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カボチャ頭のランタン  作者: mm
04.Value Of Life
70/518

070 ☆

070


 湯船にたっぷりと沸かした熱い湯を桶に掬い取り、ランタンはざぶりと頭からそれをかぶった。じんと痺れる熱は寝不足で顔にこびりついた眠気を洗い流す。

 糸のように細められた目。縁取る睫毛に丸い湯の粒があり、それは水流に抗いしがみつく眠気のように乗っかっていた。目蓋を持ち上げるとその水滴がぽろりと零れて頬を流れた。いとも呆気なく。

 だがまだ眠気は残ったままで欠伸は零れる。

 溺れないようにしないと、とランタンは欠伸を噛み殺した。

 エーリカの手伝いを、最後は少し不本意な形ではあったがランタンなりにやりきって、それなりに日が経った。

 金蛙に刻み込まれた傷は時間の経過と、金にものを言わせて購入した治癒促進剤の効果によってすっかりと完治している。恥ずかしさはまだ少し覚えている。

 ランタンの働きにより、あれから商工ギルドには何組もの探索者が訪れたようだ。契約を結んだ探索班もいるし、予約が一杯で結べなかった探索班もいる。

 運び屋としての研修を受けに来たも者も、何名も。

 エーリカの苦悩もランタンの暗躍も知らぬ、縄張り争いにばかりかまけているギルド職員などは探索者がぞろぞろと商工ギルドに入り込んでくるのを見て、押し込み強盗でもやって来たのかと驚いたらしい。あるいは探索者ギルドが嫌がらせに手駒の探索者でも送り込んできたのかと青くなったりもしたのだとか。

 ランタンは思いだして小さく口元を緩めた。その事を教えてくれたエーリカは清々しい顔をしていた。

 あれからランタンは何度か商工ギルドを訪ねた。

 その時に数名の探索者とギルド前でばったり出くわしてしまって、彼らはちょうどギルドから出てきたところで、何とも満足げな表情をしていた。それは押し込み強盗を成功させてほくほくしているようにも見えた。ランタンを見つけた時の顔と言ったらさらなる獲物を見つけたとでも言うほどだった。

 よう、と軽く声をかけられて恐怖がなかったと言えば嘘になる。

 それでも普通に世間話をすることができた。二、三言葉を交わして入れ替わりにギルドへと入るだけだったが、その気軽さは今までのランタンではあり得ないことだった。多くの視線に晒されて馬鹿みたいな事を口走ったことにより、ランタンは一時的なものであるのかもしれないが対人耐性を習得したようだ。

 そしてエーリカから良い物を貰った。そのおかげで寝不足なのである。

 ランタンは湯船に浸かる前に身体を洗った。

 身体を擦ると古い皮膚が垢となって剥がれ落ちる。治癒促進剤は良く効いたが、その影響で皮膚が代謝異常を引き起こしもした。何層かの表皮の下から、まだ薄桃色の柔らかい皮膚が顔を覗かせた。

 再び湯を浴びると、文字通りに肌に滲みた。痺れるほどの熱はいっそ痛いほどであったが、同時に心地よくもあった。汚れが落ちたのだ、という感じがする。炎によって清められる幽鬼の気分だ。

 ランタンは震える息を吐いた。桶で掻き回した湯面に浮かんだ波紋が収まる。

 鏡のように平らの湯面に、ランタンは爪先を差し込む。それは波紋の一つも起こらない。ゆっくりと、そっと。片足が湯船の底を踏むと、もう片足が縁を跨ぐ。そのままゆるりと肩まで浸かるとランタンは表情を溶かした。

「うはえぁ……」

 変な声が出る。たまらない。ランタンはうっとりとにやけて、肌を磨いた。

 リリオンがいないのでどれほど気を緩めたとしても気兼ねがない。

 リリオンと入る風呂も嫌いなわけではない。恥ずかしさと緊張が伴うが、肌を触れあわせることに安心感を覚えるのは人の常であり、女の柔らかい肉に悪い気がしないのは男の性である。

