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ジャックが表情を歪めたのは姉に怒られるのが恐ろしかったからでも、失望されるのが嫌だったからでもない。
迷宮兎という魔物の厄介さがジャックの顔を強張らせる。
迷宮兎は獣系迷宮の上層に良く現れる魔物だ。これが地上に出ている時点でこの未攻略迷宮が全く攻略されていないことが判る。ジャックがこれを防ごうとも、魔物のいくつかは封鎖区画を抜け出したかもしれない。
ジャックは走る迷宮兎の一匹にナイフを投げつけて串刺しにすると、それを引き抜いて次の兎へと身体を踊らせた。迷宮兎は小さくジャックの臑ほどの体高しか持たない。ナイフではやや狙いを付けづらい。ジャックは地を舐めるように低く腰を落とし、追いつくと同時に迷宮兎の頭部を縦に裂いた。
断末魔すらなく、小さな脳を二分割されたことにも気づかぬように迷宮兎は二、三歩駆けてようやく倒れた。小さな身体が痙攣する様が哀れだった。
事情を知らぬ一般人が見たら、探索者の評判が下がるような所行である。
迷宮兎はその見分けが普通の兎と変わらない。耳が長く、毛がふわふわしていて、両手に抱えられるほどの大きさしかなく単体では無力な存在である。
迷宮兎は出現する迷宮によって毛色を変えて、それは壁色に溶け込む擬態である。その擬態はつまり迷宮兎の弱さと臆病さの証明だった。
探索者どころか、ただの子供ですら迷宮兎を殺すことができる。
それなりの強度がある木の棒を子供特有の無慈悲さで叩きつければそれでお終いだ。
大型のナイフも、魔精によって鍛えられた肉体も必要はなかった。だがそれでも迷宮内でこの兎の出現は、すなわち探索班の最大戦力の投入を意味した。物理攻撃ばかりではなく、広範囲の殲滅魔道すら用いられることもある。
ジャックは三匹目を追うと、それはついに逃げることを止めて愛らしい姿とは裏腹なまさに魔物といった身のこなしで振り返る。赤い眼を狂乱に輝かせて襲いかかってきた。
ジャックの優れた聴覚が冷たい叫びを聞いた。犬人族の可聴域ぎりぎりの高音は人族には聞こえぬものだ。蜘蛛の糸ほど細い弦を弾いたようなか細い絶叫。
それを吐き出した口は蛇の如き角度で大きく開き、内には鋭い門歯が立ち並んでいる。地上に住み着いた迷宮兎から知られるようになったこの生き物の食性は草食であるが、追い詰められて狂乱に達すると牙を剥いて襲いかかってくる。
柔らかい草花だけでなく、堅果や節立って硬い樹皮を容易に抉る鑿のような門歯。愛らしく膨らんだ頬は異常な咬合力をもたらす筋肉が収まっている。
それは人の骨さえも切断する。
ジャックは大きく開いた口にナイフを突っ込んだ。
「三つ!」
迷宮兎の顎の強健さ。そんなものは何でもない。
普通の兎だって必死になれば人の指ぐらいは噛み千切る。
ジャックは三匹目の迷宮兎の脳幹を破壊すると、突き刺さった兎を乱暴に振り解く。そしてすぐに四匹目へと取り掛かった。
増えやがった、とジャックは歯噛みする。
迷宮兎は仲間を喚ぶ。それがこの脆弱な魔物の最も恐ろしいところである。
なぜならば迷宮兎の増援は限りがないと、まことしやかに囁かれることがある。
迷宮兎の増援は迷宮の奥からやってくる。
それは既に迷宮に発生している迷宮兎が仲間の悲鳴を聞きつけて助けにやってくるのだとか、助けに来ているのではなく臆病さ故に仲間の悲鳴に集団ヒステリーを引き起こしているのだとか言われる。
だが無限と噂される増援のために、これを召喚と呼ぶ探索者もいる。
迷宮が自らの守護として魔物を生み出すように、迷宮兎は迷宮内に充満する魔精から増援を生成しているのだと。
増援を逆手にとってわざと迷宮兎を泳がせて、集まった迷宮兎を狩ることで金策をする探索者も存在した。一度二度は上手くいっても、それらに執着する探索班は結果的に命を落とすことになる。
