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夜になる少し前にはもう森の中は闇に包まれる。
行動できる時間は短かった。
針葉樹の盤根が張り巡らされた地面に腰を下ろし焚き火を囲み、食事を摂る。
地面には岩苔が密生し、また落葉が幾重にも降り積もって層をなして、土の冷たさを和らげてくれた。
食事を済ませるとローサはすぐにうつらうつらしはじめて、丁度いい窪みに身体を丸めて納めるとすぐに眠ってしまった。
ランタンはその身体を背もたれにして、腰から尻にかけての虎毛に包まれた丸みを掻くように撫でていた。冬毛は長く、密集していて掌はすっかり沈んで見えなくなった。太い尻尾が寝返りを打った。
寝息に合わせてローサの身体は膨らんでは萎み、もたれかかるランタンは揺り椅子に座るみたいに身体を小さく前後させる。
闇は四方から迫るように押し寄せ、焚き火の光は振り返ったすぐ先までしか照らさなかった。
だが時折、闇の中に二つの小さな丸い光がじっと浮かんでいるのが見えた。それは獣の瞳だった。ランタンたちの会話を盗み聞きするみたいにこちらを遠巻きに見つめて、気付かれるとふっと姿を消した。
日中に集めた枯れ枝を折って炎の中に投げ込む。
「まず魔精という無垢のものがあった。それが窪地などに溜まり、それは魔精溜まりと呼ばれる。その溜まりに人が足を踏み入れると、人の意識と魔精が反応する。魔物が生まれたり、迷宮が生まれたりする」
魔精と名付けられた元素はその全てが解明されておらず、それゆえそれによって起こされるとされる現象もまたすべてが仮説である。
「迷宮仮説ですわね」
「うん」
この迷宮仮説は探索者ギルドなども採用している、もっとも信じられている仮説だった。
「今、伯爵領はこの魔精溜まりのような状態になっている、と考えられる」
「だからこんな風に色々な不思議なことが起こるのよね」
リリオンが知った風にそう告げたのは、夜ごと同じような話を繰り返しているからだった。現状の推測、あるいは理解は足踏みを繰り返している。
「原初、迷宮は幻だと考えられていた。そんなものは存在しない、何かの見間違いだと考えられていた。誰も迷宮を知らず、迷宮という概念が固まっていなかったからだ。最初の一人はただ魔精溜まりに興味を持って近付いた。これはなんだろう、と」
それは迷宮にはならなかった。魔精にすくい上げられた根源的な意識のちらつきに過ぎない。目覚めたら、見た、ということ以外のすべてを忘れてしまう夢のようなものだ。
ランタンたちがこれまでの道中に霧の中で見たり、聞いたりした幻がそれに近い。
「だがある日、また別の人物が魔精溜まりに入り込んだ。そこでまたよくわからないものを見て、また否定された。しかし段々と魔精溜まりに触れた人が増え、やがて魔物に殺された人物や宝を持ち帰った人物が現れ始めた。もしかしたら獣に殺されただけかもしれず、宝はその店で買ったものかもしれない。だが、そこには魔物がおり、宝があると噂が広まった。一攫千金を夢見たものたちがそれを求め、探し始めた。やがてそれは迷宮と呼ばれるようになった。迷宮とは何か」
はい、とリリオンが手を上げた。その勢いに炎が揺らめいて、背後に映し出された影が波打った。
「地面に開いた穴の中にある不思議な世界よ。魔物が住んでいて、探索者に襲いかかってくる。一番奥まで行くとその迷宮で一番強い魔物がいて、最終目標と呼ばれてる。魔物はやっつけると魔精結晶になって、最終目標をやっつけると一番大きな結晶が手に入って、迷宮は壊れちゃう」
「うん、そう。探索者はほとんどみんなそう思っているし、迷宮に入ったことがない人もそんな感じのものだと思っている。つまり魔精溜まりは迷宮となった。無垢な大量の魔精の集まりなんてなくなってしまった」
「人が魔精溜まりに触れずとも魔精が一定量以上、集まれば自動的に迷宮のようになってしまう、と言うことですわね」
サラス伯爵がやったことは人工的に無垢な魔精を生みだし、それを集めて原初の魔精溜まりを作り出すことだった。そしてそこに人を集め、戦い、いや戦争という異常な空間とすることで意識の統一を図った。
そしてその目論見は成功し、多くの変異者が生み出された。
「魔精には大きく二つの性質がある。一つは創造、もう一つは変異」
前者の代表的なものは迷宮であり魔物である。
後者の代表的なものは変異者であり、そして探索者である。
あたりの見回りに出ていたガーランドが戻ってきて、異常がないことを告げた。熱い茶を飲んで、白い息を吐き、眠るローサに視線を向けると、また闇の中に戻っていった。
抜き身の白刃だけが、しばらく闇の中に浮かんで見えた。
彼女の肉体は、クラゲの持ついくつかの性質が組み込まれている。髪は刺胞を持つ触手に置き換わり、肉体は光を透かすようになった。
彼女にその処置を施した研究者が真に求めたのは、老いてはまた若返るという不老不死じみた性質だったが、その性質は彼女に備わることはなかった。
彼女の処置に使われた魔道的な技術は変異であると思われ、おそらくローサに炎虎を継いだ処置にも似たような技術が用いられただろう。ガーランドに用いられた技術の発展系の可能性もあった。