 ランタンは風呂に浸かったばかりだというのにのぼせたように肌を色づかせて鼻の下まで沈み込んだ。

 凝り固まった筋肉や、緊張している神経が慰撫されていく。眼精疲労とそれからくる肩の筋肉の凝りは探索のせいではない。

 ランタンの内にある全ての(しがらみ)が湯中に溶け出したように、縁からつつと湯が溢れた。それを目で追う。湯の流れが収まり、それを合図にしてランタンは億劫そうに立ち上がる。

 身体からは湯気が立ち上っている。

 湯船の脇に置かれた机から水筒を手に取り水を飲み、頭からも浴びた。冷たさが丁度良い。今度こそはっきりと眠気が失われたことを実感する。

 そしてランタンはエーリカから貰った良い物の、その両角をそっと摘まむと再び湯船に浸かった。それは一枚の紙である。体裁を整えた文章が書かれている。

 それは契約書だ。

 契約書を眼前に摘まみ上げて見つめるランタンの瞳は、先ほどまでの気の抜けた目付きではなかった。まるで水面に目だけを覗かせて獲物を狙う鰐のような冷めた視線である。

 エーリカはいよいよ商工ギルドが正しい意味で忙しくなるその合間を縫って、ランタンに読み書きを覚えさせるための虎の巻とでも言う物を用意してくれた。癖のない綺麗な書き文字はまるで定規を当てて書いたように歪みがなかった。エーリカ手製のものである。

 話すことはできて、読めないランタンのために母音と子音と発声記号からなる全ての文字の組み合わせを記した虎の巻に、ケイスがリリオンを引きつけてくれている隙を突いて、エーリカの発声を元にランタンが読み仮名を振ったのである。

 エーリカは、ランタン様が別のお方に騙されては私どもにとっても損失ですので、などと言ったが、それは罪滅ぼしのつもりなのかもしれない。別にいらないのに、と思えどランタンにとってもそれはありがたかったので遠慮なく頂戴して、さらにはエーリカにあれこれ尋ねて虎の巻は真っ黒になるほどの書き込みが加えられている。

 座学は久しぶりだった。

 ランタンは奴隷見習い時代に会話を仕込まれはしたが、読み書きはそもそも文字に興味を持つことさえ許されなかった。それはランタンの売買目的が愛玩用、奉仕用で、主人との意思疎通やそれらを悦ばせる為の感情の言語化は必要でも、それ以外の知識は不必要だからだった。

 読み書きができれば余計な知恵をつけかねない。無知であることも奴隷にとっては一つの価値である。それでも言葉を覚えられたことは幸運だった。

 いや幸運だけではなく、あの時の教師役は厳しかったが有能だったのだろう。ランタンは回顧して、暗い負の感情が浮かび上がるのを我慢できなかった。だが同時に、たかだか数十文字の組み合わせを暗記することに寝不足になっている今となっては、感謝もあった。

 物を覚えると言うことは大変なことだ。

 会話ができるから寝不足で済んでいるが、零から始めることになっていたらと思うとうんざりする。

 教師役はそのうんざりの結果、ランタンを罰したのだろう。物覚えはいい方ではあったが、それでも。

 教師役から与えられた質問に、正しい返答をできないと容赦なく殴られた。傷にならないように加工した綿と布で巻いた木の棒の痛みは、臓腑にめり込んでなかなか失われることはなかった。それでも他の使い潰しの労働奴隷に比べたら天国のような扱いではあったし、痛みがあったからこそこれほど流暢に話せてもいるのだが。

 感謝はあるが、もし再会することがあったら殺してやろう。

 だが喋ることができなかったら、ランタンは今頃うんざりする暇もなく野垂れ死んでいるか、良くても泥を啜る日々を過ごす羽目になったかもしれない。風呂に入る事なんて夢に見ることもできなかったかもしれない。

 やっぱり半殺しで勘弁してやろうかな、とランタンはほくそ笑み、己が勉強中であることを思いだして反省した。娯楽の少なさは誘惑の少なさと言い換えても良かったが、それでもちゃんと勉強に集中しないとすぐに気が散ってしまう。

