512
前話を少し書き直しました。
512
小屋には水車がついており、小川の流れを原動力にぐるぐると回っている。
そしてその回転する力を分岐させる仕組みが備わっていた。
魔精を溶かすために汚染されていない地下水を汲み上げたり、薬草を挽いたり、かまどに風を送ったりするのにつかっていたようだった。
汲み上げた水で出発前の身支度を済ませる。
結界の内側は春の陽気が閉じ込められていたが、地下水は身が凍えるぐらい冷たかった。
しかしその冷たさがランタンに活を入れた。
「まったく情けない」
弱気な自分を思い出してランタンは吐き捨てる。
リリオンもルーも自分の弱さを受け入れてくれるが、ランタンにとって弱い自分はやはり受け入れがたいものだ。
強くなければ生きていけない。
それはまず最初にランタンがこの世界で学んだ真理だった。
迷宮ではもちろん、人の世でもそれは変わらなかった。この世は弱肉強食であり、単純な暴力は何よりも効果的な手段であった。
しかしそういった力が通用しないものもあり、それはまさしく今ランタンや変異者たちを悩ますものだ。
強さとはなんだろうか。
桶に汲んだ水を頭からかぶった。
細く引き締まった身体に水が弾けた。
心臓がぎゅっと収縮するのを感じた。電気を流したみたいに身体がかってに跳ねる。勢いよく巡った血が全身に熱を届ける。血が流れ込んだ指先が張り詰めて、じんと痺れた。
冷たさが身体に馴染むほどに、指先の腫れがゆっくりと萎んだ。
小川は大蛇の魔精がまだ滲み薄青く色づいているが、地下水は少しの色もついていなかった。どれほどの地下から汲み上げているのかは不明だが、そこは魔精の影響が届くところではないらしい。
よく磨いた硝子みたいな水が、角度をつけた床を流れて側溝へと吸い込まれていく。
水垢離のような行水を繰り返していると、リリオンが慌てた様子で飛び込んできた。
濡れた床に滑って転びそうになるのをどうにか堪え、はっと顔を上げて叫ぶ。
「ランタン、大変よっ!」
今さら裸を見られて恥ずかしがるような仲ではなかった。
ランタンは裸身を晒したまま、落ち着いて一声かける。
「落ち着いて、深呼吸。あとタオルとって」
リリオンは言われたとおりに呼吸し、それから足元のタオルを拾って放り投げる。
受け取ったランタンは頭からそれをかぶった。
「何があった?」
「竜種が出たのよ!」
「竜種?」
ランタンは思わず窓もないのに外に面した壁に視線を向けた。まったくそんな気配は感じなかった。
「羽ばたき一つ聞こえないけど本当に?」
「本当よ。この上をずっと旋回してるわ。きっとわたしたちを探してるのよ!」
「結界のおかげか? こちらから向こうは見えるけど、向こうからこちらは見えないとかそんな感じかな」
ランタンは下着に脚を通し、服に身を包んだ。リリオンはそれをもどかしそうに待っているあいだ、急かすように足踏みをしていた。
「落ちつけって。襲ってはきていないんだろう」
「それは、そうだけど」
「あいつか?」
尋ねたランタンに、リリオンは控えめに頷いた。
「たぶん、そうだと思う。ランタンを食べて、わたしたちをここに連れて来た竜種よ。いっぱい叩いたから怒ってるのかもしれないわ」
「それか腹を空かせているかだな。僕を食べ損ねて」
言いながらランタンは洗い場を出て、立てかけてあった戦鎚を腰に差した。
「向こうから来たならそれもいい。やられっぱなしは性に合わないからな」
リリオンはつい鼻を動かす。ランタンの湿った黒髪からは冷たい香りがした。
「ランタン、ちょっと元気になった?」
「さて、どうかな。戦ってる間は自分探ししなくていいから楽なんだ」
「また、ここに戻ってくるんでしょ? 戦いで壊れちゃわないかしら」
「ローサは戻ってきたがるかもしれないけど、僕としてはどっちでもかまわない。本はできれば回収したいけど」
外に出ると、ルーとガーランドが空を睨み、ローサは逆にうつむいてぐるぐると歩いている。
ランタンは空を見上げ、眩しさに目を細める。
