062 迷宮
062
金蛙と向かい合うとランタンの小躯は尚のこと小さく見える。
ランタンの身長は自己申告で百六十センチであり、遙か彼方の記憶で行った計測ではそれに僅かに足らず悔しく思ったことを覚えているが、それはもう過去のことでありきっと身長も伸びているはずだし、戦闘靴を履いているランタンの身長は確かに百六十センチに届いているので、言いようによってはそれは嘘ではない。爆発は身体と、その延長に発生させることができその靴は幾度となく爆炎を纏っているのだから。
そして座する金蛙の体高も似たようなもので、扁平の頭部に載った宝石の如き目玉が飛び出している分だけ高いぐらいだった。
だがそれでもランタンは小さく小さくみえた。
それは扁平の頭部から首もなく繋がる金蛙の胴体がランタンを五、六人纏めて丸呑みにしても有り余るほどにでっぷりとしていて丸々とふくよかなせいだろう。
女性的と言うべきか、いっそ母性を思わせる曲線で作られた瓢箪型の胴体からにょきりと生えた前肢の、その指先は獣じみて鋭く、ただ引っ掛けるだけでも金蛙の自重を壁にも天井にも固定することを可能にした。凶悪なそれは三つ指を突く女の細腕を想像させたが、その実ランタンの脚よりも太い。
前肢が細く見えるのは胴体の存在感のせいばかりではなく、左しかない後肢が異様に太く、みちみちに金属が満ちて練り上げられたそれがいっそ男根的ですらあるからだった。
折り畳まれた左脚は金蛙の尻に食らいついた大蛇が蜷局を巻いているかのようで、蹴り伸びた脚は伸張し引き延ばされているにもかかわらず、不思議と怒張するかのようだった。足撃に纏わり付く圧力と、あまりの太さに遠近感が狂うせいだろう。
それに比べてランタンはあまりにも小さく、細い。
幼さのある顔に張り付いた獣の笑みはまだ牙も柔らかな幼獣の唸りであり、華奢な身体から生えるほっそりとした腕は若枝で、その手に握る戦鎚は若枝には不釣り合いに黒いほどに熟した果実のように重たげであった。
背嚢を降ろして無防備になった背中は薄く、外套を脱いで露わになった身体の線は少女めいて細く、戦闘服が裂けて血に濡れる肌がいやに白い。
喉の奥から溢れ出た声はほろ苦く、荒くなった吐息はどこか官能的で、その姿は哀れにも大蛙と対峙することとなった無力な小動物のようであった。
けれどその戦い振りは窮鼠猫を噛むと言う格言の霞むほどに、獰猛で命をかなぐり捨てるが如く狂的であった。
そこに外貌に浮かぶ儚さや頼りなさは一切ない。
小細工無用の正面戦闘。
小躯でありながら金蛙と対峙するランタンは一歩も退くことなく、堂々と命の取り合いをしていた。
その姿を遠くでリリオンが見つめている。寂しさと、興奮と、呆気にとられたような恍惚と。表情には様々な感情が混沌として熱に浮かされるようだった。
金蛙の前肢がランタンの身体を引き裂こうと爪を立てて襲いかかり、ランタンはそれを紙一重で避け、戦鎚で打ち払い、多少の被弾と引き替えに前進すると金蛙の顔面に重い一撃を叩き込んだ。
狙いはその目玉なのだが、少しばかり遠い。
座すると首を差し出すような形となる金蛙なのだが、鼻先口先が突き出した顔のせいで顔上の飛び出した目玉はむしろ顔の後方へと引っ込んでいて狙い難い。だがかといって前腕をかいくぐりその懐に飛び込んで距離を詰めると、見上げた頭上には金蛙の喉元があり、狙いの目玉を視界の内に入れておくことすらままならなくなる。
視界外になるのは目玉ばかりではない。金蛙の懐に抱かれると跳躍による突進を回避することがほとほと困難になった。後肢に危険な気配を察知すると、跳躍突進を馬跳びのように躱す。
金蛙の頭上を飛び越える瞬間に鶴嘴を目玉に引っ掛けてやろうかと思うのだが、如何せんタイミングがシビアすぎる。一秒後には既に金蛙は遥か遠くに着地し、よしんば引っ掛けられたとしても大質量の移動に戦鎚ごと身体を引き摺られることはもう二度と御免だった。思い出すだけでトマトソースが迫り上がってくる。