逃げ出す場所のない閉鎖され限定された空間。員数、体力、装備、道具等の限られた戦闘資源。迷宮内にあって迷宮兎の増援は地獄を生み出すことがある。
一匹が二匹に、二匹が四匹にと増えるのならばまだ優しい。一匹が三匹に、三匹が九匹に、九匹が八十一匹にと増えることもある。そうなると広範囲を纏めて薙ぎ払うような長尺武器や、大規模な魔道を持ち出さなければ数の暴力に蹂躙されて鏖殺される。
それを止めるには数が少ない内に殲滅するしかない。
増援が無限かもしれない。それが噂であり続けるのは、無限の増援に出会った探索者の尽くが未帰還になったからである。
ジャックは四匹、五匹と迷宮兎の首を落とす。幸運なことに迷宮兎の増援は大人しい。辺りには迷宮崩壊と共に放出された魔精が漂っている。迷宮兎はその魔精によって仲間を生成しているのか、それとも崩壊と共に散らばった仲間を呼び寄せているのか判断は付かない。
だが最後の一匹に狙いを定めると、どこからか二、三匹の増援が現れるのである。一進一退の一方的とも呼べる殲滅戦は、しかし幸運の上に成り立つ危うさの中にあった。
殲滅にはあと一歩足りず、増援を加速度的に増やすには元の数が足らない。
ジャックは姉の誘いを調子よく躱した仲間のことを思いだして舌打ちをした。あんな薄情な奴でも今はいて欲しいと切に思う。こういう時に仲間の頼もしさを思い知る。
最悪、女になりかけたあの武装職員でも良い。
武装職員は恐らく未だあの場所で座り込んでいるのだろう。それとも迷宮兎の脆弱なその姿へ、新人探索者のような侮りを抱いてジャックに丸投げしたのかもしれない。そんな使えない男でも、もし居たら迷宮兎の逃げ道を塞ぐぐらいのことはできるだろう。
戦闘の均衡を崩すには増援が必要だった。
ジャックにも、あるいは迷宮兎にも。
最後の一匹を殺すための、あと一歩が僅かに遠いのだ。
また迷宮兎がか細く鳴いた。遠い。先にこの目の前の。そして鳴いた兎を狩る。
影から湧いたように、廃屋の影に兎が増えた。影の中で赤い眼がジャックを見つめる。辺りに点在する仲間の死を責めるようにまた鳴いた。
いよいよジャックの首筋が寒くなった。
赤い眼が再び増えた。ジャックの毛並みがぶわりと広がる。
殺意がジャックの首筋を撫でる。
その意思は封鎖区画の外からだ。気が付けばずいぶんと封鎖線の近くまで来ていた。
殺意が具現化して質量を持った。それは黒い棒状の金属。先端が尖り、迷宮兎の肉をあっさりと食い破った。次々と兎の肉体を地面に縫い付けて串刺しにしていく。
ありがたい。
ジャックは振り返りもせずに感謝を胸に、どこの誰ともしれぬ援護を無駄にしないように次から次へと迷宮兎の首を落として回った。
目の良い人だな、と思いながら二匹纏めて切り払う。
飛来する金串はジャックの攻撃範囲外にいる迷宮兎を次々と串刺しにしていく。命中率はお世辞にも良いとは言えずに六割弱。けれど外れたあとの挽回が異様に速い。串が指先を離れた瞬間に命中の成否を出しているのだろうか。
外れた串がまるで意図した誘導であったように、兎を囲い込み、二の串が三の串が兎を絶命に至らせる。
どちらに傾いてもおかしくなかった危うい均衡があっけなくジャックへと傾き、周囲から兎が殲滅されるのに時間は掛からなかった。ジャックはほっとして胸を撫で下ろす。
これで姉ちゃんに合わせる顔ができた。
ジャックは礼を言うために援護が来た方へとようやく振り向いた。
その表情が固まる。
突き放したように景色が遠ざかっていく。
ランタンは手の中で起重機の揺れに合わせながら打剣を弄んでいると、突如視線の先で巨大な火柱が立ち上がった。茜空を突き刺した火柱は煌々として、一瞬で沸騰した大気が破裂するように膨らんで周囲に熱波を撒き散らした。
迷宮がついに崩壊した。
熱に煽られて魔精が周囲に散らばり、鳥獣の魔物が火柱を巻くように空を飛んでいた。それは熱波に煽られているようにも、そこに生まれた上昇気流に乗っているようにも見える。
