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竜種という魔物にリリオンは他の魔物よりも親しみを感じている。
それはレティシアの影響があるからだ。彼女の愛竜である巻き毛のカーリーには何度も乗せてもらったことがある。ほとんどは後ろに乗せてもらうことが多いが、何度か手綱を握らせてもらったこともある。
竜種は賢く、またカーリーはよく訓練されているから手綱はほとんど飾りのようなもので握っているだけでよかったが、けれどその操り方をリリオンはまったく知らないわけではない。
どうにか高度を下げさせることはできないだろうか。
この竜種はリリオンが勝手に背中に乗っても、これを振り落とそうとしない。リリオンの存在に気が付いていないわけではなかった。
攻撃する意図がないのかもしれない、とリリオンは少し思っている。ランタンは食べられたままだったが。
リリオンは竜種の首に腕を回した。ランタンが留まっているらしき膨らみの少し下あたりに首に顔を埋めるようにぎゅっと身体を押しつけ、目一杯に腕を伸ばす。
左右の指先がかろうじて触れて、それを手繰り寄せる。
息が苦しいほどに胸が潰れた。羽毛の下の小さい鱗の連なりや筋肉の硬さが感じられる。
そのまま竜種の首を締め付けた。絞め殺すほどではない。どれほどの効果があるかはわからないが、ランタンが飲み込まれないようにするための手段だった。
リリオンはしがみついたままの格好で、頭の重さを使って自らの重心を真下に放り投げた。太い幹のような竜種の首が僅かに下がった。竜種は首を上げようとするが、リリオンはそれを封じ込める。
「このままじゃランタンが窒息しちゃう。それにわたしも凍っちゃうわ」
凄まじい速度であるのに、不思議といつの間にか風の抵抗が弱まっている。
ランタンがいつか言っていた空の向こう側に、宇宙にずいぶんと近付いているのかもしれない。
今は顔を上げることもできないので、視界はすべて真っ白で埋め尽くされているから、それを確認することはできない。その白さは竜種の色かもしれないし、まだ雲や霧の中なのかもしれない。
「お願い」
リリオンはそのまま竜種の首を押さえ続ける。
どれぐらいそうしていたのだろう。
ふと頬を叩く風の強さを感じた。ただ白かった視界に眩しさが加わり、リリオンは目を細める。
大地が見えた。
首を押さえ過ぎたのか、竜種はほとんど真っ逆さまに滑空していた。
「ひゃ!」
情けない悲鳴が漏れた。
凄まじい力が自分を宇宙に放り投げようとしているような、突き上げる風圧があった。
リリオンはそれこそ絞め殺すぐらいの力で竜種の首にしがみついた。
大地は緑に覆われていた。草原ではない。それは広大な森林だった。
暖かい、とリリオンは思った。空の上は寒すぎた。
竜種の羽ばたきが木々を揺らした。枝だけではなく幹すら揺れて、毟られたように葉が舞った。
樹高を少し上回る程度の高度ならば落ちても死なない。
リリオンの意識が一瞬、腰の大剣に向いた。
その瞬間、地形に跳ね返った乱流が身体を揺さぶった。繋いでいた指先が千切れるように外れた。
身体が浮いて、振り落とされた。
光景がゆっくりと流れる。乱れた気流が青白い線となって目に映った気がする。反射的に伸ばした手が、竜種に向けられる。赤くなった指先に、柔らかな感触が触れた。
それを握り締める。
片手で竜種の羽毛を鷲掴みにすると、リリオンは全身を引き寄せた。腕だけでなく足も使って竜種の首に抱きつき、そのまま力を込める。
そこはちょうど首の膨らみだった。
膨らみがもぞと動いたような気がした。
首の筋肉が何度かしゃくりあがった。
ごうごうと風が鳴り、みしみし、めきめきと木々が折れる。
力を込める。
げええ、と竜種が鳴いた。
更に大きくしゃくりあがった。膨らみが萎むように小さくなった。
抱きついていたものが急に細くなって、リリオンは今度こそ本当に宙に投げ出された。
視界がぐるぐると回る。悲鳴を上げる暇もない。瞬き一つの間に何度も天地がひっくり返って、リリオンは身体を丸めた。
凄まじい音がした。
背中から落ちた。墜落の衝撃に息が止まった。冷たい地面を転がって、木の幹にぶつかった。身体がばらばらになっていないのが不思議なぐらいだった。
「ランタンっ」
自分の身体よりもまずランタンのことが心配だった。身体を起こすと、木々が薙ぎ倒されてた光景が広がっていた。
その先にあの白い竜種が墜落している。土で薄汚れているが、それだけだった。平然とした様子で起き上がると、翼をたたみ直すように何度か大きく羽ばたいた。
その喉元は萎んでいる。
「ランタンどこっ?」
飲み込まれたわけではないはずだ。きっとどこかに吐きだしたはずだ。リリオンは名前を何度も呼んで、あたりを見回した。しかしどこにもいない。
「ランタン、ランタンっ!」
不安を掻き消すように何度も叫んだ。
竜種を前にまったく無防備だった。だが白い竜種もリリオンを襲おうとしなかった。リリオンの方を見ながら、首を前後に動かしている。
「ねえ、返事して!」