 やっぱり痛みは必要かもしれない。五分の二殺しすべきか。

 しかし例えば隣でリリオンが眠りこけていて、少女を起こさないようにと物音一つ立てずにいる時、ランタンは抜群の集中力を発揮する。

 その成果が眼前に掲げる契約書である。

 契約書の例文である。

 ランタンは文字を発声し、音をつなぎ合わせ単語とする。単語の意味を理解して文法に組み込んでいく。それはこの上なく効率の悪い方法であったが、それも確実にランタンは文章を理解していった。

 掴んでいた両角の右側から指を外し、ランタンは指先で宙に単語を書いた。音楽に合わせて指揮をするように、発声に合わせて単語を記す。それは宙にであり、己の脳にだった。

 上手く行かない所を繰り返す。何度も読んで何度も書いて、それがやがて淀みなく歌うように読み上げられるころにランタンの顔は真っ赤になっていた。

「……よし、完璧」

 ランタンはその例文をぐしゃぐしゃに丸めて湯船に沈めた。頬が皮肉気に笑う。

 例文の契約書にもしもサインをしてしまったら、黄金を捨て値で換金し、毎月商工ギルド所属の運び屋を伴い物質系迷宮を探索して、そこで獲られた全ての所有権は商工ギルドに帰属する云々というような有様になるものだった。下の方に小さく、ランタンとリリオンは商工ギルドに所有される、と言うような一文さえある。

 本当に良い性格している。

 ランタンはそう呟いて、契約書を絞って固めると浴室の隅に空いた穴に投げ捨てた。

「先は長いな……」

 今の例文は全てが明言されていた。だがもしも本当にランタンを騙そうとするのならば、文法を少し弄るだけで充分だった。それだけで文章の意図を誤認させることは簡単だ。虎の巻と共にベッドの下に隠している例文集はまだ何枚もある。

 けれど再びランタンは脱力した。

 先は長いが詰め込みすぎても効率が下がる。一歩一歩確実に、そして一段落付いたらしっかりと休む。それが勉強も探索も変わらない。知識が脳に馴染むように、探索で取得した魔精が肉に馴染むように。

 水分補給の後、ランタンは胸一杯に息を吸い込むと湯船に潜った。




 朝だ。

 窓のない部屋でも、朝になると扉の隙間から忍び込む朝日で部屋の中が明るくなる。ほの明るさに目蓋を撫でられてリリオンは小さく呻き声を漏らした。

 リリオンは目を覚ますとまず目蓋を持ち上げるより先に腕を伸ばす。それは陽光に顔を(もた)げるで花はなく、地中深くの水源に絡みつこうと伸びる根のようであった。

 そこにあると決め打ちで延ばした腕は、しかし虚空を掻き抱いた。リリオンは胸に抱きしめたそれがランタンの影であることを知ると、はっと目蓋を持ち上げ綿毛布(ブランケット)を弾き飛ばして起き上がる。

 長い白銀の髪が視界を遮るようにざらりと流れて、リリオンは鬱陶しげにそれを払った。髪が少し脂っぽくて指に絡みついた。

「いない……」

 そこにいるはずの少年の小柄な姿がまるでなかった。

 心細く小さな呟きを零して、リリオンはベッドマットを撫でる。綿毛布に覆われていたそこにはランタンの温もりがまだ残っている。それはランタンが起床してベッドから抜け出してからまだそれほど時間が経っていないことを示している。

 その事に気が付いたリリオンは化石でも掘り起こすように温もりの残滓を撫でて、もっとはっきりと情報を得るためにそこに顔を押しつけた。変なことをしているわけではない。迷宮の地面に耳を押し当てて、魔物の位置を探ることと同じである。