蹴り。
壁に張り付いた金蛙がそこから強烈な突き蹴りを放ってきた。それは躍りかかる大蛇に似ている。斜め上から突き下ろされる蹴りをランタンは潜り込むように躱し、引き足も半ばで再び蹴り込まれた二撃目を跳び上がって躱した。バネと同じか。二撃目の威力速度は三割減。
ランタンは猫のように金蛙の臑に着地した。丸みを帯びてつるりとした黄金の臑は仄かに熱を帯びていて生物的ですらあった。本物の蛙がその身を覆う粘液を思わせる滑りがあった。
引き足に合わせて二歩駆け、三歩目で落っこちそうになったので爆発を使って金蛙に肉薄する。壁に張り付いた金蛙の背中は無防備のように思える。
その丸く大きな背中が重力に任せてずるりと落下した。息絶えた蝉のように。
金蛙が身体を捩る。
金蛙は肉薄するランタンに向き、目の色は黄色。口腔は漆黒で、その舌は雷撃だった。
振りかぶる余裕もなく、逆袈裟に振り上げた戦鎚が空間を爆破し消し飛ばした。そこに生み出された虚無は指向性をもった雷撃の侵入を阻み、雷撃は戦鎚の軌跡を避けるようにランタンの脇を迂回して彼方へと過ぎ去った。項の毛が逆立った。
そして戦鎚は時間を巻き戻したように。
担いだ肩から右袈裟に振り下ろされた鶴嘴が金蛙の目玉を狙った。直撃は、しかし閉ざされた目蓋によって阻まれた。根本から現れた瞬膜のような目蓋が薄暮の花のように閉じて目玉を包み隠した。
黄金の目蓋は目玉自体を一回り大きく見せるほど分厚く、削れこそすれど内部への打突を許さなかった。そして落下しながら金蛙は悠然と壁を蹴りランタンを押しのけて距離を取る。目蓋を閉じているせいか金蛙は顔面から着地した。
また地面を食ってやがる、と胸焼けしたように振り返ったランタンが鼻頭に皺を寄せる。
地面の摂食の目的は何だろうか。自重の増加による突進の威力の底上げか、それとも傷ついた外皮を修復するための物資の搬入だろうか。またがらごろと音が鳴った。
それは岩の転がる重い音。打剣は既に消化されたのか金属音は響かない。
金蛙が帯電して口を開く。その隙間から光が漏れた。雷光のような眩しさではない。暗い口腔を照らすのは血潮にも似たぼんやりとした赤。ランタンはその光をグラン武具工房で見たことがある。噎せるような高温。
雷撃ならば耐えられる自信があったが、それはランタンに咄嗟に回避行動を取らせた。
金蛙が吐き出したのは今まで食らった鉱石鉱物の混合消化物だった。それはまさしく溶岩の如く燃え溶けて、幾つもの溶岩弾となってランタンに吐きかけられた。
ひゅっ、と飲んだ息が熱い。
掠めた一撃が皮膚を炙った。地面に跳ねた溶岩弾は幾つもの飛沫を撒き散らしてズボンを焦がし穴を空けた。流星群のような溶岩弾の微かな隙間をランタンは進む。
だが行き止まりに突き当たった。
ランタンを誘導し、狙い澄ました躱せぬ一撃を辛うじて戦鎚で絡め取った。溶岩弾はよく練った水飴のように戦鎚の先端に付着し、急速に熱を失い黒く固まった。しかし硬質な外殻とは裏腹に、その内部には液状の溶岩が満ちていた。
ランタンは流動し変化する重心に戸惑いながらも力任せに戦鎚を金蛙に叩きつけた。
溶岩弾は行動を阻害する重しであり、同時に戦鎚を優しく包み込む真綿のようなものだった。叩きつけることで溶岩弾の外殻は砕け散り、同時に衝撃も砕け散って力が飛散していった。
ランタンの叩きつけを屁とも思わなかった金蛙が溶岩を吐いた。吐瀉物のようにどろりと頭上に注がれた溶岩流をランタンは前転するように金蛙の後方へと避けて、同時に振り返ると眼前に突き出された金蛙の足指があった。
