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甘い、甘い匂いがする。
探索帰りの探索者は通常酷く臭うものだ。探索前が清潔かと問われれば口を噤まざるをえないが、酷くなって帰ってくると断言するのに躊躇う必要はない。
探索中は良くて湿らせた布で身体を拭くぐらいで、そもそも汚れて当たり前なので肌を清潔にしようとすら思わない探索者が多い。鎧はもとより下着の代えすら持たず、戻ってきた時は浮浪者同然のこともある。探索班内に女性探索者が居たり、女性そのものである場合はその限りではなかったが。
だがそれに比べてこの人は何なのだろう。
薄い体臭は生来のものと、潔癖さの賜だろう。探索者ランタンは、探索直後であってもどこか清潔な雰囲気がある。
魔物の血を浴びたとてそれは変わらず、濃く生臭い鉄の臭いでさえ少年を汚すことは不可能であるように思う。背嚢の中に包帯やガーゼよりも着替えを多く持っている探索者はきっとランタンぐらいのものだが、あるいはそういったものがなくてとも思わせる雰囲気がある。
それにしたって、とミシャは思う。
ランタンからはいつにもましてひどく甘ったるい匂いがする。
まるで娼館から出てきたような鼻につくほどの匂い。鼻の付け根の辺りに匂いが篭もって頭がくらくらする。ミシャは篭もる匂いを抜くように、ふっと息を吐いた。その直前に、大きく息を吸った自分には気付かなかった。
「お帰りなさい」
「うん、ただいま」
「ま」
甘い匂いはランタンからばかり香るものではない。
リリオンからも甘い匂いがした。むしろリリオンの方からこそ、子供特有のミルクにも似た甘ったるい匂いとの相乗効果かはっきりと濃く香っていた。何故だかランタンからの匂いに先に気が付いた己を自覚して、ミシャはこっそりと照れる。
リリオンからの香りは、苺のような匂いだ。
それは今回潜っている迷宮に出現した魔物の匂いなのだろう。
例えば植物系の迷宮では香りの良し悪しはあれど芳香を放つ魔物は多く、匂いからそれを同定することは出来ない。けれど虫系の迷宮ということは、これは恐らく香蜂と相対したのだ、とミシャは確信した。
香蜂は数こそ多く出るが、それほどの脅威度を持たない。
引き上げた二人には大きな怪我がないようでミシャはほっと胸を撫で下ろす。戦闘服も汚れてはいるが、そこに赤い血の汚れはない。
リリオンは探索の絶対数がまだ少なく、それにどうにもランタンが過保護にしているようなので判断が付きかねるが、ランタンの方は紛うことなく死にたがりの性質を有しているのをミシャは知っていた。
探索者の中には多くこの性質を持つ者がいるが、その中でもとりわけランタンはその色が濃い。死にたがりと言っても本当に迷宮に死ににいくわけではない。もしそうならばランタンは既にこの世にいない。帰ってくるのは生きる意思があるからだが、それでもミシャは不安になる。
実力はあるのに探索に赴く度に、大小問わず多くの傷を拵えて帰還する探索者は死にたがりと呼ばれる。
ミシャには彼らの戦う姿を目にする機会はほとんどないが、時折目にしたり、あるいは噂として聞いた話では彼らは身を投げ出すように戦うのだという。
自らの身体を囮として、勝利を呼び寄せるのだと。
最近、ランタンは怪我が減りつつあった。それはリリオンと行動を共にする事によって戦い方に変化があったのか、それともリリオンが戦力として活躍しているからか。何にせよそれは良いことだと思うのだが、喜びと同時に不安も感じている。
最終目標を獲ってくる、と宣言をして探索に向かうとランタンは大きく怪我をする。それはまるで道中で負うことのなかった怪我の帳尻合わせをするかのようで、分割していたものを一纏めにすることで、それがいつか肉体の限界を超えるのではないかと冷や冷やしている。
とは言え引き上げ屋であるミシャに出来ることは、探索者を迷宮に送り出し、ただ探索の無事を祈り、安全迅速に迎えあげて無事を喜ぶことだけだ。
