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――冷たい。
「手を伸ばせ!」
凄まじい風音に鼓膜が轟々と震え、朦朧とする意識の中でゼインは怒鳴り声を聞いた。
それが誰の声か一瞬、理解することができなかった。
ランタンを丸飲みにした巨大な白い竜種の尾にどうにかしがみついていた。地上は遥か遠くの足元にある。
ランタンはきっと今頃は竜種の腹の中で、リリオンは振り落とされていなければ首元にいるだろう。
その二人の声ではなかった。
声の主はガーランドだった。
探索者でもなければ観測官でもない、どうやらローサの子守としてランタンに雇われているらしい女は遠征隊の中でもっとも浮いた存在だった。
大きな声どころか、普通の話し声すらもどんなものだったか思い出せない。
そんな女が自身も猛烈な風にさらされているというのに、片手をこちらに伸ばして、必死に声を上げている。
「手を!」
尾を脇に抱え、伸張させた触手髪を更に巻きつけどうにか身体を保持している。
だが猛烈な寒さに髪そのものが凍り付き、半透明で柔らかいはずのそれが白く濁り、罅さえ入っている。
ゼインは手を伸ばそうとして、身体が動かないことに気が付いた。
これは変異の所為だった。皮膚病のごとく斑に、身体の表面が金属質に覆われている。
それは表面だけでなく内部にも侵食しており、ゼインの体温を効率的に大気へ発散させた。
身体は半ば凍り付いている。
変異をしてから最初の冬、ゼインはこの身体の特性のせいで死にかけた。
あるいはそこで終わっておけばよかったと思ったこともある。
だがはたしてその考えは真実、本心だったのだろうか。
大蛇との戦いでゼインの変異は広がった。胴体に食らいつかれ、そのまま壁に叩きつけられたことを憶えている。いや、叩きつけられる直前までのことを。
その時、ゼインは死を恐れ、生を願った。
無意識だった。
そして無意識だからこそ、魔精はゼインの願いに応えた。
その時まだ意識は残っていたはずだが、どのように変異したのか記憶はなかった。
目覚めた時、主に胴回りに変異は広がっており、身体の半分以上が金属質に覆われていた。普通の肉体のままであったら、叩きつけられた衝撃で潰れていただろう。
変異は自分を助けた。
もはや身体が斑に金属質に覆われていると言うよりも、斑に肉が残っているという感じだった。
この肉体が醜いかどうか、ゼインにはもうわからなかった。
ただ自分が生きようしていることだけは身に染みた。
自分たちを引き剥がそうとする猛烈な風が突如、凄まじく乱れた。
竜種が羽ばたいたのだ。
こちらに手を伸ばしたガーランドが、危うく吹き飛ばされそうになるのがわかった。
自分が掴まっていられるのは、指がその形で固まっているからだった。
彼女が再びこちらに手を伸ばした。
ゼインは強張る首をどうにか捻って、ガーランドを見上げた。
みしみしと嫌な音が肉体の内部で響き、表情を作ると頬の辺りで硝子に罅が入るような音がした。
ガーランドがはっと表情を変え、ゼインは自分が笑えたことを理解した。
そして強張った指先を開き、ゼインは大空に身を投げ出した。
これでガーランドは自分の身を守ることに集中できるはずだった。
落下するゼインは全身に風を感じた。
風は冷たいが硬くはない。包み込むようだった。雲に飲まれたのか視界はすぐに白くなり、上下の感覚が失われた。
落ちているという感覚もなかった。
水の中にいるみたいに浮いたり沈んだりしながら、流され、漂っているような感覚だった。
死への恐怖はなく、また生の諦めもなかった。
あの高さである。おそらくは死ぬだろう。落下の衝撃は大蛇の一撃とはわけが違う。しかしこの肉体ならば落下死を免れるのではないか。さすがに無理か。
旅は終わる。
せっかくここまで来たのに、ランタンには悪いことをした。
もう少し自分の心が強かったら、彼にこのような面倒はかけなかっただろう。
ランタンは最初に出会った頃の印象とはずいぶんと違って、お節介なほどなんとも面倒見のいい男だった。
もともとそういう性格だったのか、リリオンとの出会いが彼を変えたのか、どちらだろう。