戦鎚で防ぐ、とその指の間に張られた水掻きの薄さに気が付いた。それは薄紙を貼ったかのようで受け止めた柄によって呆気なく引き裂かれた。思いがけず二指の間に囚われたランタンの細首に切れ端が触れて薄く切り裂かれた。出血は少ない。頸動脈には達していない。
円錐形だった金蛙の足指が気づけば鉈のような形状に潰れている。それは鉈でできた鋏だった。首を左右から刎ねんとして閉じられた足指がランタンの頭上でガチンと音を立て、身代わりとなった戦鎚の首を挟み込んだ。
捉えられた戦鎚が引き足によってもぎ取られ、擦りあげられた掌のひりつきが次第に喪失感に変わっていく。ぎりり、とランタンの奥歯が軋んで音を立てた。
「返せっ!」
足指から解放された戦鎚が慣性によってぐるんと弧を描き、いつの間にか振り返り大口を開けた金蛙の口腔へと、まるで自ら身を投げたかのように落ちていこうとしていた。
がるる、と吠えたランタンが最後の投擲武器である投げナイフを四指に挟み、爆風を以てそれを投擲した。それは拳を覆った爆炎を切り裂いて、轟爆の衝撃を纏った投げナイフは音を置き去りにして飛翔した。
成功した、とも思わない。ランタンは幾度となく試みて失敗に終わった爆発射出の結実を当然の結果として行動に織り込んでおり、その身体は次の一手へと動いていた。
衝撃と、高音の破砕音。
三振りの投げナイフは戦鎚に衝突して粉と砕け、奈落にも似た口腔へ落ちる戦鎚を弾き飛ばした。ばくん、と金蛙は虚空を食らう。獲物を横取りされたことを苛立つかのように雷色に輝いた瞳がランタンを睨み付けた。
その瞳に手を触れるほど傍にランタンの姿があった。
握力にものを言わせて左の手で大きい大きい金蛙の鼻面を握りしめ、ランタンは捩じ切れるかと言うほどに細腰を捻り、ぴんと伸ばした右の手が弾き飛んだ戦鎚をたぐり寄せるように握りしめた。
帯電。
感電。
戦闘。ただその事のみに特化した思考の片隅に残る雑念が焼け落ちていく。
目の前に火花が散った。血が沸騰したような熱が体内を駆け巡る。全身を隙間なく針で突き刺したかのような痛み。柄の先端ぎりぎりを握りしめた戦鎚をそれでも放さなかったのは感電による筋肉の収縮によるもので、痙攣の鎖をねじ伏せて腕を振り下ろしたのはただの根性だった。
痛みとその他諸々のせいで、狙いが逸れた。
目蓋ごとぶち抜いてやろうと振り下ろした戦鎚はそれを僅かに掠めて金蛙の額を殴打する。鎚頭の形に丸く陥没した額に、ならばせめてもと爆発をぶちかまして型抜きをすると、それは帯電さえも吹き飛ばした。
がランタンの身体も痛みを許容できなくなった。
ふっと意識が途切れたのは一瞬のことで、ランタンは四足獣の如くその頭上から飛び降りた。意識をはっきりさせる間もなく連続して放たれた溶岩弾を本能のみで避けることができたのは身体に染みついた戦闘経験と幸運によるものだ。
距離の仕切り直しをさせられたランタンは金蛙の額に開けた丸い穴が、赤い溶岩によって内側から塞がれるのを見た。それは冷え固まって大きな黒子のように目と目の間にぽんつんと浮かんだが、その周囲の黄金がまるで勢力を広げる黴のように黒子を隠していくさまをランタンは確かに見た。
再生でも、再構築でもない。ありもので応急的に塞いだだけだ。
「つぎはぎか」
ランタンは傷口の上から首を掻いて、瘡蓋にもなりきらぬ乾いた血を掻き剥がした。爪の間に入り込んだ赤黒さをふっと息を吹きかけて払い落とす。
「つぎはぎだらけにしてやる」
低く呟いた言葉を踏み付けるようにランタンは低空を駆けた。
威嚇の一撃に金蛙が反応した。真下から逆風に振り上げた鶴嘴の一撃を金蛙は上を向くようにしてやり過ごした。ランタンは懐に潜り込むと戦鎚を引き寄せて盛大にその胴体を打ち鳴らす。そして抱きしめるように閉じられた金蛙の前腕をつれなくあしらってすり抜けると、腕の付け根に戦鎚を叩き込んだ。