「無事を喜びたいところなんっすけど――」
「何かあった?」
「近くで迷宮崩壊があるようで、今、ここは封鎖区画内っす」
ミシャはそう告げながら二人のフックを手早く外す。
ランタンが舌打ちを噛み殺すように唇を歪めた。何とも急だね、と呟く。その声はつまらなそうだ。急な区画封鎖から何があったのかを悟ったのだろう。存外に真面目なこの少年は、他者の不真面目が余り好みではないようだ。
「ミシャさんは入ってきても大丈夫なの?」
ミシャはフックを纏め、ロープをぐるぐると丸める。
「大丈夫じゃないっすよ。ほら、あそこ。怖ーい顔している人が見てるんで、お疲れの所悪いっすけど、さっさと帰るっすよ」
怖い顔の武装職員はそれを隠すように兜を下げた。彼は侵入者であるミシャを追い払おうとしているのではなく、その身を案じているだけであった。ミシャもそれを理解しているので彼に向かって小さく会釈をして、二人の背を叩いて起重機へ走るように促した。
迷宮特区には様々な思惑が入り交じり、その思惑を示すようにギルドの武装職員、衛士隊、騎士団が警邏している。その中でミシャは最も武装職員を好んでいる。騎士団は横暴で、衛士隊は誠実だが探索者相手ではやや武力に欠ける。
リリオンがよじ登るように起重機に乗り込み、ミシャは纏めたロープを積み込んだ。そして少女の後を追い、もっと詰めて、とその背中を押した。大きな背中だ。薄く見えるのは背が高いからか、きちんと筋肉が付いていてミシャは驚いた。
ミシャが何となくその背中を撫でると、リリオンは擽ったそうにする。反応が素直なリリオンをミシャは可愛く思う。背は少女の方がずいぶんと高いが、まるで妹のように感じる時がある。
ランタンが甘やかすのも判らないではない。
そしてランタンを振り返ると、少年は怪鳥の如く跳び上がっていた。黒い外套がまるで両翼を広げているように翻った。ランタンは起重機の後部に音も無く着地した。
ミシャは起重機を動かす。
起重機をゆっくりと後退させて、迷宮口から離れる。
加速は鈍重だが、それでもぐっと身体を押さえつけられた。
リリオンが座席のフレームにしがみついた。大剣方盾の重量だけ加速が少女に牙を剥く。後部を振り返ると平気な様子のランタンが憎たらしい。
ランタンは足を投げ出すように腰掛けていて、膝から先が暢気に揺れている。
「ランタンさん。そう言えば手袋どうされたんっすか?」
揺れた足が止まった。
「あれはダメだ」
行きに見せびらかしていた黒い手袋がなく、ランタンは白い手を晒している。ミシャが目敏くそれに気が付いて指摘をすると、ランタンは手を洗うような仕草で己を撫でる。
「……かぶれたから脱いだ。欲しけりゃあげようか?」
「いらないっすけど、……ふふふ、相変わらずっすね」
少し惜しいかなという気もしなくはなかったが、ミシャの手にはランタンの手袋さえ大きいと思う。ランタンはミシャの笑い声にふて腐れたように、視線を後方へと戻した。への字に曲がった口元をミシャは見ることができなかったが、雰囲気から容易にその表情は想像が出来る。
「ランタンは、相変わらずなの?」
「ええ、前にもあったっすよね」
「知らない」
ランタンの軽装。それは最初の最初は本当に装備を調える金が無かったからで、更に言えば金属はもとより革の装備ですら少年の身体には重たかったからだ。故に探索を行い金を稼ぎ、体力が増え、革も金属も軽々と持てるようになったランタンが装備を調えた時のことをミシャは知っている。
装備に着られている感じはあったが、それでもこれで怪我が減るのだと安心したことを覚えている。その装備自体がランタンを傷つけると言うことなど、ミシャもランタンも思いもしなかった。
襟が擦れて首から出血し、篭手が擦れてべろんと甲の皮が剥け、靴の中で爪が剥がれ。それを全部迷宮に捨てて戻ってきた、迷宮口から顔を出した時のふて腐れた表情は何とも愛おしかった。