返事はない。遂にリリオンの声がうっと詰まった。
静寂に竜種が盛大なげっぷを放った。
そして大きく口を開けると、足元に何かを吐きだした。
「――ランタンっ!」
それはまさしくランタンだった。唾液か胃液か、ともあれでろでろした粘液に塗れており、ぴくりとも動かない。
大剣を抜こうとしてそれが外れてしまったことに今さら気が付く。
竜種が匂いを嗅ぐように鼻先を近付け、ランタンを突いた。ランタンが人形みたいに揺れた。
リリオンは拳を固めて、竜種を睨みつけた。
凄まじい殺気が放たれた。それは母性と言い替えられるかもしれない、本能的なものだった。
殺気に当てられた竜種が身を竦ませた。リリオンの方へ顔を向け、巨体に似合わぬ小さな声で鳴く。そして追い立てられたみたいに飛び立った。
凄まじい風圧に、ランタンが転がって仰向けになった。
まだ竜種の影が残る内からリリオンはランタンに近付いて、身体に触った。心臓の鼓動はある。
しかし顔は青く、呼吸がない。
リリオンはすぐにランタンの鼻と口を吸った。そして気道を塞いでいた粘液を吸い出しては吐きだした。
「――ひゅっ」
ランタンの喉が空気を吸った。すぐに咳き込んで、リリオンが吸いだし分よりも多くの粘液を吐きだした。
すぐに頬に赤みが戻った。苦しさに涙を滲ませながら、胎児のように丸くなって、しばらくげほげほと咳き込む。
リリオンはその横で放心したように座り込んでいる。
「リリ、オン……」
ざらざらした声だったが名前を呼ばれると、途端に安堵感が押し寄せてきた。
ランタンは自分の吐きだした、そして身体を覆う粘液に顔をしかめていたが、リリオンが泣いていることに気が付いて驚き慌てた。
「リリオン、泣かないで」
「だって、だってランタンが食べられちゃったんだもん。息してなかったんだもの」
リリオンの言葉を聞きながら、ランタンはどうなったかを思い出したようだった。自分が塗れているものが竜種の唾液だと理解して、納得したようだった。
「――溶かされなくてよかったわ」
「最悪の気分だけど」
ランタンは自分の有様にうんざりした様子だった。生臭さの塊だった。
「胃まで落っこちなかったのは――これのおかげだ」
「それは?」
「竜種の喉に突き刺さってたんだ」
ランタンと一緒に吐き出されたそれは骨だった。まだ肉と黄色い羽毛がこびり付いているかなり巨大な鳥の骨だ。縦に裂けた断面が鋭く尖っており、竜種の喉に食い込んでいた。
ランタンはそれを見ながら少し黙った。
「どうしたの?」
「なんで僕は丸呑みにされたんだ? この骨は噛み砕かれてるのに」
「なんでって。ランタンが丁度いい大きさだったからじゃない?」
「そうか。そうかな?」
竜種の飛び立った方に視線をやり、その骨を投げ捨てた。
「まあ、いいか。指一本欠けていないんだ」
「そうよ」
リリオンは深く頷いた。竜種に何かの理由があったにせよ、ただの幸運にせよ、ランタンが生きていてくれるならば何でもいい。
「しかし、この森は一体どこなんだろうな。それにガーランドやゼインは」
療養所があった森のようにも見えるし、人魚たちが棲んでいた森のようにも見えるし、あるいはまったく別の伯爵領ですらない森のようにも見える。
「わからないわ。二人は尻尾を掴んでいたみたいだけど、すぐ放したかもしれない。もしそうじゃなかったら……」
「――まあ、よっぽど死なないだろう。ゼインは鋼鉄人間だし、ガーランドも魔道がある。いざとなれば自分で作った水に着水するぐらいのことはするはずだ」
「そうだといいけど」
「ともあれ動かなければ。でもその前にこのでろでろを流したいな」
「ランタンは少しここで休んでいて。わたしがあたりを見てくるわ。――動いちゃダメよ。迷子になっちゃうわよ」
リリオンは怖がらせるみたいにランタンに言い聞かせて、その場を離れた。
不安は沢山あったけど、ランタンがいるだけでリリオンは心が軽くなるのを感じた。全身が痛むが、それもどうだっていい。
薄情ね、と思う。
ランタンが死んでしまうかもしれないと考えていたとき、自分はガーランドのこともゼインのことも少しも考えなかった。
今も、もちろん二人のことはすごく心配だけど、ランタンのことのようには心配していない。
まず大剣はすぐに見つかった。あたりには動物も魔物もいないようだった。さっきまで竜種がいたのだ。きっと恐れをなして逃げ出したのだろう。
そのおかげであたりは静かだった。
耳を澄ますと水の流れる音が聞こえた。そう遠くないだろう。
「やった。ランタンが喜ぶわ」
そちらに足を向けて、水溜まりのようなせせらぎを見つけると、すぐにランタンを呼びに戻った。
「助かった。くさすぎて窒息死したいぐらいだったんだ」
せせらぎは掌ほどの深さしかなかったが、ランタンは大いに喜んでさっそく両手に水をすくった。
「うう、冷たい」
そう言いながらも喜んで顔を洗おうとして、ぴたりと動きを止めた。
「どうしたの?」
「これ、見て」
ランタンの両手にすくわれた水はほんの微かに青く発光している。
あけましておめでとうございます。