あまり自分のことを語るのを好まなかったが、もっと酒でも飲ませて馴れ初めなどを根掘り葉掘り聞いてやればよかった。きっとひどく嫌がるだろう。
ふとその光景を夢想した。
満点の星空の下で焚き火を囲み、あるいはどこか酒場で仲間たちと酒を酌み交わす光景を。
この遠征の中にもそういった交流は、多いとは言わないが何度かあった。しかし同じ苦しみを持っているからといって、最初から本音を言い合えたわけではない。
最初は強がり、弱みを見せないようにしていた。
隠しようもないこの身体そのものが自分の弱さの表れであるというのに。
「ああ、懐かしい」
それが目に見ている光景か、それとも想像のものかゼインには区別がつかない。
ランタンや変異者たちの姿がかつての仲間たちの姿になり、満天の星空や煙で燻された酒場の天井がいつかの迷宮へと変わった。
迷宮からの帰り道だ。
それは駆け出しの見習い探索者のころだ。荷車には戦利品が積まれ、その重さが掌にぐっとめり込む。
世話になっていた探索隊の男たちは乱暴者だったが腕のいい探索者で、機嫌が悪い時には憂さ晴らしで蹴ったり殴ったりされたが、迷宮での振る舞いには学ぶべき所は沢山あった。
引き上げ屋が来るまでの間、酒を飲んで時間を潰している。彼らは行きでは決して飲まなかった。その姿をまだ少年だったゼインは荷車のそばに起立し、見つめている。
彼らの半分は迷宮で死に、残りの半分は一人が酒場の喧嘩で死に、二人は故郷へ帰るといってティルナバンから去っていった。
無事に帰れただろうか。
景色が変わる。
ゼインはもう一人前の探索者であり、信頼できる仲間たちといくつかの迷宮を無事に攻略して名が売れてきたころだ。若さと自信に満ちあふれ、初めて高難易度迷宮に挑んだその帰り道だ。
別の探索隊が攻略に失敗し、ゼイン隊は二番目の探索隊だった。こういった迷宮は多くの情報があるので、少しばかり探索計画が立てやすくなる。
しかし結果は失敗だった。魔物は強く、数が多かった。
仲間を一人失い、失意の帰路だった。死んだ仲間は、残りの仲間を生かすために死地に留まった。それは多くを生き残らせるために必要な行動だった。
ゼインは指揮者だったがその命令を下せなかった。彼は自らそこに残った。ゼインはひどく落ち込み、一時は探索者を辞めようと思ったほどだった。酒場で肩を落としていると、生き延びた仲間が寄り添い、哀しみを分かち合ってくれた。
景色が変わる。
誰もがくたびれており、しかし満足げな表情をしている。
ゼインは探索を続け、甲種探索者となった。
探索は成功ばかりではなかったが、死者を出すことはなかった。安全ばかりを優先して、危険を冒さなかったわけでもない。時には賭けに出ることもあったが、その全てに勝ってきた。あらゆる困難を粉砕する長大な六角棍はゼインの代名詞となった。
引き上げ屋を待つ間、一足早い祝宴を行った。行きでは飲まなかった酒を仲間たちに振る舞う。戦利品で重たくなった荷車を牽いてきた探索者見習いも車座に加え、皮の剥けた手を消毒してやる。
杯を高く掲げて乾杯する。
何もかもが順風満帆で、泣きたくなるような懐かしさだった。
自分が失ってしまったものだった。
「――くそっ、くそっ、ちくしょう!」
ゼインは手足を振り回した。
駄々をこねる子供のように、叫んだり、罵声を発したりした。
ぶるぶるっと身体が震えて、背骨が熱を持った。熱は瞬く間に全身に広がって、指先までじんじんと痺れた。
ゼインは真白い霧の中を掻き分けるように歩いていた。
落下の衝撃はなかったし、いつ地表に着いたのかとも思わなかった。歩いていることは当たり前だった。
自慢の六角棍を担ぎ線上を歩いている。
あたりから激しい戦いの声が聞こえてくる。
ゼインは一人の戦士だった。
サラス伯爵の忌まわしき欲望に巻き起こされた、人々を踏みにじる戦いへ身を投じた義勇兵だった。
目の前の敵兵がなぜ伯爵のために戦うのか。その理由など考える暇もなかった。
迷宮で魔物が襲いかかってくるように彼らは自分たちに向かってきて、また自分たちも魔物を打ち倒すように彼らに斬りかかった。