魔精による強化の追いつかない繊細さは、それこそがランタンの有り様そのものなのかもしれない。
手袋、やっぱり記念に貰っておこうかな。
そんな事を思いながらミシャが企むように笑うと、背中がぞくりとした。リリオンが背後を振り返る。ランタンが低い声で呟いた。
「なにかやばそうだ」
「速度あげます。リリオンちゃん、ちゃんと掴まってるっすよ」
「……僕の心配は?」
「いつでもしてます!」
周囲の空気が明確に重たくなった。
崩壊間近の迷宮から魔精が溢れ出して、周囲に漂っているのだろう。違いのわかる探索者に言わせるとその魔精は臭いのだそうだ。迷宮は腐り落ちるのかもしれない。腐肉が骨から外れ、ぐずぐずの汚物となって形を保てなくなるように。
崩壊は近い。すでにカウントダウンが始まっている。ミシャはフットペダルをベタ踏みした。原動機が唸り声を発し出力を上げる。起重機が加速して地面を削る。ミシャは一度背後を振り返った。
ランタンがいつの間にか手の中に打剣を用意していた。手首を回してじゃらじゃらと鳴らしている。
辺りが俄に慌ただしくなった。武装職員たちが崩壊する迷宮口の方を睨み付け、各々の持ち場へと向かって走って行く。探索者の姿もちらほらと見られ始めた。
封鎖区画から抜け出そうとする者も、逆に迷宮口へ近付こうとする者も。
緊急依頼が出されたのか、それとも現場にいる探索者を強制徴集したのか。
風がミシャの後ろ髪を引く。
それは迷宮崩壊の極直前に現れる兆しだ。引き波が大きな波を連れてくるように、迷宮口に大気が吸い込まれているのだ。迷宮口から離れても感じるこの吸い込み。これのせいで崩壊する迷宮口のすぐ傍で魔物を待ち構えることは難しく、蓋をしようにもそれはただ迷宮に餌を与えるだけの無意味な行為だ。
迷宮に吸い込まれてしまうと、待っているのは死ばかりである。
崩壊する迷宮は粉砕機に等しい。一説には崩壊する迷宮から魔物は逃げ出しているのだと言われることもある。
「きた」
震動と轟音。獣臭。腐臭。瘴気が香る。
引き上げ屋をやっていると迷宮の崩壊は珍しいものではない。今回のように封鎖区画に入り込むこともあるし、逃げ出すのが遅れて起重機で魔物を轢いたこともある。武装職員や探索者に助けられたこともあれば、魔物に襲われて死んだ引き上げ屋の話も聞く。
覚悟はしている。けれどやはりこの雰囲気は好きではない。ペダルが足を押し返してくるような気がする。ミシャは憂鬱げな溜め息とは裏腹な、乱暴さでペダルの反抗を踏み潰す。
魔物が溢れる。茜空に向かって、劈くような叫び声が響く。美しい夕焼けが、その瞬間血に染まったように思えた。不吉な声だ。
隣でリリオンが目を細めた。その目元がいやに涼やかで、体格の割に立ち振る舞いが幼く、口を開いてもやはり幼く、実際に幼いこの少女がこれでもやっぱり探索者なんだな、と今更ながらに感じる。
後方を見つめるランタンの表情はどうだろうか。
ミシャはそれを振り返ることが出来ない。
けれど平気な顔をしているんだろうな、とそう思った。
「よう」
周囲の雰囲気は緊迫感を増していたが、崩壊の近い迷宮口から最も遠い防衛線の傍にあるとその雰囲気は少しだけ薄れる。それでもこの軽さは何だろうか、と思わないわけではない。
話しかけてきたのは年の頃二十ぐらいの武装職員で馴れ馴れしく肩を叩いて、災難だな、と笑っている。装備している鎧の種類から下級の職員であることが見て取れる。
乙種探索者ジャック・マーカスは不機嫌そうな表情で、別に、と低い声で応えてそれっきり黙り込んだ。向こうはジャックのことを知っているのかもしれないが、ジャックはこの男のことを知らなかった。
ジャックの表情はつれない。そんなジャックに武装職員はやれやれと肩を竦めて、やはり笑うのだった。
大理石模様の毛色を持つ犬頭は、黒一色である姉ほどの威圧感を生まない。けれど唇を曲げると大きな牙が零れる。それを見て武装職員はぎょっとしたようだった。