ランタンは打剣の一つを構えて、結局下ろした。この距離では届かない。
爆発の衝撃を打剣の尻に収束させることができればあるいは届くかもしれないが、残念ながらそのような技術は持ち合わせていなかった。普通の投擲ですらまだ大雑把に狙いを付けているにすぎない。
ランタンの心配を余所に、飛行能力を有する魔物がばたばたと墜落していった。
火柱とはまた別の魔道が空を裂いた。地上から天空に迸る紫電の一筋が三つ四つの魔物を一纏めに貫いた。魔物どもは空中に縫い付けられたように一瞬停止し、重力に身を引かれて落下していく。
燃費の悪さもピカイチらしいのだが、大魔道の殲滅能力は流石のランタンも舌を巻かざるを得ない。ランタンは舌を巻くほどですんだが、魔道に興味を持ち始めているリリオンは顎が落ちそうなほどに口を開いている。
「すごおいっ! ランタンっ、あれなに?」
「魔道」
「わたしにもできるようになるかしら?」
「んー、どうだろうね。向き不向きがあるらしいけど、頑張れば何とかなるんじゃ――」
興奮して叫ぶ声の一切を掻き消すような絶叫が聞こえた。ランタンは咄嗟に立ち上がった。危ないっすよ、とミシャが怒鳴るがまるで靴底に吸盤でもあるようにランタンは微動だにしない。
響き渡ったのは人の本能に訴えかけて不安にさせるような絶叫だった。全開で走る起重機をあっと言う間に追い越した。声は迷宮特区を囲う壁に反射して再び鼓膜を揺すった。
ランタンが思わず眉を顰める。あれだけはしゃいでいたリリオンも大人しくなった。
「酷い声。何の声だろう」
「最終目標が出たみたいっすね」
「大丈夫かしら……?」
崩壊に伴う魔物の湧出。その討伐には優先度が存在する。
最も優先度が高いのが最終目標であり、その次が飛行能力を有する魔物だ。魔物を封じ込めるための壁を悠々と飛び越えていくそれらを逃がすと、あっという間に民間人に死者が出る。それ故に地を進む魔物はないがしろにされがちだ。
最終防衛線を抜けたとしても、その外側には多くの探索者がいる。最悪、彼らがどうにかしてくれる。溢れ出した魔精と共に、絶叫を鬨の声として魔物が雄叫びを上げて四方へと散っていくのが感じられた。
迷宮の中身をそっくりそのままひっくり返したように地上に魔物が溢れ出した。
迷宮特区の中にはミシャのような引き上げ屋はもとより流しの商売人等の非戦闘職もいる。彼らは迷宮に関わる仕事をする上で危険は覚悟していることである。
ランタンの方こそ覚悟が出来ていないほどに。
ミシャは落ち着いているようだった。立ち上がったランタンの心配をする余裕がある。最終目標の声に顔色も変えない。
けれどランタンは思う。
ミシャは守る。己のためにギルド職員を押しのけてやって来たこの少女には幾つもの恩があるのだ。だが起重機の側まで魔物が来たら、ミシャを側に置いておくべきか、それとも逃がすべきかの判断はなかなかに付きかねる。
「リリオン」
「なに?」
「一応周囲に注意して。何かあったら教えて」
「わかった」
封鎖区画の中はいくつかの道が通行止めになっている。真っ直ぐに区画を抜けることができれば楽なのだが、それをするには大急ぎで組み上げたと思われるバリケードをなぎ倒さなければならない。逃げ出すためにこれを破壊し、そこから魔物が抜けてしまっては元も子もない。
「ランタン。何か、声が」
リリオンが何かを聞いたようで小さく呟く。ランタンには何も聞こえず、リリオンも確証は抱けていないようだった。少女は自信なさげに、たぶん、と付け加えた。
ランタンはそれでもいざという時のために打剣を構える。
ミシャが速度を落として排気音が小さくなる。音を聞くために気を遣ったのではなく、ただ単に道を曲がっただけだ。
だがその曲がった先に戦闘があった。
いやそれは一方的な駆除とも呼べるものであった。うずくまるような小さい生き物。耳が長く毛がふわふわとしている。その愛らしさにランタンは表情を歪めた。迷宮兎。
