057
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リリオンに行くと宣言した割に、思いがけずランタンの腰は重たかった。
それは自分自身の決定をまだどこかで受け入れきれぬ己がいるせいなのだろうとランタンはぼんやりと考える。あるいはただ眠気のせいなのかもしれない、と優柔不断さから目を背けもした。
食後の微睡みに片足を踏み込みながらもどうにか踏み止まったのは、夢の園へと逃げるように落っこちてしまえば明くる日まで戻ってこられないだろうという確信があったからだ。さすがにそれはランタンの矜恃が許さなかった。
ランタンは久しぶりに苦しいほどの満腹だった。過剰に詰め込まれた食べ物を消化しようと血液が内臓群に流れ込み、また消化吸収によって新たに生み出された熱量さえも、蓄えるよりも先に片っ端から消費しているような感覚があった。
行かねば、とランタンは自分自身に言い聞かせる。このままでは埒があかない。
ランタンはうつらうつらとしながらも、満腹で半分眠っているリリオンの目を覚まさせて、二人揃って冷たい水で顔を洗い、ぼんやりとした足取りで商工ギルドを目指した。
目指したのだが、外に出て歩き始めてもまだうつらうつらとしていたのだろう。ランタンが商工ギルドの場所を知らないことに思い至ったのは、下街で絡んできた阿呆を腹ごなしと眠気払いも兼ねて蹴っ飛ばした後のことだった。
ランタンは取り敢えず失神している阿呆に物理的に活を入れて目覚めさせると、全く期待すらせずに商工ギルドの場所を冷淡な声音で尋ねた。阿呆は期待通りに、その場所を知らなかったので再び失神させられて道端に捨て置かれることとなった。
あまりに酷い扱いであるが、眠れる獅子よりも質の悪いものにちょっかいをかけたのだからしかたのないことである。
「どこだよ商工ギルド」
苛々しながらランタンが乱暴に呟いた。何もかもが上手く回っていないような気がした。
運気が悪いのだろうか。不意にグランが魚形の石獣のことを瑞祥だと言っていたことを思い出した。何にも良いことないじゃないか、とランタンは一人むくれる。場所を尋ねがてら工房に文句を言いに行こうかと、完全に八つ当たりな考えがふつふつと沸き上がるようだった。
悪い流れはゼイン・クーパーとの会話から始まったのか。それとも、それ以前からなのか。
気まぐれで美味しくない水精結晶を購入しお守りにしようと思い尚且つそれを忘れたとか、あるいは望んだ水精結晶が必要数手に入らなかったこととか、むしろあの魚形の石獣は凶兆だったのではないだろうか、などと。
それとも殺した人数の膨らみが、ランタンの影に魔を染みこませたか。
「へっ」
ランタンはやさぐれた失笑を漏らした。
それらに因果関係がないことは分かっている。だが続く不運を結びつけて考えてしまうのが人の常であり、ランタンもなかなかそこから逃れることが出来なかった。関係ない関係ない、と心の中で唱えても、なんとなく気持ちの悪さが拭えずにいる。
「ねえランタン。紹介状は?」
「ん?」
「紹介状に書いてないの?」
「……」
ランタンは思い至らぬ自分に呆れるように、それと半ば本気で拗ねた様子でリリオンに紹介状を押しつけるようにして渡した。リリオンはそんなランタンに苦笑を向けて紹介状を広げる。
「ほらここ」
紹介状には住所が記されているらしく、リリオンは頬をくっつけるようにしてランタンと一緒にそれを覗き込んだ。
「読んで」
ランタンはリリオンの頬からそっぽを向いて、そう言って命令した。リリオンはいよいよ笑ってその住所を読み上げた。
ランタンは上街の区画の分け方を正確に知っているわけではないので明確な位置を思い浮かべることは出来なかったが、おおよその見当を付けることは出来た。その付近で視線を巡らせれば、おそらくそれらしい建物が目に付くだろう。