考えるような暇は、少しも与えられなかった。
ゼインが救おうと考えていた領民たちも、敵兵の中にはいた。しかし区別はつかなかった。すでに変異は始まっており、敵兵にまともな姿をしているものを見つけることはできなかった。
そして気が付けば自分自身もそうなっていた。
変異。
その事に気が付いたのは、戦いが終わってからだった。
戦いの終わりはよく憶えている。
伯爵領の中央の空に巨大な爆発が起こったのだ。
鮮烈な真っ白い光が、それから何十秒も遅れて、それでなお全身が痺れるような爆発音の響きが終わりの合図だった。
とっぷりと狂気に浸かっていた戦場の人々を正気に戻したあの衝撃は忘れがたいものだ。
肉体の変異は驚きではあったが、その実それほど気にはしていなかった。
多くの変異者を苦しめたのは、日常に戻ってから向けられる視線によるものだった。恐怖や嘲り、哀れみや奇異の、見知った人からの知らない人を見るような視線。
ゼインはそんな視線から逃れるようになった。
かつては肩で風を切って歩いたティルナバンの目抜き通りは恐怖の対象となった。親しく声をかけてくれるものなどいなかった。
「よお、ゼイン」
名を呼ばれて、ゼインははっとした。
そこには一緒に義勇兵となった仲間がいた。自分を含めて六人からなる探索隊で、義勇兵となったのは自分を含めて三人だった。
肩を並べて戦っていたのは戦いの最初の頃で、すぐにばらばらになってしまった。
「なんて顔をしてるんだ」
「男前が台無しだよ」
ゼインは顔を撫でる。二つの感触がある。柔らかな肉の感触と硬い金属の感触だった。
ゼインはふっと頬を緩める。
「そっちこそ」
二人も馴染みのある顔ではなかった。すっかり異形に変異している。だが面影は僅かに残っていて、それだけで充分だったし、何より声はそのままだった。
「しょうがないだろ、必死だったんだから」
「ああ、そうだな。あれは大変な戦いだった」
「迷宮の方が楽だね。他人のための戦いってのはどうも業が深い。勉強代は高くついたね」
ゼインは顔を歪めた。
肉体を失い、日常を失い、なにより仲間を二人失った。
だからこの二人は本当はもういない二人だった。
自分が義勇兵に誘ったわけではない。だが自分が行くと言わなければ、きっと二人は義勇兵にはならなかっただろう。
この二人は幻か、それともテンのような一時的な存在か、自分の妄想か、ともあれそういったものに違いなかった。
「どう、楽しくやってた?」
二人は気楽にそうたずねてきた。
「ああ、もちろん。俺を誰だと思ってるんだ」
ゼインは即座にそう答えた。
本当のことは言えなかった。それはひどく惨めなことだったし、そのことを例え幻だとしても知られたくはなかった。
だが二人は懐かしい笑みを浮かべる。迷宮の内外でゼインが指揮者として判断に迷っていると、いつだってそんな風に笑った。
「相変わらず見栄っ張りだ」
「やっぱり変わらないもんだね」
「――いいや、変わったさ。見てみろ、これを」
ゼインは服を破るようにして、肌を晒した。光に金属質がきらきらと光った。呼吸の収縮で光が波打つ。
二人は眩しそうに目を眇める。
「見たよ。それでそれがどうしたんだよ」
「そんな言い方したら、また傷つくよ。こんな硬そうな身体してるのに結構、打たれ弱いんだから」
二人は呆れたような顔でゼインを一瞥し、溜め息を吐き、それから顔を見合わせて笑った。
「冗談、冗談。そんなに怒るなよ」
「それで、ゼインはどうするんだい? これから。戦いも終わってさ」
あたりを見回すとそこは戦場の跡地だった。もう戦っている人々はおらず、血で泥濘んでいた大地はすっかり乾いている。
「これから――」
問いかけられてゼインは二人の顔を見つめた。
二人はこちらに笑いかけている。
「また一緒に迷宮にでも行くか。懐は温かい方がいいしな」
「それか畑耕したり、羊育てたりしてのんびり過ごしたりってのも悪くないね。ずいぶん頑張ってきたからね。よくやったよ、あんたは」
ああ、これは。
懐かしく、喜ばしく、嬉しく。
「ほら、行こうぜ」
その誘いはどうしようもなく抗いがたい。
二人はゼインに手を伸ばした。