迷宮兎の首が切り落とされて、赤石じみた目がランタンを見つめる。
地面に染みを広げる青い血の、そこに溶けた魔精が揮発する。その生臭さに誘われるようにどこからか新たな迷宮兎の姿が現れた。周囲に点在する迷宮兎のその屍の数は、二十を超えてなお増え続ける。
駆除をしている探索者は大振りのナイフを両手に構えていた。それは犬人族の男だ。大理石模様の体毛に覆われた身体付きは、その首の上に乗っかっている犬頭と同様にいかにも獰猛そうだ。小さな迷宮兎の相手は少々やり辛そうに腰を落として、掬い上げるようにナイフを振るった。
一つ殺し、即座に次の迷宮兎へと距離を詰める身のこなしがしなやかだ。跳ね揺れる尾が柔らかそうだった。その手触りをランタンは知っているのかもしれない。
あれは、とランタンは目を凝らした。
犬頭の探索者はランタンの知る男の姿と重なった。だが獣頭を持つ亜人族を見分けることはランタンにとっては困難なことだった。遠目から、それも高速で動く相手を見極めることはなおのこと難しい。こちらを向いて二、三秒停止してくれれば良いのに、と思うが犬頭の探索者は戦闘中にそんな隙を作るような男ではなかった。
その真面目さは好ましい。
「一瞬止まって!」
「はいっ?」
「一秒で良いから!」
犬頭の探索者の実力は高かったが射程の短い二本のナイフでは、閉鎖された迷宮内と違って広々とした地上では散在する迷宮兎を全滅させることはなかなか難しい。一匹を殺る間に、増援が現れる。
じり貧だ。
「うげ」
ミシャが乱暴にブレーキを踏んで、起重機の重心が進行方向にすっ飛んでいくようだった。起重機の首がぎしりと揺れて、車体全体が前のめりになるような錯覚をランタンは覚える。リリオンは身に付けた装備の重さに内臓を潰されて呻く。
「せいっ!」
ランタンは足を踏ん張り、腰から上は慣性に身体を預けるように大きく背を反らした。両手の四指がその股に打剣を挟み込んでいる。右の手が死ぬほど痒い。ランタンはその苛立ちを殺意に変えて打剣に乗せた。世を恨んだように盛大に打剣を投げ打った。
半分当たれば儲けもの。外れることは織り込み済みでランタンは更に追加の打剣を大雑把にばらまいた。点による攻撃は未だできない。それならば面で制圧するに限る。探索者の攻撃範囲外にいる迷宮兎をランタンは次々に地面に縫い付けていった。その周囲の地面に打剣が雑草のように生えている。
「リリオン、予備の打剣よこして」
打剣は一本が十センチほどで、ランタンの指よりも一回り細かったり、二回り細かったりする。
これらはグラン武具工房の若手職人達が成形の練習として作ったものだ。そのため形が不揃いで、重心もずれている。それは職人たちの癖が出ているのではなく、ただ技術不足ゆえの安定性の無さだった。そのためいちいち回収するほどの愛着はない。あっという間に投げ尽くしてしまった。
リリオンから追加で二十四本を受け取り、腰に吊した革袋の中にざらりと突っ込んだ。それを使う必要は今のところなくなった。周囲には迷宮兎の死体があるだけで、生体の気配の一切が消え去っていた。
ランタンがほっとしたように、犬頭の探索者もほっとしたようだった。
男がゆっくりと振り返って、その犬顔の中にある青灰色の瞳がランタンを映す。
ああ、やっぱり、とランタンは頬を緩めた。
「ジャックさんだ」
「……えーっと、テスさんの弟の人?」
「うん、そう」
「お知り合いっすか?」
「うん、前にちょっとお世話になった」
「なら、しかたないっすね」
ミシャは起重機を撫でる。
ランタンが挨拶するように手を上げるとジャックの顔が驚愕に歪んだ。
ランタンも。リリオンも、ミシャも。はっと息を飲む。
地面から生える打剣がはたはたと倒れた。風はない。地面が小さく振動し、そして引き裂くような音と共にそれは大きく。
「ミシャ、起重機出せっ!」
「あんな急停止したら、急発進はできないっすよ」