「どこだ?」
「ランタンさま、あちらに。あの雲のそばにおります」
ルーが腕を伸ばして指差した。視線をその線上へと修正すると、確かに竜種の姿が確認できた。
「ガーランド、撃ち落とせないか?」
「無理を言うな。雲の上だ」
「わたし、石投げてみようか!」
「リリオンの腕力でも届かないよ」
ルーに倣って腕を伸ばし、親指を立てて竜種と比較した。爪とほとんど同じぐらいの大きさだった。
「そうか、雲の上であの大きさか」
たしかに自分を食った竜種かも知れないとランタンは思った。
「かなりでかいな」
ガーランドはかなりきつい目をして竜種を睨んだままだ。彼女はもしかしたらこの中で、もっとも客観的にあの竜種を見た人物かもしれない。
「どう見る?」
「お前を食うぐらいには強い。だがお前を殺しはしなかった。たまたまかもしれないが、竜種は賢い。何か狙いがあったのかもしれない」
「そう思わせるぐらい賢そうだったか」
「……不可解だった」
「そうか。それには僕も同感だ。何せ丸飲みだからな」
ランタンは見上げすぎて重たくなった首を揉んだり、回したりする。
「降りてはこないな」
「どうなさいますか。待ち受けますか、それとも退きますか」
「呼び寄せようにも声も届かないから待ってもしょうがないだろう。退く、と言うよりも予定通りに進もう。向こうはこちらに気付いているかな。この結界の強度はどれくらいなんだろう」
数日過ごした感覚では、結界はかなり強固だった。ほとんど完璧な常春を維持しており、魔物はおろか獣が訪れることもなかった。
「手入れをされておりませんでしたから綻びはあるでしょう。わたくしたちに気付いているとは思いませんが、何かがあると勘づいているとは思います」
「結界に気付いているなら、降りてこない理由は?」
「それはなんとも申し上げられません。我々が気付いたときにはこの上をぐるぐると、いつからいたのか」
「ぐるぐるねえ」
見上げた竜種の腹は雲の照り返しで白く照らされ、雲とほとんど同化している。瞬き一つで見失いそうなほどだった。
「ぐるぐると言えば、ローサは何をしてるんだ?」
「竜種の影を追ってるみたいよ。ローサ、目が回っちゃうわよ」
地面に落ちた影を追いかけてローサは同じ所をぐるぐると回っている。首をうっと突き出して影を覗き込み、妙に真剣な様子だった。
空を見上げるよりも、なるほど、地面の影の方が竜種の形がはっきりと浮かび上がっていた。
すらりとした首や、一定の間隔で羽ばたく広げた翼、風になびく長い尾の揺らめきまで仔細に観察できる。
影の鼻先に立っていると、足元ばかり見て歩いているローサがどんとぶつかってきた。
「竜種の影がそんなに面白いか?」
「うん」
「そうか。でも追いかけっこは終わりだ、先に進むよ」
「――うん」
ローサは一度、小屋を振り返った。肩から斜めに掛けた鞄の中にはあの日誌が大切にしまわれている。
竜種が去るまでとも考えたが、それがいつになるかはわからない。結界の中にいれば安全かもしれないが、いつまでも閉じこもっているわけにもいかなかった。
一度は食われた相手だが、だからこそ油断はない。もし襲いかかってきたとしても、この前のような事態にはならないはずだ。
「結界を出た途端に、襲いかかってくるかもしれない。でも竜種ばかりに気を取られて、他の魔物に襲われたら元も子もない。充分に注意をしていこう」
四人に言い聞かせ、そしてもっとも自分に言い聞かせる。
あの竜種は不可解だ。この自分がまったく動くこともできずに丸飲みにされた。
肉体は反応しなかった。ならばいつもの自分は何に反応しているのか。
目線、呼吸、かすかな筋肉の動き。そしてきっと敵意や殺気といったものだろう。
感じ取れなかったのか、どれもあの竜種にそれらが存在しなかったのか。
なんにせよ、もはや油断はない。
結界を一歩出た途端、冬の寒さが容赦なく身体を震わせた。
そして見つけたと言わんばかりの大咆哮が天空より響き渡った。