自然と喉がぐるると鳴った。それは怒れるように響いたが、ジャックは特に腹を立てているわけではない。勘違いを解く強い理由もないので黙っていたが。
どこかの誰かと違って、見ず知らずの他人に話しかけられても平気だし、そんなことはいちいち意識することではない。あいつはいちいち大げさなんだよな、と思う。もしかしたら演技かもしれない、とも思うのは何故だか感じる苦手意識のせいだろう。
ジャックが不機嫌そうに見えるのは獣の血が濃くて元々の表情が判り辛いからであり、休暇中に探索者ギルド治安維持局部隊長である姉のテス・マーカスに呼び出され、のこのことそれに従っている己の状況が照れくさいだけなのである。
災難だな、と言う言葉がもしかしたら皮肉であるのかもしれないと感じる己がいる。
姉にいいように使われている自覚はあったが、それでも姉の呼び出しをどこかで嬉しがる己の存在がくすぐったくて、情けないのだ。
幼い頃のように感情の赴くままにニコニコして尻尾の一つでも揺らせれば複雑な感情を気持ち良く昇華できるのかもしれないが、それをするにはジャックは大人になりすぎていたし、同時に子供でもあった。
それに姉の悪評は目の前の武装職員がそうであるようにギルド内でよく知れていたし、その悪評の一つに弟を扱き使っていると言うものがあるのをジャックは知っている。
見せかけの不機嫌顔を本当の顔だと思って同情してくる職員は、ありがたいようなそうでないような半々なのだが多く居て、今更笑顔を振りまくことはできない。
テスが腰に二振りの剣を差すように、ジャックも腰に二振りの大型ナイフを差している。
姉の剣は細身でしなやか。対してジャックのナイフは大振りで無骨だった。見た目の凶悪さでいえば遥かにジャックのものに分があったが、姉には遠く及ばないことは自覚している。
姉のそれは大きな戦果とそれに伴う人魔を問わない数多の死体と恐れを含む悪評を生み出し、ジャックのそれは仲間からの信頼と魔物の死体を幾つか生み出すだけだった。
ナイフを鞘からずるりと抜き払った。
右手に構えるナイフは刃渡りが三十五センチ。背に厚みがあり鉈のようだが、刺突のために先端の五センチだけが両刃になっている。重量は一キロに少し足らないが、ナイフとしては割合重めに造ってある。
左手に構えるものは右のナイフよりも三センチ短く、細く造ってある。
刀身に火の魔道が刻んであり、柄に仕込んだ結晶から魔精を流し込むと高熱を発生させることが出来る。魔物にとっての第一の鎧である毛皮を焼き切ることが可能で、また第二の鎧というべき脂肪層をバターのように溶かし斬ることも出来る。
一発で結晶を空にするほどの魔精を流し込めば強固な外皮も鱗も外骨格も、それを支える厚い脂肪も高密度の筋肉も堅牢な骨も一緒くたに炭化切断する事も不可能ではない。確実に武具工房送りにはなるが刀身の負担を無視すれば、ある程度の金属を融断する事も。
「お、そろそろか?」
「……ああ、そうみたいだな」
犬人族特有の発達した嗅覚が、迷宮口から溢れて辺りに流れ出す獣臭を嗅いでいた。迷宮口直下に魔物が殺到しているのだろう。場合によってはそこで蟲毒のように魔物同士で殺し合いが発生することもある。その場合、生き残るのは最終目標であることが多かった。
押し合い、圧し合い。崩壊を、迷宮からの開放を待ち望んでいる声が聞こえるような気がした。封鎖線の傍では迷宮口の縁を見ることすら適わなかったが。
姉ちゃんは大丈夫かな、とその心配は無駄極まりない思考だと判っていてもジャックは抱くことを止められない。テスはジャックよりも遥かに強者である。弱者が強者へ心配を抱くなど片腹痛いことは百も承知だが、ただ一人の肉親への祈りを欠かしたことは一度もなかった。
テスは迷宮口に最も近い位置で待機している。
そこにいるのは武装職員の精鋭たちだ。
姉を含む治安維持局の部隊長二人。それだけでも半径百メートル以内には近付きたくはないほどの戦力だというのに、そこにさらに部隊の猛者が随伴をしている。