「……ありがとう」
「ふふっ、どういたしまして」
ランタンが受け取らなかったのでリリオンは懐に紹介状をしまった。そして少女はランタンの背を押すようにして再び歩き出した。
先ほどまで眠たそうにしていたのにリリオンは少しませた様子でランタンの肩を抱き寄せた。拗ねる弟をあやす姉にでもなったつもりなのかもしれない。
ギルドとはつまり職業組合のことで、ギルドの建物は寄り合い所のようなものである。
各ギルドの建物は、探索者ギルドと魔道ギルドだけが異質であって、その実それほどの規模ではない。前述二つのギルドは言わば複合施設であった。
建物はギルド運営のための箱物ではなく、探索者ギルドならば医療、金融、買取等の探索者サポートのための施設、魔道ギルドならば研究施設等が、むしろ本体以上に肥大している。
それに対して職人ギルドは巨大工場施設ではなかったし、商人ギルドも巨大商業施設ではなかった。それらは相応に仰々しい建物だったが、そこで行われるのは各種事務仕事と様々な会議ぐらいのもので、職人や商人と言った職業を象徴するような業務が行われることはほとんどない。
商工ギルドの建物は、そう言ったものから仰々しさを抜いた建築物だった。外観は地上四階建てのよく言えば質実剛健、悪く言えば地味な印象を受ける建物である。
外観から中を推し量ることが出来ないのは水晶洞の前例を踏まえて承知していたが、それでもランタンは少しばかり拍子抜けした。リリオンもその建物を見上げて、ぼんやりとここが商工ギルドであることを示す看板を眺めていた。
「……ん?」
その看板がいやに綺麗だ。漆か何かだろうか、艶のある黒地に金細工で作られた天秤と金槌の意匠が浮かび上がっている。主張が強すぎるわけでもないのに、目に入ると意識を引き寄せられる。
上品な看板だった。
その看板一つでランタンは拍子抜けしたことなど忘れてしまったかのように少し気後れした。看板は店の顔だ。綺麗で、上品で、何となくランタンの苦手な顔である。
精神的に弱気になっているせいだろう。ひょっこりとランタンの中にある人見知りが顔を持ち上げていて、その雰囲気を察したのかリリオンがランタンの背中を撫でた。ランタンは看板から視線を切った。
まるで天秤だな、と思う。
ランタンの足が重くなった分、リリオンは軽くあろうとしてくれている。ランタンはなんとなしにそんな気がした。
だがただでさえ身長の割に体重のないリリオンを軽くさせてしまっては、その内にリリオン自体がすり減ってなくなってしまいかねない。
人見知りを腹の底に引っ込めて、ランタンは重たい足を力任せに前に進ませ商工ギルドに入った。つまらない意地である。
商工ギルドの玄関広間は広く清潔感があった。その清潔感は人の出入りの少なさから来るものだろうと思われる。
入ってそうそうギルド組員の男がランタンたちを出迎えた。いや出迎えたというのは正確ではない。
男はたまたま通りかかっただけのようだったが、それを感じさせなかった。まるでここでずっと待っていたかのように、いやいやよくぞおいでくださいました、と四十絡みの脂っぽい笑みを浮かべる。
脂肪の厚い目蓋の下で小さな黒目が頭の先から爪先までをさっと走ったのをランタンは感じ取った。その一瞬で己が男に値踏みされたことを悟った。そしてそれなりの高評価を下されたことも。
男はランタンを、探索者ランタン、だとはその時点でまだ認識していなかった。そして多くの悪党たちが何となく感じる、小金を持っていそうな身綺麗な子供、と言う認識でもなかった。
