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窓の外を見ると、夢に見たあの理想的な村の景色を思い出さずにいられなかった。
月明かりの下では青白くも見えた花畑が、今は眩しいほどに太陽の光を反射して輝いている。流れる小川は魔精に染まらずとも青く見えただろう、清澄な水の流れが続いている。
風が柔らかく吹き、陽射しは温かい。
平和で、穏やかで、見ているだけで安心するような景色だった。
それはローサが目覚めて初めて目にする光景だったのかもしれない。そのためにロザリアとシーリアが作り上げた景色だった。
景色に見とれているランタンに、遠慮がちに声がかかった。
「やはりわたくしにも手伝わせて下さいませ」
「ん? いいよ。まだ寝てな」
「身体を動かさなければ、いざという時に困ります。鈍ってしまって」
ランタンは部屋を家の中を調べ回っていた。あまりに物が乱雑に置かれているので、まるで大掃除をするみたいだった。
それを横目に見ていたルーが、耐えきれないというように申し出た。
魔精酔いの影響はほとんど抜け、怪我らしい怪我はしていないがランタンはもう少し休んでいろと言う。
その過保護さはいつもはリリオンやローサに向けられるものだった。それが自分に向けられることにルーはくすぐったさを感じていたし、ランタンが動き回っている横でじっとしていることは申し訳なかった。
「どうかお願いいたします」
それはもう懇願だった。
合わせた視線を逸らさずにいると、ランタンは根負けして肩を竦める。
「無理はしないでね」
「はい、ありがとうございます」
片付けをしている間、リリオンは朝食を作っていた。
家の中にはかまどもあり、煮炊きのためか、それとも薬品の調合のためか、大きなものから小さなものまで、深いものから浅いものまで色々な種類の鍋が見つかった。
足らない食材を補うために外に出て食べられそうな野草を摘んだり、川の水を汲んだりと忙しそうにしているが、ちゃんとした料理を作るのは久し振りのことで、リリオンにとってもいい気分転換になったようだった。
他人の弱音を受け止めると言うことは、それなりに苦しい。他人の悩みが自分の悩みのように思えてきて、ひどく落ち込むことがある。
この遠征の最中にランタンは嫌と言うほど身に染みた。だと言うのに悩みを自分のものだけにできず、リリオンに言ってしまった。
言わざるを得なかったとさえ思う。
自分の気分は軽くなったが、リリオンはその分重たくなったはずだ。しかしそんな素振りは一切見せない。
食事のために最初に手をつけた机の上の整理が一通り済んだぐらいで、良い香りが部屋の中に広がりはじめた。
気が緩むのを感じる。あの理想的な夢の続きにいるようにさえ思った。
ぐるぐるぐると腹の音が大きく鳴った。
ランタンの腹ではない。
てきぱきと働いていたルーが動きを止めて腹を押さえた。
ちらりと視線を向けると、うなじから耳が赤くなっているのが見えた。からかってやろうかとも思ったがランタンは視線を戻し、聞かなかったことにして片付けを続けた。
飲まず食わずで昏々と眠り続けていたのだ。目覚めてからは水を飲んだだけで、腹は空っぽだったはずだ。腹が鳴るのも無理はない。
髪を一つに纏めたリリオンがひょっこりと顔を覗かせた。腕まくりをして、手にはお玉を持っている。
「おまたせ。できたからローサとガーランドさん呼んできて。ルーさん、もう動いて大丈夫? こっちまでお腹の音が聞こえてきたわよ」
リリオンは無邪気な顔をしてルーに言った。ルーにしては珍しく、気まずげな表情を浮かべた。
「僕のお腹の音かもしれないだろ」
「あら、そうなの? じゃあずいぶんお腹が空いていたのね。あんな大きな音、初めて聞いたわ」
「お腹ぺこぺこだからね。ルー、座って待ってて」
「お皿を並べるくらいは――」
「いいから」
「――はい。では甘えさせていただきます」
「うん」
慰めるように肩を叩き、ローサのこもる寝室へ向かった。扉をノックして、返事を待ったが返ってこなかった。
「入るぞ」
寝室だったが、仮眠室と言っていいほど質素だった。奧と右手側にベッドが用意してあり、左手側は書棚と机がある。