それはランタンが穿ち、リリオンが貫いた一撃。なかったことにされたその連撃の爪痕を完全に消し去ることはできなかった。修復の痕は呆気なく剥がれ落ちて、そこには環に抱かれる土星に似た模様の穴が空いた。
じっくり観察する暇もなく突っ込まれた金蛙の抜き手を、それが首を挟み込まない位置を保ちながら戦鎚の柄で受け止める。雷色の瞳を視界の端で捉えるとランタンはバトントワリングのように戦鎚を回転させて手放した。
爆発によって回転力を得た戦鎚は金蛙の指を絡め取り、その造りは電流を流されてもびくともしない。ばきばきと折れる指と虚しく帯電する金蛙をランタンは冷たく見つめた。
そして開いた口の、その顎下に潜り込む。
金蛙は帯電と放電を同時に行うことはできない。発電時は身動きを取ることができない。
雷撃が空気を切り裂く音を頭上から聞きながら、ランタンは再び手中に収めた戦鎚を半月を描くように振り抜いた。金蛙の視界の外から振り回された戦鎚が、その頬を強打して鈍い音を立てた。
右から左に頬を張ったその一撃はこじ開けた金蛙の口唇を削ぐようにして通り過ぎ、脇構えとなった戦鎚の斬り返しが土星の穴、右腕の付け根にねじ込まれる。
右手に掴んだ柄に左手を添えて、ランタンは金蛙の胴に足を掛けると巨木を引き抜くように力の限り柄を引いた。
黄金を引き裂くその音はまるで金蛙の悲鳴のようだった。
爪を失った手の、その先に伸びる腕が付け根から引き千切れた。ランタンは切断と同時に靴底に起こした爆発でその場から離脱し、ランタンの残影を千切れた腕ごと金蛙が喰らった。
瞬間、雷光を迸らせた金蛙は付け根を失うことで開いた穴を塞いだ。が、そこに腕が再生することはなかった。
残るは左腕左脚。
おたまじゃくしからやり直せ。
嗤うようにそう呟いたランタンが左腕を捩じ切るのにそう時間は掛からなかった。
放電雷撃は懐に入ることでやり過ごし、左腕に取り付くことで左脚の予動作を絶えず観察して跳躍突進を回避した。
左腕の根元に何度も戦鎚を叩きつけ、鶴嘴で引っ掻き、爪を砕く。柄を差し込んで肘を極めると、ランタンは舵を切るように金蛙の左腕を根元から旋転させた。
そして握手でもするように千切った手を持ったままランタンが距離を取ると、金蛙は腕を返せと言わんばかりに大口を開けて跳躍した。それは突進ですらない。
まるで闇雲に叩きつけたゴム鞠のようだった。腕を失った金蛙は方向転換の大部分を胴を振ることで行っていた。微調整が効かずに暴れ狂ったように跳び回り、蹴り損なった地面の反力にさえ身を委ねて混沌と身体を振り回した。
これはこれで厄介だ。
自らの腕に対する金蛙の執着は空恐ろしいものがあり、それを取り戻すまで決して止まることのないだろうと確信を抱かせる。
腕を取り戻すことのみに全機能を傾けた金蛙は発電を行うこともなかったが、それに攻め込むことは雷雲に身を投げるよりも危険だった。
金蛙の執着心の動機をランタンは知ることはできず、金蛙の行動に動機などと言う高尚な感情か備わっているとも思えないが、ただ傍目に見れば必死という言葉の似合う有様であった。
必死に行動しているものを止めることの難しさは語るに及ばず、それが立ち止まる時はいつだって望みを叶えた時だとランタンは知っていた。
ランタンは金蛙に餌でも与えるかのようにぽいっと腕を投げ捨てて、金蛙は身体が軋むような方向転換を行う。跳躍はランタンを無視して腕を追いかけ、中空を舞う腕を丸呑みにした時、ランタンは金蛙の後ろに回り込み後肢に備わった爪を一つ残らず叩き折った。
爪は跳躍の要であった。
跳躍は爪で地面を掴むところから始まり、突き蹴りは前腕の支えによって成り立っていた。 前肢の支えを失った金蛙は眼球の重さに耐えかねるように地に伏し、それはまるで盆に載せた宝玉を御前に献上して叩頭する、太りに太っただらしのない体躯を金の衣装によって包み隠した悪趣味な商人の姿のようであった。