たまたまそこに居合わせただけの男が一瞬にしてランタンの身に付けている装備の品質から、ランタンをそれ相応の探索者だと見抜いたようである。外面だけではわりと侮られがちなランタンを、だ。
武人が身体付きや雰囲気から実力を察するように、男は何にどれほどの金を使うかによってランタンの実力、あるいはそれ以上に深いものを見抜いた。
迷宮に入る時とは別種の重圧を感じ取った。ランタンがちろりと唇を舐めて、無意識に腰の戦槌に触れて撫でた。そこにランタンの心が宿っているかのように、落ち着け、と心の中で小さく呟いた。
「これはこれはランタンさまに、――リリオンさま。今日はどのようなご用件で当ギルドのにいらっしゃったのでしょうか?」
背の小さなランタンの更に下手に出るような謙りを見せた男に、だがランタンは更に警戒心を高めた。気づかれた、と言うのはどうでもいい。ランタンは見知らぬ人間が自分の名前を知っていることに慣れていた。
だがまさかリリオンの名前さえも知られているとは思わなかった。同職業の探索者ならまだしも、何ら関係のない人間に。
ランタンは動揺を悟られぬようにリリオンに紹介状を寄越すように手を差し出し、受け取ったそれを男に渡した。男は紹介状にさっと目を通した。
これでもう帰ることは出来ない。これで帰っては紹介状を認めたグランの面子を潰すことになる。ランタンは覚悟を決めた。
「はい、運び屋派遣サービスのご利用ですね。すぐにご用意したしますよ。何なら今すぐに迷宮に連れて行って頂いても構いませんよ。はっはっは」
そう言って男は笑った。それは彼なりの冗談であり、また実際にそれが可能だと言うことをひけらかしているようでもあった。ランタンは全く笑いもせず、リリオンに至っては言葉の意味をそのまま受け取り、ふうん、と息を漏らしただけだった。男はその反応について何にも感じていないようだった。
「……まだ利用すると決めたわけではないので。どのようなサービスなのかも知りませんし。それを今日は教えて貰いたくて来ました」
まずは牽制、とランタンは努めて冷静に自分に契約の意思が薄いことを伝える。
男は、はい畏まりました、とランタンたちを応接室に案内した。
そしてそれはそれは美味しいお茶とお茶請けを出し、三分に満たないほども待ち惚けを二人に食らわせた。お茶を一口啜り、茶菓子を一口囓って休憩時間はお終いだった。気を緩ませはしたが、締め直す暇は与えられなかった。
その隙に付けいるように現れたのは妙齢の女性だった。色の薄い金の豊かな髪をバレッタで一纏めにした落ち着いた雰囲気は年の頃を三十前後を思わせたが、ふっくらと丸い頬が幼さを女に与えている。真面目で優しげ。商人と言うよりは修道女のような雰囲気がある。
外見上の年齢は下でも女は男よりも立場が上であるらしかった。女は目線一つで早々に男を下がらせると、安心感のある微笑みを二人に送る。軽く会釈を返し、ランタンはネジを締めるように気持ちを引き締めた。
そして女は挨拶もそこそこに、では早速、と聞き取りやすく落ち着いた口調で運び屋派遣サービスについての説明を始めた。
本当に修道女なのかもしれない。セールストークと言うよりは聖書の朗読を思わせた。謳うように朗々として、その声は揺るぎない確信を持って明瞭である。商売気の一切ない微笑みは慈愛に満ちており、絶対的な高見からではなく、同じ位置に立ち迷える二人の手を取り導くようだった。
隣でリリオンが引き込まれるようにしてその話を聞いていた。説明はとても分かりやすく、運び屋を恃むことが探索者にとってどれほどの利をもたらすのかを懇切丁寧に二人に伝える。
リリオンの反応が、ランタンの警戒心を高めた。
ランタンも人のことは言えないが、人見知りをする少女がこれほど容易く、またあまり運び屋を雇うことを望んでいないよう思えた少女がこれほどまでに容易く籠絡されるというのは普通のことではなかった。
