犬頭を模した兜を被った武装職員。黒い全身鎧に身を包み一回り大きくなった身体が、猿と比べると燃え滓となった燐寸のように頼りない。
歓喜にも似た戦意が渦巻いているようだった。
猿の頑強さ、生命力の高さは先の大魔道で証明されている。それが今や顔の一つは目が潰され、鼻が削ぎ落とされ、口腔からは血を吐き続けるばかりだった。もう一つの顔は既に無い。
六つの腕は内三つは一刀で根元から斬り落とされて、残りの三本も折れていたり指が無かったりと無事な腕は存在しない。
左脚は膝上から斬り落とされて、これはもう一人の武装職員の剣によって叩き斬られたものだ。
大猿は野太い二尾を捩るように縒り合わせて、どうにか失われた足の代わりとして直立していた。だが血溜まりに立つ猿は、それでもなお立ち向かおうとする勇壮さではなく悲壮感があるばかりだ。
最終目標は犬兜の欲求不満に生かされているに過ぎない。その身は既に試斬用の巻藁に等しい。
迷宮での最終目標戦とは違い地上で行う場合には最終目標に取り巻きが付き添う。二面六腕の猿を取り巻いたのは単面二腕の大猿の群れであったが、それらは既に肉の塊でしかない。
周囲は魔道職員を含めて十一のギルド職員が取り囲んでいる。そのどれもが恐るべき手練れで、けれど彼らが行ったのは雑魚の駆逐でしかなかった。そんな勿体ない命令がギルドから下されたとは思えず、おそらくは現場の指揮者なのであろう犬兜が我が儘を言ったのだと思う。
犬兜にはそれを許されるだけの実力がある。
それにしたって単騎で最終目標とやり合おうとは正気の沙汰ではないし、圧倒するとなると狂気の沙汰であったが。
まともな神経では辿り着けぬ高みにある。
「お前だって見てるじゃんよ」
「視界の端にちらっと映っただけだ。お前みたいに齧り付きじゃない」
「はっ、どーだかな」
「なにおうっ!」
二人が鼻頭に皺を寄せて睨み合い、老人はいよいよ溜め息を溢した。
溜め息は若々しい二人の喧噪とは全く逆の、老い枯れた小さな吐息でしかない。だがその音色に二人は途端に背筋を伸ばした。老人は笑う。
「お前らはあの死神を見ている方が為になるだろう。あれほどの戦い振りはなかなか見られるものじゃない」
老人はそう言って、好きな方を見ればいい、と突き放すようにして言葉を結んだ。
二人は岩蜥蜴の戦いに目を向けた。
犬頭と、本来の目的である小さな探索者の戦いに。
その目には隠しきれない不満が現れている。喧しさも若さならば、これもまた若さの表れだ。
「まあ、あの貧相な身体付きで岩蜥蜴を吹っ飛ばすのはなかなかのもんですけど、そんなに騒ぐほどの探索者ですかね」
「自分もそう思います。あんな無鉄砲な戦い方をするなんて、探索者の風上にも置けない。なぜあんな奴を……」
小探索者が探索から帰還すると知ったのは今日のことで、一目見ようと慌ただしい探索者ギルドに無理を言って塔に登った。ただ姿形を確認するだけの腹づもりだったが、思いがけぬ幸運によりその戦いぶりを見ることができた。
老人としては迷宮に持ち込む幸運のお守りがどんなものかと下見をする程度の軽い気持ちだったのだが。
なんだあれは、とその姿を見つめる。
性別の区別も曖昧な年端もいかぬ子供の顔。線の細さや肌の色は蝶よ花よと甘やかされる女のそれで、とても戦う男のものとは思えない。しかし戦場を縦横無尽に駆け回り、岩蜥蜴の鱗を砕いて回るその手口は鬼に似て強引だ。
ちぐはぐな印象。
男は危険を顧みないその戦い振りを探索者の風上にも置けないと称したが、それはわりと老人好みである。身体の動きは淀みなく、危険を顧みずとも直撃を受けぬ身のこなしは目が良いからだろうか。
二人はその戦い振りに口々にダメ出しをして、それは確かに納得するところもある指摘であった。だがそれにしても言葉の多くは自分たちに言い聞かせているようでもあり、二人はその事に気が付いていない。
悪く言って扱き下ろし、派手な戦いに目を向けて無視しなければ、視線が吸い寄せられてしまうことを本能的に悟ったのだろう。若い気の強さが、それを認めたくないのだろう。
「どう思われますか」
二人揃ってへばり付くような視線を引き剥がして、男が人に意見を求めた。
「若いな」
誰がとは言わず一言呟く。添えた苦笑に二人が声を詰まらせた。