だが伏した面に諂いや屈辱を隠す商人と違い、金蛙の瞳には敵意に似た雷色がありありと浮かび上がっている。腕を失い、足を傷つけられ地に伏してなお金蛙はランタンの殺傷を望んでいる。それは首を落としても止まりそうになかった。
無いはずの感情をランタンは感じ取った。
だが金蛙のできることは限られている。その身に纏った雷の鎧は近寄るランタンへの牽制であったが、ランタンが少し歩みを緩めてやれば近付く頃には雲散霧消している。帯電の持続時間は三秒程か。
そして使い切った雷を再発電するまでにはいくらかの猶予があり、だがその猶予がランタンに慢心を生むことはなかった。
ただ金蛙の攻撃機能がランタンの想像を上回った。
金蛙は泥田を泳ぐおたまじゃくしのように、爪を失った後肢を尾びれのように揺らす。その反動で金蛙は身体を回転させた。身体を漕いだのは一度だけで、あとは遠心力に身を委ねていた。
雷撃を吐き出す。狙いなどはなく、それは三百六十度全てに撒き散らされた。
跳ぶことで避ける。そこだけが雷撃を避ける唯一の場所で、しかしそのランタンの背後。雷撃は冷え固まった溶岩弾に着弾すると、そこから反射するかのようにランタンを追った。
側撃雷。狙ったものではないが故にランタンは察知することができず、雷撃に込められた執念がそれを実現した。
意識の外からねじ込まれた紫電にランタンの喉奥から悲鳴が溢れ、身体は金縛りにあったように硬直し、雷撃を経由した溶岩弾はその内部の水分を一瞬にして蒸発させた。内圧の上昇により弾けた外殻が散弾となってランタンの身体を切り裂いた。
溶岩弾の内部破裂は最下層の至る所で発生し、重なり合う破裂音はランタンの知覚神経を掻き乱した。硬直する筋肉を引き千切るように腕を交差し、その隙間から視線を覗かせる。白み、霞む視界の中で外殻破片が小さな甲虫に見えて、それは黒い尾を引くように飛び回っていた。
痛みと音と衝撃で、それが何であるかをランタンは理解することができず、破片はランタンの身体を掠めて血を溢れさせ、またその身に幾つもの穴を穿って飛び込んだ。
破片は硬直した筋肉によって内部深くに食い込むことこそなかったが、それは小さな身じろぎにでさえ呻くような苦痛をランタンにもたらした。まるで体内に産み付けられた卵がふ化して、その幼虫が内側から身を喰らうようだった。
迫り上がる吐き気を飲み込んで、ランタンは我が身を通り過ぎた破片を無意識的に目で追った。未知のものへの恐怖とそれを脅威として認識したその本能は、ランタンの視線を左右の互い違いの方へと引き裂いた。そして真正面こそが死角となった。
充分な威力の乗った突き蹴りが迫り来るのを察知するのが遅れた。
どうにか身体を捻ったものの蹴りは肋骨を滑り、服と皮膚と脇腹の肉が削り落とされた。背に刺さった破片が衝撃で抜け落ちて血を吹き、着地の衝撃も殺せぬままに速射砲のような蹴りが次々と迫った。
金蛙は地面を喰らっていた。いやそれはまさに石に齧り付いた渾身の蹴りだった。
弾く、逸らす、受ける、擦る、くらう。
戦鎚を伝う蹴りの衝撃は一撃一撃が全身を駆け抜け、身体に食い込んだ破片は押し出されるように零れ、また深く食い込んでは体内で暴れた。零れ出す血がランタンの身体を赤く染め、腕を伝って掌を濡らし柄がぬるりと滑るようだった。
そして身体に弾ける衝撃は身体を濡らす血液を血霞に変え、ランタンの足を地面に釘付けにして放さなかった。足の片方でも浮かせたら押し込まれるだけでは済まず、蹂躙されることは目に見えていた。
裸にされる。
蹴撃に服が切り裂かれ、絡みついては引き千切れ、痛みはランタンの意識を削り取った。
戦意、敵意、殺意。
剥き出しになった攻撃性だけがランタンを屹立させ、その小躯を前進させた。すり足が地面に引きずる血の跡は決して後退することがない。