警戒し、冷静さを保っているつもりだった。女の話す説明が、良いことしか言っていないことにも気が付いてた。
曰く、商工ギルドに所属する運び屋は全員がギルドから課せられた高度な訓練を受けており、また認定試験を合格した者しか所属を許されていない。彼らは選りすぐりの精鋭である。
曰く、彼らは身の丈を超える荷すら軽々と持ち運び、また厳しい探索の中で探索者の足を引っ張るようなことはなく、またどれほどの苦難でも文句の一つも漏らさず、いざ戦闘となれば悲鳴を零すこともなく戦闘の邪魔をしない。彼らは完璧な黒子である。
曰く、そして確かな知識に裏打ちされた鑑定眼は探索者の悩みの種である戦闘後の迷いの一切を打ち払い、探索者に確実な利益もたらす。それは普段の探索の利益を倍にすることもある。彼らは効果のある幸運のお守りである。
曰く、彼らは見習いの探索者が自分磨きのために行う運び屋業とは訳が違う。滅私奉公、商工ギルドが派遣する運び屋は全てが探索者のためにある。彼らはまさしく運び屋の専門家なのである、と。
顔には出さなかったがこの上なく胡散臭いと思ったランタンは、しかし気が付けば契約を済ませていた。
指先の冷たくなった手で契約書に署名をする時、狐に化かされたような気分だった。自分は誘導されたのだとは理解している。だが会話の中でどのようにしてそれが行われたのか、全く分からなかった。心のどこかで、では検討してみます、と言う逃げ口上が使われることなく転がっていた。
契約は澱むことのない川の流れにも似た、会話の自然な流れのままに行われてしまった。
長期雇用ではなく、ただ一度だけのお試し契約であるのがランタンが最後まで守った唯一の砦であったが、それが誘導の元に行われていないとは言い切れなかった。
ここは鬼の住処だ。
商工ギルドは、商人ギルドと職人ギルドの調整機構でしかない。グランから聞かされて抱いた侮りは大いに間違っていた。重要なのは商工ギルドが、二大ギルドの代表が運営していると言うことだった。
少数精鋭。
代表の集まりが無能であるはずがないのだ。グランの愚痴を面倒くさがって聞き流していたのが仇になった。グランはこの恐ろしい相手たちと仕事をする気苦労を嘆いていたのだ。
商売の鬼が住んでいる。この都市に於いてある種、最も油断のならぬ存在の選りすぐりたちが。
ランタンは爽やかに送り出された建物をうっそりと振り返って見上げた。
この建物は質実剛健どころではなく、もしかしたら全ての無駄を削り取った結果なのかもしれない。そしてランタンがただ一つの契約だけで、生きてこの建物を出られたのはランタンにまだ価値があるからだった。
最初に出会った男が、あるいは説明女が、他の誰かがその気になればランタンもリリオンも丸裸にされて髪の一筋から血の一滴に至るまで、全てを奪われ売り払われていた。そんな恐ろしいことを思わせるような奇妙な体験だった。
何も気が付かずとても満足のいく契約が結べてほくほくしているリリオンの横で、ランタンはほんのりと薄ら寒くなった。リリオンは運び屋と契約したことできっと次の探索が上手くいくだろう確信を抱いているようだった。ランタンもそうあって欲しいな、と精神的疲労の分だけ強く思う。
「……帰ろう」
妙な敗北感を抱きながらランタンが呟くとリリオンが、ダメよ、とその腕を抱いた。
「ギルドの人が言ってたでしょ? ミシャさんの所で契約をしなおさないと」
そうなのである。
契約を改めずに降下当日を迎えたら、困るのはランタンではなくミシャなのである。ただでさえ運び屋を追加降下させること自体が探索計画の見直しというミシャへの負担となっているのに、それを当日まで黙っているというのはミシャへの明確な裏切りと言えた。