大きく叫んだランタンに、ミシャはむしろ冷静に諭すように答えた。ランタンはぐと喉をつまらせるように唸って起重機から飛び降りた。リリオンが慌ててそれに続き、方盾から大剣を引き抜いた。
「わたしも!」
「うん、――いや、リリオン」
ランタンは振り返り、方盾の内側に入り込むと手を伸ばしてリリオンの頬を挟んだ。はっきりとその顔を見上げて祈るように言った。
「ミシャを頼む」
リリオンはその言葉に表情を引き締めて大きく頷いた。
「任せていいか」
「うん。――ミシャさん、わたしがんばるよ」
振り返ったリリオンの頼もしさにミシャは笑顔を作った。
「ありがとうリリオンちゃん。ランタンさんは――」
「ちょっと行ってくる。すぐ戻ってくるから原動機を温め直しておいて」
「了解っす。ご武運を」
二人に送り出されてランタンはジャックに向かって走り、急停止した。ジャックが押し止めるようにランタンに掌を向けた。その足元が、ジャックの立つ地面がまるで迷宮崩壊そのもののように爆ぜ飛んだ。
瓦礫と土埃が空に舞い、その中にジャックの姿がある。ジャックは空中で身を捩り体勢を立て直していた。傍らにある大きな瓦礫を蹴っ飛ばして、己を飲み込もうとする土埃から離脱した。
それを追うように土埃の中に影が揺らいだ。それは澱んだ水面に移る怪魚の影のような不気味さがあった。
何か居る、とランタンは反射的に打剣を一掴みにして影の中に投げつける。手の中で巻き起こった爆発が打剣を加速させる。それはちぐはぐな回転を打剣に与えたが、速度は充分だった。迷宮兎ならば直撃の衝撃で血霞になる。
打剣は土埃の中に吸い込まれ中の影に直撃した。
しかし打剣の砕ける金属音が返ってくるだけだった。
影は土埃を身に纏っているかのようだった。ランタンの打剣などものともせず、土埃の中にある瓦礫すらもまるで身体の一部のようにして影が大きく口を開いた。
土埃が逆巻き、その中からそれは現れた。
「あれは――」
ジャックを喰らおうと大きく開いた口には牙が立ち並んでいる。濃い紫の舌がジャックを迎え入れるように伸びる。開いた口はジャックを縦に飲み込むかのように開いている。
「地竜っ!?」
ランタンは思わず叫んだ。
打剣を阻んだ硬質な鱗は金属質で、全体的につるりとした印象をその魔物に与えていた。口の中にある牙はやや飛び出るように前傾しており、それで地中を掘り崩すように突き進んできたのだろう。
「いや、――蜥蜴か」
ジャックはナイフを振るい蜥蜴の舌先を裂き、反射的に閉ざされた顎門に飛び込んでその鼻面を踏み付ける。ジャックはランタンの傍らにどかんと着地した。はっはっ、と短く速い呼吸がランタンの耳朶を打つ。
ジャックの着地を百倍にしたような震動が蜥蜴によって巻き起こされた。土埃が風圧に払われて、地中から飛び出した蜥蜴がその巨体の全てを地上に晒した。
「逃がしてんじゃないよ、こんなの」
体型は山椒魚に似ている。円錐形の頭部に、べたっと押し潰されたようでありながら太い円筒形の胴体。大きく開閉する口は目元まで裂けるようであり、地響きのような唸り声を漏らすと歯を剥き出しに笑うようだった。ずいぶんと酷い凶相だ。
短い四肢の先端には、土中を泳ぐためのスコップのような爪があり、全身は細かい鱗で覆われている。喰らった鉱石を原料とした金属の鱗は天然の鱗板鎧である。
全長は尾があれば十メートルを超えただろうが、それは既に切り落とされていて濃い色の肉が覗いていた。尾を切り離して逃げ出してきたのか。それとも尾を斬られて逃げ出してきたのか。
「手負いですね」
「……見りゃ分かる」
「お久しぶりです」
「――尻尾に触るなっ! くるぞ!」
岩蜥蜴は二人を纏めて丸呑みにするように大口を開けて突っ込んできた。ばたばたと慌ただしく地面を掻く四肢がどこか滑稽で、けれどその度に切り裂かれる地面を見るとそうも言っていられない。