 寝汗で少しだけ湿っている。その奥、繊維の奥に匂いと熱が篭もっている。一時間は経っていない。四十分か、もう少し短い。

 マットの奥に染みつた匂いは昨晩のものばかりではない。そこにはランタンの夜がいくつも横たわり、永遠の眠りについているようだった。

 血の臭い。消毒の匂い。獣の臭い。皮脂の匂い。汗の臭い。花の匂い。

 ランタンの香り。

 過去が決して失われぬように、そこにランタンの匂いがある。それを嗅ぐだけで少年がどのように過ごしてきたのかを知ることができるような、そんな気がした。

 いつかわたしにも、とリリオンは匂いを嗅ぎながら頬を緩ませた。

 口元も緩み、唇の端から涎が落ちてマットに小さな染みを作った。慌てて掌で拭う。ばれたらランタンに怒られてしまう。

 この前、枕に涎を垂らして凄く嫌な顔をされた。眠っている時にランタンの夢を見ていたら溢れてしまったのだ。寝ている時のことだし、ランタンが夢に出てくるからしかたがないでしょ、と言ったらほっぺを抓られた。いつもは痛くないようにしてくれるけど、その時は痛かった。

 ランタンはどこに行ったのかな、とリリオンは犬のように鼻をひくつかせる。そんな風にしてもランタンの匂いを追えるわけではなかったが、リリオンはベッドから降りて一目散に扉を開いた。

 朝起きてランタンが居ないことは度々ある。

 起こしてくれればいいのに、と思う。実際にランタンに言ったこともある。けれど起こして貰うと、何故だか起きられないのだ。起きろ、と言って身体を揺すられるとむしろ眠たくなってしまう。おそらくランタンの声のせいだ。

 なのにランタンは起きないリリオンをほったらかして部屋から出ていく。

 そういった時、一階の一番端にあるトイレに行っていることが一番多い。

 そのトイレは少し怖い。扉を開けると住み着いた大鼠の瞳孔が赤く光る。そして大鼠が向かってきたり逃げ出したりする。大鼠は何でも食べる。それはつまりそう言うことで、使用して半日も経てば確実にそれは処理されている。どうせなら豚を飼えばいいのに、とリリオンが提言するとランタンはやっぱり嫌な顔をした。

 豚を育ててどうするの、とは聞かれなかったので、食べる、と答えることもなかった。答えなくて良かった、とあの時の冷たい目を思い出すと思う。

 トイレは少し怖いけれど、あまり変な臭いはしない。鼠さまさまだ。食べる気も起こらないのでランタンの嫌なことを言わなくてすむ。

 そして二番目の可能性はすぐ隣の浴室だ。ランタンは風呂が大好きで、朝昼晩に関わらず風呂に入る。寝る前が一番多いけれど、ランタンは朝風呂も好きなようである。

 リリオンは廊下を出てもなお鼻をひくつかせる。朝の匂い。ランタンの匂いはしないけれど、すぐ隣からむわっとした湿気の匂いが漂ってくる。リリオンはにんまり笑った。

 ランタンとお風呂。

 リリオンは弾き飛ばすように扉を開いた。

「ラーンータンっ!」

 声が跳ねる。




「あれ、いない……?」

 湯中に没するランタンの耳にリリオンの声がぼわぼわと膨らんで聞こえた。

 ランタンは湯船の中で目を開いていて、片手で鼻を塞いでぼんやりと天井を見上げていた。隠れているのではない、ただ潜っているだけで。

 声に続いて足音も聞こえる。ぺたぺたとした足音はリリオンが裸足であることを告げている。ぺたぺた、ぺたぺたと浴室内に踏み込んできた。

「ねー、どこー?」

 言いながらも探すと言うよりは確信を抱くように、リリオンは一直線に湯船に近づいていくる。

 そして目が合った。リリオンが湯船の中を覗き込んできた。湯に髪が触れぬようにと押さえている少女は目が合うと驚いたように固まって、ランタンはまだ息が持ったので沈んだまま見つめ返した。

 それから一分もの間見つめ合い、根負けしたのか少女が湯船の中に手を突っ込んできたのでランタンはぶくぶくと泡を吐き出して肺の中を空っぽにしてから、ぬっと水面から顔を出した。