この前も疲れてたな、とミシャの顔を思い出す。
分かっていたことの筈だった。運び屋を急遽雇うことが引き上げ屋の負担になることを。
それでも何故自分は追われるようにしてこんな事をしているのだろう。ランタンは急に自らの意思が脳や心から乖離していくような感覚を覚えた。
先ほど説明女に誘導された時も曖昧だったが、それよりももっとぼんやりした何かに操られているような気分になった。
「頭痛い……」
ランタンは猫のように目を擦って、まだ痛みが少し残っていたがリリオンに気取られぬように素知らぬ顔をしながら歩きだした。
もういい加減絡まれる可能性を嫌って、かなりの遠回りになったが裏に裏にと人気のない道を選んだ。今誰かに絡まれたら自分でも吃驚するぐらい酷いことをしそうな気がした。
蜘蛛の意匠の看板を前にしてランタンは自らの頬を挟み込むようにして引っ叩き気合いを入れた。ばちん、と気持ちのいい音が響く。
「どうしたの?」
「どうもしないよ」
そんなランタンに驚いたリリオンを置き去りに、ランタンは扉を開いた。
「いらっしゃい。あら、どうしたの? ほっぺが赤いわよ」
アーニェがほっとするような笑みを寄越して二人を迎え入れた。頬を指差されたランタンは曖昧な苦笑を漏らした。
「また何かあったのかしら?」
アーニェの言葉は、そのままの意味以上の他意はなかったが、ランタンは言われて少しバツが悪くなった。契約期間中に店舗を訪ねると言うことは、つまりそういうことなのだ。
中途での契約変更は探索者の権利ではない。引き上げ屋はただ事情を酌んでそれに対応してくれるが、それは引き上げ屋の温情である。契約とは本来そう簡単にころころと変更できるものではない。
その契約変更をランタンはここ三回の契約の内で二回も行い、唯一変更のない一回の契約はどうにか頼み込んで受け入れてもらった契約であることを考えると、ただただ頭が上がらなかった。ランタンは申し訳なさでいっぱいになりながらも、商工ギルドから渡された契約書をアーニェに渡した。
「ふうん、――あらそうなの、うん事情は分かったわ。ランタン君が運び屋をねえ」
アーニェは契約書に目を通すとすぐに事情を察して、ランタンの負い目を吹き飛ばすように軽やかに声を上げて笑った。
「なるほど。商工ギルド相手じゃ如何にランタン君でも分が悪いわね。商工ギルドはこんな仕事を始めてたのね、知らなかったわ」
アーニェは契約書を上から下までじっくりと読み込んで、納得したようにうんうんと頷いた。
「浮かない顔してるけど、それほど悪い契約じゃないわよ。これはむしろかなり良い方ね。商工ギルドが仲良くしましょうって言ってるのよ」
「そうなんですか?」
「ええそうよ。あそこは容赦ないもの。貧乏人は探索者だろうと貴族だろうと蹴っ飛ばして追い出されるし、あそこの人たちが本気になればランタン君は運び屋の一個師団と契約しているところだわ」
ランタンは自嘲するような笑みを浮かべて肩を竦める。そのような無茶をしてくれれば断る事も出来たかもしれない。アーニェの言ったとおりに契約している可能性も大いにあったが。
「あら慰めじゃないのよ。確かに普通の運び屋を雇うのに比べたら、まあちょっとは割高だけれど、商工ギルドが用意した人材なら間違いはないわよ。見習い探索者連れて行っても役に立たない事なんてごまんとあるんだから」
実際に探索を終えて迷宮から引き上げられた時、探索者見習い兼運び屋が全く使い物にならなくて険悪状態になっていることも少なくないらしい。アーニェも現場に出ていた時分には、その得も言われぬ雰囲気に苦労したそうだ。
「現物払いを予定していていざ潜ってみたら運び屋が使い物にならなくて大赤字なんて事もあるのよ。険悪なだけならまだ良いけど、私刑に掛けられてぼろぼろになってたり、運び屋だけ戻ってこないなんて事もあるからね。迷宮内は治外法権みたいなものだから」