「変異は目に見えるものと見えないものがある。変異者たちの変異は目に見えるもので、探索者の変異は目に見えず強化と呼ばれる」
ランタンは目の前に持ち上げた手を握って拳を作った。
我ながら小さな拳だった。だがこの拳には恐るべき殺傷能力がある。人の頭蓋骨など容易いもので、やろうと思えば岩を割り、鋼を砕くことも不可能ではない。
肉体が本来持つ強度では到底不可能なことが可能になるには、魔精の力が働いているからだ。
「僕が強いのは変なことだ」
ランタンははっきりと断言した。握っていた拳は熱を持ち、拳を解くと指の間を冷たい風がすり抜けていった。
「そうなの?」
「そうだ。ただ強いだけじゃないぞ。やたらめったら強いんだ。普通、体格差はそうそう覆せない。それがどうだ」
リリオンは納得がいかないように握ったり開いたりするランタンの手を見つめる。
リリオンの反応はやや過剰だがおかしな反応ではなかった。それは彼女がこの魔精がある世界しか知らないからだ。
ランタンはもう一つの世界をおそらく、知っている。だからやはりおかしいと思う。
「例えば僕が迷宮探索をしたことがなくて、これぐらい強かったらどうだ」
「――それは変かも」
「だろ? そしてこの変異というものは基本的には不可逆だと言われているが、本当にそうか? 僕はやがていつか、日々をだらだら過ごしたり、おじいさんになったりしたら、今の僕より弱くなることがあるだろう。これは弱かった頃の自分に戻っているとは言えないか」
リリオンは黙って考え込んだ。その代わりにルーが口を開いた。
「戻っているとは言えない、と思います。それは新たに手に入れた弱さではないでしょうか」
変異が不可逆だと言われる由縁はそこだった。
もっとも一般的な変異は土の魔道だ。
土の魔道はある物体に働きかけることで、その形を自由自在に変えることができ、働きかけを止めることでその形を固定する。元に戻すには再び働きかけて、変形させなければならない。
出来上がった物体は一見して元の形に戻ったように見えるが、突き詰めれば元の形に物凄く似ているに過ぎない。
「元には戻れない。だが新たな変異を手に入れることはできる。ゼインは手に入れた」
ゼインは全身に金属片を継ぎ接ぎしたような変異によって苦しんでいた。しかし大蛇に噛みつかれ、その肉体を砕かれるかという恐怖に襲われたことによって、変異の範囲が広がったのだ。
強い恐怖と掻き立てられた生存本能によるものだった。
「元に戻りたい戻りたいと願い続けた結果が、変異の拡大では皮肉が過ぎる。けど一例としては希望が見えたようにも思う。まったく同じには戻れないかもしれないけど、変異を上書きすることはできる」
ランタンの言葉に、しかりリリオンもルーも口を結んだ。ガーランドがいても、きっと答えなかっただろう。
まずそれは簡単なことではなかった。
彼らは今の自分の姿が違うことを強く認識している一方で、それほど明確に自分の姿を憶えているわけではない。鏡の前で身嗜みを整える探索者などどれほどいるだろう。女の探索者であってもそれは一握りに過ぎない。
彼らは戻りたいと願いこそすれども、戻るべき自分の姿を知らなかった。
そして魔精が目に見える形で肉体を変異させるには、極めて強い意識が必要だった。例えば死への恐怖ほどの。
彼らが元に戻ると言うことは、自らの強さを捨てることだった。
彼らの変異は敵を殺すためのものであり、戦場を生き残るためのものであり、必要なものだった。
それを捨てることは、ともすれば自己の喪失に繋がりかねない。
療養所で見た、すべてを失って黒い霧の集まりとなった人たちのように。
「でも、みんな、出会った頃よりよく笑うようになったわ」
リリオンがぽつりと呟いた。
淡褐色の瞳がリリオンやルーの顔を、ローサの寝顔や、ガーランドの消えた闇を、離ればなれになった変異者たちが見えているだろう夜空を見上げた。
「あの頃よりも、今の自分を好きに、――許してあげられるようになってたんじゃ、ないかしら」
弱気な感じで、言葉を選びながら言った。
「でもみんな夢を見てたし、村の中で幸せそうだった」
弱気が移ったみたいにランタンが投げやりに言う。
リリオンはそれに対して頷いた。
「それはそうよ。誰だって幸せは夢見るわ。いいじゃない、だって苦しいことばっかりじゃ辛いもの。そんなの普通よ。でもみんな、ちゃんとランタンにくっついて、ずっと進んできたのよ」
リリオンが拳を握って力説し、ルーが頷いた。
「たしかにそれは、それこそがもっとも大きな変化かもしれませんわね」
「そうでしょ! 本当はもう、身体のことなんてどうでもいいって思ってるのかもしれないわ。……それは言いすぎたかもしれないけど。みんな戻りたいって思い込みすぎているのかも。戻りたいって強く思っているって自分で思っているだけで、本当はそれほど強く思ってなくって、ええっと、えーっと、わたしたちもみんなが戻りたいって思ってるから、だから、えっと」
リリオンは自分の言葉にこんがらがってしまったみたいに、言葉はどんどんと尻すぼみになって言った。
しかしリリオンの言いたいことは、理解できないではなかった。
「たしかに、心こそどんどん変わっていくものだしな」
そしてそれは目には見えない。
「再会したら聞くことが増えたな」
焚き火の中で組んでいた枯れ木が崩れ、数百の火の粉がぱっと煌めいた。