副長は隊長の代わりに周囲で指揮を執っているので、各部隊から戦闘能力上位者四名が選抜されていた。実務、調整能力、頭の実力も加味されて選出される副長と違って戦闘能力上位者というのは完全なる戦闘狂である。姉の部隊の方は特に。
それだけで探索者五十名を十秒以内に血祭りに上げる鬼の集団だというのに、それに加えて上級魔道職員二名が随行しているらしい。鬼に金棒どころではない。もういっそ魔物に同情したくなってくる。
この精鋭たちの相手は最終目標である。何せ今回の迷宮崩壊は急すぎて、どのような最終目標が湧出するか不明なのである。崩壊するのは中難易度獣系中迷宮。急拵えの戦力だったが、これだけの戦力を一点に集めれば最終目標の撃破は確実だろう。
そしてそれらから距離をとって一重二重に囲っているのが残った武装職員で、足りない分を補うのがジャックであり他の探索者だった。テスたちが如何に強かろうとも中迷宮内に潜む魔物を一度に相手をして、最終目標を処理しつつそれらを逃がさないというのは無理な話だ。
そうやって散らばった魔物を処理するのがジャックに与えられた使命だった。防衛網の一番外側、それは殿を任されたのだと思ったが、もしかしたらこの頼りのない武装職員のお守りを任されたのかも知れない。
ジャックが抜かれると封鎖区画外に魔物が出てしまう。後者だったら気分は乗らないが、何にせよ責任は重大だ。姉の期待に応えるのだと、そう思えば乗らない気分も少しは盛り上がる。
「きたっ、崩壊だ!」
言わなくてもわかっている。
足元には余震を思わせる小さな揺れ、吸い込みによる風。轟音。
迷宮口の方で薄茶色の土埃が立ち上った。夕日が僅かに色を暗くするのは、大気に魔精が混ざったからか。ねっとりと肌に張り付くその感覚は、身体の動きを鈍らせるような気がして好ましくない。
「は――」
夕日が爆ぜたのかと思った。
「――ひゅう、すげーな」
土埃を、瘴気を太い火柱が焼き払った。目を凝らすとそれが渦巻いている事が判る。
上級魔道職員の火の魔道だ。迷宮内では仲間どころか己も巻き込みかねない気兼ねない威力はなんとも清々しい。
夕焼け空の中にあってなお濃い。赤色の竜巻が夕空を貫く。輻射熱がここまでやって来そうなほどの大威力。その絶技を見て武装職員が呆れたように構えた剣を肩に担いだ。肩叩きをするように、肩当てを剣でこんこんと叩いている。火炎竜巻の威力に魔物の殲滅を確信するように。
武装職員の質も落ちたな、とジャックは思えど口にはしない。武装職員は押し並べて優秀であると知られているが何事にも例外はあるのだろう。
竜巻が狙ったのはあくまでも最終目標。猛烈な輻射熱は無論雑魚魔物も巻き込みはしただろうが、流石に全滅させられたとは思えない。その証明に火炎竜巻に纏わり付くように、鳥形の魔物が空に散り、もう一人の魔道職員が放つ雷撃に撃墜されていく。
鼓膜を打つ遠吠えが聞こえた。怒りと憎悪、そして苦痛。複雑な感情がそこにはある。猿叫。この重圧は恐らく最終目標だろう。
猿系の魔物は高い知能を有するが故に、火に焼かれたその怒りのおぞましさも一入だろう。
「ふふっ」
対峙する姉の笑顔が目に浮かぶようだった。ジャックは苦笑したが、すぐに表情を引き締める。
迷宮口から四方へと魔物の気配が移動していくのがわかった。あちらこちらで戦闘が始まった。武装職員たちは優秀で、探索者たちの働きも悪いものではない。だが如何せん人数が足らないようで、いくつかの防衛線が突破されたようである。
「来るぞ」
「おわっと、マジかよ」
ジャックの言葉に武装職員は肩から剣を下ろしてだらりと構えた。
そして二人の前に現れたのは豚と羊だった。ぶひぶひめえめえ鳴いている。
それは何とも牧歌的で、囲いから逃げ出した家畜と出くわしたかのようだった。武装職員が気を緩めるのがわかったが、それが近付いてくるとそうも言っていられない。