苦労と言うには苦すぎる感情が一瞬だけ浮かび上がったような気がした。だがアーニェはすぐに余裕のある大人の顔を作った。
「だからお墨付きがあるのはいい事よ。問題があったら商工ギルドに文句も言えるしね」
「文句を言ったら倍返しにされそうなんですが」
商工ギルドにすっかり苦手意識を持ってしまったランタンは拗ねるような口調でそう呟いた。アーニェはそんなランタンを悪戯っぽく見つめて、リリオンに視線を寄越した。すっかり商工ギルドに籠絡されていたリリオンは、それでようやくランタンが商工ギルドに対して思うことがあるのを悟ったようだった。
「ねえ、ランタンは運び屋嫌だったの?」
「……運び屋が嫌なわけじゃないよ」
説明女がつらつらと上げた運び屋の利点は胡散臭くとも、そこに否定するべきようなところはなかった。その存在が探索者にとって得がたいものであるというのは、アーニェが言ったような問題があっても運び屋という職業が失われずにあることからも窺い知ることができる。
「ただ、……うーん。なんだろう、なんて言うのかな」
自らの意思で決定した、と言う感覚がないのが酷く気持ち悪かった。
それを聞いてアーニェが堪えきれずに笑い声を上げた。
「なるほどね。うふふふ、ランタン君も男なのね」
「どういうことですか?」
ランタンが尋ねるよりも早く、リリオンがアーニェに迫った。アーニェは契約書をひらひらとさせてリリオンに微笑みかけた。
「ランタン君はね、きっとやり込められたことが気に入らないのよ」
「……そんなことは」
「だってランタン君は今の今まで、自分のことは全部自分自身で決めてきたでしょう? うちのミシャが探索ペースを落としてって心配してお願いしても、絶対自分を譲らなかったじゃない」
ねえ、と同意を求められてもどうして良いのか分からない。
「やりたいことも、やりたくないことも全てが意のままだった。……とまでは言わないけど」
アーニェは黙りこくってしまったランタンを楽しげに見ている。
「気に入らない、と言うのは少し違うわね。ランタン君は慣れていないのよね。人に物事を決めてもらうことに。――ほら、眉間に皺を寄せないの。そんなに難しく考えなくったって良いのよ。ランタン君は本当に嫌なことは嫌って言える子だもの、受け入れたって事はまんざらじゃないのよ。決定、――面倒事を他人が勝手にやってくれたって思えば良いんだから」
ランタンはそういった自分に自覚がないせいか納得しかねるように唇を突き出して、眉間の皺を親指で擦り消そうとしていた。眉間を指で擦り、そのまま髪を掻き上げて、後頭部から項を撫でつけ頬を擦った。自分がどんな人間なのか分からなかった。せめてもその輪郭だけでも確かめるように。
いつもと変わらぬほっそりと軟らかい頬があった。
「リリオンちゃんいい? ここが女の見せ所よ。男の人はねこうやってすぐに黙り込んじゃうの。本当はあれこれ小難しいこと考えてるのに。何でも自分一人で解決しようとするのよ。こっちは心配してるのにやんなっちゃうわね」
「――ランタンも、そうなの?」
「そんなことないよ」
ふるふると無自覚に首を横に振ったランタンを見てアーニェはほら見たことかと大げさに溜め息を吐いて、リリオンを招き入れるように顔を寄せた。
「リリオンちゃん、聞いたって無駄なの。何だってすぐに大丈夫って言うのよ。これはもう察しなきゃダメなのよ。ね、ランタン君」
「振らないでください……なに? リリオン」
「わたし、ランタンのこと察してあげる」