 大きく息を吸い込む。

「なに?」

「……それわたしのセリフだと思う。なにしてたの?」

「風呂を堪能してた。全身で」

「ふうん、変なの。もうお風呂入っても大丈夫なの?」

「おかげさまでね」

 ランタンは湯船の縁に、リリオンに背を向けるようにして腰掛けた。そのまま身体を捻ってリリオンを見上げる。背中を水滴が擽る。項に髪が張り付く。

「背中見らんないんだけど、もう怪我ないよね」

 火傷も酷かったが、最も治癒が遅かったのは背中に幾つも穴を開けた杙創(よくそう)である。皮膚を貫いて身体に刺さった外殻弾は表面がデコボコとして、傷跡はずたずたになっていた。そして、埋まった外殻弾は体内に電流を引き寄せもした。杙創はその内側に火傷を宿していたのだ。

「うん、ないよ。すべすべ、ももいろ」

 リリオンが背中を撫でる。その背中に傷跡はない。通常は歪な肉の盛り上がりとなってもおかしくない、あるいは黒ずみなどの変色を起こして然るべき瘢痕(はんこん)がその背には一切なかった。

 肩甲骨の輪郭を指先でなぞり、背骨を下って尾骶骨(びていこつ)に触れるかという所で折り返して再び上と登っていく。折り返すと指先ではなく掌全部を使うようになった。

「……あつい」

 まるで汗を拭うように。執拗に。

 ランタンは無言で、再び湯船の中に座り込んだ。じっとリリオンを見上げる。少女の笑顔が眩しい。

「ねえ、わたしもたんのうしていい?」

 何を、とは訊かない。

 リリオンは断られるとは少しも思っていないようで、それでもランタンの返事を待っている。ぺたぺたと足音が鳴る。リリオンは湯船の縁に手をかけて、爪先立ちになったり踵に体重を移したりして身体を揺らしていた。

 そんなリリオンを見ていると、ランタンは思わず言ってしまう。

「……どうしようかなあ」

 笑顔が一転、リリオンの顔が歪んだ。

 ランタンは意地悪そうに笑う。逡巡は偽物だったが、それでももう少し一人で、足を伸ばして風呂に入っていたい欲求は確かにある。孤独を楽しむこと。それはリリオンと出会ってから失われたランタンの喜びの一つである。

 けれど失って、代わりに得た喜びもある。

「ねえねえ、いいでしょ? いじわるしないで」

 リリオンはランタンの額に一筋張り付く濡れ髪を遠慮がちに摘まみ上げて引っ張った。そしてそれを指に絡めるようにして溜まった水気を絞る。

「いいよ、おいで」

 ランタンは言うと、再び湯の中に潜った。目を瞑って水底に耳を押し当てると、リリオンの脱いだ服が床に重なる衣擦れさえもが聞こえるようだった。寝衣にしている貫頭衣(チュニック)。そして下着。たったそれだけ。

 リリオンはランタンが言い聞かせなくてもちゃんと掛け湯をする。

 桶が湯を掬う度に水面に波が立ち、湯船の中でランタンの髪が海藻のように揺れた。揺れる毛先が肌を擽り、閉ざした目蓋の隙間から目を突こうとしてきた。前髪が邪魔だな、とぼんやり思う。

 思っていると湯の中に異物の侵入を感じた。水底に響く音からリリオンの両足がまだ床を踏んでいることは伝わっている。湯の中で目蓋を持ち上げると、そこには白い腕があった。水面から水中に生えるように、ランタンに向かってくる。

 脇の下に腕が差し込まれて、ランタンは引き上げられた。

「ぷはっ」

 大きく息を吸って、前髪を全て後ろに撫でつける。顔を傾けて耳の中に入った湯を切った。

「……なにしてるの?」

「心肺機能の強化」

「ふうん、わたしもしようかな」

「もっと大きな湯船を手に入れたらね」

 ランタンが湯船の隅に身体を寄せると、リリオンの爪先が水面を割って滑り込んでくる。

「あう……」

 妙な呻き声は熱のせいだろうか。ゆっくりと身体を下ろして、リリオンは水面に座るような体勢になると一旦停止する。そして息を吐きながら身体を沈めた。湯船の縁からなみなみと湯が溢れる。