ただ異様なのは台座と一体となった硝子製の円筒容器が部屋の中央にあることだった。
人ひとりが容易に収まるほどの大きさで、かつてはそこにローサが浮かんでいたのだろう。
その頃のローサにはまだ二本の人間の足がついていたが、自由に歩き回ることはできなかった。
目でものを見ることも、鼻で匂いを嗅ぐことも、口でおしゃべりをすることも、何もできなかった。
奥のベッドにはガーランドが、右側のベッドにはローサが座っていた。
ガーランドは男のように足を開いており、膝の上に腕を置いて前のめりに座っている。視線は容器に向いていたが、それを見ているのかはわからない。
硝子の向こう側に透けたランタンに遅れて気が付き、ようやく視線を上げた。
ローサはベッドの上で本を読んでいる。朝からずっとそのままだった。
「ローサ、――ローサ!」
一度の呼びかけでは反応せず、近付いて二度目の呼びかけではっと顔を上げた。自分の名前を忘れてしまったみたいな顔をした。
「ずいぶん夢中だったな」
前髪をかき上げるようにたっぷりと、頭上の虎耳まで巻き込んで頭を撫でてやる。後ろに倒れた耳が、掌が通り過ぎるとぴんと立ち上がった。
微睡むみたいに目を細める。
ローサが読んでいるのは研究日誌、いや、治療日誌だった。
それを見つけたのはローサで、もしかしたらまだ彼女が読むには早いものだったのかもしれない。
そこにはローサを目覚めさせるために行われた様々な試みが記されているが、それが上手く行った試しはなかった。
治療の記録はシーリアが口述したものをロザリアが書き起こしているらしい。そこには筆記者であり、姉であるロザリアの心情がどうしようもなく滲んでいる。
そこには縋り付くような希望と繰り返される失望ばかりがある。
治療の効果がなかったことを記す一文は、文字がふるえていたり、乱れていたりした。
あの凄まじい剣技を誇った女騎士の弱さだった。
ランタンはローサの隣に座って、肩を抱いてやった。
「朝ご飯ができたよ。リリオンが腕によりをかけて作ってくれたんだ。お腹空いただろ?」
「うん、ローサ……ローサおなかすいたよ」
ローサは日誌を閉じて、胸に抱いた。こちらに寄り掛かってくる。ずっしりとした重さと体温が感じられた。
「でもこのローサは、ずっとねむったまま。おなまえもローサじゃないんだよ。ローサは、ローサじゃないの?」
そこにはロザリアからは伝えられなかった、ローサの真の名前が記されていた。
だがローサはそこに記されているのが自分だとわかっている。
違う名前で語られる知らない自分を知って、知りたいと思っていたことを知ってローサは怯えていた。
「ローサはローサだよ。姿が変わっても、名前が変わったとしても。ローサはもう僕とリリオンの妹だ。それは変わらない。ローサが嫌がってもね」
「やじゃないよ」
「それはうれしいな。続きは後にして、食事にしようか。リリオンが待ってるよ」
「うん」
ローサは日誌を、少し迷ってからベッドの上に置いていくことにした。
「ゆーれー、いこ」
黙って待っていたガーランドを呼び、先に部屋の外へ出て行った。
後に続くガーランドにランタンは礼を言った。
「ありがとな。ローサと一緒にいてくれて」
「……私はあの子に語る言葉を持たない」
「そばにいるだけで充分さ。ひとりになるのが一番よくない」
彼女もまた真の名前と姿を失ったひとりだった。似たような硝子容器の内に、もしかしたら浮かんでいたこともあるのかもしれない。
「ガーランドは元の自分に未練はある?」
「なぜと思ったことはあるが、戻りたいと思ったことはない」
「そりゃいい。ローサが落ち込んでそうだったら、それを言ってあげてよ」
「……お前が言えばいいだろう。お前は迷宮から生まれたんだろう? そのほうがよほどじゃないか」
「僕は結構めそめそしてたからな」
「信じられんな」
「――おにーちゃん、ゆーれー!」
「いま行く! っと呼びに来て待たせてちゃ世話がないな。お先にどうぞ」
ガーランドに先を促すと、ランタンは忘れ物を確かめるみたいに寝室を一瞥し、後ろ手に扉を閉めた。