ランタンが尻尾に触り、ジャックはその手を引っぱたいて怒鳴ると岩蜥蜴の脇に回り込むように大きくその場から飛び退いた。そして熱式ナイフをいつでも発動させられるように構える。その指がナイフの柄をきつく握った。
「な、馬鹿っ!」
置いてけぼりにされたように、ランタンがその場に立ち尽くしているのをジャックは見て表情を歪める。
ランタンはその場で大きく足を開いた。肩幅を半歩はみ出す。戦鎚をきつく握りしめて腰を落とす。そして岩蜥蜴に背を向けるほどに、きつく腰を捻った。
抜かせない。背後にはミシャやリリオンがいる。
岩蜥蜴の一歩は大きい。あと二歩でランタンをその口の中に飲み込むだろう。一歩。風圧がすぐそこにあった。二歩目はランタンを叩き潰そうする爪の一撃である。ランタンは叩き潰すようなその一撃を弾いた。
左下から切り上げた戦鎚が岩蜥蜴の爪を根元から砕く。衝撃でランタンの足元が放射状に陥没し、ランタンの足をその場に捕らえた。岩蜥蜴は慣性のままに突っ込んで、かち上げられた腕の内側にランタンを抱いた。
この小さな生き物が、切り上げたままに振りかぶっている戦鎚をその横っ面に叩き込もうと捻切れるほどに身体を絞っているとも露知らず。
音の壁を貫いて岩蜥蜴の顔面に叩きつけられた戦鎚が、直撃の瞬間に爆発した。
「はっはー!」
笑ったランタンの喉を自らが発生させた高熱が焼き、笑われた岩蜥蜴は顔面を守る鱗をきらきらと撒き散らしながら直角の方向転換を余儀なくされた。ランタンは地面に埋まった足を引き抜いて、振れる蜥蜴の胴体を飛び越えて躱し、自らの方に蜥蜴を誘導されたジャックがランタンを罵りながらあえて突っ込む。
その鼻先をナイフで斬りつけ、その反動を使って飛び越えた。再びランタンの隣に着地すると苦々しく、笑顔を浮かべる少年を見下ろす。
「あれ? また会いましたね。奇遇ですね」
「お前、何なんだよ……」
じんじんと痺れる手を揺らしながらしれっと言うランタンに、ジャックはうんざりして答え、諦めたように視線を切った。岩蜥蜴がずるずると胴体を引き摺りながら、こちらを向こうとしていた。
「あっち側に回り込みましょうか。後ろに抜かれるのが嫌なので」
「後ろのあれ知り合いか? ならさっさと逃げるように言え」
「僕もいっしょに離脱していいなら」
「ふん、好きにしろよ」
「じゃあ好きに戦わせもらいますね」
「おま――ああ、もうっ」
再びこちらを振り向いた岩蜥蜴の横っ面、先ほどと全く同じ場所にランタンは力任せに鶴嘴を叩きつけた。砕いたはずの鱗がそこにある。再生ではなく複層になっているようだ。ランタンは鱗の隙間をこじ開けるように、鶴嘴を根元まで押し通した。
肉の収縮に先端が絡め取られる。痛みに顔を振った岩蜥蜴にランタンの身体は人形のように振り回される。鶴嘴を掴む肉が、その内部で炸裂した爆発によりごっそりと失われた。それでも致命傷には至らない。
錐もみ回転しながらあっち側に飛び越えるランタンは天地を確認して飛び越えざまに岩蜥蜴の延髄を殴打した。空中で二度回転し遠心力と重力を利用して叩きつける。
複層の鱗が破裂し衝撃が殺される。だが岩蜥蜴は痙攣するように一瞬動きを止めた。
「ジャックさん!」
言われずともジャックは動いていた。
ランタンが抉った頬肉深くに熱式ナイフを発動させて突き立てていた。顎の上下を繋げる腱と筋肉を焼き切り、その奥にある骨を炭化切断した。そして即座に離脱する。
ナイフにこびり付いた血脂が沸騰蒸発し、焦げ付きとなって剥がれ落ちた。
岩蜥蜴の顔面、右半分が切り離された顎の重みに引き摺られて地滑りを起こしたように崩れた。それをみてランタンは唇を湿らす。
「次はどこの鱗を剥がしますか?」
「関節。首。背骨沿い。あと消化液を吐くことがある。もう二度と顔面の前に立つな」
「了解」
ランタンは手の中で戦鎚を回すと怒り狂う岩蜥蜴を冷たく見据える。
ころころ変わる表情にジャックは嘆息してナイフを構えた。