脚に打ち付ける戦鎚がその形を叩き造ってゆく。爪を失い、叩かれて丸みを帯び、それはまるで膨らんだ蛇の頭部のようで、ランタンを掠めるたびにその血が付着し赤黒くそまった。
濡れる。屹立し怒張するそれに貫かれるランタンは初々しいほど頑なで、血に濡れて苦しみに喘いだ。
それでも気の強さを失わず、きっと金蛙を睨み付けた。
ぬらぬらに血に濡れるそれを戦鎚で弾く、素手で逸らす。
ランタンは失った血に身体が軽くなったとばかりに、弾けた肉に的が小さくなったとばかりに、次第にその歩速を上げていく。
致命傷以外を無視したその前進は、誰一人として理解されることのない、誰一人にして見せたことのないランタンの内に潜む狂気の発露であった。
ただ一人。
誰に頼ることもできずに、己の力のみを持って死地を抜けること。それはランタンに染みついた習性であり、魂を雁字搦めにする呪鎖であった。
それこそが誰一人として寄せ付けることのなかった真に孤高な探索者の姿。
痛みを噛み、血を啜り、死に抗う。
その戦闘に足を踏み入れるものは一人もいない、その筈だった。
雑念、と言うわけではない。集中も切れてはいない。痛みが和らぐわけでもなく、思考に余裕ができたわけでもない。
見てろって言ったのに、と攻撃色に染まった思考が小言を漏らす。
蹴り足が完全に伸びたその瞬間、ランタンが爪先を戦鎚に受けたその瞬間、横合いから振り下ろされた大剣は金蛙の超硬の膝頭を半ばまで切り裂いた。
その亀裂の分だけ蹴り足が伸び、深く押し込まれた戦鎚がランタンの掌からこぼれ落ちた。
その亀裂の分だけ引き足が遅くなり、ランタンはその足を掴むと脇に抱えた。伸縮を繰り返し金属は原子同士の摩擦によって熱を帯びていた。失った血の量をその温かさに実感する。掌を濡らす血が熱によって粘性を帯び摩擦力をもたらした。
言いつけを破った少女は振り下ろした大剣で地面を叩くとその反動で膝窩を切り上げる。だがそれでも僅かに切断には至らなかった。
そんな悔しそうな顔してるな、と血に染まった視界に少女が映る。その姿が一回転した。
僅かに残った繋がりを、ランタンは小脇に足を抱えたまま身体を脹ら脛の下を潜り込ませるように回転して捩じ切った。それは龍が逆巻く如く。
膝から下を失ってなお金蛙は蹴りを放ち、その衝撃をリリオンが大盾で受け止め弾く。弾かれた勢いを利用して金蛙が振り向いた。ランタンは金蛙に向かって千切った脚を放り投げ、転がった戦鎚を爪先で蹴り上げて拾う。
「ランタンっ!」
ランタンはそう叫んだリリオンの脇を通り抜け、金蛙が足を喰らうのに合わせて漆黒の口腔にそっと柄頭を差し出した。がちん、と完全に拘束された戦鎚と密閉された口唇。帯電によって口唇が溶接された。
既に地に伏せ、恨めしげにその目玉がランタンを睨む。その色は凝縮したように色の濃い黄色で、帯電は金蛙の傷を塞ぎランタンを責め苛む。
黄色は注意。
赤色は危険。
血に濡れたランタンの顔の中で、その瞳がいっそう赤く色を変えた。紅蓮に燃えるその瞳に見つめられ、雷色の瞳は白むほどに輝きを増した。
恐怖。
感情のないはずの金蛙が怯えるように出力を上げた。威嚇をするように身体が膨らむ。
それは。
漆黒の口腔を焼き払い、その口内で弾けた爆発は金蛙の平たくすらあったその顔面を内側から破壊せしめる。威嚇などではなく、瞬間的に膨張した内圧を封じ込めようと金蛙は顔と言わず胴と言わず破裂寸前の風船のように膨らませ、だがそれも虚しく眼球が押し出されてぽろんと外れた。
瞳を失った漆黒の眼窩から涙のように紅蓮が溢れて、抜けた圧力により金蛙が萎えしぼむ。
膨張と収縮。加熱と冷却。
黄金の巨躯を誇った蛙の化け物は、まるで硝子細工のようにぱりんと砕けた。
その燦めきは小さな雷光にも似て、ランタンは眩しさに目を細める。