 向かい合い、ランタンもリリオンも膝を立てるように座っているのだが、ランタンの膝頭は完全に湯船の中に収まりリリオンの膝頭は水面から飛び出している。

 リリオンの膝。まだ骨っぽい。

 けれど、それに繋がれる太股と脹ら脛が少しだけふっくらとしていた。まだ痩せていることに変わりはないが、次第に肉付きが良くなってきた。

 ランタンはそれを冷静に見ている己と、恥ずかしがっている己を自覚して少し笑った。

「お風呂ひさしぶりね」

「二週間ぶりぐらいかな」

 風呂に入れない間は濡れたタオルで身体を拭くことしかできなかった。怪我も早々に治ったリリオンも、ランタンに遠慮をしてか風呂に入ろうとはしなかった。

 口に出すだけで身体のベタつきを思い出す。ランタンは汗の浮いた首筋を撫でる。

「……迷宮にお風呂持って行けたらいいのにね」

「湯船型の荷車でも特注する?」

「それいいかも!」

「あはは、よかないよ。迷宮で風呂って。流石に探索中に気が抜けすぎるのはね」

「でもでも、ランタンが入ってる時はわたしが見ていてあげるわよ」

「で、リリオンが入ってる時は僕が?」

「あ、それだといっしょにお風呂には入れないね。どうしようか」

「どうもしないでよろしい」

 ランタンが素っ気なくしているとリリオンは頬を膨らませて哀れっぽい目付きで睨んでくる。下唇を突き出す顔は小憎たらしい。ランタンは水鉄砲をしてその顔に湯を浴びせかけた。

 ぎゃあ、とリリオンが怪獣のような声を上げる。

「ひどいっ」

 リリオンがむきになって透かさずやり返してくるが、ランタンはそれを躱した。子供の遊びには付き合わないというように素っ気なく。呆気なく。

 距離は五十センチほどしか空いてはおらず、リリオンの手から放たれる水塊は一秒の間もなく飛来するもランタンは余裕の様子である。探索者としての身体能力の無駄遣いと言うほかない。

 リリオンが一つ唸り声を上げて、ちゃぶ台でも返すように湯をランタンに浴びせかけた。

 それは逆立つ瀑布のようだった。が狙いは湯を浴びせることではない。

 ランタンは飛沫を避けるように目を細めた。半分閉じた目蓋の下で目が笑った。




 いじわるなランタンに目にもの見せてやる。

 白く細かな泡を内包する大波がランタンに向かう。

 リリオンは白波がランタンの顔を、視線を遮ったその瞬間に湯船にもたれていた背を離した。腰を浮かせて、波の中に指を立てた諸手を突っ込む。狙いはランタンの頬。その軟らかい肉を抓ってやる、とリリオンは意気込んだ。

 柔らかさを想像して唇が笑う。

 波から先走る飛沫と泡沫。白波の目隠しに稚気を隠して放った柔らかほっぺへの貫手は波を貫通した。絶対不可避を確信したその瞬間に、待ち構えていたランタンの両の腕に呆気なく逸らされた。

 愕然としてリリオンの表情が固まる。ランタンは頬が裂けるように笑う。

 湯に磨かれたランタンの手の甲をリリオンの腕が滑り、左右に開かれる。

 波が上下に断ち割れて、上半分はランタンの頭上を飛び越えて下半分はランタンの掌にぺたんと押さえつけられた。

 リリオンは両手を広げていて、それはランタンを迎え入れようとしているようである。だが動けなかった。ランタンの視線が身体の上を滑るのを感じた。

 こめかみ。眉間。目から鼻梁を通って鼻の下へ。顎先と喉。鎖骨。胸を迂回して脇の下。心臓。鳩尾。

 どこにくる、どこにくる、と必死に状況を立て直そうとリリオンは意識を巡らせたが、気が付いた時にはランタンの掌に胸骨が押さえつけられていた。中指の先っぽで、突き放すようにして浮いた腰を沈められた。

「あ……」

 ランタンが柔らかいのは頬ばかりではない。

「健闘賞って感じかな。四十五点」

 ランタンがリリオンの身体に体重を預けた。立てた膝の間にすっぽりと身体を収めて、リリオンはあっという間に背もたれにされてしまった。ランタンは優雅に足を組んで、リリオンのことなどお構いなしに背中を反らし、両腕を突き上げながら身体を伸ばしている。触れる肉体の全てが柔らかい。