最終目標の頸が落とされるのと、岩蜥蜴が沈むのは殆ど同時だった。犬兜の二刀は血脂を拭われるとさっと鞘に収められたが、青に染まった戦鎚は小探索者の手の中でぐるりと回った。血を払って、勿体ぶって大仰な動作で腰に収めた。
芝居がかった仕草は戯けているようだが華がある。
「ふん、格好付けめ」
「付く格好があるだけテメーよりはましだな」
戦鎚を振って跳ねた血に犬頭が小探索者に詰め寄っている。小探索者の笑顔が零れる。花のような笑み。
よくわからん。
老人はこの歳になるまでに多くのものを見てきたのでそれになり眼力はきくと自負している。
だがそれでも、あれは人か、と思う。
夕日の赤が血に見える。
老人と二人が塔に登るより前、情報収集に勤しんでいる頃に女は三人と別れて、二人の従者を連れて挨拶に向かった。扉の前に従者を待たせて、招き入れる声を頂戴してから扉を押し開く。
懐かしい尊顔に深く頭を下げると女の赤毛が首を巻くように垂れる。
よい、と一声は冷たい。
「ご無沙汰しております」
「ああ、久しいな。ヴィクトルのことは聞いた。残念だったな」
積もる話はあったが、掘り返されるのは一年と半分以上も昔の訃報である。女は胸に小さな痛みを抱き眼差しを伏せる。
「いえ、兄の修練が足りなかっただけのことです」
「そうか、……それで宝剣はまだ戻らないか」
「はい、恥ずかしながら」
伏せた眼差しを持ち上げると女の緑瞳は思いがけず力強い。それを見て相手は生来のものである怜悧な表情を甘く緩めた。
「それでこの地に?」
「はい、……誠に恥ずかしながら占術師に頼ったところ、彼の地にて光あり、と」
「占術? ほう、お前が占い頼みとはまた珍しい」
占術師と魔道使いは、その呼び名において胡散臭さはどちらの違いもないが、技の果てが可視化される魔道と違い、占術はいわゆる当たるも八卦当たらぬも八卦の気休めに過ぎない。
過去に多くの王侯貴族は占術師を召し抱え、場合によっては死命の掛かった戦闘においてさえも占いの結果を戦術、戦略に組み込むことがあたりまえだった。だがそれも既に遥か過去のことで、今では慶事の日取りを決める験担ぎ程度にしか使用されない。
命を預けるに足らずと占術師の尻を蹴っ飛ばしたのは実際に血を流す兵士ではなく、彼らを現場で預かる指揮者であった。
武門の誉れ高い家柄に生まれた女が占術師に頼ったのが余程面白いらしく、相手は薄い唇を横に引き延ばして笑っている。女が恥ずかしそうに唇を結ぶと、ようやく笑いを収めてくれた。
「おっと、すまんな。しかし占術か。お前が頼るほどなのだから余程に高名な占術師なのだろうな」
「……侍女共の噂話を小耳に挟んだのです。なんでも探し物が得意だとか」
「ほう、探し物。うってつけじゃないか。侍女共の囀りはなかなか馬鹿にできないからな。その占術師の名はなんと言うんだ? 私も知っているかもしれん」
「名は、さて知りませぬが橋桁の魔女と呼ばれる老婆にございます」
その名の通り橋の下で橋桁に背を預けて違法に店を開いている、噂では齢百を超えるという老婆であった。都市に幾つも架かる橋のどの橋桁に姿を現すか決まってはいなかったが、女は幸運にも一度家を抜け出しただけで出会うことができた。
老婆は嗄れた声で女に言った。
「魔女曰く、いと小さき彷徨う者の導きにて失ったものと相見えるだろう、と」
「橋桁」
「小さき彷徨う者とはおそらく探索者のことだと思うのですが、ご存じありませんか」
女が問い掛けると、橋桁の魔女と聞いてから何とも曖昧な表情をしていた相手が形の良い細眉を困ったような八の字に曲げた。
「――ご存じあるが、お前は知っててやってるのか」
「は、何をですか?」
「橋桁の魔女は恋占い専門じゃなかったか」
「ははは、たしかに恋人も伴侶も探し物には違いありませんが、またご冗談を。大丈夫ですよ、兄を喪ったことは哀しいですが、私はこの通り元気なのでお心遣いは不要です。ありがとうございます」
「ああ、そうか。――それなら良いんだ」
相手は片肘を突き拳に頬を乗せて女を見やる。
「あ、あの、……なにか?」
「いーや、なにも」
向けられた笑みに女は困惑する。
さてどうしたものか、と囁く相手は充分な思考の間を空けてから一人の探索者の名を告げた。
――ランタン。
女は名を繰り返した。
ミシャ、謎の人たち、謎の人たちその2。