豚は赤銅の肌をしていた。脂肪層が薄いのか筋肉量が多いのか、岩石を削り出したようなごつごつした身体付きをしている。鼻水と涎に汚れる鼻が黒いほど艶やかで、それは鼻梁を通って頭部まで、そして背骨を沿って尾まで続いている。皮膚が硬質化している。尾がまるで鰐のようだった。
そして羊は金だわしを思わせる灰色の体毛で肉体の大部分を被っている。巻角の先端はあからさまにこちら側を向いて突き出している。厚く潰れるそれは剣鉈のようで、その先端はおっかないほどに鋭い。
これは羊の相手をした方がいいか、と腰を沈めた瞬間に武装職員が一歩前に出た。
「羊は任せろ!」
「……好きにしろ」
任せろ、と頼もしいことを言ってはくれたが、その内心は楽そうな方を選んだだけであるような気がした。筋肉質の豚と、もこもこした羊は外見だけ見れば後者の方が弱そうに見える。攻撃力という一点では、似たり寄ったりか重量の分だけ確かに豚の方が高いだろう。
けれど倒しやすさで言えば。
ジャックは武装職員の脇を駆け、豚の意識を牽くことに集中した。硬度はどれほどだろうか、と牽制の一撃を豚の鼻先に当てて、そのまま背後に抜けた。力任せに押し切るのは多少きついが熱式ナイフを使用するのは勿体ない。武装職員が完全に羊を引きつけてくれれば無理なことではなかったが、そこまでこの男は信用できない。
頭部の位置が低いのもやりにくい。ジャックは手の中でナイフを回転させて順手から逆手に持ち替え、腰を落とした。豚が弾丸のように駆ける。初速はなかなか。だが小回りは利かず、反撃を狙って紙一重で避ける。と、すれ違いざまに尾がうねった。
ナイフで受けると火花が散った。下ろし金のような尻尾だ。
「がう!」
尾を受けながらジャックは右後肢に蹴りを一発。
ジャックは姉よりも色濃く獣血を発現させており、その足はまるっきり犬のそれである。故に靴は履いておらず、爪の付け根まで覆う脛当てを着けているだけだ。
足の裏はふかふかの肉球が存在している。だがそんな肉球のある足裏でも、伸びきった膝を押し蹴ってやれば関節を砕くことなど容易い。豚の加速が逆に命取りになった。
痛みに豚が嘶いた。その口にジャックはナイフを突っ込んだ。両の口角にずるりと刃が滑り込んだかと思うと、ジャックは一瞬で舌ごと下顎を削ぎ落とした。そして逆の手では豚の右前肢を切り裂いている。
前後の右足を殺された豚が体重を支えきれずにどうっと倒れた。頸動脈から吹き出した血溜まりに沈み、いつの間にやら豚の首を掻っ捌いていたジャックはいつの間にやらそこから離れていた。
ジャックの視界には攻め倦ねる武装職員の姿があった。
巻角を一つ斬り落としたのは流石武装職員。だがそれならば目を通して脳を突き刺せば良いのに、と思わなくはない。もっともそれをするには羊の眼前に身をさらす胆力が必要となり、それをこの武装職員に求めることは無駄であるように思えた。
羊の毛は天然の鎧そのものだ。硬質かつ柔軟。支給品の剣では余程に力か技術がなければそれを切断することは難しいだろう。事実、武装職員はまるで木の枝で綿の塊を殴りつけるように攻撃を弾かれている。
あと二歩踏み込んで体重を乗せて刺突すれば活路はあるかもしれないが、あの腰の引けようではそれも難しい。勢い余って毛の中に腕を突っ込めば、その金属質の体毛に腕に絡め取られるだろう。そのまま身体を引き摺られるならばまだ良し、下手をすれば関節の脱臼、無理に引き抜こうとすると腕の肉が削ぎ落ちかねない。その事を理解している。
「早く手伝――あ」
角を一つ落とされて羊は怒り狂っている。よくもまあそんな相手から視線を切れるものであり、ジャックの大方の予想通りに武装職員は隙を突かれて羊に突き上げられていた。支給品とは言え、さすがに良い鎧だ。太股の辺りに直撃した角は鎧をヘコませたものの貫通はせずに表面を滑り、内股へと入り込んだ。
羊はそのまま顔面を股ぐらへと押し込み、鼻面を突き上げた。ジャックは錐もみして宙を浮く武装職員に男として同情した。そこの保護を蒸れるからという理由で外している男は多い。あるいは早く脱げるように、と邪な理由もある。