リリオンがじっとランタンのことを見つめた。顔色を窺うのではなく、顔自身を、その目の奥底までを見通そうとするように。冗談でやっているのなら笑えたが、その目付きが真剣だったので思わずランタンも睨み返してしまった。
それはまるで野生動物が争いを始める直前にも似た、視線を逸らすことの出来ない妙な緊張感が漂っていた。曲がりなりにも探索者同士の睨み合いは、そこに無駄な威圧感を撒き散らかすばかりだった。
「あー、うん。……二人にはまだ早かったのかしら。ランタン君はまだ男じゃなくて、男の子なのね」
アーニェはせっかくの盛り上がりを見せた女談義が突如妙な方向に流れたことを悟り、つまらなそうに三対六つの手を叩いて二人の睨み合いを中断させた。ランタンがはっと視線をアーニェに向けると、その隙を突いてリリオンがランタンを抱きしめた。
「やめろ」
「やめない。ランタンはわたしに抱きしめて欲しいって思ったのよ」
「思ってないから」
「隠さなくても良いのよ。わたしはランタンに何だってしてあげたいの、ランタンの望むことは何だってしてあげる」
正面切ってそう言い放ったリリオンにランタンは絶句して、アーニェは青々とした清々しさに当てられて少女のように頬に手を当てた。太陽を直視するように眩しそうに目を細める。
「あらまあ物凄い殺し文句ね。――でも店内でこれ以上は止めてね。公序良俗違反で営業停止にされちゃうから」
「はいっ!」
ランタンを心ゆくまで抱きしめて堪能したリリオンは、それでも名残惜しむようにそっとランタンを解放した。そしてリリオンの柔らかさとか温かさに、何だかんだでまんざらでも無かったランタンは悔しげにしている。
「元気出たみたいで良かったわね。契約の変更は了解したわ。一人追加に、探索期間の一日延長。料金体系は重量制になるから気をつけてね」
運び屋を入れることで行きと帰りで重量に大幅な変動が出るために料金体系が変更された。重ければ重くなるほどに引き上げ時に必要となる起重機操作の技量と、そして燃料が増加するための措置である。
「ミシャにもちゃんと伝えておくから」
「ミシャは今日もお仕事ですか?」
「ええミシャだけじゃなくてうちの起重機は全部なんだけど、朝からずっと特区に詰めているわよ。ランタン君のおかげで忙しくさせてもらっているわ。――あら、嫌味じゃないのよ」
アーニェの表情にランタンは、まさか、と頬を引きつらせた。
「聞いてるわよ。大活躍だったみたいじゃない」
「……誰からですか?」
「お客さんが話してくれるのよ。うふふ、ランタン君に憧れているのかしらね? おかげさまで新規のお客さんが増えたわ。広告料を払ってあげても良いぐらい」
ランタンと同じ引き上げ屋を、と言うことで新規にやって来た探索者が複数いて、それらが語った噂の内容は複数あった。
作られた真実に最も忠実な、ランタンが成り行きで探索者ギルドを手伝ったというものから始まり、そこから発展してランタンが探索者ギルドに積極的に働きかけて探索者に堕落せしめる犯罪者を裁いたというもの。
中にはランタンの存在に恐れを成した犯罪組織がランタンを襲いこれを撃退したというものや、突如ランタンと組むこととなった少女はやんごとなき血を引いておりランタンがその少女を救い出したのが組むこととなった切っ掛けなのだとか、もうランタンの理解力を超えて話がおかしな事になっているらしい。
噂が広まるにつれてその内容が変質していくのはよくある話だが、その変質する速度が尋常ではなかった。まるで病原菌のようだ。
ランタンは顔を青くして鳥肌の立った二の腕をさすった。
その瞬間にリリオンがはっとして冷たくなったランタンを見つめた。腕を広げて口を開く。
「ランタン、抱きしめてあげる。温めてあげる」
「いらないって、だから」
しかし強がりは察せられてしまって、ランタンは結局抱きしめられた。