 降って湧いたような幸運にリリオンは珍しく身体を強張らせた。

 頬だけでも満足できたのに、こんなことってあるのだろうか。

 リリオンは恐る恐る、気まぐれな少年の不興を買わぬように両の腕をそっと閉じてランタンの小躯を抱きすくめた。怒られない。もっと深く。

 左の腕は少年の左脇から胸を通って右肩に。

 右の腕は右の脇腹から左の腰に。

 そうやって少年の身体を引き寄せて密着し、リリオンは花弁を()じる花のように、両足を交差させて自らに引き寄せる。

 少女の檻の中に少年を閉じ込める。ランタンは何も言わない。

 もう少し、平気だろうか。

 リリオンは(うなじ)に顔を寄せて、浮いた汗の粒を唇に。塩の味がする。そのまま唇を滑らせるとリリオンはランタンの肩に顎を乗せた。汗に濡れた頭をランタンががしがしと撫でてくれた。

「そんなにくっついたらのぼせちゃうよ。あと顎が刺さって痛い」

「……それならわたしが看病してあげる」

 乱暴さの中にある甘やかな指先の感触にリリオンは、抱きしめさせてもらっているのだと、ふと気が付いた。

 リリオンは急に不安になって、いやいやするようにランタンの身体に顔を擦りつけた。擦りつけているとちょっとだけ楽しくなった。芽吹こうとする不安の新芽をぺちんと叩き潰す。

 根っこが残ってしまった。

 肩が細い。ランタンは確かに小さいけのだけれども、同じほどの背丈の人と比べてもやはり小さく見える。それはきっと骨格が華奢なせいなのだろうと思う。

「なんで看病する側だと思ってんの?」

「だって、怪我するのはいつもランタンでしょ」

「湯中りは怪我じゃないし、……まだ頭ぼうっとしてない? 大丈夫?」

「うん、平気」

 ランタンは強いけど、こんなに小さい。

 リリオンは不安を腹の底に押し込めて、がぶりとランタンの耳に噛み付いた。

 視界の端、ランタンの肩越しの湯面が見えて、そこには波紋が浮かんでいる。波紋の真下で獰猛な怪魚が顎門を開くように、ランタンの二指が鉤型を作った。

 それは目を潰す時の形だ。

 慌てて口を離す。すると怪魚は水底へと身を翻して帰っていった。

 リリオンはほっと一息吐いて、今度は歯を立てずに恐る恐る唇で耳を()んだ。やっぱり塩の味がする。怪魚は水底で大人しくしている。

 ランタンが呆れているけど、いいのだ。食んだまま呟く。

「ねえ、今度はどんな迷宮に行くの?」

「お、急にやる気になったね。どうしたよ。この前はちょっと休もうとか言ってたのに」

 それはランタンの怪我がなかなか治らなかったからだ。

 リリオンはミシャにランタンが無茶をしないようにと言われているし、リリオンも怪我をして欲しくないと思っている。まだ弱くて足を引っ張ることの方が多いから、いったいどの口で、と自分でも思うことがあるのでなかなか強くは言えないけれど。

「わたしがんばるよ。もっと強くなるんだから!」

 耳を食んでも怒られなかったけど、大きな声を出したら怒られた。

 そして湯中りを起こして、また怒られる。

 冷水で絞ったタオルで目隠しをされぐるぐる回る暗闇の中で、気持ち悪くなる前に言いなさい、と天使みたいな声が降り注いだ。口元が緩む。

 気持ち悪くないよ。気持ち良くなり過ぎちゃったのよ、と言いたかったけれど、口元はヘラヘラするだけで言葉にならない。

「ねえ、ちょっと、……本当に大丈夫なの?」

 天使は薄気味悪そうに言ったけれど、リリオンの意識はふわふわとした闇の中にたゆたって全く聞いていなかった。


ランタン・リリオン・ランタン・リリオン

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