潰れていたら自業自得だが、それでも追い打ちをかけられては哀れである。ジャックはナイフの一つを口に咥え、足元から石つぶてを一つ拾い上げると羊に目がけて投げつけた。露出している顔面に直撃するが、殆どダメージはない。だが怒りの矛先を変えることには成功した。
武装職員の不出来はあとで姉に言いつけてやろう。そうしたら自分は褒めてもらえるかもしれない。ジャックは頬を緩めて笑った。その顔は獣の唸り顔そのものであり、その内心が稚気に溢れているとは思えないほど獰猛だった。
羊が猛然と突っ込んでくる。
その身体を切り裂かれることなど、爪の先ほども思ってはいない堂々とした突進である。その毛皮は武装職員の剣撃の尽くを無効化した。ご自慢の毛皮である。
ジャックはナイフ柄に仕込んだ結晶を活性化する。魔精が血に溶けて全身を巡るように、刀身に刻まれた火の魔道に魔精が流れ込む。炎こそは巻き起こらないが、刀身はぱきぱきと音を立てるほどの熱を発生させた。刃先が赤く、そして幽かに白む。
刺突。
刃に絡みつく抵抗はない。タンパク質の焼ける臭い。剛毛を焼き切って熱式ナイフが羊の肝臓を一突きにした。羊の口から血が溢れた。悲鳴の代わりのように。
ジャックは暴れる羊に更に深くナイフを押し込み手首を捻った。瞬間的に魔精の出力を上げて、沸騰した血液が羊の中身を蒸し焼きにしていく。なかなか美味そうな匂いじゃないか、とジャックは引き切るようにして素早くナイフを抜き取った。
ぼどぼどと内臓がこぼれ、それは自らの剛毛によって絡め取られてずたずたに切り裂かれる。
そして毛に覆われていない顔面に顎髭でもそり落とすようにジャックはナイフを滑らせ、羊の頸動脈を切り裂いた。止まりかけの心臓が血を押しだして滝のように血が滴る。命が抜けていく。
「ちょっと切れたか」
肝臓に突き刺したナイフ、それを持つ左手が少し切れていた。ジャックはナイフから汚れを拭き取って鞘に収めると、血の滲む指をしゃぶった。
厄介な毛皮だ。
けれどこれは装備には加工できるだろうか。だが出来たとして毛皮を既に所持している自分には不要なものとなりそうか。加工も難しそうだし、売ってもそんなに値段にはならないかな。角の方が価値があるか、それとも蹄か。あるいは豚の硬質化した皮膚はどうだろうか。上顎から背を通して尾の付け根までを削いでおこうか。
ジャックは探索者として仕留めた獲物に思いを巡らせる。ギルドを通さない姉からの頼みであったが、討伐依頼で倒した魔物の所有権は討伐した探索者に帰属する。もっとも少し目を離したら他の誰かに持って行かれることも良くあることだったが。
その前にこの武装職員の無事を確かめた方がいいか。けれどあまり気乗りがしない。
「おい、無事か。まだ男のままか?」
「……う、あ」
「それとも女になったか?」
「――ざっけんな、俺が女になったら世界中の女が悲しむっつーの」
それだけ減らず口が叩ければ充分だろう。ジャックは武装職員の兜を外してやり、取り敢えず身体を引き起こしてやった。武装職員の羊への罵詈雑言は止まらなかったが、同時に脂汗も止まっていない。外した兜の内側が脂汗と涎で酷い有様になっている。相当な衝撃が下半身を襲ったようだ。
そんな武装職員が座り込みながら虚ろな目で、何かを見た。
ジャックが反射的にそちらに振り向く。魔物と思えないほどの薄い気配。
そこには赤い眼があった。二つ、四つ、六つ。
三匹の兎。
まだ大人しくしている。ジャックは息を殺す。
「兎……?」
武装職員が呟くと三匹の兎はまさしく脱兎の如く駆けだした。それは小さく、素早く。
ジャックが如何に素早かろうと、同時に三方に駆ける相手を防ぐことは出来ない。
防衛線が抜かれ、ジャックは悲鳴を上げた。
ジャックは豚と羊と武装職員をほっぽり出して全力で兎の後を追った。
姉ちゃんに怒られる、と。
ミシャ、まさかのジャック!




